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    mayo

    @mayonaka_rom

    さめしし壁打ち練習用
    スタンプ嬉しいです。
    ありがとうございます☔️🦁

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    mayo

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    さめしし。Avi…iiの同名曲をイメージに書いたやつ。ループものに見せかけた、ししがさめ先生に落ちるまでRTA。男っぽい🦁が書きたかった。

    Waiting For Love【1.】

     眩しさに瞼を開けた瞬間、左目の奥がずくりと痛んだ。反射的に瞼を閉じ、側頭部までひびく痛みをやり過ごす。
     目だけを動かして光の出所を探してみれば、遮光のカーテンが開いたままだ。昨夜閉じるのを忘れたらしい。頭が重苦しくて、オーダーメイドの枕もまるで意味がない。
    「何時だ……?」
     この時期であれば夜が明けきらないころに起きるのが日課なのに。外から差し込む太陽がベッドルームを燦々と照らすのに舌打ちして、サイドテーブルへ手を伸ばし、スマートフォンを傾ける。
     十四時──午後二時。
     ウソだろ、何時間寝てたんだ?
     ついでに今もつづくこの痛みはなんなんだ、クソ。
     誰に向けてでもない、あえて言うならば自分自身への悪態をつきながらベッドを抜け出した。トレーニングに掃除、朝のルーチン。全部すっ飛ばして寝こけるなんて、最低の目覚めだった。
    「だりぃ……」
     なかば趣味で節制しているとはいえ、起きるのも面倒なときだってある。たとえば今日みたいに。それでも一度目覚めてしまうと二度寝をする気にはならない。うっとうしく落ちてくる前髪をかき上げながら、重い足取りでバスルームへと向かった。
     そのとき、不意に誰かに呼ばれた気がした。後ろ髪を引かれる、とかそんな感覚。足を止めて振り返ってみたが、もちろん部屋には誰もいない。妙な感覚に耳を澄ませ、そのまま部屋を見渡してみる。
     キングサイズのベッドはひどい乱れ方だ。寝相はいい方だってのに。床に落ちた衣類、ネイビーブルーのバスローブと読みかけの本がひどいノイズになって目に飛び込んできた。
     一体昨日は何をやらかしたのか、とんでもない過ちを犯していなければいい。今までなら酒を飲んだときでも、ここまで記憶がすっぽりと抜け落ちることはなかったのに、ひと通り見渡したことで頭の痛みが余計に増してきた。
     こめかみを揉みながらシャワーブースへ入る。湯温をいつもより熱く調整する。ざあざあと耳元を流れる水が雑音を消していく。
     風呂を出たら鎮痛剤を飲もう。


     男と出会ったのは都心のビルの中にある大型書店だった。
     散々な気持ちで部屋を片付けたあとで、同じビルの上階にある証券会社を訪ねた。担当と話し合い、いくつかの銘柄についての取引を指示する。普段は電話やメールで済ませることが多いが、たまには顔を出すことも大事にしていた。嫌味にならない程度に着飾り、落ち着いた態度も見せながら、若さゆえの謙虚さも忘れずに愛想を振りまく。何と言ってもこの見た目はオレの商売道具のひとつだから。
     用事を済ませてエレベーターに乗ると、地上階まで向かう途中、書店のあるフロアで停止した。他の客たちがぞろぞろと降りていく間、開閉ボタンを押して待っていたオレも何となくつられてしまった。最近はネット書店ばかりを利用していたから、たまには手にとって見たかった気持ちもある。店内に足を踏み入れた途端、紙の本が放つ独特のにおいに圧倒された。月並みだけど知識欲みたいなものをかき立てられて、ビジネス誌を眺め、経済関連の新書を冷やかしてみる。その先は雑誌コーナーらしく、旅行関連誌が表紙を誇るように並んでいた。
     旅行か。しばらく行っていないな。
     遠出をしても常に市場の動きが気になってリラックスできないたちだから、せめて写真を眺めて行った気になるかと寂しい思いつきを笑いながら、端から順に眺めていった。
     一番手前、ガラスの仕切りに表紙を見せた一冊が目に留まる。南の島の青い空と海にヤシの木。いたって平凡、というよりもセンスのかけらもない古くさい構図が、デザインにすぐれた他誌とは異質でかえって目立っていた。
     中を見ようとして手を伸ばす。表紙に触れたそのとき、何かがオレの手を上から包みこんだ。何が起きたのかわからなくて硬直する。偶然横から伸びてきた手が、オレの手ごと雑誌を掴んだのだと気づいたのはすぐ後だ。

    「……ああ、失礼」
     いつの間に近づいただろう。知らない男が隣に立っていた。オレより少し背が低くて痩せている。黒っぽいジャケットを着ているけど、スーツではない。自由業か? 男のいる方向からかすかに消毒液の匂いがして、医師か歯科医師だろうと検討をつけた。技師や看護師にしては高そうな靴を履いていたから。
     それにしても。
    「手、離してくれねえ?」
     男の手はなぜかオレの手を上から握りこんだままだった。オレが可憐な女なら店員を呼ぶか、股間を蹴り上げているところだ。実際はデカい男で、どう見ても隣の変質者(仮)に比べて力も強い。低い声でひと睨みしてやればビビって逃げるはずだ。そう思ったのに男はオレの視線になんかまるで怯まなかった。しずかな目でこちらを見て、それから手を離して、またオレを見た。
     どうしよう、本気でやばいヤツかもしれない。
     ちょっと怖くなってきた。なんていうか、薄気味悪い。金縁の丸い眼鏡のレンズの奥、猫みたいなつり目の真ん中が赤っぽく光って、蛇に飲まれたカエルのようにオレは後ずさる。シャツの背中が汗で張りついていた。
     ──本はいいのか?
     たまらず店外へ飛び出したオレの背中を男の声が追いかけてくる。
     誰がいるかよ、と言ってやりたいのに振り向く度胸もなくて、脇目も振らず大股でエレベーターを目指した。

     災難だ。
     災難だった。
     この歳で男で本屋で変質者(仮)に狙われるなんて最悪すぎる。ジョークにもならない。
     自宅でトレーニングでもしてイヤな気分を忘れたい。手のかかる料理に挑戦してもいい。なんでもいいから没頭したい。
     それなのに今夜は投資家の集まるパーティに出なきゃいけなかった。クソつまらないメンツしか集まらないやつだ。それでも付き合いを考えると顔を出さないわけにはいかないから、あきらめて服装を整えることにした。クローゼットから出したのはダークブラウンのスリーピース。かたくるしい服装はあまり好きじゃない。ジャケットもどうせすぐに脱ぐから必要ないけど、とりあえず着ていってホテルで預ければいいか。

     
     パーティは案の定つまらなくて、だからオレはバカみたいに酒を飲んだ。昼のショックが尾を引いていたのもある。スタッフが通るたびにトレイからひったくるようにしてグラスを空けていった。
     一流ホテルのバンケットルームだからそれなりにメシはうまいが、オレは炭水化物と脂質の摂取を控えている。するとあら不思議、宴会料理でまともに食べられる物なんてありはしない。ブロッコリーとささみが並ぶパーティなんて誰も来ないからだろう。手持ち無沙汰に立っているわけにもいかないし、結局酒を飲むしかないのだ。
     幸い、世の中には若い人間が酒を飲んでいるだけで将来有望だと思ってくれるようなバカなジジイがまだたくさんいて、そいつらに言葉で媚を売るよりはずっと楽だってのもあるし。
     ただし、たまーにいる手だの尻だのを触ってくるヤツらは別だ。酔いがまわって磊落になったふりをして、不埒な手をはたき落としてきく。指の一本でもへし折ってやれれば気分が晴れそうなもんだけど、さすがにそれは我慢した。

     二次会へ向かう連中に合流するふりをして外へ出た。最後尾からそっと離れ、待たせておいたハイヤーに乗る。浮かれた前の連中は一人減ったことに気づきもしない。
     行き先は少し先のクロウホテル、メインで使っている銀行の系列ホテルだ。思っていたより酒が後を引いていた。吐くところまではいってないけど、長く車に揺られるのはしんどそうだから、家に帰るのはあきらめた。
     ホテルのロビーは深夜で人も少ない。手持ち無沙汰に立つスタッフにプラチナカードをちらつかせ、エグゼクティブフロアの部屋を用意させる。ドレスコードは問題なし。酩酊ってほどでもないから、まあそちらも問題なし。
     ベルボーイの案内を手ぶらだからと断り、カードキーをパネルに当てると、専用フロアのランプを押して動き出したエレベーターがすぐに停止した。フロアを確認するとレストランのある階だ。酔っ払いが乗ってきたらいやだなと自分を棚上げして考えていると、扉がしずかに開いた。

    「嘘だろ……」
     脳直で声が出ていた気がする。しかもその声は少し震えていたかもしれない。
     開いた扉から乗ってきたのは昼の男だった。黒い服で、痩せていて、変質者(仮)の。
     おもわず後ずさりした体が後ろの壁にぶつかった。全身鏡に引き攣ったオレの横顔が映っている。うわ、情けねえ。あわてて眉間に力を入れて、気を張った表情をつくる。
     なんてこった。災難はまだ続いていた。テレビの占いでも見ておけばよかった。でも全国放送で「金髪のでかい兄ちゃんはストーカー男に注意しろ」なんて教えてくれるわけない。
     男はオレのことなんて目に入ってないみたいな顔をして、ひとつ下の階のボタンを押した。コイツもエグゼクティブフロアか。なんかムカつくな。
     たった数十秒のエレベーターの上昇がやたらと長く感じる。控えめに流れるクラシック音楽のせいもあって、もう永遠に乗ってるんじゃないかってぐらい。ウソ、それは言いすぎた。でも頭から水をぶっかけられたみたいに酒の酔いも冷めていたのは確かだ。途中のフロアで停止したら降りようとか、警報ボタンに近いのはアイツだから押すのは無理かとか、そんなことばかりを考えていた。女でも、非力な男でもないのに。
     チン、と軽い音がしてエレベーターが停止すると、男は扉が開くのと同時に出ていった。まんじりともせず身を固くしたオレなんて居ないようなそぶりで。
    「なんなんだよ、一体……」
     ゆっくりと閉まる扉が視界から男の姿を消していく。完全に消えてもなお違和感は拭えなくて、目的のフロアに着くまでずっと壁面に体を押しつけていた。冷たかった鏡の表面が汗に湿ったシャツでぬるくなっていく。

     嬢を連れて最上階のラウンジに繰り出すおっさんと入れ違いで、エレベーターを降り、カードキーに書かれた部屋を目指す。この扉を開けてアイツがいたらショック死するなと思ったけれど、さすがにそれはなかった。
     汗まみれの服を脱ぎ、シャワーを浴び、素肌にタオル地のバスローブを羽織っただけの格好でベッドに倒れこむ。清潔な寝具に包まれてようやく長い一日が終わることにほっとする。眠気の波はすぐにやってきて、そのまま夢も見ずに眠った。



    【2.】

     重たい瞼を開けると、見慣れた天井が見えた。息を吐き、体の下のマットレスのかたさを感じとる。オレ好みのそれは間違いようもない。シーツは昨日替えたばかりのミッドナイトブルー。つまりここはホテルじゃない。オレの家だ。
     布団を剥いで上体を起こしてみれば、パンツ一丁で寝ていた。首を回して床を見る。愛用のパジャマは着た様子がないまま落ちていて、ついでに隣にバスローブも丸まっていた。ホテルの刺繍の入った白色のものでなく、家で使っているネイビーブルーのそれ。

     左のこめかみが痛い。
     頭どころか体も重い。
     わけがわからない。たしかオレは昨日、証券会社に行って本屋に寄って夜はパーティーに出てしこたま飲んだ。それからホテルに泊まって、あの変質者(仮)に──。
     いや、これだと何かされたみたいだ。実際手は握られたけどって、これも語弊がある。
     とにかく昨日は……サイドテーブルに手を伸ばしてスマートフォンを見る。日付を見て愕然とする。

     今日は、昨日だった。
     日付が進んでいない。

    「んなわけねーだろ……」
     呟きは寝起きの水分不足のためにかさついていた。
     頭をからっぽにして観るハリウッド映画でもあるまいし、時間が逆戻りするなんてあり得ない。スマートフォンが壊れたのかもしれない。株価のアプリを立ち上げたが、そこに表示された日付も待受画面と同じ、つまり昨日だ。適当なニュースサイトや天気予報にアクセスしてみても、結果は同じだった。

     どういうことだ。
     部屋は快適な温度が保たれているというのに、オレはぶるりと体を震わせた。鼓動が加速して全身に汗が浮かぶ。パニックで血圧が上がっている。
     シャワーを浴びよう、考えるのはそれからだ。床に落ちていたバスローブを拾い、顔の汗を乱暴にこすりながらバスルームへ向かう。
     途中でオレは気づく。振り返る。ベッドには何もないし、誰もいない。ひとり暮らしなのだから当然だ。けれどもオレはそれを当然だとは思っていなかった。
     大事なことを忘れているような、忘れたことを忘れてるみたいな妙な感覚がして、部屋をぐるりと見渡す。オレらしくもなく昨日と同様に乱雑なこと以外、特におかしいことはない。そう認識した瞬間、違和感は突然に消えていった。芽生えたときと同じように。頭がおかしくなったみたいだ。
    「……マジで勘弁してくれよ」
     オレは語彙にある限りの悪態をつきながら、バスルームへ足を運んだ。

    『変質者 撃退 ストーカー』
     誰に見られるわけでもないのに、ブラサウザをシークレットモードに切り替えてから検索した。
     ネットの海のどこを探しても、ガタイのいい男が自分より非力そうな男に狙われたときの対処法が書かれていない。世界は不親切だ。
     当たり前の結果を前に、スマホを放り出して頭を抱えた。ゲームで精神アタックを加えてくるヤツらに鉢合わせした時みたいな気分だった。残念ながらオレには回復担当の仲間もいなければ秘薬も持っていない。
     今日が昨日と同じ一日なら、証券会社に出向かなければいけない用事があることも同じだ。こんなことなら家でのアポにすれば良かったと思うが今更だ。またあの男に会うのかと考えただけだ、口の中が砂でも噛んだようにざらついた。
     追加の鎮痛剤を水で流しこみ、ふと気づく。本屋へ立ち寄らなければいいんだ。今日は証券会社に顔を出したら、エレベーターでまっすぐそのまま駐車場へ行く。他の客が全員本屋に寄るために降りようともオレは降りない。そう心に決めた。
     簡単なことだったと胸を撫で下ろし、出かける準備を始めた。



     結果はというと……まったくのムダだった。
     証券会社の応接室で担当と話しているうちに、前から繋がりたいと思っていた有力者の集まりに呼んでもらえるかもと水を向けられた。願ってもない申し出に、当然首を縦に振った。
     すると担当はにこやかに笑い、
    「◯◯さんってご存知ですか? 彼の出版パーティーがあって、そこでご紹介できると思います。ちょうど下に本屋があるから既刊だけでも目を通しておくといいですよ。あと週刊誌の連載も好評なので──」
     クソ、クソ、クソ。
     オレは苦虫を噛み潰したみたいな顔で階下の本屋に行き、そこでまた考え直した。あの旅行雑誌コーナーへは行かなければいいんだ。
     ◯◯とかいう男の本だけを買う。それもレジカウンターで頼めば、書店内を歩かなくて済む。
     こういうときのためのツラだ。男でも女でもいいから、簡単になびきそうな店員を見極めて「ご案内します」じゃなく「お持ちします」と言わせるだけ。
     甘い笑顔か、怯えない程度の恫喝。
     使うのはどちらだっていい。オレは上機嫌でカウンターにもたれ、メモを片手に本を探しにいく店員を見送っていた。
    「失礼」と、あの男がレジへやってくるまでは。
    「……は?」
     男がいた。
     ハードカバーの本を持ち、邪魔だと言わんばかりの仏頂面をしていた。オレはカウンターをつぶすかたちで立っていたから、実際に邪魔だったんだろうけど、眼鏡越しの冷ややかな視線に怒りの感情が湧いてきた。カッと拳を握る。それでいて、またあの赤い光に気づいてしまえば睨みつける度胸もしぼんでいき、落ち着かなく目を彷徨わせることしかできない。情けねえ。

    「次にお待ちのお客様、いらっしゃいませ、カバーはどうなさいますか?」
     カウンターから店員が呑気な声を張りあげると、男はオレのすぐ脇を通り抜けてレジへ進んだ。頭を下げる店員に本を手渡し、カバーは必要ないと短く応じる。ジリジリと横移動をして男から離れるときに、本の表紙が見えた。むずかしそうな、たぶん医学書。今日も消毒液のにおいがするし、やっぱり医者か。
     アマゾンを使えよ、アマゾンを。
     もう頼んだ本のことは忘れて、このまま店を出ちまうかと考えたとき、お待たせしましたと能天気な声がして、店員が小走りに戻ってきた。接客カウンターの中へと進み、レジの前に立つ。そこは男の対応をする店員の真隣だ。
    「お待たせいたしました。こちらはご購入でよろしいですか」
     よろしくないけど、会計をしない訳にはいかない。ためらうオレを見た店員が何を勘違いしたのやら「ご確認されますか?」と尋ねてきたので、覚悟を決めてレジへ進んだ。これ以上、長居をしたくなかった。隣を見ないように視線を正面に据える。カウンターの奥に貼られたポスターを無意味に眺めても、男の気配が気になって仕方ない。
     落ち着け。
     今日は手を握られたわけじゃない。
     最悪な慰め言葉が頭のなかで聞こえた。
     でも、たしかにそうだ。昨日(?)と違い、今日は隣同士で会計をしているだけ。変質者(仮)だと騒ぐ必要もない。自分に言い聞かせて、ガチガチに緊張したオレの後ろを男が通り抜けるのを待つ。消毒液のにおいが一瞬強くなったが、意外とあっさり男は店を後にしたようだ。気配が消えてほっと息を吐く。目当ての本を手に入れたことで、気分が少し上昇した。
     こうして男はオレのなかで変質者(仮)から一般市民(たぶん医師)に格上げされた。
     もう二度と会わないだろうけど。
     会いたくないし。


     それなのに、オレはまたアイツと会った。同じホテルで、同じエレベーターで。アイツは同じように乗り込んできて、またパネルの前に立った。昨日(?)とまるきり同じ行動だ。ただひとつ違ったのは……男が指定したフロアに着いたときのことだった。エレベーターを降りたあとら閉じていく扉の向こうで男がくるりと振り向いた。
     ──え?
     出かけた声はかろうじて飲み込んだ。
     かわす余裕もなく、視線がばっちりと合う。通路の天井から等間隔に並ぶシャンデリアに照らされてなお、男の姿は暗く見えた。暗紅色と黒色で織り込まれたカーペットから浮き上がったみたいだ。
     暗紅色、ああ、アイツの瞳の色だった。
     男はオレを見ていた。左右から閉じていくドアの隙間からずっと、あの黒と赤の虹彩がオレを。

     その日もオレはシャワーに入り、ベッドに倒れこむなりすぐに眠った。瞼の裏で暗い赤と闇みたいな黒がぐるぐると渦を巻き、オレを飲み込んでいくのを感じた。




    【3.】

     今朝も自分の部屋の自分のベッドで目を覚ます。日付は変わらない。目を背けようとしても無理だった。ここへ来てようやく観念する。

     ──オレは同じ一日を繰り返している。

     証券会社のオフィスを出たところで、恩義のある知人とばったり会った。せっかくだからお茶でも飲もうと誘われて、断ることもできずに本屋へ行く。併設のブックカフェへ入る。なかばあきらめの入った表情を見せないよう、店内を見まわすふりで顔を背ける。
     男はいた。奥の方、窓際の席で本を読んでいた。座面が低いタイプのアームチェアに座る姿は置物みたいに行儀が良い。正しいマナーとやらを身につけて育ったのだろう。クソが。
     やたらとでかい声で喋る知人のために、入り口付近のテーブルに腰を落ち着けてから、世界で二十七番目ぐらいにどうでもいい話を聞く。軽く首をかしげ、あなたに興味があるという視線をキープする。
     背を向けて座る椅子を選んだから、アイツからオレが見えていたかはわからない。こだわりの自家製焙煎だというコーヒーは、目の前のバカと同じで希釈した泥水の味がした。

     ホテルのエレベーターに乗る。行き先より手前の階で停止しても、もう驚かない。壁際に立つのもやめた。
     あっちがその気なら、いっそこちらから出迎えてやる。
     奥歯をぎりりと噛んだ。
     かごの真ん中に立ち、扉を睨みつける。
     舐められてたまるか。
     繰り返される一日、最後に必ずこの男に会う理由を見つけてやる。

     フロアで停止したエレベーターの扉が、なめらかな動きで左右へ広がっていく。
     男は立っていた。
     待ち構えるオレに気づかないはずはないのに、こちらを見ようともしない。猫のように音も立てずに滑りこみ、パネルの前に立った。目的フロアのボタンを押して扉を閉じる。エレベーターが上昇するごとに、足元が崩れていくようだった。
     男はすぐ前に立っている。目だけを落として見つめる。仕立てのいいスーツだ。インナーカラーを入れた黒髪の隙間から見える首筋が不健康な白さで、陽にあたらない生活をしているのだろうなと思った。
     何を考えてるんだ、オレは。
     見ず知らずの男をじろじろと観察してどうする。
     これじゃオレが変質者みたいだと、目を閉じて頭を振る。うつむき、足元を見つめた。大丈夫。オレはまだちゃんと立っていられる。
     一瞬の浮遊感のあとでエレベーターが停止した。もうすぐ扉が開く。緊張で体が痛い。知らない間に息まで止めていたみたいで、頭がくらくらしてきた。それももうすぐ解放される。
     そう思ったとき、視界の隅で男の靴先が動いた。降りるのだろう。ダンスでもするような優雅な動きだった。
    「……ッ!」
     男の頭がオレのすぐ前を横切った──と思ったら、視線の先で男の腕が動いた。とっさに身を引くより早く、手首を掴まれる。強い力じゃなくて脈を測るときみたいなやつ。やっぱりコイツは医者なんだろうと思った。
     袖口の隙間から手首に触れた指先はつめたかった。オレの体が熱いだけかもしれない。男はそうして手首に触れたまま、オレの方に体を向けた。一歩引くよりも、距離を詰められる方が先だった。鎖骨の終わりのあたり、シャツのの肩口に男の肩があたる。オレよりは薄いけれど女とはちがう。かたい、男のそれだ。もしも女だったら抱き寄せなきゃいけないシーンだろう。オレはやらないけど。第一、相手は男だし。

    「   」
     パニックで現実逃避を始めたオレの鼓膜が振動に揺れた。目の前にいるこの男の声で、名前を呼ばれた気がする。オレの名前なんて知るわけないのに。
     動揺に思考がもつれていく。脳と手足をつなぐ神経が切れちまったみたいに体が動かない。心臓だけが早鐘のように激しく鼓動して、男の触れた手首に神経が集中していく。
     噛み締めた唇が破けて血の味がした。鉄くさい。無意識に舐めようとしたオレに男が顔を寄せてきた。舌先が男の唇に触れる。避けようと顔を動かしたら目の下に冷たいものがぶつかった。ちりり、とした痛みで我に返る。眼鏡が当たったのだと気づき、頭がカッと熱くなった。舌を噛み切ってやろうと口を開けたとき、前触れなく手首を掴む力が消えた。動揺に一瞬空いた間を逃さずに、男が体を引いた。がちり、と勢いよく噛み合わされた歯が空気を分断する。
    「オイ、っざけんな!」
     恫喝をものともせず、男はくるりと向きを変えると、閉まりかけた扉のあいだから出ていった。手を伸ばして首根っこを引っ掴んでやろうとしてためらい、いたずらに宙を掴んだ拳を握りしめる。
     扉が閉まりきる刹那、男がちらりと振り返った。伸ばされたままの腕を認め、薄い唇の片端が愉快そうに上がった。

     予約した部屋に入ってからのことは覚えていない。



    【4.】

     頭の痛みは極限に近かった。それだけじゃない、全身が軋むように痛い。体のどこを動かしても錆びついたみたいに感じる。それでもオレは起きあがる。自宅の、自室のベッドから。
     耐えがたい痛みがいっそ頭をクリアにすればいい。
     手を伸ばし、乱れたシーツに触れる。そこにあるはずの何かがない、いるはずの誰かが。はっきりとわかった。
     ──オレは知っている。
     肺の底にたまった空気を吐き出して目を閉じると、瞼の裏が暗紅色に染まっていた。あの男の色だ。こめかみを指で押した拍子に手首が頬をかすめ、触れた熱を思い出す。
     多分オレは今日もアイツに会う。書店で、ホテルのエレベーターで。少しずつ変わるシナリオのなかで、アイツだけがその他大勢とは違う動きをしていた。いつまでこのループはつづくんだろう。気が狂いそうだ。
     気が狂う。
     あの瞳で見つめられると。
     背筋をぞわりと悪寒が走った。空調の効いた部屋だから下着一枚でも寒いわけないのに、べたりとした嫌な汗まで浮いてきて、こめかみに触れた指先を濡らしていく。
     オレは狂う。
     次にアイツにあったら、多分オレは。

     目の下が引き攣れたように痛む。指で触れなくてもわかる。そこにはちいさな傷があるはずだ。男の眼鏡がぶつかったときにできたそれに流れ落ちた汗が沁みて痛い。トレーニングのあとみたいに髪が湿り始めていた。汗で体が冷えてくるのを感じて、バスルームへと向かった。もうベッドは振り返らない。

     異変にはすぐに気づいた。
     オレはまた書店にいた。本を買うためではなくてペンを買うために。決壊するダムのように、他人の前では隠していた疲労がついに限界を迎えてしまった。証券会社のオフィスでのこと、愛用のペンを出した拍子に取り落とし、踏んでしまった。体重を受け止めたペンの蓋は見事にひび割れ、閉めることができなくなった。
     オレは他人の物を使うのが好きじゃない。今日ばかりは仕方ないと安物のボールペンを借りることにしたが、その足で書店へ向かった。文具コーナーのレジ近くにはショーケースに並んでいる。その中から気に入ったやつを買って帰ればいい。

     レジには親子連れがいて、対応する店員と額を突き合わせてカタログか何かを見ている。しばらく時間がかかりそうだから、レジを見渡せる位置で待つことにした。いきなりでかい図体の兄ちゃんが来たら、母親も子どもも店員もみんな困るだろうし。
     正面の棚にはルービックキューブやパズルが並んでいた。ギフト用か、複雑な知恵の輪みたいなものまで置いてある。触れてみたい気持ちはあったけど、買わない物をさわるのはなんとなく気が引ける。かといってガラクタを買って帰る気もないし。ぼんやり眺めていたら横から手が伸びてきて、嫌な予感に息を呑んだ。
    「これ、面白そうだね」
     覚悟を決めて横を見ると、明るい髪色をした若い男が立っていた。金属を組み合わせた立体パズルを手に取って弄りながら話しかけてくる。まるで昔からの友達みたいな馴れ馴れしい態度。あの男じゃなかったという安心と、コイツは誰なんだという不安が同時に襲ってきた。
    「……遊ぶ?」
     はい、どうぞ。と差し出されたパズル。箱みたいなかたちの金属枠の中央に鍵が刺さっている。ためらうオレの顔をじっと見つめ、若い男が唇を吊り上げた。子どもみたいに無邪気だった顔が、急に老齢の賢者みたいに表情を変える。
    「君の人生は停滞しているね」
     囁きに体が震えた。

     停滞という言葉が鼓膜を突き破り、脳を揺らす。
     コイツは知っているのか、オレのことを。繰り返される一日を。

     震える右手でパズルを受け取った。若い男は満足したように笑うと、おもちゃに飽きた子どものように踵を返して去っていった。
     受け取ったパズルをどうしていいのかわからず、結局そのまま元の場所に返す。プラスチックの玩具よりはしっかりとしているとはいえ所詮は子ども向けのおもちゃだ。軽い金属で作られているはずのそれは、なぜか手のひらに食いこむような重さを残した。


     その夜、オレは酔わなかった。
     酒を飲んだけれども一切酔わなかった。バンケットルームの責任者に金を握らせ、オレの飲むものだけはノンアルコールに変えておくように言ったからだ。冴えきった頭で酩酊したふりをして誘いをかわし、ホテルを出る。待機していたハイヤーの扉が開く。このコンディションならば自宅までの帰途も問題ない。目を閉じて考え事でもしていればすぐ家に着き、慣れたベッドで寝ることができる。ループを回避するチャンスだ。
     ゴクリと唾を飲み込んだ。
    「   」
    『停滞している。』
     知るはずのない男の声が、若い男の声が頭のなかで聞こえる。耳を貸すな。歯を食いしばる。言葉がぐるぐるとまわる。暗紅色のカーペットが、虹彩が渦を巻き、オレを呑み込む。左目が熱い。その下に走る傷がちりりと痛みを主張した。フロントガラスに映る景色よりもさらに遠くを見据え、口を開く。
    「……クロウホテルへ」
     


     エレベーターの扉は静かに開く。オレを乗せたかごへ、あの男を迎え入れようとする。
     外界と完全に遮断されるまでの間も待てずに腕を伸ばす。腰を抱き、引き寄せた。見た目どおりの薄い体だった。
     男は驚く様子もなく、オレの首に腕をまわした。乱れて落ちた金髪をかきあげて、顔に触れる。目の下の傷の上をいたわるように往復する。思いがけなく丁寧な仕草に、背筋がぴくりと震えた。治りかけのそこは指先が左右に動くたびに電気が走ったようなくすぐったさに襲われる。密着したまま身じろぎすると、鼻先が男の首筋に触れた。すぐそばで喉仏の尖りが上下したから鼻先を擦りつけると、低く笑う音が振動になって伝わった。後ろ髪をかき混ぜられる。犬になった気分だ。
     ドアが完全に閉まるのを見た男が手探りでフロアボタンを押すと、エレベーターが上昇を始めた。
     指先が耳のうしろにたどり着き、手のひらが頬へ添えられる。顔を傾けて唇を合わせる。二度目だから、眼鏡はぶつからなかった。耳のうしろをすべる指の感触が甘い痺れに変わる。もっとほしい。口を開けて男の舌を迎え入れ、ぬるぬるとすり合わせる。ああ、オレは何でこんなことしてるんだろう。ダイレクトに届く水音が、上品なBGMをかき消していく。
     上昇するエレベーターのなかで浮遊感が少しずつ強くなる。バラバラにならないように、お互いの体で繋ぎ止める。最後にぐっと体が浮き上がり、扉はゆっくりと開いていった。
     男の頭ごしに鏡に映った自分が見えた。興奮しきったひどい顔。左目だけが真っ赤に充血していた。

     エレベーターからもつれあう男たちが出てきてさぞ驚いただろう。エレベーターホールで作業をしていたホテルマンがあわてて下を向いた。何も見てませんって感じで。手が空いてたらチップでも渡してやりたかったけど、もう構う余裕なんてなかった。
     指を絡め、体を寄せ、男に引きずられてるのか引きずってるのかもわからないまま部屋へ雪崩れ込んだ。唇を合わせたままシャツのボタンをはずす。男のジャケットを脱がせる。体が熱くて重い。それなのに頭のどこかは完全に冷え切っていた。男も同じだったんだろう。キスの最中もずっと目を開けていた。闇みたいに黒い瞳孔にオレが映っている。男が触れたところから電流みたいなビリビリとした刺激が生まれ、脊髄を伝って脳を揺らす。もっと、もっとだ。蹴落とした服の合間を抜けて、もつれあったままベッドに倒れこむ。
     オレの腰に乗り上げるように座った男を見上げる。余計な肉もムダな筋肉もなくて、しなやかなネコ科の獣みたいだ。同じ男なのに自分と違う生き物のように感じる。シャツのボタンをはずしながらベタベタと触れてみると、手首を掴まれて薄く笑われた。心臓の位置で縫い止められた手のひらに、布越しの鼓動が伝わってくる。オレほどではないけれど早い。澄ました顔をしてるくせにちゃんと欲情してるなんて笑い出したい気分だった。
     男が上体を屈めてきた。首筋に歯が当たる。強い力で噛まれ、鋭い痛みが走る。まいったな、オレ、こういう趣味はないんだけど、正直めちゃくちゃ気持ちいい。もっと噛んで。犬歯が皮膚を食い破る感覚に涙が浮かんだ。ヤバい方向に足を突っ込んじまった気がする。そんなの今更だろうと頭のなかで声がする。ああ、マジで今更だな。そんなことよりも早く。
     は、は、と熱い息を吐き出すことしかできない。男はオレの声が届いたように体のあちこちに噛みついていた。喰われる。背中に手をまわしてくっきりと浮かぶ背骨の突起をたどり、意識から痛みを散らそうとした。男はそれが気に入らなかったらしい。集中しろとばかりに出来たばかりの咬傷を舌でなぞられ、濡れてざらつく感触に悲鳴じみた声が漏れた。引き攣った脇腹を薄い手のひらが上下して、腰骨に指先がかかる。不思議なほど嫌悪感はなかった。触れたい。触れられたい。衝動が体を食い破りそうだ。
     ──声が聞こえた。
     オレを呼ぶ声が。
     興奮しすぎてぼやけた視界に男の顔が浮かぶ。必死で焦点を合わせる。
    「獅子神」
     また名前を呼ばれた。オレを呼んだ。
     コイツはオレを知っている。オレも知っている。そう気づいた瞬間、体が震えて、残っていた理性が粉々に砕け散る。砕けた鏡のような破片のなかで、左目を赤く染めたオレが笑っていた。



    【0.】

     目が覚める。体が重くてだるい。上半身を起こしてヘッドボードにもたれ、肺の底に溜まった空気を吐き出した。このダルさは何なんだ。
     遮光カーテンの向こうの空は薄暗い。サイドテーブルに手を伸ばし、時間を──いや、日付を確認すると、予感が確信に変わった。深い深いため息をつく。オレの長い一日はついに終わった。停滞していた日々がようやく動き出した。

     昨夜の光景がフラッシュバックする。本屋でもホテルのパーティでもない。オレはギャンブルをしていた。あの男と一緒に。体内を駆け抜ける電気の流れ、死の境を彷徨った五分間。心臓が収縮する痛みを思い出すと消せない恐怖に体が震えた。
     エレベーターのなかで合わせた唇、吐息の熱。記憶は次々と手繰り寄せられていく。途中からはあまりに露骨すぎて自分の記憶力が恨めしくなるが、忘れたところで証拠はすぐ目の前にある。上腕から胸のあたりまで見える範囲だけでも至るところに噛み跡だらけ。布団をまくって下半身を確かめてみたいという好奇心は自分を殺すだけだと我慢した。そうしてオレはようやく覚悟を決めて視線を傍らに落とす。
     ──男が眠っていた。
     死んでいるみたいに静かに。
     体を横向きにして寝ているから、前髪に隠れた顔はほとんど見えない。細い鼻筋から唇のラインだけが薄闇のなかに白く浮かび上がり、規則正しい呼吸が夜明けの空気をおだやかに震わせていた。
     ベッドサイドには眼鏡が丁寧にたたんで置かれていた。その下には陳腐な写真がカバーの旅行雑誌。男のジャケットとオレのベストが床の上で絡まっていて、ベッドのなかにいる自分たちよりもいやらしく見えた。
     シャワーを浴びに行こうとしたら、男の手がぴくりと動いた気がして動きを止めた。隣のぬくもりが消えたことに気づいたのかもしれない。枕の脇で指先が何かを探している。もぞもぞと布団のなかに潜りこみ、横向きで向かい合う。顔を見つめる。黒くて濃いまつ毛が揺れ、薄い皮膚の下で眼球がゆっくりと動いていた。眉間にかすかな力が入り、弛緩したあとで、瞼が開いていく。

     オレはお前を知っている。瞳の奥に光る暗い紅色を、指先の力を、かすれた声を知っている。その瞳でオレを見つめ、名前を呼ぶのを待っている。オレの空っぽの腕が抱きしめる体を求めている。

    「……村雨」

     オレは愛を待っている。





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