Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    plntanightlunch

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 21

    plntanightlunch

    ☆quiet follow

    残響スピンオフ。もういくつめかわからない。三井酒店で働くモブの久保さんが、「7」に行く話です。

    おいしいお酒が飲みたいだけなのに 店に入る少し前に約束をしていた友人から遅れると連絡をもらった久保は急がずにきてと返信し、そのまま店に入るか本屋に行って時間を潰すか数秒迷った後で、やはりそのまま歩を進めるほうを選んだ。かばんには読みかけの本が入っていたし、今日行く予定の店は一人で飲むことに躊躇するような店の雰囲気でもない。なにより喉が渇いていた。

     歌舞伎町はそれほど行きたい街というわけではない。ごちゃごちゃしているし、道には人も多ければゴミも多い。そのくせ隠れた名店みたいなのが多いのが、ついつい好きでもない街に足を向けたくなってしまう理由でもあるのだが。「7」だってそのひとつかもしれない。ホテルほど敷居も値段も高くなく、だからといってカジュアルに振りすぎていることもない。外の喧騒とは逆に静かに飲むことだけを目的としている客が集まっているし、酒はうまい。カウンターに座るとわかるが、バーテンダーの後ろの棚に並ぶ酒は結構なコレクションで、これはまあ、うちの社長の営業の成果だろう。口はうまいからあの人は……考えるともなしに考えて、そこまで思考が到ったところで、久保は息を吐き出した。仕事が終わってまで会社のことを考えるなんてよくない。オフィスを一歩出たら仕事のことは忘れる。これが日々を穏やかに過ごす大原則だというのに。
     目的の場所にはすぐに到着した。人が一人やっとの細い階段を下り、訪れるのは何度目かの店のドアを開ける。小さなドアベルが乾いた音を立てた。そこだけ昭和の喫茶店みたいだが、いらっしゃいませと迎えられる空間ではすこし贅沢な夜が約束されている。「7」は最近久保と友人のお気に入りの店。というよりは友人のお気に入りのバーテンダーのいる店だ。去年、歩いている途中に偶然オフィスで何度か目にしたことのある店の名前を見つけて冷やかしに入ったが、一度訪れてすっかり気に入った。毎度ながら、オフィスでパソコンの画面に表示されているときにはただの識別番号程度の酒の名前が、目の前にカクテルとなって出てくるときは芸術品みたいになっている様には、自分の仕事も悪くないのではと思わされる。
     久保はカウンターを指定して友人を待つことにする。金曜の夜、とにかく体は一週間の労働からの解放を求めている。仕事には満足しているが、今週はちょっとばかりイレギュラーが多かった。付き合いのある酒蔵の近所で火事があり、酒蔵ももらい火で一部が燃えたのだ。幸い杜氏も仕込んだ酒も無事だったが、確認やらお見舞いやらで半日慌ただしく過ごすことになった。
    「お連れ様お待ちになります?それとも先になにか召し上がります?」
     バーテンダーがコースターを出しながら尋ねる。このバーテンダーが友人のお気に入りの宮城くん。
    「ビールください」
    「いつも生でしたよね?」
     いつも、というほど通っているわけでもないのに、オーダー覚えているのか、と久保は新鮮な感動を覚えた。
    「ここのビール、おいしくて」
     たぶんうちの社長がガス圧とか掃除とかうるさく言ってるんだろうが。酒屋として美味い酒を卸しているのにそれが不味くなって出てくるのは我慢がいかない。三井はいつもそう言っている。自分の売る商品に対してそれほど情熱のない久保からしてみれば、売れりゃいいじゃんという気持ちだったが、確かに一杯目のビールが不味かったら残念だ。特にいい店ならなおさら。あれ、いつの間にか社長の考えに洗脳されてきた? でもここでは久保は一介の客で、酒に対するコメントはうまいかそうじゃないかしかない。仕事で酒を扱っていることは口にすることはないし、まあそもそも酒に詳しいわけでもない。 
    「そうすか? それはよかった。一杯目のビールまずいとテンション下がりますもんね。頑張って入れます」
     宮城くんは照れたように笑ってそれから真剣な顔でビールサーバーに向き合った。クールな横顔とさっきの照れた子供みたいな表情のギャップに横っ面を殴られたような気になる。友人の言うとおり、「かっこよくて、媚びてないサービスが心地よくて、その上たまに見せる照れたような笑顔がかわいい」のだ。早く来ればいいのに、久保はモバイルを確かめた。友人からの連絡はまだない。
    「どうぞ」
     出てきたグラスは金色のビールと白の泡の割合が完璧な美しい一杯。バーでビール飲むのは反則とか嘯く人もいるけれど、好きな一杯を楽しめるのが一番だし、宮城くんの入れるビールは最高。飲まないなんてもったいない。いただきます、と受け取り、泡の消えないうちに一口目を口にする。ふわりとした泡の感触、それからほろ苦い炭酸が舌ではじける。鼻に抜ける甘い香りと、すっきりとしたのど越しがアンバランスですごくいい。グラスの4分の1ほどを喉に流し込み、久保は満足のため息を吐いた。宮城くんもそれを見て満足そうに笑った。
     そのとき、ドアベルが新しいお客の来訪を告げる。友人かと思い、久保も顔を上げた。新しい客は友人ではなく、スーツを着た若い男である。
    「リョータ」
    「おう」
     どうやら気心の知れた仲らしい、と言うことは二人のやり取りからわかる。「宮城くん、下の名前はリョータっていうらしいよ」久保はまだ来ぬ友人に伝える情報として頭の中のメモ帳にその名を記す。
    「おー、うっまそうだね、ビール」
     突然話を振ってきた男の笑顔に久保はおいしいですよ、と答える。俺もビールにしよっかな、そう言った男の席を、宮城くんがコースターをさっと出すことで誘導する。なるほどうまい。久保は男が自分から席3つ分離れたところに座ったのを視線の端で確かめ、かばんから文庫本を取り出した。
    「なんかリョータの顔見るの久しぶりじゃん?」
    「そうか、一週間も経ってないだろ?」
    「いや、十分じゃん一週間」
    「ビール飲むの? それとも別の?」
    「モヒートできる?」
    「ライムの葉がねーよ。あれは夏になったら出す」
    「こないだ、モヒートでモルディブって映画を見てさあ」
    「モルディブでモヒートだろうが。エージ、お前の頭のぽんこつぐあいも……」
    「いや、そこが話の肝なわけ、聞けよ、リョータ」
     エージと呼ばれた男の声がよく通るせいか会話のテンポのせいか、気がつけば活字より会話に意識が向いてしまっていることに久保は気付く。かなり仲がよさそうだ。モヒート、モルディブ、オーダーは結局レモンスカッシュ。え? 何なのエージくん、ビール、モヒートときて、レモンスカッシュ? 思わず久保は心の中でツッコミを入れる。いかにもシャレもの、って感じの格好にモデルみたいな高身長、口はお子様? その間にも驚くべきスピードで会話は進み、それでも宮城くんの手は休むことなく動く。宮城くんの絞るレモンのさわやかないい匂いがこっちに漂ってくる。
    「ああ!そうだ、思い出した!」
     出されたレモンスカッシュを一口飲んだエージくんが突然声を上げる。大きな声だったから、久保も思わず顔を上げる。
    「声がでけえよ、エージ。みんなびっくりする。――ごめんなさい」
    「ごめんなさい」
     二人に頭を下げられ、久保は恐縮していいんです、と答える。久保はまた手元の小説に目を落とす。でも、続いた一言に、手元の文字はひとつも頭に入って来なくなった。
    「デートだったじゃん。報告しろよ」
     あ、デート……まあそうだね、宮城くんはとにかくモテそうだもんね。言われた宮城くんは別にお前に報告する筋合いはねーし、みたいなことをぶつぶつ言っている。先ほどより声はだいぶ抑えめ、だが、残念ながら静かなカウンターで、耳をそばだてればその会話はだいたい聞くことができてしまう。久保はここに来たことを早くも後悔し始めていた。あるいは友人が来ていればまた状況は違ったかもしれないが、逃げ場はない。こういう話、あんまり聞きたくないんだけど。なら、興味がない話を聞くなって? だがそれは口で言うほど簡単なことではない。
    「えー、ねえ、リョータ、目の下にクマできてない? あの人のセックスしつこそうだもんねえ」
     あー、始まってしまった。久保は頭を抱えたくなったが、宮城くんはすかさずクレバーな返しをしてる。
    「やめろ。お前、それ以上続けるなら深津さんか河田さん呼ぶぞ」
    「えー、それずるいよ。オーケーわかった。お互いが嫌なことはやめとこ? どんな体位でやったとかめちゃくちゃ興味深々だけど、今日は聞かないことにするから、代わりに何食ったか教えて? うまい焼肉だったら今度俺も一緒に行きたい」
     結局それほど宮城くんのセックス事情に興味がなかったらしいエージくんもすぐに話題を変えてくれる。うん、それがいい。久保もこっそり賛成する。焼肉ならこの近辺にいい店いくつか知ってるけど、デートで焼肉はないんじゃない?
    「焼肉は行ってない。かわりにめちゃくちゃうまい和食食った。なんつーの、懐石みたいんじゃなくて、どこにもありそうなんだけど、でも全部ちょっと凝ってて、全部うまかった。あそこはやばかった」
    「どこ?」
    「神楽坂」
     神楽坂、わかる。あのあたり、いい店が多いから。久保はこっそりと頷く。宮城くんも食べ歩き好きなのかもしれない。話に加わりたい気持ち半分、このまま聞いていたい気持ち半分。結局後者が勝つ。東京カレンダーに出てるような店じゃなくて、メイン通りから少し離れたところにある小さな店が久保のおすすめだが、さて、宮城くんのおすすめはどこだろう。
    「えー、なんか大人のデートって感じだね」
    「お前も行けばわかる。マジで、あんなうまい白和えとか初めて食ったし」
    「店の名前教えて」
     エージくんがモバイルを取り出す。わたしは頭の中のメモ帳を再び開き、そこに書きつける準備をする。
    「んー、『響』だったかな」
     響! 知ってます。私も好きです、久保は心の中で右手をあげる。旬の食材が予想もしない料理になって出てくる八寸が楽しみだし、定番のごま豆腐も最高だし、もう少ししたらキスの天ぷら絶対おいしいんだけど、どうかな、そろそろ入ってきてるか聞いてみたらいいかもしれません……という話を社長にしたばかりだった。こういう偶然ってあるものなのだなと久保は思う。社長もそういえばデートで「響」に行っているはずだ。もう行ったんだっけ? まだ? 来週出社したら、デートがどうだったか聞いてみなくちゃ。
    「エロいな」
    「なにが? 店の名前が?」
    「ちげーよ。全部だよ」
    「別に飯食っただけやし」
    「いやいや、リョータくん、わかってっから」
     まあ、確かにね。エージくんの言葉に久保は同意したい気持ちでいっぱいだ。だってそうじゃないとデートでそのチョイスはないからね? 社長の恋愛ステイタスがどんな感じかは知らないが、久保も社長から特にリクエストがない限り、セクシーな大人の恋(万一社長のデリカシーのなさが露出しても挽回できるような)を演出する店を毎回提案している。宮城くんが選んだのか、お相手のチョイスかは知らないが、連れて行ったほうも行かれたほうもこのお店の選択に何かしらの意図を感じ取れないことはないだろう。
    「やだね、エロい大人、下心をうまいこと金で包んで出してくるあたりがずりーよね。俺、思うんだけどさ……」
     久保はちょっと微笑んだ。うまいこと言うね、エージくん。この時の久保は数秒後に自分の体を凍りつかせる一言がエージの口から発せられるのを予想だにしていない。エージくんは言う。その言葉に宮城君がうろたえたように顔を赤くする。
    「思うんだけど、三井サン、結構ガチだぜ?」

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭👏👏👏💞💞💞💴💒💴❤❤❤❤❤❤💘💘💘💞❤💖💯😭💒💖💖💖💖💖💖💖😭🌋💖💙
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    plntanightlunch

    DONE残響スピンオフ。もういくつめかわからない。三井酒店で働くモブの久保さんが、「7」に行く話です。
    おいしいお酒が飲みたいだけなのに 店に入る少し前に約束をしていた友人から遅れると連絡をもらった久保は急がずにきてと返信し、そのまま店に入るか本屋に行って時間を潰すか数秒迷った後で、やはりそのまま歩を進めるほうを選んだ。かばんには読みかけの本が入っていたし、今日行く予定の店は一人で飲むことに躊躇するような店の雰囲気でもない。なにより喉が渇いていた。

     歌舞伎町はそれほど行きたい街というわけではない。ごちゃごちゃしているし、道には人も多ければゴミも多い。そのくせ隠れた名店みたいなのが多いのが、ついつい好きでもない街に足を向けたくなってしまう理由でもあるのだが。「7」だってそのひとつかもしれない。ホテルほど敷居も値段も高くなく、だからといってカジュアルに振りすぎていることもない。外の喧騒とは逆に静かに飲むことだけを目的としている客が集まっているし、酒はうまい。カウンターに座るとわかるが、バーテンダーの後ろの棚に並ぶ酒は結構なコレクションで、これはまあ、うちの社長の営業の成果だろう。口はうまいからあの人は……考えるともなしに考えて、そこまで思考が到ったところで、久保は息を吐き出した。仕事が終わってまで会社のことを考えるなんてよくない。オフィスを一歩出たら仕事のことは忘れる。これが日々を穏やかに過ごす大原則だというのに。
    4707

    recommended works