誰かのための君のまま「先生、ただいま戻りました!」
「おかえりなさいセイジ」
鍵を持たせているのにセイジは律儀にベルを鳴らして、ロビンが迎えるまで待つ。息を切らして、如何にも急いで走ってきたという様子の子供が扉の前に立っていて、ロビンはいつも思わず笑ってしまうのだ。
「そんなに慌てて来ずとも、家も僕も逃げませんよ」
ロビンがそう言って招き入れれば、セイジは玄関先で靴底の汚れを落としながらもごもごとした。
「……先生は、僕と早く会いたくなかったですか?」
自分だけ必死みたいで恥ずかしいです、とセイジがむくれるのが可愛くて、ロビンは膨らんだ頬を指でむにとしぼませながら、僕も会いたかったですよと微笑んで見せた。
毎時毎秒会いたいに決まっている。彼のためにならないので我慢しているだけで、ロビンの人生にセイジは必要不可欠なのだから。重いので、伝えずに秘めておくけれども。
週末、アカデミーの授業が終わればその足でセイジはロビンの家へ帰っている。最初のうちは居を置いている寮に一旦戻り、支度をしてから向かっていたが、その時間も惜しいらしい。最近では小さく纏めた荷物を教室へ持ち込み、授業終了と同時に駆け出すそうだ。挨拶だけ残して風のように出ていくから学友に驚かれると、夕飯を食べながらセイジが楽しそうに話した。
「もう。あまり急ぎすぎて怪我したりしないでくださいね」
「えへへ……でも、アカデミー前からこちらへ向かうバスって意外と間隔が空いていて、急いだおかげで一本早い便に乗れて、こうして夕飯のお手伝いが出来る時間に来られるんです!」
「勉強で疲れている中こうして帰ってくるんですから、ゆっくり休んでいていいのに」
「僕が手伝いたいんです。それに、先生と一緒にいる時間……少しでも長くしたいので」
健気さにぐっとなる。子供の小さな口から素直に紡がれる甘えと寂しさ。この家で、ロビンとセイジ二人きりで暮らしていけたなら、こんな寂しい気持ちをお互い感じずに済むのに。でもそれがきわめて不健全であることをロビンは知っている。小さな世界に閉じ込めるべきでない。だからロビンは海の底からセイジを攫ったのだ。
外を見て、知って、狭い箱庭になど戻らなければいい。心からそう願っている。ロビンだけのセイジでいてほしい、と思う独占欲とそれは、しばしば同居しては胸を締め付けたが。
「……ありがとうございます、セイジ。僕も君と長く過ごせるのが嬉しいです」
こんなふうに言えば、来週末のセイジはもっと全力疾走してさらに早いバスに乗ろうとするかもしれない。けれどもこれはロビンの本心だ。
ぱあっと笑って、えへへえへへとチーズリゾットをつつくセイジ。可愛かった。
次の週末。セイジが家に帰ってくるのは少し遅かった。アカデミーや寮ではさまざまなイレギュラーが起こり得るだろう。呼び出し、学友との談笑。これまでが急ぎすぎであった。
ただ心配ではあったので、夕飯の時間調整を理由にしてメッセージを送っておいた。ベルがなったのはそれから間もなくのことだ。
「……セイジ?」
扉を開けたのに、開いたことに気づいていないセイジはどこかぼうっとして、ロビンの声でようやく我に返ったようであった。
「……あっ。す、すみません考え事をしてて! ただいま戻りました!」
「はい、おかえりなさい。どうぞ中へ」
ロビンに導かれていつも通り、玄関先で靴の汚れを落とすセイジ。どこか動きが鈍いのを、ロビンは見逃さなかった。
けれど、今ではない気がした。
夕飯の手伝いをしようとエプロンを手に取るセイジであったが、キッチンの様子を見て意味のないことだと悟ったらしい。己の遅刻を小さく謝る子供がとても哀しげで、ロビンは料理をよそうのを任せた。
「いい匂い……先生のクリームシチュー好きです、じゃがいもも人参も柔らかく煮込まれてるのに全然煮崩れしてなくて」
「ふふ、褒めてもなんにも……出ますよ」
「えっ?」
「今日はチョコレートプリンが冷蔵庫でセイジを待ってます」
アップルパイがいっとう好きではあるが、セイジは甘いものならたいてい好んで食べる。あまり登場頻度の多くないデザートが冷えていると聞き、彼の目がきらきらと輝いた。
「……安心しました」
ロビンの呟きに、セイジがぴたりと動きを止める。
「君が、つらそうな表情でしたので」
「……」
「誰かに話して楽になることであれば、話してもらえますか? 君にも事情があるでしょうし、無理にとは言いませんが」
「…………先生」
スプーンを置いたセイジは、泣きそうな顔をしていた。
寮の同室は気の良い青年である。交友関係が広く、よく学友らと放課後遊びに出る約束をしている。怠けているわけではなく成績も決して悪くない。少し奥手なセイジにもよく話しかけてくれるし、他愛のない話や、一緒にダウンロードしたアプリゲームを夜更かしして遊ぶこともあった。
今週始め、彼が寒気を訴えることがあった。風邪かなとしょんぼりした様子の彼の肩。なにか違和感を覚えたセイジは、数珠を付けた方の手で二度三度、そこを払った。
「んえっなになに? ……あれ、寒気治まったかも? なんで?」
不思議そうに首を傾げる青年。セイジは彼に心を許していたから、笑って、いつもの他愛ない話のように伝えた。
「霊が纏わりついてたみたい」
その後、「夜にどこか変なところへは行かない方がいい」「ホラー動画を見るのはほどほどに」など、セイジとしては良かれと思って忠告をした。同じ部屋で楽しく過ごせる学友。心を許していたのだ。
だから青年の引き攣った愛想笑いに気づくことが出来なかった。
「僕、今日放課後に先生に呼ばれて……その子が部屋の移動を願い出てたって聞かされて……嘘だと思って部屋に帰ったら、荷物ぜんぶ、なくって」
「……そうでしたか」
「気持ち悪がられるから霊障のこと黙っておかなきゃって、僕分かってたのに、友達が出来て嬉しくって、助けになれたのが誇らしくて……浮かれて……あはは、馬鹿ですよね」
「馬鹿じゃないですよ」
「馬鹿ですよ……」
「いいえ」
ロビンにしては強い否定。セイジは思わず俯き顔を上げた。平時は見えないロビンの瞳が、真摯な色でセイジを見つめている。
「霊に憑かれれば、耐性のない者は無事では済まない。悪寒で済んだのは君が追い払ってあげたからですよ。君は、自分が日頃つらいと思っていることを、他の人に味わわせたくなかったのではないですか?」
死者を感じ取ること、気に入られてしまうこと、生者にとってそれが著しく負担になることをセイジは知っている。そして青年が最近ホラー動画にはまって、数人の友と廃墟に足を踏み入れていることにも気づいていた。同室で電話しているのだ、どうしたって盗み聞きしてしまう。
「ただ……ただ、彼が心配で、忠告してあげたんでしょう。君は。誇らしいのも浮かれていたのも事実かもしれませんが……セイジ、自分の善意を恥じないで」
君が彼を助けたことは、紛れもなく事実ですよ。そう告げて、ロビンがセイジの髪を撫でた。食卓を挟んでは届きにくいだろうに、それでもふわりと、何度も撫でてくれるロビン。
「…………っう……」
そのあたたかさにセイジはぼろぼろと涙を零した。そうしてようやく、自分は一人の友を救えたのだと納得することが出来た。たとえ、もう仲良くは出来ずとも。
泣き止んだあとにシチューを食べ始め、セイジは少ししょっぱいと笑っていた。ロビンには少し苦かった。
セイジに笑って生きてほしいのに、世界はときに残酷である。ヒーローであっても保護者であっても、子供のコミュニティの輪にロビンがしゃしゃり出てはいけない。余計な軋轢を生むもとだ。
どんなに守ってやりたくても、セイジをロビンがいなくては生きていけない人間にしてはならない。自分は、セイジがいないと生きてはいけなくとも。だからロビンは、セイジが笑って、ときに泣いて帰ってくるときに包みこんでやれる場所でいたいと強く思うのだ。優しく傷つきやすいセイジが、いつか共に笑える誰か一人を選ぶ日までは。
ごめんな。
流れで一人部屋になってしまった数日後、青年からセイジへメッセージが届いた。助けてもらったくせに逃げるように出ていったことに対する謝罪。それから、やはりセイジのことが怖いことが素直に綴られていた。けれど、他の生徒らに言ったりしないと続けられていた。
「言われたとおりもう廃墟には行かない」「ホラーより猫の動画漁ることにする。実家が猫飼い始めたらしくて写真すげー送ってくるのにオレは触りに行けないの悔しいから動画で摂取する」と、セイジの忠告を守る旨も書かれていて。この寮室で談笑していたときと変わらぬ剽軽さに、セイジは思わずくすりと笑った。
「よし、返事送ろっと」
友人を作るのは、体質上セイジにはきっと難しいのだと思う。黙っていればいいけれど、こうして霊的なトラブルがあったときに、セイジは自身の秘密など後回しに誰かを助けるのだろう。その影響でまた人と距離が生まれても、助けたことを後悔する自分ではいたくなかった。寂しくはある、けれど。
「……先生に支えてもらってるおかげかも」
そんなセイジでいいと、励まし寄り添ってくれる人がいる。自分を恥じるなと言って撫でてくれたこと、真摯な色の瞳、きっとずっと覚えている。
「……チョコプリン、またリクエストしちゃおうかな」
あと、デザートの美味しさも。