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    フカフカ

    うさぎの絵と、たまに文章を書くフカフカ

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    フカフカ

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    K2/T先生と和久井くん(たぶん大人)の話/車の中で世間話をしたり、こいつっていつからこんな「医者の覚悟完了」だったんだろうな〜と思ったり、高潔さと狡猾さの話をする/前に書いた「ザクロの飴」と「まったく傷ひとつない」と同じ世界の話だと思います/当シリーズはカップリング要素なしです(いつもない)

    グラッパ 雨は幾千の針となって地上を縫い付けにくる。銀色の空から、銀色の雨が降っている。
     真田は湿った地下駐車場を足早に渡った。
     濡れたコンクリートに砂がざらつき、足音が滲む。
     どことない焦りに任せて握る杖は冷たく、一向に真田の体温を吸わず、手になじまず、ただ真田に使われるがまま固く地面を打つ。普段よりも耐衝撃の具合が悪いように思った。杖から伝わる硬質な手応えのせいで手のひらが、腕が痺れる。 
     冬で、雨で、冷えた病人の持ち物だからか、と苛立ちが遠くから打ち寄せて真田の心を浸した。己の道具が己の思うままの仕事をしないのは裏切りめいて不快だった。自分の肉体ですらそうなのだから、杖ともなれば余計だった。
     足を止めると、ざん、と雨音が耳に触れた。はるか前方の坂の上に口を開け、地上の景色を平行四辺形に切り取った駐車場出口から、外の光と音とが流れ込んでいる。
     雨は風の作用でか、時折強弱を変えて地面へぶつかるらしかった。その勢いが強ければ雨音も強く、外は煙った。勢いが弱ければ音は柔らかく、外はほのかに明るくさえあった。その光の明滅が――または寒さが、あるいはやまぬ雨の忙しない蠢きが――真田におぼつかぬ真昼の夢を見せる。世界すべてが解けて曲線に変わり、あるはずもない美しい色が次々に目の前を塞いだ。
    「…………」
     真田は仄暗い地下駐車場の壁に肩をつけて、しばし己の足元を見た。壁面に据え付けられた白色照明の光が生んだ、輪郭の鈍い影がわだかまっている。目で影の縁をなぞるうちに、世界には再び堅苦しい秩序が訪れ、色彩の海原は遠のいた。
     雨音と、薄曇った灰色の空気に、鼻先の冷たくなるような冷気だけが、真田の現実になる。
     すべてが振り出しに戻った。再び、歩き出した。
     
     飾り気ないコンクリート製の駐車場フロアにあってなお、真田の愛車は美しかった。順路通りに緑に塗られた道を歩き、記憶の通りに正しく角を右折した真田はすぐに、天井灯の白い光に全身照らして佇む、たくましき愛車に目を吸い寄せられた。泥の道に分け入り、草深き大地を行き、都市の霞む空気をおしのけて疾駆する、真田の手元にあるうちで最も姿よく、真田の意図を素直に聞き入れて仕事をする、心底から頼もしい道具の一つは、じっと押し黙って主人の帰りを待ち望んでいる。
     ガラス面にまだ少し、朝から降り続いた雨垂れの名残を貼り付けている。それさえ、宝飾をいただいたように高貴な印象に思えた。足を早め、杖を打ち、真田は愛車へと身をすすめた。そこに、枯れ葉色の影を見た。愛車すぐそばの、太く四角いコンクリートの柱にもたれて誰かが――否、この世にただ一人だけの青年が――真田を待ち構えていた。
     足を止め、首を巡らせて青年をじっと見た。艶よく色づいた秋の木葉色の髪を長く伸ばして、灰色がかった顔の半分を隠した青年だった。着込んだコートの裾が柱にべったり触れるのにも構わず、背中をすっかり預けて腕を組み、右足の裏を柱へ押し付けている。
    「奇遇ですね」
     青年は色悪い唇をぎこちなく動かして言い、左の耳を肩に押し付けるように首を傾げて見せた。真田は鼻から息を漏らして返事の代わりに嘲った。目線を外した先、青年の背後の壁面にペンキ塗りの白い文字が踊っている――『来院者専用駐車場』
     真田の目は自然、鍛えられた職業人に相応しい注意深さで青年の全身をざっと捉え、読み取った情報をすぐさま記憶のひだの中へと送り込んだ。
    「大病院の世話になるような様子には見えねえが――とすると車上荒らしってわけか」
     青年の身の上に特筆すべき事項のないことを確かめ、頭脳奥深くにて展開した記憶のカルテを丁寧に仕舞い込んでから、真田は愛車の扉を開いた。そこに当然のような手つきと、態度とで、枯れ葉色が飛び込んでくる。青年――和久井は真田の背後から腕を伸ばして扉を押さえると、そのまま運転席へと滑り込んで腰を落ち着け、コートを脱いで内ポケットから缶飲料を二つ取り出した。そうしてシートベルトを引き出しながら「なんです?」と真田を見上げた。
    「早く乗ったらどうですか、あなたの車でしょう」
    「言うに事欠いてそれか。まさか本気で人様の車ん中を荒らして回ってるのか」
    「物騒な世の中ですよね」
    「お前は物騒ってもんを知っちゃいねえよ」
     真田はかつて己が通り抜けてきた、より苛烈で、より突飛で、極めて粗暴な「物騒」が世のあちらこちらにはっきりと染み付いてきた時代を瞼の裏に思い描き、すぐに瞬き一つで消し飛ばした。あの時代を生きるには、この青年は細やかにすぎるだろうか。
     真田の年長者らしい懐古を知らぬまま、和久井は顔を真正面へ向け、右手の指先を顔の高さに持ち上げて見せた。「確かに、あなたがキーをスリとられて平気なくらいですから、世間の物騒さは僕の思うよりもずっと、軽微なものかもしれませんね」
     和久井のすんなりした中指の先に、愛車の鍵をぶら下げられて、真田もとうとう肩をすくめた。
    「それで? 何が望みだ譲介」
     これ見よがしに諦念まじりにため息を吐く。和久井は不愉快げに眉を上げて「その気もないのに望みだなんだと持ちかけてくる……お変わりないようで何よりです、ドクターTETSU」と言った。
     
     いくらかの会話があった。和久井は真田の愛車をどこへもやる気がないようだった。車内に二人収まったまま、駐車場に流れ込んでいるはずの雨音も冷気も、銀色の光でさえ車外に追いやって、和久井は時折真田の横顔を見て、また時には真反対に顔を向けて、ごくありふれた話題をつらつらと真田へ差し出しては、特に応えを聞くのでもなく、また別の話題へと移るのを繰り返した。真田は和久井が三つ話すうち、一つか、二つに返事をしたがその実、和久井が一つだって「ドクターTETSU」の応答を待ち望んではいないことは分かっていた。
     真田は次第にほのかにも温まっていく車内の暗がりの中にいながら、ここ三ヶ月に和久井が見つけたという食事所についてと、ここ二ヶ月の間に和久井が懇意にしている――当人ははっきり言わないが、それがかの財団の若者だろうことが分からない真田ではない――人間の奇妙な癖について、そしてここ三週間以内に和久井が遭遇したという、非科学的な体験についてを聞き、不可視のノートへと書き写した。
     窓に置いていた肘を下げ、腕組みをして和久井の後ろ頭に向かって口を開く。
    「受け持ちの患者でもなくしたか」
     はた、と車外に目をやっていた和久井が、上体ごと真田を振り返った。十分な成長を経てなお、どこかに若木のような印象を隠したかんばせが顕になり、一拍遅れてその半分を枯葉の髪が覆った。澄んだ双眸に、薄青い光が宿って、てらりと眩くなった。真田は和久井を見つめた。
     今更、己が全能たりえぬと知って打ちひしがれるようにも思われないが、もしもこの日の和久井の饒舌が、胸の底に空いた悲嘆と無力感に由来した洞穴から漏れ出るのであれば――真田は強く瞑目し、眉間を指で押さえた。和久井の洞穴から悲嘆の波を浴びたからと言って何だというのだ。瞼の裏に、銀の針の降りしきるのが見える。天から来たりて地を貫く数多の雨垂れの銀の光が。
    「だとしても」
     ぞんざいな声だった。
    「あなたに打ち明けてみせるなんて、まさか」
    「そうかい」
     瞼を上げ、身を乗り出して目つき険しくする和久井の姿をはっきりと見る。重積を使命として飲み尽くす気概に溢れている。他者の生命に手を差し込んででもその生命そのものに一秒先、一日先、一年先、一生を注ぎ入れんとする、強靭な意地を隠しもしない。いつからお前は、どこでお前はそんな風に、いいや己は――俺は、この子供が「そう」だと知っていたんじゃあないのか。
     真田は込み上げる愉悦を薄い笑みに換えて、唇に乗せた。
    「あなたは生業こそ道を外れて、善人ではないでしょうが」
     フロントガラスの向こうを見つめて、和久井が言う。
    「それでもドクターTETSUは高潔だ」
    「高潔?」
     駐車場のどこかから、誰かの車が走り去っていく。タイヤが床を踏みしめ、重い車体が濡れそぼった世界へと飛び出ていく気配があった。
    「狡猾の間違いだろ、言い直せ」
     居心地悪く、窓ガラスを指で打つ。返事のつもりか、和久井も窓を緩い拳で打って音を鳴らした。
    「そりゃあ、ひどく狡猾です。だからって言い直す気なんかありません。あなたは眼前の命に対して真摯にならざるを得ない風に取り憑かれている。僕がそれを高潔と呼ぶのは自由のはず」
    「そんな高尚なもんかよ。お前は底意地が悪い」
    「今更!」
     ちらりと真田へと目をやって、和久井は「そうでなくってどうやってドクターTETSUの懐に?」と続けた。
    「入れたのか懐に、俺は、お前を?」
    「入れましたとも。人を己の羽の下に入れては蹴り出し、蹴り出したくせに折に触れては頭上を飛び回ったんです」
     和久井は薄く笑って、顎をあげて真田を半ば睨め付けた。戯れのような、威力のない睨みだった。真田は両手を肩の高さに揃えあげ、和久井と目を合わせる。銀の光が、互いの目と目の間をほんのひととき繋いで、すぐに絶えた。
    「……そいつはひでえな、恐ろしい男だ」
    「そうです、とてもね」
     とても、と語の終わりを繰り返し、和久井はふと目をふせた。
    「だから、あなたが僕の背負うべき人命を知る必要もないし、僕があなたに打ちける必要もない。これは僕のものです。いいじゃないですか、かつての養い親と世間話を楽しみたいと願うくらい」
    「…………」
     和久井の物言いのどこまでが真実に近く、どこからが虚飾であるのかは真田の知るところではなかった。返事もせず、真田はそっと、慣れた無遠慮さで和久井の手から愛車のキーを奪い取って手の中に握った。養い子の体温を熱いほど吸った金属が、とろけるように真田の手のひらに食い込む。
    「世間話のお返しに、お前の言うところの高潔で狡猾でとんでもなく酷い男の話をするが」
     和久井の身じろぎを気配に感じながら、真田は続けた。
    「高潔で狡猾で人の道を外れた男はなあ、大金積んで自分を頼ってきた患者が、自分の言いつけを破ってろくな腕もない市井の医者にすがり直して、真っ当な白いシーツに寝そべりだしたのを今朝、発見した」
     隣から、「それで?」という視線を受ける。
    「何もない。ただ面会を申し込んで、様子見をした。相手の言い分では『自分にもどうしても通さなければならない筋というのがあって、この事態はその筋を通すためのものだ』らしい。娘婿が医者なんだとかなんとか。俺はそれを聞き入れたことにした。治療計画には余裕がある。二日も経たずに患者が自分の足で戻ってくると見込んで……何、なんだ? 笑ってやがんのか譲介」
     和久井は苦味を含んだ笑いをこぼして「いいえ」とだけ絞り出した。
    「まあなんだ、そいつは金払いが非常に良いので、俺は自家用車で乗り付けておきながら財布が分厚くなるような『交通費』を預かる羽目になった。これからこれをこの先一キロにあるステーキハウスにばら撒く」
    「あなた、ステーキとか食べるんですか」
    「道連れがいる場合は。それにサラダバーもある」
    「野菜、食べるんですか」
    「ドリンクバーもある」
     和久井はすっかり目を細めて喉の奥で笑いながら「何飲むんです?」と問いを重ねた。真田は「グラッパ」と応えた。横目で覗く和久井の顔がほのかに赤らみ、目が撓む。「嘘ばっかり」
     
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