きみとあなたの我儘な恋心⑦ ――翌日。
白いボールがぽーんと天井目がけて宙を舞い、それに合わせて生徒達のかけ声が上がると、ボールの動きを追っていきます。
クラス合同で行われる本日の体育はバレーボールでした。体育館を網で半分に区切って二試合同時に行い、試合に参加しない生徒達は端に座って観戦し、時々声援を投げたりしていました。
スレッタもその一人として体育座りで試合の行く末を見守っていましたが、どうやら他の生徒と様子が異なりました。ボールを追う目つきは虚ろ、同じクラスの生徒を応援することもなく膝を抱え込んでいます。
明らかに考え事に囚われていました。昨日の出来事が、頭の中をすっかり埋め尽くしていたのです。
(エランさん……怒ってたな)
脳裏に過ぎるのは、緑の奥に燻る暗い炎。
平静さを保とうとしていたものの、抑えきれない強い苛立ちを感じました。――しかも、恐らくスレッタに対しての。動物ゆえの直感が敵意を察知したのです。
話していくうちに分かって謝りましたが、驚くことにエランは否定したのです。
無自覚なのか、それとも敢えてなのか。どちらか分かりませんが、否定されては会話の糸口も掴めないというもの。
(……どうしたらいいんだろう)
今朝は、普段通りとまではいかないものの大分落ち着いているようにも見えました。このまま時間が解決するかもしれませんが――スレッタには判断がつきません。
周りの音も聞こえないくらい悶々としていました。大きなため息をついて、気分転換に観戦しようと顔を上げた矢先、目に飛び込んできたのは白いボールでした。
「スレッタさん!」
「ふえ――ッ〜〜〜!!!」
周囲の制止も間に合わずもろに顔面に食らってしまい、たまらず顔を覆いました。顔全体がずきずきと痛みます。
少しずつ痛みが引いていくのを耐えていると、つんと鼻の奥が違和感を覚えました。 顔から手を離して見ると、そこには血が。 鼻血です。特に強打したのが鼻だったからでしょうか。
呆然としている間にもぱた、ぱたと体育着や床に垂れていきます。
「大丈夫?」
「ティッシュ、差し上げるから使ってくださいな」
「あ、ありがとう、ございます……」
クラスメイトから差し出されたもので鼻を抑えると、気持ちがいくらか落ち着いてきました。床も、いつの間にか誰かが拭ってくれていました。
「保健室への行き方はわかります? 付き添いは誰が――」
話を進めようとした矢先、「あ、あの!」とスレッタは制しました。注目を集めたことに怯えながらも勢いよく立ち上がって、
「わわ、私一人で大丈夫です! 行ってきます!」
面食らったクラスメイト達の中をくぐり抜けて、走るようにして飛び出しました。コートの脇を全力で通り過ぎ、体育館を出る頃にはすっかり息が上がっています。
気遣ってくれ、また助けてもくれて大変有難かったのですが、もし保健室までついてきてくれるとなったら、十中八九何をしていたのか尋ねることでしょう。声も届かないままあんなに派手にぶつかって、気にするなというほうが無理です。
ですが、スレッタは答えられる気がしませんでした。「エランさんのことで頭がいっぱいだった」なんて、恥ずかしくて言える訳がないのですから。
悩み事は解決しないどころか不意の怪我まで負ってしまい、途方に暮れたままとぼとぼと歩を進めていきます。
幸い、迷わずに目的地へ進むことができました。入学したての案内でおおよその位置を覚えていたこと、動物としての持ち前の優れた方向感覚が助けになって、あっという間に保健室と書かれたプレートが見えてきました。
ドアノブに手をかけ、深呼吸。気を取り直して、恐る恐る引きます。
「ごめんくださーい……」
左側にベッド、右側には業務用机や棚、流し台、中央にはテーブルと椅子が四脚。ベッドを区切るカーテンや椅子にはオレンジ色の生地が用いられています。そのすべてに正面の大きな窓から陽光が降り注ぎ、統一感のある明るい内装となっていました。
ですが、保健室の先生は見当たりません。
複数あるベッドのうち窓際のみカーテンで覆われており、誰かが寝ているようですが、ほかに人の気配はないようです。とはいえこのまま帰るわけにもいかず、一縷の望みをかけてそろりと歩を進めます。
「あ、あのー……」
窓際のベッドに近づいたとき、不意にカーテンが開きました。
「スレッタ・マーキュリー?」
「エ、エランさん!?」
ベッドに坐って本を片手に携えているのは、まぎれもなく先ほどまで頭を埋め尽くしていた人物です。相手も予想外だったのか、イエローグリーンの瞳を丸くしてこちらを凝視しています。
保健室で寝ていたということは、体調が悪いのでしょうか。朝見た時も、そして今もさして悪いようには見えませんが――疑問が脳内をぐるぐるしていると、エランが眉根を寄せました。
「顔、真っ赤だけど。どうしたの」
「ボールが飛んできて、顔にぶつかっちゃいまして……」
本を置いて立ち上がると近くでスレッタの顔を改めて観察します。
「汚れと血を拭こう。そうしたら先生を呼んでくる」
適当な椅子に座らせ、棚からティッシュを取り出します。湿らすと「触るよ」の一言添えて優しい力で頬を拭い始めました。
「ありがとう、ございます」
「気にしなくていいよ」
「あと、昨日のことも。お礼が遅くなってすみません――」
ぴたりと手が止まります。
先程よりずっと険しい、強張った表情で眉間のしわを増やしました。
「それ、今言わなきゃいけないこと?」
「あ、えっと、あの……」
話題を間違えたのでしょうか。
立て直さなくちゃと意気込むもののどの話題に変えたらいいか分からず、混乱する思考から弾き出した言葉はさらに悪手でした。
「そ、そういえば、エランさんはどうしてここにいるんですか?」
じっと見つめる瞳の奥で昨日と同じ怒気をはらんだことに、必死だったスレッタが感づくことはありませんでした。
「体調、大丈夫ですか? 今朝は授業受けられないほど悪そうに見えなかったので――」
「君には関係ない」
底冷えするような低い声。
相手の苛立ちに気づいたときはすでに遅く、ぷいと顔を逸らされてしまいました。
スレッタの体が揺らぐほど強く顔を拭うと、立ち上がって保健室を出ていきます。途中かたんと音がしたのは、テッシュをゴミ箱に捨てていったのでしょう。
(また、怒らせちゃった……)
一人残された少女は、暗澹たる思いに体を縮めました。エランが教師を呼んでくるまでの短いはずの時間が、永遠のように感じられます。
どちらも触れてはいけない話題だったのでしょうか。友達に関すること、授業に関すること。学校生活においては日常的なものですが――。
ふと、先輩たちが一部の生徒に疎まれていると囁き合っていたことが脳裏によぎりました。
エランは虐められている――現に自分以外の誰かと会話するところは見たことがなく、その推測は原因として疑う余地はありません。
ですが、スレッタがショックを受けたのはその事実ではありませんでした。先輩たちの口に上がるほどの現状を知らなかったことのほうが、ずっと衝撃的でした。毎日一緒に寝泊まりして、時にはご飯も食べて、たくさんの時間を過ごしているのに、そんなことすら気付けないでいたのです。
だからといって、できることは何もありません。いじめは確かによくないことですが詳細は知らず、何より「関係ない」と本人から何度も突っぱねられています。さらに踏み込めば、いよいよ嫌われてしまうかもしれません。
距離を置かれて居づらくなって、また寮室を出る破目になったら。捨てられて独りぼっちになったら、もうどこへ行けばいいかわかりません。
「このままで……いいんだよね」
言い聞かせるように呟く消え入るような声は行き場所が見つからず彷徨い、虚無へと消えていきました。