『静観の美学』「どうやら俺は、人の目には冷たく映るらしい」
呟くと、隣に立つ楓の視線が頬に刺さるのを感じた。
いきなりなんだと驚いたことだろう。当然だ、あまりにも脈絡がなさすぎる。返答を期待してのことではなかった。ただ口の端から零れ落ちた些末な"ぼやき"に過ぎない。
けれど、それを単なる独り言として片付けないのがうちの次男のよく出来たところで。
「なぜ、そんな事を?」
「取引先の役員に言われたよ」
正確には"元"取引先だ。つい先ほど契約打ち切りの旨を伝えたばかりだった。
『あなたは冷たい御人だ。お父上なら、もっと温情をかけた判断をしてくださっただろう』
膝に置いたふたつの拳をぶるぶる震わせながら、絞り出すようにして吐きだされた言葉が耳について離れない。
"己が関わる相手には敬意をもって接する"
それはいわば日暮家の家訓であり、また同時に社訓のようなものだった。日暮グループが国を代表する企業であることは疑いようのない事実……が、どれだけ立派な大樹であろうと根が腐れば枝葉を広げることは出来ない。それと同じことだ。
──だが、それはあくまで相手がこちら側に不利益をもたらさなければの話。
契約打ち切りの詳細については割愛するが、大まかな理由としては先方が重大なコンプライアンス違反を犯したのが原因だ。それも自社の社員に対するハラスメントときている。このご時世、そういった事例は極めて外聞が悪い。何より日暮グループの取引相手として相応しくない。古くから付き合いのある会社だ、業務に支障がでた程度であればこちらでカバーすることも考えたが……流石に看過できなかった。
「お前の判断は正しい」
そう父のお墨付きももらった。けれど俺が引っかかっているのはそこではない。単に物事の正否の話ではなくて。
「……こんなだから、上手くやれないんだろうな」
乾いた笑いがでた。CEOという立場上こんなことは日常茶飯事だというのに、なぜ今日に限ってこうも後ろ髪を引かれるのだろう。
頭に浮かぶのはきっと我が家で最も情に厚く、簡単に切り捨てることを良しとしない末っ子の顔だった。
年の離れた弟は特に可愛く感じるものらしい。
俺にとっては二つ下の楓も七つ下の茜も等しく愛しい存在だからあまりピンとこなかったが、確かに生まれて間もない茜を腕に抱いた時の気持ちは、他のどんな種類の感情よりも一等特別なものだったように思う。
「茜はお前によく懐いているな」
言うと、六回目の誕生日を迎えたばかりの黒乃は恐縮したように頭を垂れた。頭にのせた少し歪な花冠がなんとも微笑ましい。
聞けばバースデープレゼントにと茜が贈ったものらしく……庭を彩る多種多様な花々から黒乃に似合うものを選定し、手ずから摘み、母に教えを乞うてようやく形にしたのだという。大人にとっては造作のないことでも今の茜の年齢を考えれば相当な時間を要したはず。
かけた手間暇の分だけそこには愛情がこめられている。茜の黒乃に対する想いの大きさを目の当たりにしてふ、と頬が緩んだ。
「手を焼くこともあるだろうが、これからもよくしてやってくれ」
「……はい!もちろんです!」
覚悟を宿した強い瞳にふ、と笑みがこぼれる。なんとも心強い。血の繋がりこそないものの、俺なんかよりよほど実の兄らしいと思った。
ふと前方から視線を感じて顔を上げると、数メートル先で花を摘む茜がジッとこちらを見つめていた。徐ろに手を振ると、プイッとそっぽをむいて背中を向けてしまう。
「はは。すっかり嫌われてしまったな」
「茜さん、」
「いや、いいんだ」
自業自得なのはわかっていた。黒乃のように傍にいてやることはできない。楓のように音楽の話ができるわけでもない。
常日頃まったくと言っていいほど接点のない俺に、茜が懐く理由は見つからなかった。
応えはかけた愛情の分しか得られない。普段目を掛けることもしないくせに無条件で「好かれたい」などと……それは、傲慢というものだ。
「……さて。俺はそろそろ戻るよ」
「ッ、帝さん!」
立ち上がろうとした俺を、黒乃の強い声が制した。
「今、お手伝いさんがお茶を淹れてくれているところなんです。茜さんが好きなクッキーと一緒に……あと数分もしないでここにやって来ると思います」
"だからせめて、それだけでも一緒に"
祈るような視線からそっと目を逸らした。
「すまない。そうしたいのは山々なんだが……生憎予定が立て込んでいてな」
「……そうですか」
俯いた黒乃にもう一度すまないと伝えると、"いえ。お引き留めして申し訳ありません"と年にそぐわないしっかりとした言葉が返ってくる。
……俺は、こんな幼い子にまで気を遣わせてしまっている。
宥めるようにそっと黒乃の頭を撫でると、突然下半身に軽い衝撃が走った。
「……茜?」
振り返ると赤い旋毛が目に入る。
俺の足に顔を埋めているから表情までは読み取れないが、小さな花束をぎゅっと握りしめていた。先ほど一生懸命花を摘んでいたのはこのためだったのかと合点がいって、しゃがみ込んで視線を合わせる。
「どうした?黒乃なら向こうに、」
「あげる」
「……え」
ほんの一瞬、視線が交差した。
半ば押しつけるようにして握らされたそれは俺の手をすり抜けて一本、二本と地面に落ちる。それくらい腕いっぱいに抱えていたということだろう。
茜は俺に近寄りたがらない。俺以上に心を許している人間は他に沢山いる。
それでも、俺を"仲間外れ"にしたことはなかった。ただの一度も。
「帝。その可愛らしい花束は、一体誰からの贈りものなんだ?」
「……あ。これは」
"子供はすぐに大きくなるから目を離してはダメよ。見守るの。一分一秒も側を離れずに……そう、ずっとね"
昔、母が言っていた言葉が頭の中で木霊する。
"一分一秒も目を離さない"なんてそんなの無理だと思った。俺には時間が無さすぎる。
日暮家の跡取りとして相応しい人間になる。
この家の長男として生を受けた自分のそれは言わば宿命だ。
その為に必要なことは何でもする。それ以上に優先するべきことなど何もない。理解していたし、それでよかった。
……けれど。もし時間が有限でなかったら、と心の片隅で望んでいたことは事実だ。
だって時間があればもっと楓や茜の側にいてやれる。守ってやれる。誰に頼るわけでもなく、自分自身の手で。
"俺はお前の兄ちゃんなんだから"
そう胸を張って言える日はくるだろうか。側にいられないのなら、せめて。
「……茜に。茜に、もらいました」
噛みしめるようにその名を呼んだ。愛しい愛しい、弟の名を。
そんなこともあったなと思い出に耽っていると、隣でふ、と小さく笑う気配がした。
「……楓?」
「"冷たい"だなんて。それはお前をよく知らない人間が言うことだ」
「……」
「茜のことを言うのであれば、"離れて見守る"というのもまたひとつの愛だろ?」
俺は好きだよ、そういう形も。
銀縁の奥で母譲りの、兄弟三人に与えられた揃いの金色がゆるりと弧を描く。
「なにより。帝以上に"弟バカ"な兄を俺は知らない」
"仕事放り出して無人島にまで行くくらいだし?"と今度は少々耳の痛いセリフが飛んできた。
「"放り出す"だなんて人聞きが悪い。書類仕事なら消える前にきちんと終わらせていくだろう?」
「最低限だけどな」
「周りに押し付けないぶん父さんよりマシさ」
「はは、確かに」
昔も今も、俺に出来るのはただ精進することだけだ。
楓の、茜の……愛しい弟たち二人の"自慢の兄"になるために。
「そういえば例の新しいジェット機はどうするんだ?」
「どう、とは?」
「ヘリみたいに"AKANE"の文字をいれるか迷ってるって言ってただろ」
「それなんだが……いっそ顔写真をプリントするというのはどうだろう?」
「アカネの写真をか?流石に引かれ……待てよ。どうせならアカネだけじゃなくてルビレ全員っていうのはどうだ?」
「ルビレの?」
「無人島の件があったばかりだし、いい宣伝になるだろ。お互いに」
「……名案だ!流石は俺の右腕」
「早速ディグプロにアポをとるよ。スケジュールはこっちで勝手に調整するが構わないか?」
「あぁ、お前に任せる」
「了解」