窓の外は星の海 とっさの勢いで、吹雪とともに新横浜のロナルド吸血鬼退治事務所の突き破ってしまった。ソファーに座ってゲームをしていたドラルクは、露骨にいやな顔をした。
「はあ? 何で窓から入ってくるんですか。格好いいとでも思ってんのか? 住所知ってんだから普通に玄関から来いよ。窓代きっちり請求するからな。」
ドラルクにはいつも以上の憎まれ口を叩かれたが、気にする余裕などない私は詰め寄った。
「払う、窓代くらい払うから。本当に彼はここにいるのか? ずっと眠っていたのに。何故目を覚ましたんだ? とにかく会わせてくれ。」
「ここではないです。静かなほうが落ち着いて過ごせると思って、ホテルに泊まってもらっています。」
ホテル代は請求しませんよ。私がもてなしてあげたかっただけですから。ドラルクはそう付け足した。
「新横浜ヴリンスホテルです。顔を出してあげてください。但し扉から。エレベーターの使い方くらい知ってるでしょうが。窓が割れたら寒くなる。」
これ以上彼を凍えさせたくない。温めてさしあげたいのです。ドラルクは呟いて、新横浜ヴリンスホテルのカードキーを私に向かって差し出した。
ドラルクから渡された新横浜ヴリンスホテルのカードキーを手に、部屋番号と該当する部屋の前でしばらく立ち尽くしていた。このドアの向こうに本当に彼はいるのか。山中で野犬に襲われかけていた黄色を庇い、自分が死にかけた彼をどうしても生き長らえさせたくて、ほとんど無理矢理に吸血した。聖職者だった彼を、本人にはほぼ無断で吸血鬼にしようとした。彼はそのまま深い眠りについた。私が未熟だから転化に失敗したのかと思って絶望したが、まさか二百年もあとになって目を覚ますなどと、誰が予想できただろう。
私にはこの扉を開ける資格があるのか。この部屋はドラルクの名義で取っているから、ドラルクに直接渡されたカードキーで開ければ、古い血の一員である私も入ることはできる。しかしこれ以上、彼を勝手に暴くことはしたくない。
息をするように女性をくどき続けてきた私が、何度もためらいながらもついに扉をノックする。いっそ応答がなければいいとすら思っていた。どんな顔をして、なんと言って、彼に会えばいいのかわからない。
数十秒置いて、部屋の中から声がした。
「ドラルクサン?」
二百年近く前に聞いた声だ。忘れたくはなかったが忘れかけていた声だった。
眠たげに目をこすりながら、髪をうねらせた端正な顔立ちの男が扉を開けた。そうだ、こんな顔をしていた。黒い杭のクラージィ。私が棺を凍らせてしまったせいで、もう蓋を開けて顔を見ることすら叶わなかった。
「アナタ……」
彼はまだおぼつかない日本語から、言葉使いこそ古くはあるがなめらかなルーマニア語に切り替えた。
「あなたはあの吹雪の悪魔、いや、ノースディンですよね? すみません、ずっと眠っていたせいか記憶があいまいで、顔がよく思い出せなくて。できればまたお会いしたいとは思っていましたが、あなたから来てくれるとは。嬉しいです。ありがとうございます。」
おそらくドラルクが買い与えたのだろう、いかにも暖かそうな毛深い寝間着をまとった彼は、穏やかな笑顔で私に微笑みかけてくれた。二百年も前に、彼が手にする黒い杭を挟んで対峙した時の、険しい表情とはまるで違う。
彼が教会から追放される原因となり、身を挺してまで吸血鬼を庇って自分が犠牲になることも厭わず、他にも数多積んできただろう善行によって神の御許に召されるはずだった彼を、私が強引にこの世に引き留めた。その私を、彼は許してくれるのか?
「さあ、入ってください。お茶を入れますよ。ケトルと言うんですか? ドラルクさんに使い方を教えてもらいました。とても便利な時代になりましたね。未だに信じられません。ドラルクさんとロナルドさんがとてもよくしてくれています。ここに来れてよかった。アルマジロのジョンくんもとても可愛いです。時々遊びに来ては一緒に寝てくれます。あなたにも使い魔はいるのでしょうか? いつか紹介してください。きっと可愛い。」
柔らかな笑顔を浮かべたまま、彼は私の手を引いて部屋の中に導こうとした。
彼とて元は優秀な悪魔払いだ。吸血鬼を部屋に招き入れるということがいかに軽率で危険な行為なのか、知らないはずがない。何故こんなにも無防備なのだ。ドラルクは一体何をしたのだ。私は手を引く彼を押しとどめ、戸口をまたぐ前に訴えかけた。
「ま、待ってくれ。お前は、お前は本当に私のことを覚えているのか? 私がお前に何をしたのかわかっているのか? ドラルクと私は、いや、私が、神に仕える身だったお前を神から奪った。神にお前を見放させた。高潔な聖職者だったお前が教会から追放され、流浪の身となったのは私のせいだ。クラージィ、私は、お前の名前を呼んでもいいのか?」
「何故駄目なのですか? たかが名前くらい。そうでしょう? ねえ、ノースディン?」
いくらでも呼んでください。彼は言って、私の手を取ったまま、私をヴリンスホテルの一室に引き入れた。背後でドアが閉まった。何故この男は、ためらいもなく吸血鬼と密室でふたりきりになろうとできるのか。
「お変わりがなさそうで何よりです。ノースディン、あなたが私を訪ねてきてくれた。私のこと、覚えていてくださったんですね。それだけで十分です。戸惑うことばかりではありますが、この時代、この国に、目覚めることができてよかったと思えます。」
私を部屋に招き入れたクラージィは、窓の前に立つとカーテンを開けた。吸血鬼となった彼が朝になっても日の光を浴びることがないよう、ドラルクが目張りしたのであろう黒い布も剥がす。
私としては新横浜に大した思い入れがない。ただ、不肖の弟子が何を好んでか今暮らしている町だというだけだ。しかし、流浪の末に長く伸びた髪を翻し、彼が窓越しに見下ろす夜景は明るくて色とりどりで、目を奪われるほどにとても綺麗だった。
「あなたが私を生かしてくれた。おかげでこの夜景が見れた。美しいですね。まるで星の海だ。そう思いませんか? 初めは慣れなくて恐ろしく感じたものの、吸血鬼の時間である暗い夜に人間が灯りを点す。人間も吸血鬼も、今は殺し合おうとせず、共に生き、同じ町でごく自然に過ごしている。二百年前の私が見たかった光景です。」
窓の前の彼が振り帰り、穏やかに微笑んだ。窓の外を星の海のようだと彼は言ったが、灯りを消した部屋の中で夜景を背後にした彼の目は赤く輝いていて、外のネオンよりも、どんな星よりも美しいと思った。人間だった頃は黒かったはずの彼の目を、この私が変えたのだ。私が彼を吸血鬼にし、彼はそれを受け入れてくれた。
「さあ、そちらに座って。話をしませんか? 時間ならたくさんあります。」
今は平和な時代なのですから。私は、誰のことも傷つけなくてよくなったのですね。黒い杭のクラージィはもういません。ただのクラージィです。
そう言って、彼は室内に二台あるベッドのひとつに私を座らせた。ホテルの備品のケトルに水を注いで沸かし始めたが、ふとこちらを見ると歩み寄ってきて、下を向く私の前に膝をつき、私の顔を両手で挟んで上げさせた。親指で私の目元を拭う。そこで私は、自分が泣き濡れていることにようやく気付いた。
何が氷笑卿だ。聞いて呆れる。胸に温かな火を点されて、人間嫌いで冷たかったはずの心臓が溶け出したかのようで、涙が溢れてとまらない。なんといとおしいのだ。私は赤く輝く彼の美しい目に魅入られてしまっていた。彼は微笑みながら、何も言わずに私を見つめ返してくれていた。私はおそるおそる彼の手を取った。彼は振り払おうとしなかった。私を受け入れてくれた。私は額に彼の両手をあてがって、祈りを捧げるように深々と、言葉もなくただこうべを垂れるしかなかった。