『Kalanchoe』時任黒乃は、日暮茜にとって"不変の象徴"のような存在だと思う。
「コンニチハー」
久方ぶりのオフ、特に理由なく気まぐれにアカネ・クロノ宅の戸を叩いた。雑談ついでに昼食をご馳走になれたらラッキー程度の気持ちだ。
日に日にこのマンションに入り浸る率が高まっている自覚はあるが、時間ができるとつい足が向いてしまう。まぁ他でもない家主の片割れから"いつでもメシ食いに来いよ"と許可は得ていることだし、嫌な顔をされない限りは甘えさせてもらおうと思っている。
「ようマシロ」
「……おっと」
「なんだよ。出迎えが俺じゃ不満?」
「まさか」
インターホンを押すと応答したのはアカネだった。部屋に上がっても見当たらないもう一人はどこに行ったのかと尋ねると、午前中から買い出しに出掛けたという。現在デスクワークの真っ最中で暫く相手ができそうにないと眉を寄せるアカネに気にするなと手を振って、買っておいた酒とつまみを冷蔵庫にしまい込んだ。無意味に時間を浪費するのは嫌いだが、この家は居心地がいいから特別苦にならない。アカネが仕事を終えるかクロノが帰宅するまで適当に時間を潰せばいいだけだ。
「……どーした?」
「ここでやる」
「え」
「邪魔なら部屋戻るから言えよ」
「いや、俺はいーけど……」
放っておくのが忍びなかったのか、アカネはわざわざ自室からノーパソを持ち出して俺のいるリビングで仕事をしだした。基本なんとかなるだろ精神のくせにこういう所は妙に細やかだから調子が狂ってしまう。
……なるべく静かにしておこう。アカネの集中力をもってすれば周りがうるさかろうが関係ないかもしれないが。スマホをタップする指を意識的にソフトタッチに切り替えた。
「見て。クロノみたいな花あった」
それから一時間ほど経った頃、キーボードを叩く音がピタリと止んだ。室内に静寂が戻りパソコンに向かう背中が一息ついたのを見計らって声をかける。体を解すようにぐっと伸びをした格好のまま振り返ったアカネは、スマホを覗き込んで不思議そうに首を傾げた。
「……なんでクロノ?」
言いたいことはわかる。画面に表示されている花……"カランコエ"は赤、黄、白、ピンクといった小さな花を咲かせる多肉植物だ。見た目も可愛らしく、一見クロノとは何の共通点もないように思える。
「下に書いてあるやつ」
「花言葉?」
「そ。ピッタリじゃない?」
この言い方だと少し語弊があるかもしれない。正確には"アカネにとっての"クロノだ。幾つかある花言葉のうち一つか二つ、或いはその全て……どこかしらに思い当たる節があったのだろう。文字を追っていたアカネの目元がふ、とやわらいだ。
昔から居場所が定まらなかったのはアカネもなのかもしれない。
ポロポロとメンバーの身の上話を聞くようになった最近、そう思うようになった。だからこそ幼少期から傍にいるクロノの存在は大きいのだろうとも。この二人にとっての一番の転換期は、ルビアからルビレにメンバーを再編成した時だろうか。
"日暮茜がつくるバンドならギタリストは時任黒乃"
ベーシストの俺でさえそう思うのだからアカネの中でこれは絶対の事実だろう。
だが、恐らく。どれだけ必要としていても、意志を曲げてまで自分の傍にいてほしいとは思っていないはずだ。たった一言"やれ"と言えばクロノは何の躊躇もなく従うだろうが……それをやらないのが日暮茜だ。
それでもアイツは変わらず隣に居続けた。誰に言われるでもなく、自らの意思で。
クロノにとってのアカネがそうであるように、アカネにとってのクロノも特別な存在。
俺もハイジもそれを痛いほど理解している。でなければわざわざあんなお節介を焼いたりしない。
「お前、花言葉とか気にするタチだっけ?」
「いや?」
「じゃあなんで」
「最近調べるようになったの」
「最近?」
「誰かさん達が俺のために選んでくれたから」
少しの間を置いて"……あぁ。あれか"と懐かしそうに目を細める。
約一年前に発売したアルバム『Trigger』。撮影時にこれを持てと持たされたから抱えただけのそれが、実はアカネ・クロノ・ハイジが直々に選んだ花だったと知ったのは、言われなければ気づきもしなかった自分の誕生日だった。
あの日、帰宅後にこっそりとペチュニアの花言葉を調べたのは俺だけの秘密だ。
「なんか乙女みてーだな」
「先にやったのアカネちゃんでしょ?」
「そりゃ意識するだろ。他でもないお前に持たせるんだから」
なんでもないようにサラリと言われて押し黙る。前々から思っていたがコイツはこういう言い回ししかできないのだろうか。聞いているこっちがむず痒くなってくる。耳にほんのり熱が宿るのを感じて、誤魔化すようにいつもの調子で茶化した。
「付き合いたてのカップルじゃないんだから」
「……確かに?」
「待って。今の否定するとこ」
「距離感的にはそんなもんだろ」
「うわ雑ゥ……」
勘弁してよという言葉とは裏腹に、あまり悪い気がしていないあたり人のことは言えない。表立って同意してやらないのはせめてもの意地だ。どうせバレているのだから隠さなくてもいいのにと言われても、これだけは譲れない。
頑張って振られないようにしねーとなと笑うアカネに内心こっちのセリフだと毒づいた。
まだスタートラインにすら立っていなかった三年前。焦りなどおくびにも出さず、その実己の全てを賭けて必死にお前を口説いたのは俺の方なのだから。