よし、世界を滅ぼそう。 よし、世界を滅ぼそう。
この感想は虎杖悠仁が、恐らく、いや、間違いなく、自分の番であろうαの美しい男と再会した時に思ったことだ。きらきらと窓から差し込む太陽に照らされて煌めく雪のように白い髪、サングラス越しでも分かる澄み渡る青空を模した宝石のような双眸、それらに負けない美しい尊顔。そのどれもが、きゅうっという音を立てて驚いた表情でこちらを見ている。その大きく見開かれた瞳に映るのは、相手以上に驚いた表情をしている自分だ。
それをぱちぱちと瞬いて、見つめながら悠仁は心の中で同じセリフを繰り返す。
よし、世界を滅ぼそう。
虎杖悠仁。その名は、呪術界では有名なもの。『宿儺の器』とイコールで結ばれるものとして。しかし、有名なのは、名前だけであり、またその肩書だけだった。多くの呪術師は、悠仁の姿などは知らない。
なぜなら、恐ろしいからだ。うっかり暴走でもされたらと思うと、わざわざ姿を確認しようと見物に来るような呪術師は存在しない。その上、受肉の際にもともとαであった器がΩに変わったというのを聞いてさらに足は遠のく。
基本的に、呪術師という存在は優秀なαが多い。そのため、間違いが起こりでもしたらと思うと悠仁に近寄ろうとするものはほぼ皆無に近い。誰しも、自分の身は可愛いのだから。悠仁としても、物珍しさから見に来られるというのは面倒だと思っていたので助かったくらいにしか思ってはいなかった。
それに、αからΩに変わったと言われても悠仁にはあまり実感が湧かない。そもそも周りが言うバケモノじみた身体能力もそのままであり、何よりもヒートが軽い。ほんのちょっぴり体温が上がって、ほんのちょっぴりいつもより暑がりになって、ほんのちょっぴり息が上がるのが早くなる程度。これがヒートなのかと自分でも少し疑わしいレベル、風邪の引きはじめではないかと思うくらい。
そんな誤差のようなヒートしか起こらないのだ。その上、どうやらフェロモンとやらも特に発していないらしい。同じクラスでαである伏黒や釘崎に確認して貰ったし、αの医者にも確認して貰った。Ωのフェロモン特有の甘い匂いどころか、体温が上がって発汗が促されているせいか『汗臭い』という失礼極まりない感想を漏らされて、悠仁としてはなんだか複雑な気持ちだった。
そんな体質のΩだからこそ、悠仁は特に困ることもなく日々を生活していた。授業には休まずに出るし、任務ももちろん休まずに行く。買い物だって、ヒートであろうが関係なく出かけていた。最初こそ心配していた伏黒や釘崎だったが、自分たちですら感じないのだからきっと大丈夫だろうといつしか慣れてしまう。
そして、そのある意味では常識だった悠仁のヒートに変化が訪れたのは高専を卒業した温かい春の日だった。監視するという意味も含めて、悠仁の卒業後は年を越す前から決まっていた。夜蛾が申し訳なさそうに高専の教師という形でこのまま残るように言って来たが、悠仁としてはそこまで悪い未来ではないと思ったからだ。給与だってきちんと支払われるという話だし、住む場所だって部屋自体は教員用へ移るが用意されているし、ここにいれば伏黒や釘崎がフリーの呪術師となってもいつでも会える。個人的には、願ったり叶ったりだった。
無事に卒業式を終え、学生寮から教員寮へ移る。そのための準備として、必要なものを買い物に出た先で悠仁の運命が悪戯に絡んだのだ。
さて、何から買おうかと思った矢先だった。ふわりと悠仁の鼻先を微かに何かが掠める。いや、物理的なものではない。何か、どこかで嗅いだことがあるような、懐かしい香り。温かくて、柔らかくて、甘い、心を揺さぶるような、そんな香り。それが悠仁の鼻先をふわりと掠めた。
「……ッ、う」
それを自覚した瞬間、どくりと心臓が強く脈打つ。ずぐりと腹の奥に重たくて熱い何かが生まれる。まずい、とそう思った。感じたことのない不快に近い、それでも快感。それが何なのかはΩとしての本能として悟った。ヒートだ、と悠仁は直観に近い感覚で思う。今まで感じたことのない、ひどいヒート。
とにかく、ここから逃げないとと理性が叫ぶ。どうしてと思う間もなく、何を置いても早く誰もいないところへ行かなければと。そう思って顔を上げた先にいたのが、白く煌めく髪と青空を模した双眸を持つ、美しい男。向こうも悠仁を凝視して、眼を大きく見開いている。これ以上ひどくなる前に、フェロモンをまき散らす前に、ここからは慣れなければいけない。それなのに、悠仁はじっとこちらを凝視する美しい男から視線が外せなかった。
そこから先の記憶は、ひどく朧げ。美しい男がこちらに走り寄り、ひどく熱い手で悠仁の腕を掴んだことは覚えている。そこからどうやって移動したのかも分からぬまま、気が付けば悠仁は美しい男にどこかのホテルのベッドで組み敷かれていた。どんなことをしたのか、どんなことをされたのか、何を強請って、どう応えられたのか、それすらも朧げ。恐ろしいほどに熱く、嵐のように激しい、そんな一夜を過ごしたことだけが悠仁の脳裏にうっすらと刻まれていた。
いや、記憶だけではない。その体にもしっかりと刻まれている。あちこちに鬱血の後が残り、うなじにはじくりとした痛み。それだけで、悠仁は最悪の事態に陥ったことを理解してしまった。間違いなく、噛まれている。
うなじをそっと撫でながら、ちらりと自身の右側で眠る男に視線を落とした。
「……アウト、だよなぁあ」
項垂れて、溜息を零す。どう見ても、少年。どう見ても、未成年だ。そして、間違いなく優秀なαだろう。悠仁なんかと相対する機会なんて、本来はないだろう極上のαの少年。そんな子供を巻き込んでしまったという自責の念が悠仁の心を支配していた。噛まれてしまったという事実を含めても、今更なかったことにはできない。間違いなく、自分がヒートを起こして少年を巻き込んだのだろう。
「……とりあえず、帰ろう」
悠仁は、少年が寝ている間に高専に帰ろうと思った。それが、現実逃避であるということを分かった上で。ここで逃げたところで、番になってしまった事実は変えられないこともまるっと思考から放棄して。とにかく、悠仁は被害者として巻き込んでしまったきれいな少年から距離を取ることだけしか浮かばなかった。
なぜ、普段は起きているのかいないのか分からないようなヒートが強くなったのか。記憶が朧げになるほど盛り上がってしまったのか。
そんな様々なことが疑問として浮かび上がらないほど、この時の悠仁はパニックを起こしていた。そうでなければ、相手の素性も知らぬまま、自分の素性も知らせぬまま、逃げ出すなんて選択はしなかっただろう。後悔というのは、後でするもので先には立たないのである。
その逃げ出すという最悪の選択をした結果が、悠仁の罪が、目の前に現れるまでにそう時間はかからなかった。あの過ちを犯した日から半月も経たない、あの日と同じような良く晴れた春の日。新たな門出を祝うに相応しい、そんな春の日。
「……虎杖、知り合いか?」
そんな悠仁を見て、そのきれいな少年を紹介する伏黒は首を傾げる。伏黒には、悠仁ときれいな男の接点がまったく浮かばなかったから不思議でしかない。
「五条悟、あの五条家の」
なんて説明をする伏黒の言葉なんて、悠仁の耳には入って来なかった。悠仁の脳内は、それどころではなかったからだ。五条家という御三家の、というよりも、自身の生徒になるという事実が悠仁の頭にずどんと圧し掛かる。呪術界に明るくない悠仁は、その五条家がどういう存在なのか知らない。だからこそ、悟の背負う背景よりも未成年の上に自分の生徒であるという事実に頭を抱えてしまう。
だからこそ、思ってしまったのだ。出来もしないのに。出来もしないことを。
よし、世界を滅ぼそう。