カチカチとキーボードを叩く音だけが響く。はぁっと吐く音が聞こえたのは自分の溜息だ。目の前のベッドで眠っている彼の事を考えていると自然と出てしまう。休憩を兼ねてパソコンの手を止め立ち上がり、すっかり暗くなった外を眺めてカーテンを閉める。その音がうるさかったのか、ずっと眠っていた彼の目がゆっくりと開いた。
「ノア?」
少し掠れた小さな声が、ドキッとさせる。こんなに弱っていても彼は美しい。
「ハイ、カズ。目が覚めた?」
虚な瞳でこちらを見つめられて、それでも綺麗だなと思ってしまった。
「ここ…」
「病院だよ。覚えてる?倒れたの」
「…ん、誰かが呼んでくれたピョン?」
私のアシスタントをするようになって、ピョンを強制した。今はこうやってエージと話しをするのと同じように、私にも話してくれる。
「そう。それで身分証からご両親に連絡が入って、私のところに連絡が来て、一番早く駆けつけれる私が対応したよ」
「心配、かけたピョン」
「本当に、めちゃくちゃ心配した。でも命に関わるようなことはなかったから安心して。とりあえず、先生呼ぶね」
ナースコールを押して、しばらくして看護師が入ってきて、それから先生が加わり、ある程度のチェックをして、倒れた理由を話す。急激なストレスで過換気症候群を誘発して倒れた。過換気症候群は過度なストレスや不安に襲われてなるらしい。更に検査をすると栄養失調と睡眠不足で、点滴と睡眠導入剤が処方された。アメリカにいる時よりはマシになっていたと思っていたが、変わらず体が悲鳴を上げている状態だった。今日は一晩入院して明日には出れるようだ。私も面会時間まではここにいていいと言われ、あとは安静にと退出した。病み上がりの彼をそっとしておく必要はあったが、もうこれ以上は、放ってはおけない。エージと離しても、結局はこんな事になるまで彼は弱りきっていた。だから、こうなった以上、どうしても、これから先のことを話さないといけない。カズとは仕事の話が基本で、ほとんどプライベートの話はしなかったし、その話にならないように避けてきた。でも、もうはっきりさせておく必要がある。カズがこれからどうしたいのか。エージとどういう関係でありたいのか。
「カズ。今の君にこの話をするのはよくないんだけど、今しかこの話ができない気がする」
虚ろな瞳でこちらを見るカズは、何を言われるのか分かっているのだろう。ほんの少し光を帯びる。
「これから先、こういう事がまた起こるかもしれない。だから、素直に話してほしい。エージと何があったのか」
「………」
「君とエージがパートナーということは知ってるよ。他のスタッフやチームメイトも気付いてる。だから、エージと何かあったとしても、これからどうしていくか、ちゃんと考えないといけない」
真剣な私の問いに、光の帯が動いて、鈍く輝く。
「…パートナーじゃ、ないピョン」
「…は?」
この状況で何を言ってるのかと思った。あれだけ取られたくないという態度を取っているエージがパートナーじゃないなんて。
「そういう関係じゃ、なかったピョン」
「いや、それはおかしい。エージはいつも君の事を誰にも取られたくないっていう態度だよ」
「ノアにはそう見えるんだ」
鈍く光る瞳で悲しげに見つめられて、心が騒めいた。
「それはどういう意味だい?エージには他にもパートナーがいるって事?」
「…他にもじゃないピョン。俺はセフレの部類ピョン。他にちゃんとしたパートナーがいるし、多分何人かいるピョン」
信じられない言葉が次々と私の耳を刺す。あまりにも突拍子のない答えに、カズが何を言っているのか分からなかった。
「いや、待ってくれ。それはない。あり得ない。あのエージがそんな事」
私の驚きとは裏腹にカズの瞳は虚ろに輝いたまま、何も否定しない。それはちゃんとした答えがあるからで、焦点が合わず、何処か遠くを見つめるカズの瞳が、本当だと物語っていた。
「…確信はあるのかい?」
その問いが核心をついたのか、しばらくは話さなかった。沈黙が続く中で、それでも目をそらさずにカズを見つめると、黙っている事を諦めたのか、震える唇でぽつりぽつりと話し始めた。
カズの話すそれは、生々しい事実だった。
高校の時にエージからの告白で初めて体を繋げた。エイジがアメリカに来てからも関係は続いた。カズも最初はエージが自分に好意があると疑ってはいなかったし、徐々にエージの事を好きになっていた。でも、アメリカに来てからエージの部屋で中身の減っている避妊具とジェルを見つけた。それは自分には使われた事がない。明らかな証拠を突きつけられて、そこから不安が広がった。それから紹介したい人がいると言われた。それは特別な意味を含んでいるようで、嫌な予感がした。実際に会うと、予感は的中した。明らかに自分より大事にしていて、挙句、目の前でキスをされた。相手は日本人で、日本人同士のキスは確実に恋人の意味を持つ。そこではっきりと自分の立ち位置を自覚させられた。ただそれからも体は求められた。その日本人が本命かは分からない。でも本命が誰だとしても、高校から一緒にいるカズとエージの関係は、周りが変に思う事はないし、疑いもかけられない。だからずっと一緒にいる事は不自然じゃない。でも、エージが自分を手放さないのは、近くにいるからいつでも欲を吐き出せて、避妊しなくても妊娠しないから。一度、最中に子どもが欲しそうな発言をされた。いつかは欲しいと思ってるんだろうけど、今はまだバスケが重要で、そっちが大事だから、妊娠しないカズが都合がいい。それでも確実に自分以外にも体を繋げている相手はいるわけで、避妊具がある以上、それは近くにいる女性の可能性が高い。将来、結婚する相手がその人なのか別の人になるかは分からないが、子供が欲しいと思った時が潮時で、いつか自分は捨てられる。アメリカに来た当初から、エージのファンからかなりの罵声を浴びせられていた。エージはファンとも親密で、その相手はファンの中にいるのかもしれない。顔を知ってる相手だと、その横で、何事もなかったようにチームにいることができるのか分からない。好きだから体だけの関係でも一緒にいたいという気持ちと、いつか捨てられるという恐怖が常に頭にあった。どうにかしないとと思っていても、自分ではどうしようもなくて、精神が追い込まれていっているのは分かっていた。だから、私から新しい仕事の提案をされ、エージと離れるいい機会だと、提案を受け入れ契約した。それでも活躍するエージの姿は勝手に入ってくるし、共通する人間関係もある。どうしても完璧に断ち切る事はできなくて、それでも仕事に没頭して、少しづつ考えないようになってきた矢先、エージとキスをしていた人物と偶然にも出会ってしまった。エージの名前を出され、やっと蓋をした気持ちが一気に溢れパニックになった。視界が狭まり、うまく呼吸ができなくなって、体の感覚がなくなり、心臓の音だけが耳の中で鳴り響いた。それからは記憶もなくて、気づいたら今ここにいる。
と、信じられないないような真実を聞かされ、私自身、頭が混乱する。
「カズ、辛かったね」
今にもこぼれ落ちそうな水の幕が瞳をキラキラと輝かせている。瞬きをしてぽろんとこぼれた雫を見て、堪らなく抱きしめたくなった。でも、それを我慢し、その涙を救って頬を撫でる。
「それでも君はエージが好きなんだろう?」
「…今は、まだ…」
「そっか。じゃあ、私にもチャンスはあるね」
「チャンス?」
「そう、君にアピールするチャンス」
「…ノア、結婚してないピョン?」
「結婚はしてたけど、離婚して今はフリーだよ。だから、私にもチャンスはあるよね」
「…優しい上司としかみれないピョン」
「最高の褒め言葉で、最高のふり方だね」
「……ノアのジョーク大好きピョン」
「ジョークかぁ。まぁ、今はそれでいいよ。辛い事、話してくれてありがとう。これから先のことはまた今度話し合おう。明日朝、迎えに来るから、今日はもう寝て」
「ん、ありがとピョン」
カズの綺麗な髪にそっと手を添える。優しく撫でれば、ゆっくりと目を閉じた。睡眠導入剤のせいか、またすぐに眠りについた。その綺麗な髪から唇へと手を伸ばす。ふっくらとした感触を撫でて、顔を近づけ、唇に当たるか当たらないかの際どい辺りで動きを止め、しばらく躊躇って、結局頬にキスをする。エージのことを好きだと言っているカズにキスはできない。でも、いつか、カズがちゃんと答えを出して、この唇を奪える日が来るといいのにと、年甲斐もなく願ってしまった。