(5月新刊予定)燐ひめ探偵パロ※登場する地名、人物名は実在のものとは一切関係ありません。現実にはあり得ないような気候・立地などが出てきますが、そういうものだと思ってご覧ください。
※今回公開部分には一人だけですが、話全体としては大量のモブが出てきます(被害者や犯人をネームドキャラにしないため)
目の前に広がるのは、快晴の空と一面の雪景色だ。昨夜の大雪が嘘のように、朝のひんやりとした空気の中、どこまでも突き抜ける青は雪原に眩いほどの光を落としている。
まるで宝石を散りばめたかのような輝きを放つその雪野原からは少し離れたところに小さな湖があって、湖面には厚い氷が張り、そこにも薄らと雪が積もっている。ほとりを囲む針葉樹からは時々どさりと雪化粧が剥がれる音がして、この静かな雪景色に冬の音色を添えた。
そんな冬の美しい情景の中に、なんとも不可思議な光景が突如として現れる。湖からいくらか離れたところにロッジのような丸太造りの建物があって、そこから更に数十メートルほど行くと木造の小屋が一つある。母屋と倉庫といったところだろうか、小屋の前には雪かき用の大きなスコップや薪割りの斧などが立てかけられているのだが、その倉庫と母屋を繋ぐように、一人分の足跡が新雪の中深く刻まれているのである。母屋から倉庫へ、倉庫から母屋へ。ちょうど、行って帰っての一往復分だ。そして倉庫側からその足跡が伸びているのとは反対――倉庫の裏口の方にも足跡があり、それはすぐ近くを通る国道から倉庫に向かっていく一組だけのものであった。
つまり、そこにあるのは三種類の足跡。一見しただけではそれが同一人物のものであるのか、同一人物ではないなら何人分のものであるのかは分からないが、普通に考えるなら、国道から倉庫へやって来た一人と、母屋から来た一人のどちらかだけが倉庫から立ち去り、もう一人は倉庫内に止まっていると……そういう風に見えるだろう。
そして、事実それは“そう”であった。倉庫の中には一人の男がいる。今この瞬間にもだ。尤も――二度と物言わぬ姿となって、だが。
「……なァんか妙に胸騒ぎがすンな……」
その光景を前にした男は、自身の髪の色のごとく赤くなった鼻を啜りながら呟いた。周囲には通報を受けて駆けつけた警察官たちが、現場を荒らす前にと写真を撮りながら何事かを話し合っている。吐く息の白さが、氷点下に達する現場の寒さを物語っているが、思わず身震いするのは寒さだけが原因ではないだろう。背筋を駆け抜ける悪寒が、この事件は一筋縄ではいかないと本能的に告げている。
雪原に残された足跡。倉庫と母屋。倉庫の中で死んでいる男――。
それが、刑事である天城燐音が夢ノ咲署で最初に担当することになった事件であった。
*
「あー……さみ……」
二月某日。
郊外だけでなく、街中をも白く染め上げた雪の日から二週間ほど経った日のことである。天城燐音は、降りたバス停から地図アプリを頼りに寒空の下を一人歩いていた。
悴む手には某洋菓子店のロゴの入った白い箱。吹き抜けて行く風を避けるように首を窄め、時折小さく愚痴のようなものを溢しながらのろのろと足を進めて行く。
「ったく、なんで俺っちがこんなこと……」
確かに捜査には行き詰まっていたけれど、だからと言って“こんな”。
面倒且つ不本意な任務を命じてきた新しい職場の上司の顔を思い浮かべれば、そのいけすかない眼鏡ヅラに思わず舌打ちも出ると言うものである。断る隙もなく有無を言わせぬ圧で押し切られてしまったのもまた腹立たしく、話術にはそれなりに自信があったので尚更だ。前の署では自分より口が達者な人間はそうそういなかったのにと、聞き様によっては詐欺師のようなことを思いながら重い足を引き摺っていった――。
燐音は、この一月から夢ノ咲署に異動してきた刑事である。異動の理由は色々とあるが、上司から聞かされたのは“夢ノ咲署の応援”というものであった。現在夢ノ咲の管轄では連続殺人事件が発生しており(但し世間には詳細が伏せられている)、その対応に署員が追われている関係で年明けから増員されたのだ。
とは言え、新たな職場で燐音が任されることとなったのは件の凶悪事件ではない。それ以外の、日々発生する細々とした事件の処理を担当することになったのである。
曰く、元々いる署員は連続殺人事件で手一杯なので、彼らの手が回らない部分をこそ手伝って欲しい、と。異動初日に副署長の七種茨にそう告げられた時は、なんとなく察しはついていたものの、世紀の大事件に携わることは出来ないのかと落胆する気持ちもなくはなかった。
勿論、事件に大小などないとは言え、元々いた部署ではそれなりに重大事件を扱っていたものだから、殆ど左遷に近い人事には少なからず思うところがある。同僚たちが事件解決のために奔走し、何度も捜査会議を開いているのを目にするにつけ、自分にもそんな巨悪と戦う機会が再び訪れればと……そう考えてしまうのだ。まぁ、それもこれも、自分が前にいた部署で“やらかした”ことが原因であるのだけれど。
さて、そんなこんなでいまいち気の乗らないまま日々の雑務をこなしていたある日のことである。早朝に一本の通報があった。その日は前日の夜に大雪が降ったので、やれ交通整理してくれだの雪下ろし中に怪我をしただの、警察署も夜明け前からそれなりに忙しくしていたのだが、その通報によって途端に署内の空気がピリリと張り詰めたことを覚えている。
電話は、郊外でワカサギ釣りを営む夫婦からであった。かなり混乱した様子の妻に代わって電話口に現れた夫が言うことには、自宅の倉庫で見知らぬ男が死んでいるらしい。
殺人か、事故か。何名かの捜査員と共に燐音は現場に急行した。燐音にとっては異動後初の死者の出た事件とあって、これをたちどころに解決して見せれば元部署への復帰も近付くのではないかと勇んで捜査を進めていた、のであるが……。どうにも、途中で行き詰まってしまった。
それは、一見すればシンプルな事故であるかに思われた。だがしかし、捜査を進めて行くにつれ事故とするには不可解な点が多々出てきたのである。
結論から言うと、燐音はこの事件を事故に見せかけた殺人だと思っているのだが、そう断定するにはどうしても解かなければならない謎があった。その謎が……解けない。鑑識の資料を何度も見直し、現場検証も繰り返し行った。一緒に現場へ急行した刑事とも話し合った。けれども、調べれば調べるほどその場の状況が“これは事故だ”と物語っている。
そうして捜査に大きな進展のないまま事件から二週間。一体いつになったらワカサギ釣りの客を入れられるんだと夫婦から届いた苦情が副署長の茨の耳に入り、早くかたをつけるようにと急かされた燐音は、殺人の可能性が否定しきれない状況を説明し、もう少しだけ捜査を続けさせてもらえるよう訴えた。
そこで茨がこう言ったのだ。
「仕方ないですね……では、“あの男”の力を借りましょうか」
「……あの男?」
あの男、とは。それに“力を借りる”とはどういうことか。誰か、警察の協力者のような者がいるのだろうか。
首を傾げる燐音に茨は続ける。
「何度か事件解決にご協力いただいた方がいましてね。今回の事件にも適役でしょう。天城氏はまだ彼に会ったことがありませんね? ちょうどいいのでちょっと行ってきて下さい。どうせ暇でしょうからアポはいらないかと思いますが、一応電話は入れておきます」
「どうせ暇って……どんな奴だよ」
「はい、これをどうぞ」
そう言って茨は自身の財布から五千円札を一枚取り出し、燐音に握らせた。
「ンだこれ? これでパチ打ってこいって?」
「あっはっは! そんな面白くもない冗談を言っている暇はありませんよ。目的地の住所は今送りましたので」
「……?」
その言葉と共に燐音のポケットでスマートフォンが震え、届いたメッセージを確認するとそこにはホームページのURLが。小さく表示されている写真と店名にはなんとなく見覚えがある。
「駅前の洋菓子店? ここ確かお高いとこっしょ。ここに“あの男”ってのがいるのか?」
まさかケーキ屋の主人が引退した元敏腕刑事とか? などと刑事ドラマの設定にありがちなことを考えるも、それはすぐに茨が否定した。
「いえ、そこは経由地点です。先ほどお渡ししたお金で今月の新作ケーキを手土産用に買っていって下さい。まぁ、三つほどあればいいでしょう。あ、領収書をお忘れなく。経費で落としますので」
「はァ? ンじゃ目的地はどこだよ」
「下へスクロールして下さい」
言われるままにメッセージの続きを読めば、洋菓子店とは別に住所と駅名らしきものが書かれていた。住所は店などではなく一般住宅であるようだが、一応聞いたことのある地名だ。確か、夢ノ咲でも外れの方。駅名は聞き覚えがない。
いまいち話の読めない燐音に茨は補足する。
「そちらは最寄りのバス停です。そこで下車してから住所の場所へ歩いて向かってください。パトカーは禁止ですよ。警察に近所を彷徨かれると妙な噂が立つからやめろと釘を刺されていますので」
「だったらタクシーで行きゃいいっしょ」
「タクシーを使ってもいいですが、その場合は自腹でどうぞ」
「はァ!? 手土産のケーキは経費で落ちてタクシーは落ちねェっておかしいっしょ!」
「カツカツなんですよ、こちらも! 若手の内は足で稼ぐものですよ」
「非効率が一番嫌いな人間が何言ってやがる!」
その後も暫く粘ってはみたものの、結局タクシーの使用許可は下りず、最後に「くれぐれも! 先方の機嫌を損ねないように!」などと釘まで刺されて署を追い出されてしまった。
――こうして仕方なく、燐音はケーキを購入してからバスに揺られ、目的地近くまで来たと……それがここまでの経緯である。あんなことがあったら、誰だって足取りも重くなると言うものだ。
何はともあれ、素直にケーキ(かなりお高めだった)まで買ってしまった以上は引き返すにももう遅い。燐音は一度立ち止まり、地図アプリの示すルートを確認した。
「坂の麓にコーヒーショップ……ここか」
街の中心部から外れ、民家もまばらな静かな通りの角に“焙煎珈琲 夢見鳥”の看板を見つける。店はちょうどT字路にあり、今燐音が歩いてきた道から店を目印に右に折れた先は上り坂になっていた。一応車が通れるくらいの舗装はされているが、その坂は上がっていくにつれて道の両脇に木が生い茂り、建物の影も見当たらない。森と称するほどではないにしろ、ここを上がって行くのは気分的には山登りに近いものがあった。
そして、人の心の分からぬ地図アプリは、目的地としてその坂の先を示している。
「登れってのかよこの坂を……」
見ればなかなかの急勾配、自転車ではまず登れないであろう道のりだ。ここを徒歩で行けとは、アプリだけでなく副署長にも心がないと見える。
「くっそ……これで大した成果が得られなきゃ許さねェからな」
燐音は副署長と顔も知らない“協力者”に対して愚痴を溢しながらも、渋々坂を登り始めた。
事件解決に警察関係者以外の手を借りるのは癪であるが、もしかしたら存在するかもしれない“殺人犯”を野放しにするのはもっと許せない。背に腹はかえられぬ、ということだ。
さて、一桁の気温の中を薄らと汗ばむほどに登り続けて十数分、漸く目的地が見えてきた。辿ってきた道を見下ろすと、木々の隙間から街が遠く小さく見える。あちらからはこんもりと木を蓄えた丘に見えているであろうこの場所の頂上は行き止まりになっており、道が終わると同時に古びた石造りの門が現れた。
門とは言っても、錆びた扉は開きっぱなしで出入りは自由にできそうだ。表札はなく、門の横に立てられた鉄製の郵便受けにも名前のようなものは書かれていない。呼び鈴もないため、燐音はやや躊躇いつつもそっと門の中へと足を踏み入れた。
門を潜った先は、季節柄緑は少ないものの一応手入れされているらしき庭があって、その片隅に一台の黒いクラシックカーがポツンと止まっていた。庭の中心には枯れた噴水があり、水の代わりに落ち葉を溜めているのが庭全体の印象をどこか寂しげにしている。廃墟とまではいかないにしろ、人が住んでいるにしては随分と静かだった。
そんな前庭を通り抜けた先に、門に負けず劣らず年季の入った洋館が聳え立っている。燐音は一度足を止め、重厚な煉瓦造りの壁を見上げた。
「でか……」
思わず漏れた呟きと共に、白い息が冷たい空気に溶けていく。
その屋敷は、古いながらも一目で豪奢さを感じ取れる外観をしていた。黒に近い焦茶色の煉瓦の壁に白い窓枠がいくつも並んでおり、濃いモスグリーンの三角屋根から付き出た煙突からは灰色の煙がゆらゆらと立ち上っている。庭に向かって突き出た、六角形を半分にしたような造りの部屋は、映画か文化財でしか見たことがない。
レトロかつ荘厳。燐音がこれまで縁のなかった独特の雰囲気漂う屋敷を前に、地図アプリは案内をやめ、目的の人物がこの屋敷内にいることを知らせた。
「ここに入るのかよ……」
気の進まないままそんなことを呟き、ふと自身の姿を見下ろしてみる。
「……」
なんとなく、埃のついたコートとよれたスーツ、緩く結んだネクタイが気になって、袖をパンパンと数回払ってから軽く身なりを整える。玄関へと続く数段の階段を登る安物のスニーカーも履き潰してはいるが、左手に持った手土産にだけはやたら自信があって、ここへ来て五千円を握らせてくれた茨に感謝の念が湧いたのだった。
玄関ポーチへと入り、両開きの扉の前で足を止める。
「インターホン、は……」
少し探してみたがそれらしきものはなく、代わりに金属でできたウサギと思しきオブジェが扉で二つ、じっと燐音を見つめていた。ウサギの下には同じく金属製の輪っかがそれぞれに一つずつぶら下がっている。
「ドアノッカーなんて初めて見たっしょ……」
こんなところまでレトロなのかと若干怖気付きつつ、恐る恐る輪っかに手を伸ばし、二度打ちつける。ゴン、ゴン……と、想像したより重く大きな音が響き渡った。
「……」
少し待っても反応がなかったので、もう一度ノックしようかと考えていたところ、微かに扉の向こうから物音が聞こえた気がした。やがてガチャリと解錠を知らせる音が響き、燐音は特に意味もなく姿勢を正す。そして装飾の施されたドアノブがゆっくりと回り、やや軋んだ音を立てながら片側の扉が開いた。
「……はい、どちらさまでしょうか?」
半分ほど開いた隙間から姿を覗かせたのは、白髪に髭を蓄えた老人である。黒い燕尾服のようなジャケットの中に白いシャツとベストを着て、クロスタイまできっちりと着けてる。モノクル(というのだろうか)越しに燐音の顔をじっと見やるこの男性が、茨の言っていた“あの男”だろうか。
燐音は言葉を探しつつ口を開いた。
「えーと、夢ノ咲署の天城です。七種副署長から電話が入ってると思うんですけどォ……」
「……」
「あー、これ、警察手帳」
訝しげにする老人に、燐音は慌てて胸ポケットから手帳を取り出して見せた。自身が突然来訪した不審者でないことを証明する最強アイテムだ。
老人は手帳をまじまじと見た後、緊張の面持ちで待つ燐音に向かってドアを大きく開いた。
「伺っております。天城様、どうぞこちらへ」
「ど、どうも……」
無事招き入れてもらえるようで、燐音はホッと息を吐いた。なんとなく「知りません」と追い返されそうな雰囲気が若干していたから。
(一応、蛇ちゃんはちゃんと連絡を入れてくれてたらしいな……)
その割には最初の、手帳を見せるまでの間が怖かったけれど。
何はともあれ、老人に続いて屋敷へ入ると、そこは広い玄関ホールだった。内装は基本的には木造で、正面に大きな階段があり、吹き抜けの周りを二階の通路が囲んでいる。今は点いていないが天井からはクラシカルなシャンデリアがぶら下がり、まるで海外の要人宅を訪れたかのようである。
「あんたが」
“協力者か”と聞こうとしたところで、先に老人が口を開いた。
「主はこちらでお待ちです。ご案内いたします」
「ああ、ハイ……」
「コートをお預かりします」
「どうも……」
この人じゃなかったのか。内心そう呟き、燐音は預けたコートを片手に歩き出した老人の細身の背中に続いて行く。
(そりゃそうか……明らかに執事風の爺さんだもんな……)
新作のケーキで喜びそうな感じでもないしと納得しかけ、そこで左手に下げたお高い手土産のことを思い出した。燐音が今持っているものの中で唯一この屋敷に見合いそうなものである。
「あのー、これ、差し入れ? です」
背後から声を掛けると、老人は静かに振り返り「いつもお気遣い痛み入ります」と恭しく箱を受け取った。薄々勘付いてはいたが、「いつも」と言うところを見ると毎回こんな手土産を持参しているのだろう。
(大丈夫かよ、夢ノ咲署……)
予算がカツカツなのはこのせいではと訝しみつつ、まぁ自分の金ではないしと、燐音は老人に続いて廊下を進んだ。
それにしても、大きな屋敷は廊下も長い。不躾にならない程度に辺りを見回しながら燐音は再び老人に話し掛けた。
「その、あんたのご主人様はどちらに?」
人に会うなら応接室だろうが、そういったものは普通入り口の近くに作るのではなかろうか。執事風の老人は、今度は振り返らずに答える。
「主は奥のサロンにおります」
「サロン?」
「客間ですな。昔はご婦人方の社交場で使われておりまして、日当たりが良く、お庭もよく見えるのです。今は来客も夢ノ咲署の方以外殆どありませんので、主が考え事などをする際に使っております」
「はぁ……優雅な生活デスネ」
サロンなんて言葉、エステサロン以外で初めて聞いた。趣のある執事付きの古い洋館で庭を眺めながらケーキに舌鼓を打つ、警察の協力者。いよいよその“主”とやらの人物像が全く想像つかなくなってきたところで、老人は漸く足を止めた。
「こちらです、どうぞ」
廊下の突き当たりの扉を老人は二度ノックして、「失礼致します」と一声掛けてから開いた。そうして中へと促されるままに、燐音は肩を窄めて「失礼しま〜す……」と足を踏み入れる。
かつての社交場というだけあって、室内はなかなか広く豪勢な作りであった。ダークグリーンの柔らかな絨毯、全体的に落ち着いたトーンのアンティーク家具と、壁際にはパチパチと薪の弾ける大きな暖炉。
そんな中でも一際目を引くのが、入り口正面の大きな窓である。格子状の白い窓枠に小さなガラスがいくつも嵌め込まれたそれは、天井から床までを占めている。その幅も、窓の手前に置かれたテーブルの倍近くあるため、四メートル弱といったところであろうか。窓の向こうには外の柔らかな日差しと、春はさぞ見事であろう裏庭の景色が覗いていた。
そして、そんな窓の手前――重厚なデザインの長テーブルと窓の間に置かれた一人掛けのソファに、“その男”は庭を眺めるようにして座っていた。いや、後ろ姿だけでは一見して男かどうかは正直よく分からなかった。
「……」
窓から降り注ぐ柔らかな日差しを受けてキラキラと輝く勿忘草色の髪、華奢な肩を飾る赤いサッシュ、手首の細さを強調するかのようにひらりと揺れる袖口――。赤いベロアのソファに腰掛けたその姿は、まるで豪勢な屋敷の調度品の一部か、あるいは精巧な絵画のようである。
そしてこの人物こそ、茨が燐音に協力を求めるように命じた“あの男”なのであった。
「夢ノ咲署の天城様をご案内しました、『HiMERU』様」
(ひめる……?)
老人は一言そう言うと一度部屋から出て行ってしまった。未だ得体の知れない人物と二人きりにされ、燐音はなんと声を掛けたものかと入り口付近から動けずにいる。
取り敢えず自分からも自己紹介か? と思ったところで、HiMERUと呼ばれたこの屋敷の主が振り向いた。
「……」
「……、」
燐音を真っ直ぐ見つめる双眸は黄金色。白皙の顔の中心を通る鼻筋は真っ直ぐで、歪んだところが少しもない。瞼を縁取る睫毛さえもが瑞々しく輝いて見え、サッシュや首元を飾る宝石の数々に全く見劣りしないほど、その男は整った顔をしていた。掛け値なしに“美人”と言って差し支えないだろう。
そして、想像していたよりもずっと若い。
「あーっと……、」
色々と予想外のことに何故だかドギマギしてしまって言葉が上手く出てこない。そんな燐音を暫し観察した後、男――HiMERUは、軽く溜息を吐きながら言った。
「全く……懲りもせずにまた来たのですね、あなたたちは」
その声はまさしく男性のものであったが、どこか艶っぽく色気のある声だった。穏やかな低音が耳に心地良い……が、小さな唇から溢れる言葉にはいささか棘がある。
HiMERUはやれやれといった様子で首を振る。
「面倒だからもうやめろと何度も言っているのに、寄越す人間を変えれば良いと思っているのでしょうか、あの副署長は」
「えーっと……?」
「あなたも、あのいけすかない蛇に良いように使われて、こんなところまでのこのこやって来たのでしょう? ご苦労なことなのです」
「……」
“いけすかない蛇”には大いに同意したいところだが、どうも燐音自身もこのHiMERUという男に小馬鹿にされているように感じる。いや、実際されているのだろう。でなければ“のこのこ”などという言葉は使わない。
そうなると、いかに相手が美人と言えどムカつくものはムカついてしまう。わざわざ高級な手土産まで持ってこんな辺鄙な地まで訪れた客人に対してあまりにも失礼ではなかろうか。自分自身が礼儀を語れるような人間であるかは一旦棚に上げ、燐音はHiMERUがしたように頭を振って鼻で笑い、嫌味ったらしく言ってやった。
「ハッ、副署長が頼りになるみたいな口振りで言うからどんな奴かと思ったら、貴族気取りのお高くとまったお坊っちゃんとはねェ。こんなんに頼るとは、警察も落ちたもンだ」
すると、それまで澄ました顔をしていたHiMERUが眉間に皺を寄せて燐音を睨む。
「誰がいつ貴族など気取りましたか。夢ノ咲署も遂に人がいなくなったのですか? こんな品性に欠けた男をHiMERUのところへ寄越すなんて」
「あんたみたいなのにはこんな奴で十分ってことっしょ?」
「……ああ、お使いくらいしか任せられる仕事がなかったのですね」
「我儘なお姫様のご機嫌取りなんか仕事には含まれてねェけどな」
側から見ればレベルの低い言い争いだ。燐音の頭には茨から告げられた「絶対に機嫌を損ねないように」という忠告が過ってはいいたものの、どうにもここで引くのは癪でつい言い返してしまう。そもそも最初にふっかけてきたのはHiMERUの方だし。
HiMERUは燐音をジロリと睨め付け、燐音も負けじと睨み返す。こんな状態で協力など仰げるのかと若干の不安も擡げてきたところでHiMERUは苦々しく口を歪めながら言った。
「……天城とか言いましたか。腹の立つ物言いをする男ですね。それが人にものを頼む態度――」
「失礼します、コーヒーをお持ちいたしました」
そこへ、険悪な空気に割って入るかのように先程の老人がコーヒーカップとケーキを持って部屋に戻ってきた。未だ入り口の前で突っ立ったままHiMERUと睨み合っている燐音に目を見張りつつ、スマートな仕草でテーブルの方へと促す。
「……」
HiMERUにじっとりとした目で見られているので気まずくはあるが、椅子を引いて待つ老人から有無を言わせぬ圧を感じて、仕方なくHiMERUの対面に座った。老人は燐音の着席を確認すると、二人の前にコーヒーと燐音の買ってきたケーキを並べていく。
「天城様からのお差し入れの和栗のモンブランと、コーヒーは夢見鳥のオリジナルブレンドです。ケーキに合わせて、アラビカ種を使用したものを。栗の甘さとコーヒーの芳醇な香りが調和してまろやかな味わいをお楽しみいただけるかと。どうぞごゆっくり」
そうして一礼すると、老人はさっさと部屋から去って行った。
「……」
「……」
お互いに相手を言い負かしてやろうとムキになっていたところを突然中断されて、なんとなく気が削がれてしまった。燐音がHiMERUの様子をチラリと見やると、相手もどうやら同じ気持ちらしく、気まずそうにしながらもコーヒーに口をつける。そして、高い食器にありがちなやたら小さいフォークに手を伸ばすと、皿に載った大きなモンブランに視線を移しながら言った。
「……まぁ、せっかくですし、いただきます」
細い指がモンブランを一口分掬い上げ、ゆっくりと口へと運んでいく。その様子に倣い燐音も一口。
「うまっ」
食べた瞬間思わず声が漏れた。渋皮が入ったクリームは甘過ぎずも栗の風味が濃厚で、舌に乗せた途端ゆっくりと溶けて口の中に広がっていく。モンブランなんかスーパーの二個入りのものくらいしか食べたことがなかったので、クリーム自体からちゃんと栗の味がすることにすら驚いてしまった。
一方のHiMERUはと言うと、食べてはいるものの燐音ほど感激した様子はない。それどころか、何口目かを掬った時には文句と言える言葉を溢している。
「美味しいのですけど……なんだか、食べ慣れた味なのですよね。冬の新作なのだとは思いますが、味が想像できると言うか、特別美味しいわけでもないと言うか……去年食べた栗のタルトと同じ味がします。目新しさがないのです」
「お前なァ……」
呆れた物言いだとは思ったが、甘いもの効果もあってか、先程のように言い争いに発展することはなかった。ひと息ついて互いに冷静になったことも要因の一つだろう。
ケーキを咀嚼してはコーヒーを楽しむHiMERUを眺めること数分、燐音は自分の分を食べ終えたところで、本来の目的を思い出す。
「っつーか、お茶しに来たわけじゃねェのよ俺っち。あんた、事件解決に協力してくれる気あンの? ……いや、なんか、ほんとに大丈夫かこいつって気もしてンだけどよ……」
警察に対して平気で喧嘩を売る、高級スイーツを手土産に献上させる、その名が本名がどうかも怪しい若い男――。そんな相手疑って当然だと思うのだが、HiMERUは燐音の言葉が心外な様子であった。
「失礼ですね。HiMERUはそちらの副署長の懇願を受けて何度も難事件解決に協力しているのですよ」
「懇願……ね」
「疑うのでしたら、今あなたが行き詰まっている事件とやらについて聞かせて下さい。……まぁ、ケーキもいただいてしまったことですし」
どうやら手土産のケーキは一種の報酬のようなものらしい。ケーキ一つで買収できることにも一層疑念が強まったような気がするが、漸く事件の話を聞いてくれる気になったようなので、燐音もこれ以上余計なことは言わずにこれまでの捜査で得た情報を話し始める。
「事件があったのは二週間前。湖のほとりで起きた変死事件だ」
「二週間前と言うと……あの雪の日ですか。珍しく平地でも積もって、郊外などはこの辺りにしてはかなりの大雪だったようですね」
「そ。その郊外辺りでワカサギ釣りやってる夫婦んとこの倉庫で、所謂……言い方悪いかもしんねェけど、浮浪者風の男が死んでいた」
腕を組んで聞いていたHiMERUは、思い出したように頷く。
「そんなニュースがありましたね。あそこも夢ノ咲署の管轄だったのですね」
「無駄に広いからなァ」
「事故と事件の両面で捜査と言っていましたが……二週間も経ったのにまだ解決していなかったのですか? 少々のんびりしすぎなのでは」
「いちいち腹立つな……」
気に障りはするが、多少の嫌味は我慢しなければ話が進まない。燐音は現場に駆けつけた時の様子を詳細に語った――。
続く