【完全版】白い石で出来ている 空港だった。朝と昼の狭間、ロビーの片隅に立っていた真田は、ふと、手の中の端末に目を落とした。つい先ほど、依頼人からのテキストの受信を知らせてきた、黒い携帯端末は、今はしんと静かで、画面上に何の通知さえ浮かべてはいない。
時刻を見る。まず端末上で時を確認し、さらに次にロビー壁面に据え付けられた、アナログとデジタル併用の時計を見た。アナログの文字盤の下に、デジタル時刻表示のパネルが光っている。端末と空港内の時計とは、ぴったりと同じ時刻を示している。
出発時刻だった。真田の依頼人が、鉄の鳥に抱かれ、その鉄の翼の力で、遠く海の向こうへ旅立っていくべき時だった。
空港ロビーは閑散としている。大きすぎる空間に、あまりに少ない数の人間がいて、それぞれ思うまま、ぽつりぽつりと身動きし、歩き回り、またはロビーから離れていく。
ロビーの壁面に嵌め込まれた大きな窓ガラス越しに、たっぷりして冷たい自然光が押し寄せていた。空気は乾いていて、温かいようでも、冷たいようでもあった。
真田は、姿勢良く立っていたのをやめ、手にした杖に半ば寄りかかるように姿勢を崩し、あくびをし、己の仕事の完遂を認めた。
真田をここへ呼びつけたのは、さる依頼人だった。もちろん、病人だった。真田の技をもってそれを癒した。報酬として、市井の人間五人が何年か働き通してやっと稼ぎ出すような額の金が、真田のもとに転がり込んだ。額が大きかった。己の働きの対価と考えても、常識はずれだった。真田は、依頼人の治療に手を抜いたつもりはない。持てる全てを使って仕事を果たしたのは本当だった。しかし、およそ誠意だとか感謝だとかを金銭に仮託する以外に方法を知らない依頼人が寄越した金銭の程度は、世の薄暗いところを渡ってきた真田から見ても、気味が悪いほどだった。真田はそれを一瞬、断ろうかと思った。本来であれば、その場では何食わぬ顔で報酬を受け取っておいて、あとでどこへでもくれてやるのが最も良い。
しかし、咄嗟に、そうできなかった。受け取りを渋った真田に、依頼人は追加で依頼を重ねた。
「海外支社でのプロジェクトに間に合うなんてね。本当にありがとう。病気がわかってからというもの、自分の人生をかけたビジネスがご破産になる悪夢ばかり見ていたのが嘘のように、心身が軽く、素晴らしい気分だ。ところで、すまないのだけれど」
海の向こうへ出立するその日に、自分の見送りに来て欲しい、と依頼人は言った。自分が渡した報酬の額の大きさは、医師である真田に、執刀医なのだから最後の最後まで面倒を見てくれなくてはと、空港への見送りまでを強請った分なのだと、そういう理屈をつけた。
面倒さが勝った。真田は、執刀医とはそういうものではないだのと、依頼人に抗弁し、脅しつけたが、あまりに効果が薄く、そのうちに面倒になった。どうせ、こういう人間は自分の意思を貫くためにエネルギーをいくらでも注ぎ込めるものだし、当日、依頼人の使う予定の空港のあたりに用事を思いつかないわけでもない。それに、中々に難しい症例を抱えた依頼人だったのだから、最後の最後まで患者として扱って、機内で万が一のこともないように計らってやったという格好に落ち着かせるのも、悪くはなかった。
いまや依頼人は機上の人となり、そのまま雲の高さまで飛び上がって、海の上を凄まじき速さで移動している。おそらくは搭乗の寸前に、あらかじめ作っておいたのだろう、礼の言葉を連ねたテキストメッセージを真田の端末へと送りつけて、今頃は満足げに椅子にもたれているはずだ、と真田は思った。
真田が午前中のうちから空港などに足を向けたのは、そうした避けがたい、しかし気乗りのしない用事のためであって、何もロビーに屯する人々の中から、懐かしき若者の顔を見つけるためではなかった。それでも、見つけてしまったのだから、しようもなかった。
真田の立つロビー片隅から対角線上の、百メートルもあるかないかのあたりから、人の群れが、真田の側へと移動してきていた。十人よりは多く、二十人には足りない程度の小さな群れの内、ほとんどが大きな旅行鞄を手に携え、キャスター付きのそれをゴロゴロと鳴らして引いてきていた。手荷物なしにまったく身軽なものがその中に二人ほど紛れていた。
一目見て、いましがた飛行機にてこの地に到着した人々と、出迎え役の二人なのだろうと分かった。一団は、互いに言葉を交わしながらののろい歩みで、ロビーを向こうからこちらへと渡って来た。
そこに、真田の目を引く人影があった。一団を先導する格好で前を歩く、手荷物のない二人のうち一人の姿が、一団と真田との距離五十メートル以下になった瞬間に、真田の意識を吸い寄せ、離さなくなった。
それは和久井譲介だった。そういう名前の青年だった。枯れ葉色の髪に、切り出した白い石のような肌をした青年だった。かつて目にした頃から変わらず、顔の半分に髪を長く垂らしている。露わなのは片目だけで、その隠されない瞳で、あたりを注意深く見つめている。
真田はかつて、己の企みのために、あの青年を手元に置いていたことがある。彼がまだ背も伸び切らず、頬は丸く、世の中すべてを憎悪しながら、世界のすべてを諦められずにいた頃にだった。
宿を与え、衣食を与え、金銭をかけ、勉学をさせた。形だけ見れば、養育したということになるかも分からない。真田は青年をある程度まで養ったあと、善良ならざる方法で手放した。
青年の手が届かないところへ真田自身を移すことで、青年を手放したのだった。
直に目にするのは、いつ以来だったのか。真田は、半自動的に数字を計算する脳を意志の力で黙らせ、そっとロビーの柱へ凭れかかった。その向こうを例の一団が過ぎ去っていくのを、気配と、話し声とではかりながら、待った。
足音が遠ざかり、柱の影となった真田の耳には、誰の話声も、誰の鞄が小さな車輪をゴロゴロと鳴らす音も、聞こえなくなった。
杖を突き、柱から背中を離して一歩踏み出す。ブーツの踵がこつりと鳴く。目を落とした先、自分の爪先のあたりに影が差す。
顔を上げた。人が立っている。眼前に枯れ葉色の髪が揺れて、その下から、切り出した白い石のような肌が見える。
「なんだ」
真田は言った。目の前へ立ち聳えた青年は少し目を伏せ、それからしっかと真田を見据えた。
「空港で再会だなんて、感動的だと思いませんか」
和久井譲介は、ごく静かに、機械的にそう言った。
和久井譲介は真田との約束通り本当に、 午前十一時に、ホテルのティールームにいた。真田はそれをホテル入り口から目で認めて、すこしばかり愉快になった。
いくらか古めかしく豪奢なティールームは内装にふんだんに臙脂と金の色彩を散りばめていて、慣れない人間をおのずとはじき出すような印象がある。その中に、白いシャツをぴったり着こんだ年若い人間がいて、居心地悪そうな様を隠しもせず、ひとり用ソファに身を預けている。正面のローテーブル上に白いコーヒーカップが鎮座しているが、足音を抑えつつ近づいて覗くに、カップの中身は大して減っていないようだった。
「よお」
背後から声をかける。和久井はゆっくりと真田を振り返り、立ち上がった。何を言うわけでもなく真田の姿をじろじろ眺め、「ああ、なるほど」と言った。それから席を離れて通路側に出て、つい先ほどまで己が座っていたソファを手で指して、真田に「どうぞ」と譲った。
真田が鼻白むと、和久井は肩を揺らして「まさか、立ったまま紅茶やコーヒーを愉しもうなんて言いませんよね」と皮肉っぽく言い、そのまま、反対の席へ移って腰を落ち着けてしまう。
「妙なことをする」
真田はやりようなく、和久井に譲られた席に座る。近づいてきた給仕にコーヒーを二つ頼み、和久井が先に頼んでいた、冷めたコーヒーを下げさせる。
「僕もいろいろ勉強したんです」
ソファの背もたれに身を預け、両手を膝の上で組んで、和久井が言った。
「年上の人間の労わり方とか、そういうものを」
長く聞かずにあった養い子の声が、自分の向かいから朗々と流れてくる。真田は和久井から目を外し、興味もないのにティールームのあちらこちらへ目をやって間を稼いだ。床は深い臙脂色の絨毯。同じ臙脂の飾り布に金の房飾りのついたものが、窓と窓の間の壁にそれぞれかかっている。各テーブルの真上からは、スズランの花のような形のランプシェードがつり下がって光を落としている。
店内には勤め人らしき数人のほか、身なりを整えた幾人かが、ぽつりぽつりとそこここの席に収まっているばかりだった。誰かが喫しているらしい紅茶の香りが、ゆるやかな微風に乗って鼻をくすぐる。
今ここに真田がいるのは、約束のためだった。約束と言っても、真田から取り付けたのではなかった。あの空港で、和久井から言い出したものだった。
あの日、和久井は「お使い」のため、海外からの客をアテンドする目的で空港にいたというのだった。和久井の勤め先だか、周辺の人間だかの客人ということだった。そこで真田を見つけたのだと。
真田を見つけてその前へ姿をさらした勇気ある和久井にはしかしあの日、時間がなかった。アテンド相手の客人たちには土地勘がまるでなく、もうひとりのアテンド役はフランス語に堪能だが、英語がおぼつかなかった。客人たちの半分は英語話者だった。
和久井は「どうせ使いやしないでしょうが」とポケットから自身の連絡先を載せた名刺めいたものを真田に握らせ、さるホテルの名前をそのカードの余白になぐり書きした。その上で「十日後にティールームで、午前十一時」と、それだけをなんとか言い切り、先を行った一団に合流すべく、走り去っていった。
和久井はきっと、ドクターTETSUが自分の願いをそっくり叶えてくれるものかどうか、確信があったのではないのだろう。
いざ約束の日になってティールームへ出かけたとして、ソファの上で一時間か二時間か、もしくはそれ以上の時間を費やして、現れることのないかつての養い親を待ち続け、貴重な一日を棒に振り、ついに悪態をついて家に帰る――そういうビジョンを脳裏にはっきり描きながら、この場へ出てきたに違いなかった。
しかし真田はきちんとこの場所に、約束通りの時刻にやって来た。自分でもなぜかと疑いたくなるほど素直な振る舞いを、和久井相手に自分に許した。
「意外だったか」
真田は問うた。給仕が運んできたコーヒーが、互いの顔の前に白い湯気を立ち上らせる。
「ええ、とても」
和久井は応えた。けぶる湯気越しに、睫毛が揺れる。「あなたが僕の思いの通りに振舞う日がくるなんてね」
「いいや。俺は俺の行き先はてめえで決める」
「行き先が僕の前であってもそうだなんて、知らなかったもので」
「もう覚えたな?」
「信じたわけではありませんが」
「覚え込むことと信じることにどれほどの違いがある?」
「…………」
和久井は口をつぐみ、爪短い指先でテーブルをゆるくひっかいた。きし、と音が立ち、テーブル上のコーヒーに小さな波紋が浮いた。
「少なくとも、同じじゃあない。僕にとっては」
目を上げ、その双眸を光らせて和久井が言う。真田はその、和久井の顔貌に滲む複雑な色模様を、とっくり眺めた。ソファの肘掛けに腕を置き、足を組む。
和久井のかんばせに浮かぶものの正体はなんだろうかと考えた。和久井は眉根を寄せ、つんとした眼差しで真田を射抜く。怒りにも見える。悲しみに似たものにも、諦念にも、憤りにも見える。しかし和久井は、瞬きひとつで表情を拭い、また別の顔になった。一瞬、憐れっぽい、物憂げな顔つきになり、次の瞬間には、したたかな風格を備えた若者の顔に変わった。
「あなたのことを覚えてる」
真田を正面から見つめて、和久井は言った。
「ドクターTETSU――かつてあなたが僕に何を言い、何をして、何をしなかったのか、あなたに対峙した僕が何をして、何を望んで、何をしなかったのかを、忘れることはきっとない。でもそれは、僕が僕を信じているのとは違うし、僕があなたを信じているということとも違う」
「そりゃあ、自分の目の前にいるのが信用に値する人間かどうか、見分けはついた方がいい」
「あなたの何もかもを、まるきり信じないと言うんじゃありません」
何かを引きちぎるような語調で和久井は言った。そうしてすぐに、恥じ入ったように顎を引き、目線を落とした。
「…………」
「でも……――」
そして言葉を切ったが最後、和久井の口から次のセリフがこぼれてくることはなかった。和久井の中に、言葉の格好に収まらないものがあって、それが喉や胸に閊えている風だった。煩悶があった。これを見て、真田は俄かになつかしさを覚えた。一番はじめの出会いの頃、和久井譲介という子供はいつでも何かに苦しんでいて、何かを恨み、苛立っていた。その時の印象がふと、真田の胸によみがえった。
「場所を決めろ」
とん、とテーブルをゆるく握った拳で打ち、真田は言った。
「日と、時と、場所を決めろ」
真田の言葉に、和久井が「なにを」と小さくつぶやく。
「お前の決めた通りの日に、お前の言う通りの時刻に、その場所に行ってやる」
また、和久井の顔つきが三通りほどの変化をした。はじめに呆気にとられたようになり、次第に訝し気になり、終わりには諦めと呆れを混ぜた目つきで唇の端を持ち上げて見せた。
「それでどうするんです? 僕が言いさえすれば、あなたは海辺のベンチに座って日没の橙の光をたっぷり浴びて黄昏てくれると?」
「その時はお前も海辺で黄昏て全身みかん色になるんだぜ」
「まさか」
「まさか、と来たもんだ」
思えば、自分とこの子供とは、互いの意思のもとに顔を合わせた経験に乏しい。養い子の反応がまったく奇怪なものを目にした人間のそれであることを、真田から指摘するわけにもいかなかった。和久井の中で、真田は――ドクターTETSUは和久井に向かって気軽に「定期的に待ち合わせをして、顔を合わせてお話をしましょう」などと持ち掛けてくるような人間ではないのだった。
しかし、真田の言っているのは真実、そういうことだ。
和久井は断らないだろう。真田は育ち切った養い子を見つめて、そう思った。
「いいですよ、売られた喧嘩は買います」
ややあって、またつんとした目つきで真田を睨むようにした和久井が言った。
「やめろ、さすがに俺に勝ち目がねえ」
真田はテーブルに置いた手をゆっくりと引っ込め、己の組んだ脚の膝辺りに置いた。真田が姿勢を後ろに引いた分だけ、和久井は体を前へせり出してくる。
「かのドクターTETSUがこの和久井譲介を知りたがってる。そういうことでいいのでしょう?」
に、と和久井が笑う。唇の端を左右均等に引き上げて、遠くを覗くように緩やかに目を細めて。
真田は黙したまま、浅く、ひどく浅く頷いて返した。
「そうしてあなたは僕を新しく覚えていく。僕もあなたを、いままでにない風に覚えていくでしょうね。その先に、覚えることと、信じることの差異がある?」
真田はゆっくりと首を横振った。ああ、そうか、と和久井がため息のような声をこぼした。
「そうか。あなたにとっては二つは本当に同じことなんだ。覚え続けることが、あなたにとって信じ続けることなんだ。なら、なおさらこの機会、逃せないな」
ひと際強く、和久井の目が輝いたように見えた。その輝きは白い石でつくったような青年の頬を濡らし、テーブルへ落ち、広がって、真田の膝まで滴った。