忘却願望(不完全版) 意識が少しずつ浮き上がっていく。僕は目覚めたくなんか無くて必死に底の方にしがみ付いたのだけど、もがけばもがくほど急速に覚醒へと引き上げられていく。仕方なく重い瞼を開くと、傑が僕の顔を覗き込んでいた。
「春だからって油断するからだよ。全く、寝るならきちんとベッドで寝な」
僕の目が覚めたことに気づいた傑が呆れた声で小言を言う。傑の顔の後ろ側に見える天井が以前傑と一緒に住んでいた安アパートのものだった。僕はすぐにこれが夢であることに気づいた。
養成所時代、僕と傑は一緒に暮らしていた。理由は単純に生活費の節約と、いつでもネタ合わせが出来るように。芸人として収入が安定してきた辺りで傑がお互い一人暮らしをすることを提案してきたので、一緒に暮らした時間は二年くらいだったけど。
多分、あの頃の夢を見ている。傑と暮らし始めて一年ほど経った頃、僕は成人して初めて重めの風邪をひいた。身体は思うように動かないし、鼻が詰まって息もしづらい。身体中が痛くて苦しいのに眠ることも出来ず、しかし気がつけば意識を失う、というのを何度も繰り返していたのを覚えている。
あの頃はとにかくお互いで作ったネタを見せ合うのが楽しかった。客の事なんか一切考えないで、ひたすらに自分が面白いと思ったネタを書いて、腹抱えて笑う事もあればつまんねーって批評しあったり。それを繰り返していくうちにネタの方は傑が書いた方が受けることが多そうだって結論に至って主なネタ作りは傑の担当になった。僕はネタ作りのために必要な資料や情報、日常で使えそうだなって思ったエピソードを集めて傑に共有したり。最終的に二人で細かい調整やらスピードや展開を考えて一つのネタを完成させる流れが出来上がっていた。
昼も夜も関係なく、バイトの入ってない時間は全部傑のネタ作りのための情報収集をして、疲れたら死んだように眠って、起きたらまた情報収集とバイトの繰り返し。そうしていたら疲労が溜まっていたのか酷い風邪をひいてしまったのだ。
傑は呆れながら看病してくれた。もう成人なんだから、体調管理くらい自分でやりな、とぶつぶつ小言を言いながら、僕の額に冷たいタオルを当てて、焦げ臭いお粥を作ってくれた。
そこまで思い出して、僕はとてつもなく嬉しくなった。だってそうだろ、夢の中の傑はまだ僕の相棒だった頃の傑なんだ。やっと会えたんだ。
良かった、僕、まだあの頃の傑の事覚えてた。
「……何だよ、何かおかしい事でも言ったかい」
「っ…………」
オマエがいるのが嬉しいだけだよって、素直に伝えたいのに。夢の中だからか上手く声が出せない。
「水、飲む?」
そう言って傑は水の入ったコップを差し出してくれた。身体はどこもうまく動かせなくて、困っていたら傑が起き上がらせてくれた。口元に持ってきたコップを少しずつ傾けながら、ゆっくりゆっくり飲ませてくれる。
「ご飯は食べられそうか? レトルトのお粥買ってきたから、食べられそうなら食べな」
食欲は無い。力を振り絞って首を横に振ると、そう、とだけ言った。
「じゃあせめて薬を飲もうか。解熱剤買ってきたから」
そばに置いてあったのだろう薬を口の中に放り込まれた。そして再び水を流し込まれる。つっかえさせながらもなんとか飲み込むと、傑が嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。これで少しは楽に眠れると思うよ」
僕の身体を丁寧に寝床に戻しながら傑が言った。
「傑、ありがと」
「…………どういたしまして」
今度はすんなり声が出た。傑は微かに目を見開いて、それから何かを誤魔化すように応えた。僕が礼を言ったから驚いたのかもしれない。確かに、素直に礼なんて言ったこと無かったかも。でもいいよな、だってこれ夢だし。
「今日のバイト、何入ってたっけ。連絡しなきゃ」
「…………連絡なら私がしておいたから大丈夫だよ。だからゆっくり休んで」
「傑は?」
「私も今日は休みだ」
「じゃあ、一緒にいてくれんの?」
「もちろん」
汗で濡れた俺の頭を、傑が優しく撫でてくれた。
「ずっと側にいるよ」
聞いたことのない声音で、甘く囁かれた。
「…………ははっ」
「悟?」
僕の頭って、僕が思っていた以上にお花畑なんだなと思ったら笑いが込み上げてきた。こんなこと言われたかったんだ。嬉しくて嬉しくて、それと同時に虚しくて寂しくなって、僕の頭を撫で続ける傑の手を掴んで手のひらに頬を寄せた。
乾いているはずの手のひらが僕の汗で湿っている。僕よりもほんの少しだけ低い体温がなんだか心地よくて両手で傑の手を包み込んだ。夢から覚めた後も、この温度を覚えていられるように。
「本当に一緒にいてくれんの」
「うん」
「絶対?」
「絶対だよ」
「約束してくれる?」
「もちろん」
あぁ、なんて。
なんて、都合のいい夢なのだろう。
「嘘つき」
自然と静かな罵倒が口をついて出た。まるで呪いでも吐いているみたいだ。でもいいよね、だってこれ夢だし。
現実の傑は一緒にいてくれなかった。オマエは僕に愛想尽かしていなくなったし、僕はこの後八年間、一人で祓ったれ本舗を名乗り続けるんだ。
でも、それでもいいや。現実で一緒にいてくれなくても、夢の中では一緒にいるって約束してくれたから。僕と一緒にいた頃のオマエが僕の中にい続けてくれるなら、それだけでもう十分だと思った。
また意識が沈んでいく。夢が終わるのを感じる。嫌だな、まだ終わらないで。もうちょっとこのままでいさせてよ。
傑の体温にしがみつきながら、僕はそれだけを願っていた。