きみとあなたの我儘な恋心⑥ 体育館裏から校舎へ。エランは一人、廊下を歩いていました。静まり返った空間を踏み荒らすのうに、上履きの靴底の擦れる音だけが響きます。
普段波一つ立たない彼の心境は、自身の相反する気持ちに苛まれていました。二人が仲直りするところを見たいというものと、真逆の見たくないものと。
そう、見たくなかったのです。
まるで誰かから嘲笑されているような、袋小路に追い詰められていくような感覚でした。スレッタの願いが叶ったのだから最後まで見届けたい気持ちもあったのも嘘ではないのに、一瞬で塗り潰されて逃げるようにしてその場から足早に去りました。
理由は――わかりません。肩にかけた鞄の教科書等の重みだけが、逃げた事実を伝えてきます。
今は一人になりたい。その一心で、校舎の玄関へと向かいました。
重い表情のまま立ち並ぶ靴箱の中を突き進み、自分の靴箱の前に立つとおもむろに開けて――目を見開き、動きを止めました。
土が、みっしりと詰まっていました。エランの革靴が入っているのもお構いなしに、上段と下段を隔てる仕切りが見えなくなるほどに押し込められています。どういった目的で行われているのか、一目瞭然でした。
ですが、エランは嘆く素振りすら見せずに無造作に鞄を下ろすと、懐から出したビニール袋を持ち、空いた片手で袋の中へ掻き出し始めます。
去年机の中に置いていた教科書を傷つけられ、ゴミを詰め込まれて以来袋を持ち歩くようにしていたのですが、活躍の場があったようです。
あらかた取り除くと、袋の紐を縛って近くのゴミ箱に投げ入れました。土まみれの革靴も適当に叩いたものの、完全に汚れを落とすことはできません。気にせず履き、上履きを下駄箱に仕舞おうとして、やめました。また同じようなことをされて、上履きも汚れたら処理が面倒です。予備の袋に入れ、鞄にしまいました。
周囲の人間に興味がないため、こういった行為をされても気になりません。再発した理由も興味が湧かず、考える気も置きませんでした。
どうでもいい、はずです。
他人にも自身の未来にも興味が出ず、番を見つけさせて最期まで使い果たそうとする村から離れられたらいいぐらいしか、考えがないというのに。なのに、なぜか今日は胸が騒ぎます。
理由はやはり思い当たりません。それどころか、何も考えたくありません。
誰も来ない空間を求めて、足は自然と裏山へ向かいました。
影の形をした木の葉が地面にひしめき合い、柔らかな風が木々の合間を吹き抜けていきます。
人の声ひとつせず、時折動物の鳴き声がどこからか聞こえてくる穏やかな空間。
緑生い茂る裏山は自然豊かではあるものの激しい傾斜が多く、滅多に誰も寄り付かない場所となっていました。
ですが元々動物であるエランにとっては障害であるはずもなく、獣道や崖を軽々と越えて、あっという間に頂上にたどり着きました。
草木をかき分けて進むと、ぱっと視界が一気に明るくなります。ぽかりと開けたように、木々のない場所が広がっていました。
眼下には、麓に広がる女学校が小さく見えました。
大きく息を吸うと涼やかな空気が肺を満たしていきます。耳に届くのは木の葉同士が擦れる音のみ。
ここがエランの憩いでした。
誰もいない場所。唯一無二の、一人になれる空間。
芝生の上に置いた鞄を椅子代わりにして座ると、懐から本を取り出して開きました。
いつもであればこうして本の世界に没頭すると、心の泡立った波が落ち着いていきます。現に今も――と、静まりかけた心を何かが引き止めました。
脳裏に揺らめく癖の強い赤毛。どんな小さな物事でも、とても嬉しそうに浮かべる無邪気な笑顔。
ここにスレッタ・マーキュリーがいたらどう思うだろうか。何気なしに浮かんだとき、また心がざわっとしました。
考えるのをやめようと思うよりも早く、次々の彼女の表情が脳裏に浮かんでいきす。頭を振って追い出そうとしても消えず、改めて本を読もうとしても、手につきませんでした。むしろ、彼女の声がしないことに違和感すら覚えるほどに。
こんなにも誰かと長く一緒にいることは初めてでした。だからこそ彼女のことでこんなにも動揺しているのかもしれません。
彼女の近くでもっと知りたいと思うのと、遠ざけることで己を保ちたいというのは、どちらも本物の気持ちです。
「スレッタ・マーキュリー……」
相容れない感情に頭を抱え、彼女の名前を呟く声は力無く舞って宙に消えていきました。
結局煩悶とした感情になかなか整理をつけることができず、いつの間にか太陽は沈み、空は夜に包まれていました。上の空で読書も手につかないまま、山を降ります。
寮の守衛の叱責も無視して、自室の扉に鍵を差し込んで開けます。
夕飯の時刻はとうに迎えています。スレッタは既に食堂にいるか、少なくとも入浴等を済ませているだろうと思い込んでいたので、電気が点いた部屋に一人、制服のままベッドに座る姿に目を見張りました。
「何してるの?」
「エ、エランさん!?」
弾かれたように立ち上がると駆け寄ってエランの顔を確認し、胸を撫で下ろしました。
怪訝そうに見つめる様子に、スレッタは胸のあたりを両手で押さえます。
「心配したんですよ。寮室には戻ってこないですし、どこに行ったかも、どこを探したらいいかも分からなくて……」
エランさんは私を見つけてくれたのに。か細くなっていく声に、ふいと目を逸らしました。罪悪感といら立ちがないまぜになって、顔を見ることができません。
「一人になりたかっただけだ」
「何か、あったんですか?」
「君には関係ない」
一段と低く出た拒絶は強くスレッタを打ち、怯えさせたようです。表情をなくしたまま立ちすくんでいます。
おとなしくなった彼女に背を向けて身支度を整えようとしたとき、小さく絞り出す声が耳に届きました。
「あ、あの、ごめんなさい。私、何かしましたか……」
体をかたかた震わせて覗き込む目じりには、涙がにじみ出ています。いささか罪悪感が強くなったエランは、自分の苛立ちを抑え込むためにため息をつきました。
「君は何もしていない。だから謝ることもしてない」
「そう、ですか……」
頷きはするものの納得がいかない様子のスレッタに再度背を向けて、準備を再開します。
「それより夕飯の時間、終わりそうだけど。君は行かないの?」
「い、行きます!」
ぴんと体を伸ばして大慌てで用意を終えると、先に部屋を出たエランの後を追います。
けれど、食堂に向かう道のりでは二人の会話はなく、ぎこちなさが漂っていました。