『rainy day special』「……いつの間に降り出したんだろ」
ある日の仕事帰り。自主練のために寄ったスタジオを出ると、目の前が霞むほどの大雨が地面を叩きつけていた。練習に没頭していたせいか室内にいる時は気づかなかったが、周囲の音をかき消してしまうほどの強さだ。数メートル先の視界も危ういこの状況では、屋根の下から出ていくだけでもかなりの勇気がいる。だが、今日はこれから帰って夕食の支度をしなくてはならない。同居人の帰宅時間を考えると、いつまでも二の足を踏んでいる暇はなかった。
「行くしかないか」
今日は終日曇り予報だったが、万が一に備えて傘は持ってきていた。最寄り駅までは五分もかからない距離。行き慣れた道だし、この雨でもなんとか辿り着けるだろう。
「よし」と気合を入れて歩き出そうとしたとき、それを制止するようにピリリとスマホが音を立てた。取り出そうとポケットを探るが、三コールもしないうちに着信は切れ、間違い電話だったのかと首を傾げる。すると、今度はすぐ近くでクラクションが二度鳴った。反射的に顔を上げると、目の前には見慣れたレクサスが停車していて、あっと声をあげる。
「クロノさん!?」
「突然悪い。ひとまず乗ってくれるか」
「は、はいっ」
どうしてここにいるのか。なぜ僕の居場所がわかったのか。
聞きたいことは山ほどあったが、いつまでもぼーっと突っ立っているわけにはいかない。開きかけた傘を閉じ足早に車に乗り込むと、外との繋がりが遮断され、耳をつんざくような雨音が少しだけ和らいだ。
「すげー雨だな。平気か?」
「アカネさん!」
「さっきぶり。電話、さっさと切っちまって悪かったな。ちょうどハイジが見えたからさ」
「さっきの着信……」
「そ。俺」
この場所がわかったのはほんの偶然。仕事帰りに寄るとしたらここではないかと来てみたところ、エントランスで途方に暮れる僕を見つけたという。プライベートで利用するスタジオなど伝えたことはないはずなのに、本当にメンバーのことをよく見ていると改めて感心する。"それで、迎えに来た理由なんだけど"とアカネさんが口火を切った。
「これから一緒に飯食わね?」
「えっ」
「巌原さん、今日は残業で帰れないんだそうだ」
「明日オフだから夜更かししても平気だし。もちろん、ハイジがよければだけど」
……そっか。だから、わざわざ。
伝言を伝えるだけでもいいはずなのに、一緒に過ごそうと誘ってくれたことが嬉しくて、胸の奥がじわりと温かくなる。「是非お願いします」とはにかみながら言うと、アカネさんは満足そうに頷いて、「そうと決まればマシロにも声かけねーとな」と口角を上げた。
「俺が連絡します」
「頼む」
「起きてるといいんですけど……」
「五分五分だな」
数回のコール音の後、"……はい"と普段より幾分低い声が聞こえてきた。やはり休んでいたのだろう。先程と同じようにクロノさんが食事の件を伝えると、少しの間を置いて"えぇー?"と躊躇うような答えが返ってくる。もったいぶるとき、マシロさんはよくこういう声を出す。本気でない証拠だが、何事も真面目に受け止めるのがクロノさんの人柄だ。
「嫌なら来なくていい」
「嫌とは言ってねーだろっ!」
「じゃあなんだ」
ルビレのドラマーになってから、もう何十回と見てきたやり取りに苦笑する。二人の関係性を知らない人からすれば喧嘩をしているように見えるかもしれないが、その実本気の口論になったことは片手で数えられる程度だ。最近は言い合いをすることすら稀だが、一度ヒートアップするとどちらも譲ろうとしないため、アカネさんか僕が間に入って区切りをつけるのが常である。
「マンションまで迎えに行ってやるから安心しろよ」
「ホント?じゃあすぐ支度するわ~」
「まったく……」
あっさり手のひらを返したマシロさんは、"着いたら連絡して"と軽い調子で言い切り、通話を切った。素直じゃねーなと全てお見通しなアカネさん。ブツブツ文句を言うクロノさん。それを宥める僕を乗せて、車は走りだす。ここにマシロさんが加われば、またいつもの様に騒がしく楽しい時間が流れるだろう。
僕にとって雨は一長一短。一生の思い出になることもあれば、ついていなくて散々な目に合うこともある。
だが、たとえそういう日があったとしても、この人達といる限り記憶は美しく上書きされていく。これは予感ではなく確信だ。ルビレのハイジとして過ごしてきた年月と、自分を包む高揚感が、それを証明している。