忘却願望(後編)1 意識が少しずつ浮き上がっていく。僕は目覚めたくなんか無くて必死に底の方にしがみ付いたのだけど、もがけばもがくほど急速に覚醒へと引き上げられていく。仕方なく重い瞼を開くと、傑が僕の顔を覗き込んでいた。
「春だからって油断するからだよ。全く、寝るならきちんとベッドで寝な」
僕の目が覚めたことに気づいた傑が呆れた声で小言を言う。傑の顔の後ろ側に見える天井が以前傑と一緒に住んでいた安アパートのものだった。僕はすぐにこれが夢であることに気づいた。
養成所時代、僕と傑は一緒に暮らしていた。理由は単純に生活費の節約と、いつでもネタ合わせが出来るように。芸人として収入が安定してきた辺りで傑がお互い一人暮らしをすることを提案してきたので、一緒に暮らした時間は二年くらいだったけど。
多分、あの頃の夢を見ている。傑と暮らし始めて一年ほど経った頃、僕は成人して初めて重めの風邪をひいた。身体は思うように動かないし、鼻が詰まって息もしづらい。身体中が痛くて苦しいのに眠ることも出来ず、しかし気がつけば意識を失う、というのを何度も繰り返していたのを覚えている。
あの頃はとにかくお互いで作ったネタを見せ合うのが楽しかった。客の事なんか一切考えないで、ひたすらに自分が面白いと思ったネタを書いて、腹抱えて笑う事もあればつまんねーって批評しあったり。それを繰り返していくうちにネタの方は傑が書いた方が受けることが多そうだって結論に至って主なネタ作りは傑の担当になった。僕はネタ作りのために必要な資料や情報、日常で使えそうだなって思ったエピソードを集めて傑に共有したり。最終的に二人で細かい調整やらスピードや展開を考えて一つのネタを完成させる流れが出来上がっていた。
昼も夜も関係なく、バイトの入ってない時間は全部傑のネタ作りのための情報収集をして、疲れたら死んだように眠って、起きたらまた情報収集とバイトの繰り返し。そうしていたら疲労が溜まっていたのか酷い風邪をひいてしまったのだ。
傑は呆れながら看病してくれた。もう成人なんだから、体調管理くらい自分でやりな、とぶつぶつ小言を言いながら、僕の額に冷たいタオルを当てて、焦げ臭いお粥を作ってくれた。
そこまで思い出して、僕はとてつもなく嬉しくなった。だってそうだろ、夢の中の傑はまだ僕の相棒だった頃の傑なんだ。やっと会えたんだ。
良かった、僕、まだあの頃の傑の事覚えてた。
「……何だよ、何かおかしい事でも言ったかい」
「っ…………」
オマエがいるのが嬉しいだけだよって、素直に伝えたいのに。夢の中だからか上手く声が出せない。
「水、飲む?」
そう言って傑は水の入ったコップを差し出してくれた。身体はどこもうまく動かせなくて、困っていたら傑が起き上がらせてくれた。口元に持ってきたコップを少しずつ傾けながら、ゆっくりゆっくり飲ませてくれる。
「ご飯は食べられそうか? レトルトのお粥買ってきたから、食べられそうなら食べな」
食欲は無い。力を振り絞って首を横に振ると、そう、とだけ言った。
「じゃあせめて薬を飲もうか。解熱剤買ってきたから」
そばに置いてあったのだろう薬を口の中に放り込まれた。そして再び水を流し込まれる。つっかえさせながらもなんとか飲み込むと、傑が嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。これで少しは楽に眠れると思うよ」
僕の身体を丁寧に寝床に戻しながら傑が言った。
「傑、ありがと」
「…………どういたしまして」
今度はすんなり声が出た。傑は微かに目を見開いて、それから何かを誤魔化すように応えた。僕が礼を言ったから驚いたのかもしれない。確かに、素直に礼なんて言ったこと無かったかも。でもいいよな、だってこれ夢だし。
「今日のバイト、何入ってたっけ。連絡しなきゃ」
「…………連絡なら私がしておいたから大丈夫だよ。だからゆっくり休んで」
「傑は?」
「私も今日は休みだ」
「じゃあ、一緒にいてくれんの?」
「もちろん」
汗で濡れた俺の頭を、傑が優しく撫でてくれた。
「ずっと側にいるよ」
聞いたことのない声音で、甘く囁かれた。
「…………ははっ」
「悟?」
僕の頭って、僕が思っていた以上に御花畑なんだなと思ったら笑いが込み上げてきた。こんなこと言われたかったんだ。嬉しくて嬉しくて、それと同時に虚しくて寂しくなって、僕の頭を撫で続ける傑の手を掴んで手のひらに頬を寄せた。
乾いているはずの手のひらが僕の汗で湿っている。僕よりもほんの少しだけ低い体温がなんだか心地よくて両手で傑の手を包み込んだ。夢から覚めた後も、この温度を覚えていられるように。
「本当に一緒にいてくれんの」
「うん」
「絶対?」
「絶対だよ」
「約束してくれる?」
「もちろん」
あぁ、なんて。
なんて、都合のいい夢なのだろう。
「嘘つき」
自然と静かな罵倒が口をついて出た。まるで呪いでも吐いているみたいだ。でもいいよね、だってこれ夢だし。
現実の傑は一緒にいてくれなかった。オマエは僕に愛想尽かしていなくなったし、僕はこの後八年間、一人で祓ったれ本舗を名乗り続けるんだ。
でも、それでもいいや。現実で一緒にいてくれなくても、夢の中では一緒にいるって約束してくれたから。僕と一緒にいた頃のオマエが僕の中にい続けてくれるなら、それだけでもう十分だと思った。
また意識が沈んでいく。夢が終わるのを感じる。嫌だな、まだ終わらないで。もうちょっとこのままでいさせてよ。
傑の体温にしがみつきながら、僕はそれだけを願っていた。
「………………」
せっかくいい夢見てたのに。
仰ぎ見る天井は、どう見ても安アパートのものには見えない。傍にいたはずの傑もいない。僕は未練がましく自分の両手を広げてみた。夢の中の傑の体温は、もうとっくに手のひらから消えている。
身体を起こすと一気にだるさが襲いかかってきた。ベッドから降り、まっすぐに寝室の扉へ向かうと水の流れる音が聞こえる。傑が来ているようだ。今は何時だろう。あかりの点いていない寝室は薄暗く、日が落ち切っているだろうことしかわからない。僕はリビングに顔を出すこともせずにまっすぐに風呂場へ向かった。寝ている間にかいていた汗のせいか、全身がベタベタで汗臭い。どうやらかなり長い時間眠っていたらしい。
脱衣所で服を脱ごうとTシャツに手を掛けると、控えめなノックの音が響いた。
「悟? 起きたのか?」
傑が脱衣所の扉を開きながら声をかけてきた。僕の顔を見て、何故かホッとしたように笑っている。
「良かった、動けるようになったんだね」
「っ……」
「ちょっと待ってて、いま水を持ってくるから」
動けるようにとはどういう意味か。訊ねようにも乾いた喉が張り付いたようになっていてうまく声が出ない。傑はその様子を見てパッと身を翻し、幾らも経たずに水の入ったコップを持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「…………」
夢の中の傑が同じようにコップを差し出してくれたことを思い出しながらそれを受け取る。一気に煽ると、少しだけ体が楽になった気がした。礼を言って返すかしばらく迷って、結局黙って突き返した。夢の中みたいに素直に礼を言うことは出来なかったが、傑は特に気にした様子もなくコップを受け取った。
「もう身体の調子は平気かい? 頭痛とか寒気は?」
「……別にない」
「そう、寝込んでた間のことは覚えている?」
「寝込んでた?」
鸚鵡返しで聞き返すと、傑は頷いた。
「君、熱出して三日間くらい寝込んでたんだよ。硝子が言うには今までの疲労とか心労が原因だってさ。最近体冷やすことも多かったしそれのせいもあるだろうね。もうベランダで寝たりしないように気をつけて」
「……硝子?」
まるで母親のような事を言い出したので聞き流そうと思っていたのに、知っている名前が出てきたせいで反応してしまった。傑は真剣そうな表情で頷きながら話を続ける。
「高校の同級生で、友人だよ。医者をやってるんだ。君の意識が中々戻らないし、熱も高かったから特別に往診に来てもらった」
「……ふうん」
硝子と最後に会ったのはいつだったろうか。思い出せないくらい時間が経っていることも、寝込んでいたらしい三日間の記憶も一切ないことにも、現実味が感じられなくてどうリアクションを取ればいいのかわからなかった。
「薬処方してもらったから。頓服以外は飲みきりだってさ。お腹は空いてる? これからお風呂入るならその間にご飯準備しておくから」
「食欲ないし、いらない」
「じゃあ軽めのもの用意しておくね」
「…………」
話聞いてたか? そう言いたくなるのを堪えながら黙ってTシャツを脱ぐ。
「病み上がりなんだから軽めにシャワーで済ませなよ。湯冷めしない様にね」
脱衣所から出て扉を閉める直前まで傑は鬱陶しい小言ばかりだった。
三日振りのシャワーを終え、これ以上の小言は不快だからと髪までしっかり乾かしてダイニングに向かえば、焦げた臭いが漂ってきた。多分、お粥か何かを作ろうとして焦がしたんだろう。
「お疲れ悟。髪は……ちゃんと乾かしてるね、うん」
偉い偉い、とでも言うようにキッチンで微笑むこの男が、僕にとって何なのかいよいよ分からなくなってきた。ひょっとして母親として僕の世話を焼いているのだろうか。だとすると僕が何をしても結局小言からは逃れられないのかもしれない。
「お粥作ったから、食べられる分だけ食べてよ。その後は薬ね」
僕が席に着く前に、いつもの定位置に一人用の小さな土鍋が置かれた。こんなもの家に置いていただろうか。何気なくキッチンを見てみれば、いつの間にか壁やらシンク周りにあれこれと小物が増えている気がする。僕が寝込む前のキッチンはここまで充実していなかったはずなのに。
僕がキッチンを見ているのに気づいたのか、傑が照れたように笑う。
「ごめん……ちょっと私物も持ち込んだ」
「…………ちょっと?」
「結構?」
「……」
「いや、ほら、君寝込んでたから。心配で実はここ三日間は勝手に泊まり込んでたんだよね。それで、どうせならと思って家から色々持ってきてて……」
よくよくダイニングを見渡せば、ソファの周辺が何かの巣みたいになっていた。持ち込んだのであろう毛布や仕事に使うらしいパソコン機器や本がソファ前のローテーブルに積み重なっている。傍には小さめのボストンバッグが鎮座していて、中からTシャツと思しき布が飛び出ていた。この三日間、どうやら傑はここで過ごしていたらしい。
……こいつ、まさかなし崩し的に住み着く気じゃないだろうな。
傑の巣と化したソファ周辺を睨んでいると、傑は肩を竦めながら「住み着いたりはしないよ」と言った。
「でももう少しだけ泊まらせて。悟の体調が安定するまでは」
「……目ぇ覚めてんだからもういいだろ」
「それは硝子の診断次第。明日か明後日には来てもらえるようにお願いするから、それまでは我慢してね」
「………………」
硝子って結構忙しかったはずだけど、そんなホイホイ呼び出しに応じてくれるのだろうか。というか、もう目は覚めてるんだから普通に病院に行けばいいだけの話なのに。以前入院していた病院に事前に連絡すれば、こちらの都合も考慮した上で診察くらいはしてくれそうなものだが。
「悟、冷める前に食べちゃってよ。薬も飲まないと」
「……」
焦げの匂いを纏ったお粥は、未だホコホコと湯気を立てている。溢れそうなため息を我慢して、僕は大人しく席についた。
いただきますも言わずに黙々と口に運んでいると、対面に座った傑が何か言いたげにじっとこちらを見つめてくる。気づかないフリで食べ続けていると、やがて傑の方から口を開いた。
「あのさ、悟」
「……」
「その、この間……」
「…………何?」
「ごめん、やっぱり何でもない。起き抜けにする話じゃなかった」
「ごめんね、ゆっくり食べて」と言って、それから傑は何も言わなかった。こちらから聞き出す気にもなれなかったので、傑がそう言うならと僕も黙って食べ進めることにした。
食べ終わってすぐに薬が出てきたのでそれを飲んで、それからすぐに僕は寝室に引き篭もった。眠気なんか全く無かったけど「眠くなったから寝る」と嘘をついて、傑から逃げるようにダイニングを後にした。
「ゆっくり休んで」
傑は寝室までは追ってこなくて、そう言ってただ微笑んだ。
真っ暗な寝室の中、ベッドに座ってぼーっとしていたらふと甚爾と酒盛りしたことを思い出した。確か後片付けはしていなかったはずだ。傑がやってくれたのかもしれない。けれど今更聞きに行く気にもなれなくて、結局僕は布団に潜って時間をやり過ごすことを選んだ。
二日後、傑の言っていた通り硝子が往診にきた。硝子が来るまでの間、傑はこれまで以上に僕の世話を焼いてくれたものだから、正直息が詰まりすぎて窒息しそうだった。昨日の夜に「明日来てくれるって」と傑から言われた時は心底ホッとした。
久しぶりに見た硝子は目の下に隈を飼っていて、相変わらず忙しいんだと察した。記憶喪失のフリをしているため久しぶりと言うことも出来ず、とりあえず無難によろしくお願いします、とまるで初めて行く現場で挨拶するようにしてみたら、思いっきり顔を顰められた。
それから一通り問診を受けて、首に垂らした聴診器を外しながら硝子は口を開いた。
「とりあえずはもう大丈夫」
「本当か? それにしてはまだ顔色が悪いように見えるんだけど……」
「そもそもただの風邪だ。顔色悪いのは貧血気味だからじゃないのか? 入院先の医師からも説明されたんだろう」
「だが、退院してもう二週間は経ってる。他にも何か原因があったり……」
「碌に食事を摂ってないって言ったのは夏油、君だろ。熱出してた間はほぼ食べてないようなもんだったし、とりあえず三食しっかり食わせて体力が持つようなら運動でもさせるんだな。気になるなら鉄分サプリでも飲ませろ」
「………………」
「元々病気知らずの健康体なんだから、規則正しい生活を送らせれば怪我も病気もすぐに治るよ。私が保証する」
「……僕の身体のこと、よく知ってるんだ?」
硝子の言葉が何となく気になって、傑が口を噤んだ事もあってつい口を挟んでしまった。高校を卒業して暫くはそれなりに交流していたものの、ここ数年は全く連絡を取っていなかったはずだ。患者として硝子の世話になったこともないはずなのに、どうしてここまで言い切る事が出来るのだろうか。
「君の働きっぷりについていけなくなって、過労で倒れたマネージャーを何人も知っているからな」
「ふーん……?」
そんな奴らいたっけ。僕は首を捻る。僕についていけなくなったってことは伊地知の他に僕の専属マネージャーがいたということだが、生憎覚えがない。僕が知らないだけだろうか。でも流石の僕も事務所から指名された人間を無視して仕事なんか出来ないと思うんだけど。一人で仕事をするようになってからは受ける仕事の量も明らかに増えて、個人で管理するのが難しくなっていたから、その辺りの相談を事務所としていた、はず。どうだったっけ。
見知らぬ過去のマネージャーたちに想いを馳せる僕を他所に、硝子はテキパキと帰り支度を始めている。長居をする気はないらしい。まとめ終えた荷物を肩にかけたところで、思い出したように「そうだ」と言った。
「夏油、五条のスマホ直しておきなよ。七海と灰原がどれだけメール送っても連絡が付かないって心配していた。記憶喪失が本当なら五条だけじゃ直しにいけないだろう」
「あ……忘れてた……」
傑がしまったとでもいうように顔を顰める。硝子の言葉を聞いて、そういえば最近スマホ触ってないな、と思い出す。元から触る習慣は無かったが、入院中も退院した後も手にした覚えはない。直しておけ、ということは壊れでもしているのだろうか。
「散歩ついでに明日にでも行ってくれば?」
「いや、でもそれは……あ、確かネットで買えるよね。取り寄せにするよ。七海と灰原には私からも連絡しておくから」
「流石に過保護すぎるだろう」
硝子が顔を顰めて言った。僕も同意する。
「事件の犯人はもう逮捕されてる。これ以上警戒する必要があるのか?」
「………………」
傑はただ黙って目を逸らした。硝子が暫く険しい顔で傑を睨んでいたが、根負けしたのかため息を吐いてから「好きにしろ」と言った。
「じゃあ、私はもう行くから。とりあえず三食しっかり食事は摂りなよ」
「……わかった」
「ありがとう、硝子」
礼を言う傑を一瞥してから、硝子は振り返ることなく帰って行った。僕は暫く硝子が出て行った玄関を見つめてから、傑の方に視線を移す。
「今度、お礼がてら硝子も夕食に招いて三人でご飯食べようか。いいお酒用意しなくちゃ」
「そこまでして僕を外に出したくない理由ってなに?」
傑の言葉を無視して疑問を口にする。傑は困ったように眉を歪ませて、「君の為だよ」としか言わなかった。