Triumph of Cherry Blossom 桜の凱旋
桜が咲いて散って、はらりはらりと舞い降りる。
咲くが盛りか、散るが極みか。侍の心を持った男が深々と下げた頭を扇片手に身を起こす様は、喧騒を好む海の荒くれ者達でさえ息飲む美しさである。
父は白ひげ唯一人、主君は光月おでん唯一人。だからこそ黒地絹の紋服の左胸には光月紋、本来の利腕側である右胸には白ひげの証を染め抜いて。
白足袋、右手に翳す舞扇。
左手の袖口を小指から中指まで揃えて抑えては、三味線がチントンシャン。太鼓が追いかけ鼓を拾い、鮮やかに色を付けていく。ワノ国花柳流の祝いの時にだけ特別に舞われる"素踊り"を見られる機会は、そうはない。大金を出してでも同席出来るならばと願い出る輩は大勢居ても、金で首を振る者が生憎一人もいないのだ。
─── 比べこし振り分け髪の筒井筒…、
人間産まれて這っての幼い頃より成長と、育ち切って今、一人地に脚で立って生きていく寿ぎと朗々と歌い上げる十六番隊の面々は、皆がイゾウを隊長であり、踊り手であり、そして侍であることを理解して慕っている。宴の膳を前にして、海域、気候遥かに春霞。
座したサッチの掌は自然と自分の左胸に置かれる。
今、家に帰って来た。
呼吸ひとつに、実感していた。
✳︎
ここは偉大なる海の後半、新世界サクラセボン海峡───。
万年季節通して常春の双子島、ミガツとシゲツの陸地と陸地に挟まれた知られざる名所である。
海峡、という海戦における追われる側にとっての悪地ではあるが、ミガツ島もシゲツ島も血縁に当たる島主は白ひげとも親交があった為、海の上で美しく咲き誇る春の景色を楽しむことができる一種の"保養地"のようなものでもあった。
「グララララ!そうか、マクガイは後から顔を出すとは言ってたが…散々世話になったってのに、この花の見事さを見せてやれねェのは残念だな…」
「秋島の一番美しい紅葉と共に、お目に掛かるとのことでありました!万が一にでも、今回の合流が海軍に邪魔されることのないように…うぅ…自分、感動して前が見えません!!本当に!!」
傘下と直下と、そこに違いはなく。家族の顔を久々に見られるかと思ったと気落ちの小さな溜息を落とす白ひげに直立で敬礼したままヤブサカは熱い涙を滝のように流す。ゴーグルの中に溜まっていくからだと、横から膝で突っつくサッチの助け舟がなければ、果たしてゴーグルの役目が何だったのか問い掛け直す必要があっただろう。
熱涙のヤブサカ、懸賞金7900万ベリー。
この男、サッチと共に強くなることを選んだ結果として、賞金首としての二つ名を呼ばれるようになっていた。料理人にして、賞金首。この海では珍しくはない、土台は海賊なのだ。サッチから言わせれば、自分の単純にして明快、かつ被りがどうしても生まれそうな双剣という二つ名よりも良い通り名である気がしたが、それはそれだ。
五年の歳月を経てサッチ達は今、モビーディックに戻って来たのである。
「オヤジへの挨拶が終わったならこっちだろ!!おうおうサッチよォ!一丁前に髭なんか生やしやがって、おれの真似か!?おれへの憧れか!?」
晴天、桜の花弁止まず降り注ぐ甲板で最初にチョークスリーパーをかましたのはラクヨウであり、それに笑顔で続いたのがビスタならドミノ倒しで馴染みの家族達がサッチを、ヤブサカを囲い込んでは思い思いに男兄弟の手荒さで再会を喜び合っていた。
「なんだよ薄情者、師匠ン所から五年も顔出さねぇなんてステファンも顔を忘れちまったよなぁ、そら行け!齧っていいぞ!!あとその腰の刀見せろ!」
「わふん!!!」
「領海がそんなに近くないんだし、大体修行の身で度々帰ってたら様にならねェでしょうがって…ステファン待って待って待っ……っふべし!!お前、大きくなって…、首持ってかれるかと!」
「おかえり、サッチ、ヤブサカ。大きくなって…ねぇ、ほらサッチなんてこんなにか細かったのに…他のバカ達みたいに、筋肉が全てだなんて思ってないと良いけれど」
「ホワイティ・ベイ殿!!労いのお言葉ありがとうございます!しかし自分の筋肉はまだまだ発展途上であれば、益々これから磨きを掛けていかねばと思う所存でもあります!!」
変わらずの氷の美貌で、小さかった細かったと親指と人差し指で示すホワイティ・ベイ。認識がサッチを小人と認識していたなら別だが、返すヤブサカがサイドチェストにポージングしながらの言葉も、大分間違った方向に振り切っている。
「ヘイヘイヘイ!どうした、おれ達の肉体美が何だって?」
「今筋肉の話したか?」
「ベイも今からでも遅くない、筋肉で守る仲間…良いぜ?」
「間に合ってるから結構よ」
と、宴の席のどこからともなくわらわらと。
ダブルバイセップスやらラットスプレッドやら筋肉が見るが良いとばかりに諸肌脱ぎでポージングを決めてくる兄弟達に対して、皆の姉の一蹴の鋭さと筋肉のキレとどちらが優っているのか。
白ひげからは労いと期待の言葉を。
料理長であるイササカからは、こちらは別件良い機会とばかりに料理の事柄について白ひげ傘下の料理人に情報、知識共有の仲介として現場における手ではなく文字通りの足としてこき使われ───もとい、散々五年間使ってもらっていたので、
「再会の喜び!!…の気がしないのは、はて?」
とのヤブサカの発言に、それだと指先を鳴らしたサッチも同罪扱いで等分に拳骨をもらっていた。
「馬鹿なこと言ってねェで、戻って来たなら厨房で仕事しやがれ。……ま、立ち位置が決まってからな」
これもまた、イササカの優しさである。
そう、自分達は海賊であり、戦闘員であり、料理人だ。譲った覚えも甘んじた覚えもなく、例えば大海を行く鯨が生き物にして哺乳類だというのと同じように海賊であり、料理人である。
「わふっ!わふ!」
「あ〜〜もう、デッカくお育ちあそばして、おまえは…もう仔犬じゃねぇな、立派だよ、ほんと」
勢い良く張り付いたモビーディックのマスコット犬ステファンが、顔面を舐め尽くした辺りで漸く満足して離してくれたは良い。くれたはいいが、再会を喜び合う仲に普通ならば一番言葉のあるべき存在がない。
当然だ。
「………………」
「あっ…、サッチさん!おれ、四番隊の者です。サッチさんが雷卿マクガイの世話になっている間にこの船に乗ったんで、覚えはないでしょうが…マルコ隊長なんですが、生憎一番隊を引き連れて遠征中でして…、」
「ん、なぁにおれそんなに寂しそうな顔してた?」
「いえ、盃を交わした義兄弟と聞いてたんで、心配じゃないかな…と。余計だったらすみません」
やれ刀だろ見せろの追い剥ぎ達や、ステファン口にするなばっちぃぞ、と散々な扱いで揉みくちゃにされ、どうにか兄弟達の輪から這い出たタイミングとしては若者からの声掛けはバッチリだった。膝を払って立ち上がり、改めて緑の瞳で見下ろすと心の中に諸々が見える。底にある船長への敬愛、自分への憧れとそれに伴う期待と諸々、見ないように戒めていたモノを探ってしまった罪悪感は大きい。
「ありがとなァ、おれも心配してたんだわ、実は」
「そう、ですか?」
「そうそう、まぁマルコなら何があっても基本大丈夫!って思ってるし、わざわざ教えてくれてありがとさん。名前は?仲良くやろうぜ、兄弟!」
当然だ。
そういったタイミングを見計らって、サッチが調整して帰って来たのだから。
「ちょっと、サッちゃん!あたし達の紹介は?いつまで壁の花やらせる気!?」
「あぁ、はいはいっと…いやロッサ達なら勝手に名乗り上げるかなァって様子見をしててさ、オヤジにはもう済んだろ?いや、案外まともだったなァ…」
好奇の視線にいつまで晒されていれば良いのかと、壁際より薔薇の棘に似た言葉が降ってくればへらりと笑ってサッチは頭を掻く。
「傘下とはいえ、ここモビーディック号よ。あんたは母船に戻って来たつもりでも、クルー達に混ざって勝手にやる程、命知らずじゃないわ」
「サッチさんは基本強いですけど、そういう時々背後から刺したくなるくらいの"後は任せた、信じてっから"精神良くないと思います…いつか誰かにやられます、闇夜にグサっと…主に私に」
「お前かよ!殺る気満々かよ!!───んぁ〜確かにでもその通りね、じゃエスコートしますよ、レディ方」
ついでに乱れた髪も手早く編み直しては、右手をくるりと一回転させて左手を胸に当て深々と頭を下げる。再度頭を上げた時、両手を和やかに差し出せば薔薇の棘も和らぎ、震える兎も落ち着きを取り戻す、手品の様に芝居掛かった仕草くらいで今日は丁度良い。
「そうだ、ビアンカちゃん…頼んでたタイミングの調整、マジで的確だった。……ありがとな」
そっと落とす様に囁けば、左手をしっかり握る乙女の頬は夕陽と得意げに合わさって淡く染まっていた。
✳︎
「さぁさぁ、今日から仲間に加わる花達の紹介だ!こちら、赤薔薇ご存知ブラッディ・ロッサ!!ロッソって言うなよォ…、ミチミチの実の能力者だ、身体のどっかしら破裂させたくなかったらロッサ様と跪いておいた方が身の為だぜ男子諸君!」
その青年にとって、サッチという男を実際に見ての第一印象は、"何考えてんのか分からない男"だった。
「そしてこちらは白薔薇、いててて…良いんだって、皆酔ってて耳遠いんだから…通信兵所属のビアンカちゃんだ、絶対に手を出すなよ、出したいヤツはおれはともかく、マクガイ船長倒してからだからな。諦めた方が良いぞ〜!」
話に聞いてきた限り熱血なんだか、現実主義なのか、ありがちな夢に向かって猪突猛進なヤツなのか、受ける印象も大分変わっていて掴み所がなくて。
掻い摘んで過去の話を聞こうにも、出てくるのが馬鹿話ばかりなのが悪かった。
青年の名前は、ハルタ。
✳︎
ハルタ。
この名前が本名なのかそれとも通称なのか、誰が付けたのかも知らないが生まれ育っていつの間にか自分を呼ぶ時に周囲の人間がそう三文字で呼んでいたから、すんなり受け入れていた。自我なんて、結局周りがどう認識しているかで芽生え方も捉え方も変わってくるものだと思う。南の海出身なのは間違いないだろう、でなければ別の海からわざわざ南の海に赤ん坊をサーカス団まで売りに来る手間を説明出来ないからだ。
こんな感じで、やたら理屈っぽく育ったのがハルタという少年である。
サーカス団出身、と言った方が正しいのかもしれない。だが、田舎の子供達を楽しませるならともかく、この世の中は既に悪魔の実を食べた能力者という吃驚人間が存在している上に、そんな歩く人間マジックショーのような存在が海賊としてのさばる時代である。
人間は、良くも悪くも慣れていく生き物だ。
何をどうサーカスの創設者が考え出したのかは知らないが、稼ぐ為にはより過激な演目で客を楽しませなければならない。経営者の発想としては正解だっただろうが、どうだ。
方向性がどんどん危険で表現するには非人道的なものに走って行った時、ハルタの中で何かがプッツンと切れてしまったのだ。
自分自身で決めた誕生日で、確かに八歳になった頃だった。
血塗れの中で喝采を受ける、少年剣士。見世物じゃない、と憤る自分と、見世物だった、と妙に冷静な自分とか心の調整を諦めてしまったのだ。消そう、と思った。サーカスを燃やそう、火を付けよう。残したらダメだ、可哀想だから、全てを燃やそう。頭の中で唯一、優しくしてくれたブランコ乗りの少年の顔が浮かんだが、記憶の最後に残る少年の顔は奇妙な形に曲がっていた。
─── そうだった、座長がステッキでなぐり続けたからだ。アイツは、なんで抵抗したんだっけ?
そうだ、思い出した。反吐が出そうな演目から、別の奴を逃がそうとしたからだ。光のない瞳で首を傾げてからハルタは首を戻す。右手には、サーベルを握り締めて、鎖を断ち切る為に傷付けた足から僅かに血の跡が連なるが、夜明けまでの辛抱だ。夜明けまでの命があれば良い。
─── やっぱりダメだ、燃やそう。燃やして、きれいに片付けて、おれも燃やしてもらおう。なるべく、周りを汚さないようなやり方で。
サーカスは旅をする。馬には罪がない、団員と、虐げられて見世物になってきた人間は違う。逃がそう、死んで当然なやつだけ、殺して。どうにかして逃がそう。残したらダメな人間だけ燃やして、あとは───、
「………へ?」
「え?」
メラメラと燃える団長専用のコンテナと、ボコボコに明らかに殴られた痕跡の団長と、それを片手に吊るす男。紛うことなき暴行現場に、ハルタの目が見開かれる。
「……えっっ!?」
「えぇ!?」
「いや、おどろいてるのはコッチだよ!なんでソッチがおどろくんだよ!!」
「あぁっ!そうだった…!!」
「………」
「……………」
「……………いや、だからあんた、ダレだよ!?」
「はっ!おれのことか…!!おれはブラメンコ、よろしくなァ」
「……」
「………」
「………だから何だよ!!」
「えっ!!驚いた、名乗っただけじゃ駄目なんか…、ビックリした」
この何とも噛み合わない男が、後のブラメンコである。埒が開かないと、とりあえずは息があった団長をそれ以上は痛め付けるつもりにも、白けてならず。こうなればと虐げられていたサーカスの一部の団員を引き連れ、その夜ハルタはブラメンコと共に脱出したのだった。
「あんた、あいつにウラミでもあったのかよ!」
「んやぁ〜、仕事をくれそうだから来てみたんだけどな、クマの赤ん坊、脚で蹴ってるのを見てこりゃあねぇな〜〜と」
「あぁ…、」
「で、やめろって言ってもやめね〜から、気付いたら、こうだな〜〜」
物騒な割に何かと間延びした正義感を持つ男、ブラメンコは同じく実に不思議な能力を持っていた。
幼い頃に食べた、死ぬほど不味い実のせいで何でも収納出来るポケットが身体に出来たが、それ以来水全般に対して金槌になったと歯の抜けた愛嬌のある顔で笑うものだから、逃亡の旅において一団は心も随分と救われたものだった。
ハルタにとっては、十は歳が離れてはいたが、いつしか"何でも屋旅団"として田舎を回り三年ほど経った─── 心の中では兄貴分の様に密かに慕う様になっていた頃、道は二つに分かたれた。
「海賊…いや、いやいや、やめとけよブラメンコ!」
「んぁ〜〜海賊って言っても、おれが憧れたのは、おれが格好いいって思える海賊なんだ。その人はよ、決して泣いてる赤ん坊を蹴り飛ばしたりしねぇんだ、だから大丈夫だなぁ」
「違うって!そっちじゃなくて、あんた悪魔の実のせいで金槌だろ!船、海、溺れたら死んじゃうだろ!!」
「………はっ!!溺れるな…!?」
「そこだよ、そこ!!」
皆でもう、笑うしかなかった。
それでも、皆を置いて行くのは忍びないと悩み事すら包み隠さずまっすぐなブラメンコを海に送り出してやったのが十五年前だ。
─── 出世しろよ、ブラメンコ!どうせなら、幹部にまで成り上がれ!…で、それくらい良い所だったら、おれ達も海に連れて行ってくれよ〜!
ポケットというポケットを満たしてやり皆で旅立ちを見送った。どのみちハルタを始めとして、サーカスの件ではでっちあげられた罪状が団員には掛けられている。
─── 陸地で生きるのは、そろそろ狭いかなぁ…。
海でそれでも頑張って生きている奴がいるなら、この人生の旅も悪くないと、励ましながら笑い合って来た旅団の前に三年前、本当の本当に迎えが来たのだから、また一同笑うしかなかった。笑って、笑って、大笑いした後にハルタは右手を挙げていた。
─── なぁ、ブラメンコ。天下の白ひげ海賊団だ、おれ達が世話になるって言っても、本当にやっていけるかな?
歳を重ねたブラメンコの頭の上の、三角帽がやけに似合っていた。それなのに、海賊を目指すならばと旅立ちの外套に旅団の少女が縫い付けたクマとドクロのアップリケだけは目立つ位置に縫い付け直されていて。
そうだ、あの子はお嫁に行ったよ。
良い男に嫁いで行った、ちょうどお前みたいに強くて優しい男だったから、おれ達は心配なんてこれっぽっちもしていないんだ。
─── おれがやってこられたよォ、やって出来ないことはないだろ、海だってさ、落ちなけりゃあ溺れないんだな。
不恰好な、豚だか熊だから分からないアップリケを今でも胸張って付けるような男を大事にしてくれるなら、鬼だって良いから会ってみたくなるじゃないか。
おれ達は何でも屋だ、能力者は生憎いないが、陸の上で出来ることなら海の上だって何でも出来る。
ハルタ一同はブラメンコの推薦で、白ひげ海賊団に加入した。これが、サッチが五年船を開けていた間に起きた数多くの出来事のひとつである。
✳︎
「多分、良い男なんだろうけどさァ……、軽そう」
「サッチは良い奴だぞ〜、コックも出来て、剣も出来るなんてすごいな。アイツが作るパエリアは最高なんだ」
「器用なのも分かった、っていうか、現在進行形で器用過ぎてちょっと笑ってるよ、ブラメンコ」
樽の上を特等席として、脚を揺らしながらハルタはジョッを掲げる。ブラメンコにとっては、可愛い弟分の一人であっても、自分にとっては挨拶を入れに行くのが後から船に乗った者としての筋だ。それにしたって、コックがわざわざ戦闘員に転じるでもなく、両方を兼ね備えたいと一旦船まで降りて本当に戻ってくる前向きさがハルタにはいささか眩しい。
その男は自分が乗っていたライトニング海賊団から今度は交換のようにクルーを二名引き連れて戻って来たのだ。片方はかなり大柄な美人、片方は小柄でおよそハルタが接して来た"女海賊"のイメージを真逆を行くような華奢さだった。
話題の中心の人物として相応しく、彼方此方から古参のクルー達、勿論そこにコック服の男達がちらほら顔を出すのも当然で。先程から引っ張りだこともなれば、一旦挨拶をするのが筋と分かっていても観察の方に専念する方が人柄は掴みやすい。
「話してみりゃあ良い、随分と外見は変わったけどな、中身は仲間想いで料理好きの良い奴だ」
「そんな五年間で外見が変わったのか?」
隣に腰を下ろして、大きな骨付き肉を一口で平らげながらブラメンコは頷く。
今、きっと何か余計な事でも言ったらしく美しい女形が鬼の形相で与えた扇子の一撃にも、たん瘤を作りながらへらりと笑う渦中の男。
「あぁ、昔はもっとハルタみたいに細かったな〜、どっしりとして良いんじゃねぇか」
「言っておくと、おれは細いからこそ出来ることがあんの。忘れないでくれよ…、で、まぁ見て分かるよ。筋肉すごいなのは…、ここの皆、大体同じだけど」
確かに筋肉質な男だ、白いシャツの上からも見ても胸筋の逞しさや発達した二の腕が生まれつきの体格ではなく鍛え上げているからこその肉付きだとよく分かる。男らしさで言えば、おそらく自分の体質的には難しいと分かっているだけにハルタは憧れないでもない。長い髪を編んで揺らして、今はビアンカと呼ばれた乙女のダンスをエスコートしている。器用な上に、人あしらいも良いらしい。声も悪くない、柔らかなバリトンボイスだ。顔に目立つ傷はあるが、あれは女にモテるタイプだろう。
「….何か良い感じだな、あの二人」
ハルタの顔が綻んだのは、別に嫌味ではない。サッチとビアンカの表情に、互いに心の底から信頼出来る関係性を見て取ったからに過ぎない。淡いピンクの花が、次から次へと振っては積もる事なくまた風に乗って海に消えて行く。月には叢雲、酒が回り始める薄闇、瞳に良いものばかり映るとまだ言葉を交わしてすらいないのに、戻ってきたと言う男を少し好きになりかけていたところだった。
娘の掌を取って、フィドルと笛の音色に合わせてその身体をステップからターンへと綺麗な円を描いて導いていた男の動きが急に止まる。
「ん?」
男が、何事か屈み込んでビアンカの耳元に囁いたようだったが、まさか、とでも言うように表情が大きく変わる娘の方に視線が行ってしまった。慌ててサッチの脚が向かった先を追って、益々呆気に取られたハルタは口をぽかんと開けていた。
「え、なに、何やってんだサッチのやつ…?」
「んん〜?どうした、ハルタ」
ビアンカはビアンカで、ホワイティ・ベイとグラスを傾けていたロッサに駆け寄っている。受け取ったのは、彼女の手荷物らしいパイロット・ケースだ。その中身も謎だが、ビアンカの方は頬を白い花の様に白くさせているというのに、何事かまた密やかに言葉を交わすロッサとくれば赤い花の様な唇を持ち上げて笑みを溢している。
何事も、一旦落ち着いて状況を眺めてみれば何かが分かる。糸口が見えてくる。そうやって、この世界を生き抜いてきた。だからこそハルタは、自分には場面を見て動く才能が少しはあると思っていたが、その自信が一瞬でなくなってしまいそうな程に唐突で、脈絡がない。
サッチ本人?酒置き場から、何かを選んで一気に蓋を開けて口を付けている。途端に空になるボトルの底を台に叩き付け、あれでは味も何もあったものではない。口元を掌で雑に拭い、それきり船縁で月を見上げる男だ。
何故?あんな度数、余程身体がデカくて酒が回りにくいヤツか、オヤジ位しか飲まない。しかも、ストレートで飲む様なものではない。余程の酒豪?いや、ハルタは自分の掌を筒にして覗き込む。いや、あの酒はすぐに回る。左手が台を掴んでいるのは、その証拠だ。ハルタの瞳が、夜のフクロウの様に廻る。
危険、は訪れていない。訪れていたら、ラクヨウ始めとしてそもそもオヤジが気付かない訳がない。
ならば異変だ、海の異変じゃない。ナミュール達が何も感じ取っていない。
異変。サッチの異変だが、ビアンカにとって異変でも、ロッサにとっては笑みを浮かべる程度のもの。パイロット・ケースを開かずに抱き締めているのには理由が?
「(なんだよ、…笑った……?)」
サッチが笑っている。
散々歓迎で手荒く胴上げやらで揉みくちゃにされた男の、乱れた前髪が夜風に揺れる。そこから覗く横顔は、確かに天に向かって笑っていた。何に対して、手筒を慌てて離したハルタは矢よりも速くその上空を見上げる。
今宵は満月、誰かが気付いてその名を一度口にすれば、覆い被さる影が急降下してくる。風圧に備えて構える者、飲みかけのグラスを持ち上げる者、それぞれだったが場を盛り上げるが役目の楽隊達は帰還の笛を高らかに鳴らす様だった。燃え盛る青い鳥の声色によく似た音色を。
バサリ、体格に見合った翼が羽ばたく。気流を捕まえやすい上空と違い、ましてや人々の動きが雑多で統率性のない甲板ギリギリの空をホバリングすることがどれ程難しいか。ハルタに教えてくれたのは、当の本人だ。焔の色と、同じ瞳が捉えているのは唯一人。
唇が開いた、何を言葉にするのかと固唾を飲んで見守るその先で、鉤爪がサッチの肩へ勢い良く食い込む。ハルタは思わず身を乗り出していた。あの脚が、一体どういう威力のものかよくよく分かっていた。
「お、おい…!!待てよ、"マルコ"!!」
しかし、振り返ったのは緑眼の男である。仲間に何を、と慌てふためくハルタを視界に捉えては、またヘラリと眉を垂らして笑うのだ。しかも振る片手まで添えていたのだから、思わず脱力して行く。
「オヤジ───、ちょっと借りるぜ」
代わりにマルコが視線を投げたのは、持ち上げれば何もかもが小さく見えてしまう酒樽を片手にする船長の姿だった。
「構わねぇが…兄弟喧嘩で島を壊すんじゃねェぞ、マルコ」
「こいつがそこまで"強く"なってたらの話だろ」
バサリ、また大きく羽ばたいた青い鳥が果たして宴の主役をどこに連れ去っていってしまったのか。言葉にならず、口を開いたままだったハルタだったが、「気にすることなかれです、ハルタ殿!!」と急に横から筍の様に生えた男に反射的にサーベルを抜かなかっただけ、まだ冷静さの欠片は残っていた様である。
「あんた、確か」
「ヤブサカですぞ!お見知り置きを!!サッチ青年は、マルコ隊長殿の義兄弟!手荒な戯れ合いは、五年ぶりゆえ…多少骨が折れたところでアルコール消毒もバッチリの様子!サッチ青年に抜かりはありません!」
「えぇぇ…アルコール消毒って、」
体内からするのか、だの、マルコのあの顔は再会を喜んでいる顔にはどうにも見えなかった、だの言いたいことは多々あったが、既に桜の霞の向こうに攫われて行ってしまった男だ。マルコは、船医。そう割り切って心の中で両手を合わせる。
サッチ、あんたのこと、まだよく分かってないが───惜しい男だった、うん。
「ところでハルタ殿!!お好きな料理は何ですかな!」
「春雨サラダ。作ってくれんの?」
グッドラック、と十字を切ってから無責任な祈りを捧げるハルタにヤブサカはドン、と胸を張る。
「もちろんですぞ!なにせ我々…戦うコックさんでありますから!」
✳︎
「あのな、おれが思うに…隊長ってのは、隊員放っといて単独行動ってのは、あんまり良くないんじゃねェかなぁ……と」
船の中でなら、以前までよく見た光景だ。
喉元から肩に掛けて、自分も大きくなったが、この鉤爪も随分と鋭さも何もかも成長したものだと、芝と脚の間に挟まれながらサッチはマルコに両手を上げる。昔から、変わらないと言えば変わらなかったが、もう相手も自分も五年前の自分達とは違う。違うはずであった。
「それで?その他に何か言い残す言葉はあるかい、サッチ……?」
桜の大樹を背にして金の髪が揺れる。
随分と分厚く成長した義兄弟の精悍な顔に顎髭まで。
もうそこに、あのくるくる回る瞳や、無邪気に腹を抱えて笑う少年の名残はない。
「えぇと…、その顎髭、いいね!とか……?」
知らない男のそれのようでいて、確かに同じ星を数えた瞳が。
青々と怒りに揺らめいては、深海の底で燃えていた。
TO BE CONTINUED_