ピスコ×アイリッシュ 習作「最初っからそう素直に頷いとけばいいんだよ」
アイリッシュは片脚でテーブルを踏みつけたまま、膝に腕を引っかけて身を乗り出し、口の端を歪めて笑って見せた。
鋭い視線の先には、恐れ慄いてソファに張り付くように座り込んでいる男。
大会社の社長と言うが、つまらない、ケチな男だ。だというのに、幹部格のアイリッシュに向かって、つい先程までふんぞり返っていた。組織にとって利用価値が高く、これまで多くの利権を得てきたために、より自分に有利な方向へ取引を持っていけると勘違いしていたようだ。
しかし、アイリッシュがまず恵まれた体躯で凄み、加えて男の家族の名前とプライベート、子どもの発表会の日取りまで伝えてやれば、半ば涙まで浮かべながら首を縦に振った。
「ったく、手間かけさせやがってよォ」
毒づきながら、テーブルから長い脚を下ろす。
アイリッシュにも幹部クラスのプライドというものがある。こんなケチな小物の相手、本来なら部下にでもやらせておけば、と思う。
だが、最初こそアイリッシュの言うことすら呑もうとしなかった相手だ。下っ端相手なら、もっとひどく付け上がったにちがいない。
とはいえ、こうした取引はアイリッシュが好むタイプの仕事ではなかった。潜入して情報収集するなり、暗殺なり、現場で動く方が性に合っていた。
それでも、自らこのケチな役目を引き受けた理由は、尊敬する幹部が直々にこの取引の場に出ると言ったからだ。
アイリッシュですら釈然としないこの仕事を、“彼”にやらせるなんてとんでもない。
だから引き受けた。こんな小物の相手、“彼”が出るまでもない。
まだ怯えている男を尻目に、アイリッシュは軽く身なりを整える。後はこちらの要望通りに取引の内容を詰めるだけ。
アイリッシュは満足を覚えていた。“彼”の手を煩わせずに済んだと、ただその一点において。
ところが。
「おやおや、随分とやんちゃしたものだ」
耳に馴染む、時の流れによって角が取れたような穏やかな声に。
アイリッシュの背筋を、ぞくっとした感覚が突き抜ける。
恐る恐る、振り返る。
いつのまにか応接室に入ってきたのは、一人の老人だった。
緩やかに後ろへ流された白髪も、整えられた口ひげも、身を包むスーツも、上品な空気をまとっている。
目の細められた柔らかな表情に、眦の皺。まさに好々爺という言葉が相応しい様相。
それなのに。
「お……おやじ……なんで……!?」
若さも体格も、ずっと恵まれているアイリッシュは、老人――ピスコを見つめて、消え入りそうな声で問うた。
畏怖と、怯えを込めて。
しかしピスコはそんなアイリッシュに返答どころか視線を返すこともなく、未だソファから立ち上がれずにいる男に向かい、軽く会釈してみせた。
「失敬、うち若いのがご無礼したようですな」
そうして、一歩一歩ゆっくりと進み出て――すれ違いざまに、自身より高い位置にあるアイリッシュの肩を、手袋に包んだ手で叩いた。その手つきは、ぽん、と軽く優しかった。
にも関わらず、アイリッシュはビクッと身を震わせた。
それきり硬直して立ち尽くしてしまっている若者をよそに、入れ違うように、取引相手と向かい合うソファへとやってきて、ゆったりと腰かける。
「彼には後でよくお灸を据えておきますので、どうぞご容赦を」
その言葉に、アイリッシュはピスコを振り向くこともできずないまま、目立つ喉仏をゴクリと上下させる。
「――いつまでそこに突っ立っている。無作法だろう」
不意に老人の声が低くなった。
それを聞いて、いかつい肩がまたビクッと跳ねる。
来なさい。
端的に促されたアイリッシュは勢いよく振り向くと、足早に駆け寄り、ピスコが腰かけるソファの後ろへと控えた。唇を引き結んだその顔は、蒼白だった。
ピスコはちょっと振り向いてそれを見届け、満足したのか、正面に向き直る。
視線の先では、取引相手が困惑している――つい先程まで脅しをかけていた筋骨隆々とした男が、彼より小柄で細身の老人相手に、明らかに怯えているのを目の当たりにして。
老人はただ微笑んでいた。
その笑顔の下に隠したものを、おくびにも出さず。
「さて。ここからは、私が引き継がせていただきましょう」
ピスコは、不出来な“息子”が持ちかけるはずだった取引よりも、更に無理難題を吹っ掛けた。