「バカだって、思うかい?」
細く荒い息。額どころか全身に浮かんでは流れ落ちていく脂汗。そして、じわじわと広がっていく、赤い、赤い、温もり。
これだけそれが広がってしまっては、幾ら彼の底知れない陽だまりのような優しさも、遂に底をついてしまうのではないかと、ぼんやりと思った。
「……うん」
けれど曇り空の下、光も刺さない場所でわたしを見つめる瞳は相変わらずだ。だから到着して呆然と池に沈む彼を見つめていたわたしに投げられた質問には、これまたぼんやりと頷いた。
「ダヴィンチちゃんがもしもの時の為にって……貰っておいてよかったな」
欠けた指先で傍に置いてあった薬を掲げて笑う彼に、自分でも驚くくらいに見惚れてしまった。
未だ何処かで乱射される銃の発砲音は遠く、周囲は穏やかで、彼に似つかわしくない硝煙の匂いと酸化した鉄の匂いだけを、何処か歪に思った。
「……汚れちゃうよ?」
「わたしも、疲れちゃったから」
その違和感にくらりと身体を震わせると、だらりと伸びる足の隣に腰を下ろす。ぺちゃりと、聞きたくもない水音にぽつりと呟かれる彼の心配の言葉には、縋るように肩を預けた。
「……はぁ」
そうして彼と同じ視線の高さになれば、やはり否が応でも気づく。
焼け爛れた皮膚。
吹き飛んだ手足。
ぽっかりと開いた腹の中から、その姿をちらりと見せる内臓。
そして、失われた筈の機能を無理やり維持させる、礼装の魔力の流れ。
「何処かにあなたの反対の手、落ちてないかな」
「……怖いこと言うね、君は」
本来一眼見ただけで導き出される結論を、やはり何処他人事みたいに頷いて……いや、これは正しく他人事だと冴えた経験が頷いた。
だが別に、そんな悲惨な姿を見て心が痛くならない訳もない。ただ意外だったのは、じくじくと痛みを訴えるそれが、今まで感じてきたそれよりも格段に痛かっただけで。
「不思議だ」
「……?」
「何も感じなかったのに、温かく感じる」
「ーーー」
その痛みに耐えかねて残った指先をぎゅっと握れば、何故か冷たい手の感触と彼の言葉に、尚更痛みが強まった。
「あとどれくらいなのかな」
「知らない」
普段目敏いぐらいわたしの感情を見透かしていた癖に、今だけそれに知らないふりをしてこんなことを聞いてくる彼が、心底憎かった。だから、後ほんの少しで訪れる別れまでの時間を、食い気味に浪費してしまった。
「教えて。俺にはわからないんだ」
なのに彼はそんなわたしを咎める様子もなく、掠れた声音でただ懇願してくるものだからーーもうそれに知らないふりなど出来なかった。
「………3、分もないと、思う」
「思ったより、短いね」
「……わたしを、喚んだせい」
「なら、しょうが、ないね」
刻一刻と迫る時間が迫っているのに、潰れた肺でくすくすと笑いながら、掠れた声音でマイペースに喋る彼が許せない。
そしてそんな不条理な怒りを浮かべている自分が、それでも自分から口を開くことが出来ないことの方が、もっと許せなかった。
「あーぁ。もう少し、だったのになぁ」
「そうだね」
「でも、君も俺も、そもそも救世主、は柄じゃないか」
「……そうだね」
後数分の時間を沈黙する時間が悔しくて堪らないからか、いつも共に過ごしていた無言の時間を遮って、彼がぼんやりと何度も益体のないぼやきを口にする。
「ねぇ、トネリコ」
「……うん」
「俺は確かに、目の前の一人を救えたよ」
「……違う。わたしのは、そんな意味じゃない」
不意に自分の名前といつかの言葉を思い出させられると、遂に生返事も出来なくなる。ばくばくと鳴っていた心の臓が、一際大きな音を立てる。
それは隣に座る彼の鼓動すらも掻き消してしまうようで、思わず彼の両肩を掴んで、翳りかける青空を睨んだ。
「でも、後悔はないよ」
しかし、その掠れた声だけは、はっきりとわたしの耳朶を震わせて、青空の瞳は、その一瞬だけはなんの曇りも見せなかった。
その言葉は確かに彼らしくあり、わたしのマスターとして、彼の友人として誇らしい言葉だ。現にわたしも、普段だったら満足気に自慢のマスターだと頷けたのだろう。
「うそ、つき。信じ、てたのに」
だけど、それが最期の言葉なら、わたしは到底受け入れられない。
「もう、置いていかなくて済むって。これからもずっと、あなたが隣に居てくれるって信じてたのに」
「………」
「全部、嘘だったんだ。肩を並べて一緒に戦った時間も、部屋で一緒に本を読んだ時間も、言い訳しなきゃ出来ない口付けも、全部……ぜんぶ……」
今にも事切れそうな彼に自分を優先してこんな言葉を投げるなんて、心底わがままで、どうしようもないと思う。
ーーけれど、だって。
そんな自分勝手な思いを言葉に込めても、心底やりきれないという思いを強引に指先に込めても、彼は痛みに顔を顰めることすらしない。
その青色の瞳から、わたしのように悲しみの雨を流すことすら、しないのだ。
「嘘じゃ、ない」
「……ぇ」
なんとか言葉を連ねるわたしを遮って、もう一度彼の芯のある声音が響く。だがその言葉の意味が理解できなくて、こんな時だというのに間の抜けた声しか出せないわたしに、彼は生気の感じられない頬を少しだけ緩めた。
「最期に、君と逢えたから、嘘じゃ、ない」
その顔はあまりにも綺麗で美しくて、その瞳にはいつか茹だるような季節の空で共に見た、あの花火と同じようにごく一瞬の燈を携えていて。
「マシュを、お願い」
だけど、わたしを見つめてくれていた筈の瞳は、既に違う何かを見つめていた。
「ーーー」
「君に、託すよ」
もうきっと何も見えていないだろうその瞳に、わたしの顔は、どのように映っていたのだろうか。もし映っていたら、そんな頼り気ない声で念を押すどころか、こんな頼みすら、出来なかっただろうに。
「やっぱり……嘘つき、じゃん」
「……」
まったく魔女が聞いて呆れてしまう。
こんな最期の時に、自身の欲よりも、彼の心残りを晴らす方を優先してしまうなんて、我ながらなんとも厄介な性根だ。
けれどーーあぁ、こうなってしまったら仕方ないのだろう。彼の結末は覆らないが、彼らの旅は、まだ終わらせるわけにはいかない。
「でも、うん……わかった。今度こそわたしが、彼女を終点まで必ず送り届けてみせる」
「あぁ……うん。ありがとう」
隠し切れない性根の裏に、皮肉と呪詛というもう一つの性根を言葉の裏にだけ潜ませて、彼にそれを告げてあげる。すると、青空の瞳はそれを安心したように聞き届けてから、静かに空を仰いだ。
「でも、そう、か。心残り、は……まだ」
無理矢理合わせていたらしい焦点も虚空をさまよって、遂には青色の瞳が霞んでいく。だが、それとは反対に、血流が無くなって力など入らない筈の手が、何故か一瞬その力を強めた。
「おれは、ずっと、きみに」
そして、僅かに動く口元が紡ぎ出す言の葉は、それでも最後まで空気を震わせることは、出来なかった。
あれからどれくらい時間が経っただろうか。
声を掛けても、体を揺すっても動かない、彼の身体。それがわかっていても尚、永遠に意識を失ってしまった彼の身体を強く抱き留めれば、不思議と立ち上がることすら出来なくなっていた。
「行かなきゃ……」
先程までの彼みたいに掠れた声音に若干驚きながら、震える膝を無理やり立てようとする。だが乾燥した液体が地面と布を漂着させて、思うように力が入らない。
「これを集めたら、また笑ってくれる?」
黒く染まってしまったそれを見てふと溢れた呟きには、なんの意味もなかった。応えてくれる者も、答えを求める者すらも、もうここには居なかったからだ。
「ーーー」
だが別に、本人の口から直接答えを聞くことなんて、今さらもう必要ない。
だって彼と一緒にいた時間を思い返せば、それだけでたくさんの色が溢れてきて、胸が温かくなって、それだけでこれからも頑張っていけるって思えていた。
「……あれ?」
だからいつものようにそれを思い出して、足を前に、彼の手を引いて更に前へ進もうとして、ようやっと違和感に気づく。
温かいどころか、いつの間にかひび割れそうになってずきずきと痛む胸の鼓動。
手放すつもりなんてなかったのに、いつの間にか冷え切ってしまった手の温もり。
いつも隣にあることが当たり前だったのに、いつの間にか永遠に覗くことが出来なくなった青空の瞳。
別に宝物を失ったことなんてこれが初めてじゃない。だというのに、こんなにも冷え切っていくのは、きっとーー
「季節ってあっという間に巡るものなんだ」
ふと溢れた今更すぎる呟きは、誰のところへも届かなかった。