落とされた蜜「母上!なぜですか母上!!」
必死に声を上げるが、もう母は己のことを見てはいなかった。今に限ったことではない。ずっとそうだったのに、何故今更見てもらえるなどという期待を抱いてしまったのだろう。
ザンブレクとウォールードの戦の間、皇国に支援を送らない……という取引が、母と王の間でなされたらしい。俺はそのための人質だとも。取引として釣り合っているとはとても思えないが、王の考えはよく分からない。
王国へ向かう船に揺られながら、もう会えないだろう父や弟のこと、馴染みの顔を順繰りに思い浮かべていると母が最後に言い放った言葉が唐突に脳を切り裂く。
「今まで何も役に立たなかったのですから、精々人質として励みなさい」
自分でも驚くほどに、なにも傷つかなかった。その通りだな、と思ったことだけを……漠然と、覚えている。
王城に到着して、牢にでも放り込まれるのかと思っていたが案内されたのは王の私室だった。王その人に自分から声を掛けるのも憚られる。ただ床を見つめながら処断の言葉を待っていると、唐突に無骨な指が手に嵌められた枷を解いた。母の命でつけられたものだった。
次いで、背を撫でられる。抱きしめられていると、一拍遅れて理解した。
「今日までよく耐えた」
優しい声に視界がぼやける。鼻の奥がツンとする感覚があって、ああ自分は辛かったのかと、泣きたかったのだと他人事のように思った。
「す、みません……王の御前で、このような」
「よい。許す」
耐えられずに声を上げて泣いた。こんな、小さな子供が駄々をこねる風に泣けるのかと呆れもあったが、それでも止まらなかった。そのまま声が枯れるまで、時間も忘れ泣いた。
───自分を抱きしめている王が、どのような表情をしているかも知らずに。
*****
「ミュトスの様子は」
「座学も実技も大変優秀でいらっしゃる。兵士から一本取ったことはまだありませんが、時間の問題でしょう」
垣間見える、驚異的な学習能力の高さ。器としての性質もあるのだろうが、一を聞いて十を知るその聡明さは元来の頭の良さと本人の努力もあるのだろう。
「我儘も言わず、素直で『良い子』ですよ。問題らしい問題は、身の回りのことも全て自分でしようとする、と侍女から苦情が来ているぐらいのものです」
ミュトス───クライヴ・ロズフィールドが実母によってウォールードに売り払われておよそ一月。城に到着した日にバルナバスの腕の中で泣いて以降、彼は泣き言も文句も一つもこぼさなかった。人質としてそんなことを言える立場にないと言ってしまえばそれまでだが、彼はまだ齢十の子供なのだ。故郷や親しい者を恋しく思わない筈はないだろうに、それを決して表に出さなかった。
「素直で『良い子』だからこそ……異常ですね、あれは」
「成程」
バルナバスが目を細める。狩る者のそれだった。
「隙はそこか」
翌日、ストーンヒル城の訓練所はざわつきに満ちていた。王の側近であるハールバルズ卿が、公国からの人質の子供相手に稽古をつけている。相手が相手だけにあからさまな見物客はいないが、遠巻きに見る兵士たちは気も漫ろだった。あれは果たして稽古と言えるのか、と。
「おや、もうおしまいにしますか?」
「いえ、っまだ、はっ、はぁっ、やれます!」
泥に塗れ肩で息をするクライヴとは対称的に、スレイプニルは涼しげだ。あまりにも一方的過ぎて虐待と言ってしまったほうがしっくりくるような有様だった。
脇が甘い、重心を意識しろ、などと指示を飛ばしながらクライヴの剣を的確に捌いていく。まだ体が出来上がっていない子供にする指導ではない。戦を生業にする兵士へ向ける、本気のものだった。
「甘い!」
スレイプニルの鋭い一撃がクライヴの手元から剣を弾き飛ばす。木剣だからそれほど大きな音を立てるはずがないのに、がらんという音がクライヴの耳にはやけに大きく感じられた。
「はぁっ、はっ、はぁ、……っぐ、」
膝をついて荒い呼吸を繰り返す。それでも何とか立ち上がろうとして、体力の限界だったのだろう。べしゃりと地面に沈む。介抱したほうがいいのかと周囲がざわつくが、スレイプニルを恐れて誰も近寄ろうとはしなかった。
そんな風に取り囲んでいたざわめきが、かつんという靴音ひとつで静まり返る。王の御成りだ、陛下、バルナバス様。彗星の尾のようにそれらが引いて、場に満ちるは絶対的な強者の足音のみ。
クライヴの前まで迷うことなく歩を進めたバルナバスは、何とか息を整えようと苦心するクライヴを「よい」と制して上機嫌に笑った。
「派手にやられたものだ」
「お見苦しい、っところを、はぁっ、申し訳ございません……っ、」
半ば青褪めるクライヴの頭に優しく手を置き、耳元で「今晩私の部屋へ」とだけ囁くとスレイプニルを連れて去っていった。
「遊び過ぎだ、スレイプニル。適度にのしておけと言っただろう」
「申し訳ございません。必死に食らいついてくるミュトスの顔がとてもお可愛らしかったもので、つい」
そんな二人の会話は幸か不幸かクライヴの耳に入ることは、なかった。
*****
「陛下、お召しにより参上いたしました」
うむ、と短い返事の後、バルナバスがペンを置き此方へと手招きする。進み出て机の前で礼をすると、違うと王の椅子の横を指し示される。困惑しながらも机を回ると、椅子を引いた王に手を取られ横抱きの形で膝の上へ乗せられてしまった。
「……は?え?陛、下?あの、これは、」
「お前がここに来た日以来、まともに話せていなかっただろう?ザンブレクとの小競り合いも、漸く一段落ついたのでな」
だからといってこの体勢はおかしいのではないかとクライヴは思ったが、まさかそれを面と向かって口に出来るはずもない。どうにか体重をかけないようにと模索していると、手で頭を王の胸に押し付けられて完全に凭れ掛かる姿勢にさせられてしまった。
「随分と、無理をしているようだな」
「無理などと……配下の皆様方には、とてもよくしていただいています。これ以上の厚遇は、私のような身には過ぎることでございます」
「違うな」
言葉尻で否定されて、クライヴの肩が跳ねる。相変わらず頭は王の手で固定されていて、顔色を窺うことも出来ない。
「この部屋にいる間はお前はミュトス、汎ゆるしがらみから解き放たれた幼子よ」
甘えてみろ、とバルナバスが唆す。ロザリアもウォールードも関係無い、ただの子供として。そうは言われても母から疎まれていたクライヴには、子供らしい甘え方など分からない。
「陛下、しかし、」
「そうだな、お前がただの子供に戻る間、私のことは父様と呼びなさい」
さぁ、ミュトス。有無を言わせぬ口調だが、声音は優しい。
「と、父様」
「そうだ、ミュトス。良い子だ」
『父』の指が、髪を梳く。繰り返し、繰り返し、良い子と囁かれながら。心地良い。そう思った。
「ここでは私の声だけ聞いていれば良い。何も考えず、全て父に委ねよ」
「……はい、ととさま……」
紙が水に漬かり、駄目になる感覚。どこまでも沈んでいくような気がして恐ろしいのに、日向で微睡んでいるかのように温かい。
いつの間にかクライヴの体は、手を添えずともバルナバスに預けたままになっていた。
「今は一時の戯れだが、いずれお前を養子に迎えた暁にはお前の望み全てを叶えよう」
お前を売った母の首でもいい、それともお前から愛を奪った弟か?
楽しげな声が耳を擽る。何か途轍もなく恐ろしいことを言われている気がするのに、体が動かない。
「おれ、は……母上やジョシュアを……恨んで、なんか……」
「ふ、そういうことにしておこう。今は、な」
額に酷く甘い口付けを落とされて、あまりの充足感にクライヴはうっとりと目を閉じた。
王がどんな表情をしているかなど、知る必要はない。
───だって父様は、声だけ聞いていれば良いと仰ったのだから。