温もりはゆるりと溶けて「も、もう帰っちゃうんですか!?」
廊下ですれ違った彼の姿に大きく目を見開いて思わず素っ頓狂な声を上げた赤毛の少女に対し、ごめん、と黄緑色の瞳が申し訳なさそうに伏せられた。
ショックだったけれど、謝ってほしかったわけでもない。驚きと罪悪感で心はあちこちに揺れ動いて、二の句が継げずにいる。
連日の決闘続きで体力に自信のあるスレッタもさすがに辟易していたのだが、今日を楽しみにしていたのは立会人がエランと聞いていたからだ。
エランの時は、決闘が終わった後戦いで良かったところをたくさん褒めてくれるし、労ってもくれる。ホルダーである自分にとって決闘は義務に近い行為なのに、とてもすごいことを成し遂げたような浮かれた気持ちになれるのだ。嬉しさと優しさに包まれて明日も頑張ろうと思えるのは、スレッタにとって素晴らしい贈り物だった。
それが、今日はない。呆然と立ちすくむスレッタに、エランは重い口を開く。
「急遽会社に来いって連絡があったんだ。代理はシャディク・ゼネリがつとめるから」
「そ、それなら仕方ない、ですよね……そう言われたら行かなくちゃいけませんし……」
何とか笑みを作って取り繕ったものの、落胆の色は隠せない。両手をもじもじさせながら肩を落としていると、すっと距離を詰めて顔を覗き込んできた。いつもと変わらない淡々とした顔つきだったが、目には気遣わしげな色が灯っている。
「今日は何を賭けたの?」
「え、えっと、地球寮の皆さんが食堂で食べられる場所、です!」
以前ニカ達が食堂で食べていた時他寮の生徒に追い出されたが、今もその扱いが続いていた。ようやく決闘で解決する段階にまで持ち込むことができたのだ。
「偉いね。なら今日は勝たないと」
「はい! 頑張ります!」
拳を握り締めて気合いを入れる。こうやって言ってもらえただけで、随分と上向きになった。心遣いがとても嬉しい。
ならば、と勇気を持ってもう一歩踏み込む。
「わ、わがままを言っても。いいでしょうか……」
「どうぞ」
「決闘が終わったら、電話でお話したいです。頑張ったことや大変だったことを、聞いてもらいたくて……」
「その頃には終わってるだろうし、いいけど。それだけでいいの?」
それだけ。はたと動きが止まる。
それだけと言われると。それ以上を望んでもいいということだろうか。
「え、えと、ハグとか、き、ききききキスとか……」
慌てて吃ると、少し目元を緩ませてくすりと微笑む。
「戻ったら地球寮に寄るから、その時に」
「……はい。はい!」
あまりの嬉しさで有頂天になってしまう。思い切って進んだら二つ得ることができた。電話で話す時間と、夜の待ち合わせと。ただでさえ予定が合わないのに、二人だけの時間を二回も取れるなんてとても珍しいのだ。
幸せに身悶えしていたから、エランの腕が伸びてきたことに気づかなかった。手を掴まれて引き寄せられる。少年の体にすっぽりと収まって、閉じ込められるように抱きしめられて、少女の体は固まってしまった。
「え、ええええええらんさん!?」
いきなりの出来事に体をばたつかせても、びくともしない。顔もスレッタの肩に埋めているから表情もわからない。ぎゅっと抱擁したまま動こうとしなかったが、しばらくして力を弱めた。
「会社の用事は、楽しいものじゃないから」
声色は普段の低く落ち着いたものなのに、どこか不安が潜んでいた。怯えているのだろうか。どんなことをペイルでしているのか、スレッタは知らないし、聞いても教えてくれないであろうことは分かっている。ただ、それでも愛おしさがこみ上げてきて、おもむろに背中に手を回して抱き締め返す。エランの温もりに身を預けるように体を寄せる。
「じゃあ、今日は二人で労い合いましょう。頑張ったご褒美です」
「うん」
世間から課せられた役割から隠れるように密やかな約束を交わす。
お互いの体温が移るようになって、ようやくどちらからともなく体を離す。不安が払拭されたように晴れやかな顔で笑い合った。
別れを告げて決闘委員会のラウンジに向かう途中、先ほどとは違う高揚感を覚えていた。
自分が一歩進んで甘えたからこそ、エランも一歩歩み寄ってくれた。普段とは違う彼の姿を見ることができた。夜の待ち合わせでも、今までにない一面が垣間見えるのではないか。
決闘に勝ってでも知りたいと思っていた相手についてまた一つ知ることができる期待は、スレッタの胸に確かな火を灯していた。
<了>
20230915