墜天の王 11 その馴れ初めは焦がれて苦く ②.
天域の四季は比較的温暖でだいぶ気候も春めいて穏やかになってきたところだが。窓を開け放って就寝するにはまだ早い。日中の気温とはさすがに違うこともあり、帝釈天が腰掛けていた大きな出窓も今は閉じられている。
正面の窓の外で自由に枝を伸ばす桜の木はちょうど見頃を迎えていた。
商人の邸宅に咲く大きな桃の花も見事だったが、それよりも控えめな色合いの柔らかい薄紅は、彼の白に近い金糸のような髪色によく馴染む。そこで春の景色に溶け込みその一部となったように出窓で羽根を休める彼の中に、季節の移ろいを静かに見守る優しさを見たような気がした。
収まらない怒りをぶつけるまま、仕事を放り出して呆けていたとそう見えていた昼の自分とは、全く異なる見立てになったが。
阿修羅は茵に胡坐を組んで座り、そこにいない彼の姿を見つめていた。
此処にこれから訪れる相手の面影を、気が逸って追い求めてしまうのではない。揺れ惑うものに気持ちを鎮めることが出来ないでいるからだ。
阿修羅が夜に帝釈天の私室を訪れるのは別に余計な気遣いを感じることもなく、よくある流れだった。去年の今頃は此処で夜桜を見ながら二人で花見酒を楽しんでいたくらいだ。
少し酔って若干舌っ足らずなまま桜の良さを雄弁する口はいつの間にか天域の理想の英雄像を長々と語り出し、そのうち自分のことまで褒め称して熱くぶつけてくるものだから。さすがに顔に熱が集中して気恥ずかしくなった阿修羅も、千鳥足の帝釈天を支えて寝所に連れていき寝かしつけて黙らせた。そんな彼の普段は見せない一面も、今になってみればいい思い出だ。
「…………」
ずっと大切にしてきた想いだった。それなのに今日になって苛立ちに急き立てられるまま声を荒げた自分の、口にしたとんでもない言葉。それを今更後悔しても遅い。
引き戸を静かに滑らせ、また静かに戻す音に阿修羅の耳が反応を示した。
顔を上げ彼の姿を目に留めれば打ち間違えを起こした鼓動が一際跳ねて認識を惑わせる。普段通りの夜着で見慣れているはずだ。こんなにも意識しなければならないものなのかと。
相向かいの座具に腰を下ろす帝釈天を直視するも気持ちを噛み砕けないまま、ただ言葉を待つ。
「商人の男から、充分な持て成しも出来ずに帰路につかせてしまい申し訳なかったと謝罪の文が届いた」
こちらの気持ちなど露知らず、淡々と報告書を読み上げる要領で、開いた手紙を確認しながらそう話す帝釈天の言葉を右から左へ受け流すように聞いていた。昼間あれだけ頭に血が昇り商人の男にも腹を立てていたはずなのにすっかり気持ちが別のところにある。
「しかし貴方の男気に感服した。……と、書いてある」
「……は?」
「この先、今まで以上の援助を約束させて頂く。と、先方はそう言って寄越した」
取引上必要な関係を悪化させたか良くて現状維持というところだと思っていたが。何故か運良く好転したということらしい。
「凄いな。一体貴方は何を言って切り抜けたんだ?」
「…………」
阿修羅は記憶にまだ新しいその出来事を、脳裏だけで描き思い起こす。
一歩も引き下がらない勝気な若い娘に接近され浴室で転倒しそうなほど伸し掛かられたが。念押しされていた立ち場上、無下に出来ず困り果てた阿修羅だった。だがそこに迷いはなく、「心底惚れてる奴がいる。だからこういう事は望んでいない」そうはっきり言うと、やっと諦めてくれたのだった。
店の主人にも俺が言ったままを伝えていい。そう阿修羅は言った。すると、なんて純愛なの。素敵ね。感動しました。と、目を輝かせ侍女は笑顔で帰っていった。
本人にも伝えられていないのに見知らぬ他人に自分の胸の内を暴露してどうするんだと後で自分に遣る瀬無さを感じたが。結果としては間違っていなかったようだ。
「さあな」
阿修羅は少し視線を反らし濁すが、帝釈天もそれ以上は追及してこなかった。
「それで。翼の団のますますの発展に貢献したこの俺に、自ら褒美を与えようというわけか。お前は」
「褒美だなんてとんでもない。私など貴方の足掛かりになれれば幸いといった程度だよ」
簡単に己を低く見る言い方をしてしまえるところが、癇に障る。自分に一番の敬愛を抱く男に向かって踏み台にしろなどと、よく言えたものだ。
知らないと返されればそれまでの話だか、尊ぶ真っすぐな思いは今までに何度だって伝えてきた。
「一度きりで終わらせよう等と思っているなら浅はかなことだ」
結ばれてしまえば、ひと夜の房事は気の迷いだったと泣き言を聞くつもりも、逃すつもりもない。
「ならばその先も、貴方の望むままに。我らが英雄殿」
自分の望みは語らない口で、ふ、と静かに笑い立ち上がる帝釈天が手を伸ばした。それを黙って取る阿修羅も立ち上がり、歩き出す彼の後ろ姿を見つめる。
まるで捲し立てる親に手を引かれ促されるが、状況を噛み砕けないまま縋って歩くようだと思いながら。後に続いた。
美しい花鳥画の屏風を超えた先の奥まった場所へと通される。初めて足を踏み入れたわけではないにしろ、あまり気安く立ち入っていい所でもない。
一歩踏み出し進むほどに早まる鼓動は警鐘のようで、思慮の足らない自分の行動を咎めているかのようでもあった。
「……本気なのか」
先に寝台へと上がった帝釈天は、ここまで来て何を今更と言いたげな瞳で阿修羅に視線を返す。
繋ぐ前の自分たちにはもう戻れなくなると、本当に理解しているのだろうか。明確な答えを告げない口から理由を引き出せないとわかっているのに、簡単に夜伽を申し出る相手に躊躇う己の心を誤魔化し踏み切ることが出来ない。
「私に恥をかかせたいなら何もしないで出ていくといい」
「止めるとは言っていない」
嘲笑に似た意地悪な笑みですら追い込むための罠かもしれない。煽る艷やかな唇は吊り提灯の明かりに潤い、かつてないほど蠱惑的だ。
挑発的な言葉に同じように返しても、呼び込まれる寝台に身を屈めて乗り上げている時点で、自分はこの美しい男に屈伏したようなものだった。
組子行燈から洩れ出る灯火が、床に模様を広げ情緒的に先を唆す。解かれる帯の結び目が衣擦れの音を静かに立て、そんな些細な要因ですら内耳を引き摺り五感をじっとり侵蝕していく。
「貴方のために清めた身体だ」
肩から外された襟元が支えを失いたおやかな肌を滑り落ちる。伸ばされた手に捕まえられて細い指に絡め取られ、誘われる胸元に指先から触れた。ゆっくり押し付けた柔らかに吸い付く質感と温かみは得難い温度で、自分が焦がれたそのままの。欲しかった彼の素肌だ。
「だからどうか、最後まで。阿修羅」
顔を寄せ、聞いたことがないような甘さで囁いた。神経を撫で上げ陥れる華は狂わせるほどの夢を仄めかす。狡い男は愚かな相手をそうやって口車に乗せると、褥を蓮の香りで埋め尽くした。
我を忘れ胸元に顔を埋める男を慈しむように、優しく撫でる彼の手は、幼き日の過ちで失ったあの温度を、思い出させるようだ。
私が代わりに貴方の傍に。その言葉の温かさはかつての自分を救ったが、今求めているのはそんな献身さなどではない。
零落れることを止められない頭の隅で、それだけが酷く嫌だと、そう思っていた。