忘却願望(後編)2 僕のスマホは襲撃時の衝撃か、画面がバキバキに割れていた。半月ほど放置されていたのもあってもう電源も入らない。契約しているキャリア会社に連絡してみたところ補償の対象内らしく、交換修理で対応してもらえることになった。壊れた本体を郵送して三日後には新しいスマホが届いたし、中身のデータは知らない間に行われていたバックアップのおかげで無事だった。
電源を入れた途端に続々と届くメール通知や不在着信を見て、改めて自分の行いがどれだけの人間に迷惑をかけているのかを目の当たりにしたが、特に何をすることも出来ないので返事は出さず、ただ安否確認のメールを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した。七海や灰原からのメールも確認したが、今の状態で何と返せばいいかも分からなくて結局返事をせず仕舞いだ。
ただ何人か、知らない人間からの連絡があったのは気になった。過去のやり取りから見るに誰かが勝手に流出させたわけではなく自分で交換していたようだが、一緒に仕事をした覚えもなければ飲み会に参加した覚えもない。なのに次もよろしくだの何日に飲み会があるだの、どこかのプロデューサーだの俳優だのから連絡が入っていた。
伊地知に連絡して共演したらしい番組を教えてもらい、ネットに上がっている切り抜き動画なんかをいくつか視聴してみたが、全く記憶にない。こんな仕事してたっけ。でも番組内でヘラヘラしながら笑いを取っているのは間違いなく僕だったし、節操なく何でも引き受けては作業みたいに撮影を終わらせる日々だったから、そんなこともあるだろう。
とりあえず、僕が過去の出演番組を眺めている時は傑が変に構ってこなくなることがわかったので、暫くはこのスタンスで過去の再現とやらをしているフリをすることにした。でも思ったよりも自分の仕事ぶりが滑稽に見えてキツイので、これも長くは持たないかもしれない。
硝子から異常なしの診断が下ったので、言っていた通り傑はまた通い妻もどきに戻った。相変わらず僕を外出させたくないらしく、インドア趣味の暇つぶしを勧めてきたり料理を焦がしたり煮立たせたりしている。仕事の方はどうしているのか分からないが、まあ前と同じようにやっているんだろう。
朝起きて、傑がいない間はベランダで何も考えずに過ごし、傑がやってきたら過去の収録を引っ張り出して眺めるフリをして、傑の作った料理を食べて眠る。そんなルーティンが出来上がった。
そうやって自分で状況を動かす気力もなくただただ無意味に時間を消費していたある日の昼頃、再び甚爾がやってきた。
「嫁が倒れた」
「……へぇ」
いつになく落ち着かない様子だが、開口一番そう言われてもどう返せばいいのか分からない。僕からの腑抜けた返事に甚爾は顔を顰めることもなく、話を続ける。
「暫く病院に通う。その間、ガキ共の面倒を見てくれねぇか」
「……そんなに病状酷いんだ?」
「治らねえわけじゃないらしいが、我慢が祟ったらしくてな。暫くは入院生活だ。面会時間は十八時までだから飯時までには戻る。頼まれてくれ、金なら出す」
「まあ、別にいいし金もいらないけど。一応聞くけどなんで僕? 金あるなら子供預かり施設にでも通わせときゃいいじゃん」
「……津美紀はともかく恵がな」
珍しく歯切れの悪い様子を見せる甚爾。僕は黙って続きを促す。
「目ぇ離すと禪院の奴らが恵にちょっかい出してきそうでな。偶に手紙が来る」
「後継にでも据えようって?」
「身の程を弁えろってよ」
「……なるほどね」
甚爾の実家である禪院家は当主交代の時期になると必ず後継問題で揉める。次代当主の決定権を持つのが当主であり、その決定の基準もその時の当主によって変わるために明確ではないからだ。禪院家の今の当主は確か甚爾の叔父とかその辺りのはずで、甚爾自身もその子供である恵も、次代当主に指名される確率は低くない。故にそれを危惧する連中が余計なお節介をかけてくる可能性もあるわけだ。甚爾自身が実家との関わりを断とうとしても、法律上は明確な絶縁が出来ない以上は向こうが放っておかない。
だから僕のところに来たのだろう。僕の実家も禪院家に負けず劣らずの旧家だし、恵にちょっかいかける過程で僕に危害が及べば手を出した奴らはタダでは済まない。一応名目上は僕もまだ本家の一員ってことになってるから、五条家はそれを理由に禪院家を強く批難する。連中もそれはわかっているはずだから、僕がいる限りは早々手を出そうとはしないだろう。
「相変わらずめんどくさそう」
「全くだ」
うんざりしたように甚爾がため息をつく。実家との連絡を一切絶って、嫁と子供と平和に暮らしていただけなのに、興味もない実家の後継問題に無理やり巻き込まれるのはさぞ苦痛に違いない。
「ま、僕はいくらでも時間あるし。構わないよ」
「……悪いな」
「え、気持ち悪」
「ぶん殴るぞ」
そんな訳で子供預かり所となることにした訳だが、ここで一つ問題が発生した。傑である。
認めたくはないが傑は一応僕の世話係だし、うちに出入りしている以上は関わりをゼロにすることはまずもって不可能だし、子供たちの前で怒られるのも面白くないので事前に断っておかなければならないだろう。……怒られる謂れなんかないんだけど。
案の定、その日の夕食時にその話をしたら、顔を顰めて反対された。
「反対だ、子供を引き取るなんて」
「引き取るんじゃなくて、預かるだけ。学校終わってから飯時まで」
「それなら児童館でも使えばいいだろう。なにも君が引き受ける必要は……」
「余程のことがない限りは遅くならないらしいし。万一うちで食うような事があれば僕が作るからオマエは何もしなくていい」
「そういう問題じゃない」
予想通り、傑は「とにかくダメだ」「すぐに断れ」と説教をかましてきた。僕は傑の作ったポークソテー(黒焦げ)をつつきながらそれを聞き流す。コイツにとやかく言われる筋合いもない。
「大体どうして君なんだ? 探せばいくらでもアテはあるだろう。君である必要がない」
「…………」
僕である必要はあるのだが、ここで話した所でコイツは納得しないだろう。薄々気づいてはいたが、傑は僕に外部と接触を持ってほしくないようだ。
何を話しても説得出来なさそうだし、仕方がないので話題のすり替えでもすることにした。
「逆に聞くけど僕がダメな理由は何? 僕の時間をどう使おうと僕の自由だし、オマエに制限される謂れはないだろ」
「そういう話じゃない。悟、君は今の状況を理解していないだろう」
「理解してるわけないだろ、オマエが何も言わないんだから」
僕が睨みつけながらそういうと、傑は押し黙った。これ幸いと畳み掛ける。
「僕を殴った奴は捕まってて、僕がこの状態で、社会的影響力が強いからなるべく家に居てくれって話は事務所からもされてるから理解してる。でもオマエがそこまで執拗に僕と外部を切り離そうとする理由は理解できない」
「切り離そうとは……」
「風邪引いたならわざわざ往診頼まなくても病院行けばいいだけだし、移動だってタクシーでも使えばそこまで人目も気にならない。スマホだって店舗に行けばその場で交換対応してもらえたのに、敢えて時間のかかる郵送を勧めてきたよな。挙げ句の果てには同じマンションの住人同士で話してるだけで不用意に出るななんて、これのどこが切り離そうとしてないっての?」
「………………」
傑が唇を噛んで黙る。何かを言おうとしているのか目があちらこちらへ泳ぐが、僕は気にせずに残りの食事を口の中に押し込んで食器を空にした。
「話は終わり。明日から来るから。さっきも言った通りオマエは何もしなくていい」
「悟っ!」
しっかり飲み込んでから立ち上がって、食器を流しに持っていく。傑が咎めるように僕の名前を呼ぶが、僕はもう何も聞きたくなかったのでそれを無視して、その日はそのまま寝室に閉じこもった。傑はその後、無理やり寝室にやってくることもなく食器の片付けをしてから帰ったようだった。
それから数日後、うちはすっかり子供達の溜まり場と化した。
「はい、せんせー! 質問です!」
「はい、悠仁くん」
「これの答え何!?」
「教えちゃったら宿題の意味がないね」
勢いよく手を挙げて分からない問題の答えをストレートに聞いてくる悠仁の無邪気な姿に苦笑しながら、僕は少しずつヒントを出して考えるよう促す。
正直、マトモに子供の相手などした経験が無かったので少しだけ不安な部分はあった。安易に引き受けたつもりはないが、僕に子供の相手って出来るのかな、と。でも、実際に子供たち……津美紀と恵は礼儀正しい良い子たちだった。あの甚爾の子供か本当に疑わしいほど。
流石に、最初は知らない家で過ごす事に対して緊張している様子だったが、第一印象が良かったせいか、それとも子供たちの社交性が高いからかすぐに慣れたようだった。
僕は分かる範囲で子供たちの宿題を見てやったり、甚爾に買ってこさせたおやつや飲み物でもてなしたりしていたが、本当に聞き分けの良い子たちであるためにほとんど手を焼かされるような事はなかった。ちなみに、甚爾が買ってきたおやつは僕のイメージしている子供のオヤツとは少しズレていて、飲み物はジュースではなくお茶だし、オヤツはクッキーとかケーキではなく甘さ控えめの煎餅とかだった。津美紀と恵の好みらしい。渋い。
うちに通うようになって暫く経った今では、恵の同級生でありあの時ベランダから降りてこようとしていたとんでも小学生こと虎杖悠仁もたまに遊びに来ては一緒に宿題をやっていたりする。今みたいに。
「五条先生の教え方、学校の先生より分かりやすいかも。な、伏黒!」
「……まあ、そうかもな」
「私もそう思うよ! 悟さんの説明、本当に分かりやすいもん」
「それは光栄だね」
お遊びからガチ系まで様々なクイズ番組にも出演している僕なので、小学生の学校の宿題なんて朝飯前だが、そう言われて悪い気はしない。程なくして三人とも宿題が終わったので、三人交代でゲーム機で遊んでみたり、学校の話なんかを聞きながらおやつを食べていたらインターホンが鳴った。
「はい」
「俺だ」
スピーカーから無愛想な声が聞こえてくる。時計をチラリと見ればまだ五時を過ぎたところだった。どうやら今日は早めの帰宅になったようだ。
子供たちに帰る準備をするよう伝えて一人で玄関まで行けば案の定、声よりも無愛想な面をした甚爾が玄関前で立っていた。
「今日は早いんだね」
「まあな、嫁からお前に渡せって頼まれた」
ん、と大きめのビニール袋を差し出された。中には艶々とした美味しそうなさくらんぼが入っている。
預かり賃の代わりか、甚爾は三日に一度は何かしらの手土産を持ってやって来る。決まり文句はいつだって「嫁に言われた」だが、実は甚爾自身が用意している事を津美紀が教えてくれたので僕は知っている。というか子供たちを使って僕の好きな物を聞き出そうとしているせいで筒抜けなのだ。
だがまあ僕も大人なので、揶揄うような真似はしない。素知らぬ顔で受け取りながら、わあ、と反応をしてやる。
「美味しそう。良いの、こんなに沢山」
「あぁ、嫁の実家からたまに送られてくるから気にせず食え」
「じゃあ遠慮なく。みんなの明日のおやつに出そうかな」
「一応言っておくがお前用だからな」
「みんなで食べた方が美味しいじゃん」
玄関先でそんなやり取りをしている間に、帰り支度を整えた子供たちが玄関にやってくる。甚爾の存在に気がついた悠仁が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「あ、伏黒の父ちゃん! こんばんわー!」
「おう、爺さん元気か」
「元気!」
恵と津美紀は父親だから慣れているのだろうが、甚爾のヤクザ顔負けの仏頂面に臆せずピースサインを返せる悠仁は相当肝が据わっている。
「悠仁、明日も来るならおやつはさくらんぼだよ」
甚爾から手渡されたばかりのビニール袋を掲げてみせると、悠仁は目を輝かせながら無邪気にはしゃいだ。津美紀は良かったねぇと笑い、恵は近所迷惑だと顔を顰めた。
和気藹々。そんな言葉がぴったりな空間だなと思ったその時、聞き慣れた足跡が耳に届いた。甚爾が自分の背後を振り向く動作をするのを視界の端に映しながら、僕は敢えて恵や悠仁たちに視線を向ける。
「……どうも」
「おう、邪魔してるぜ」
今日も傑がやってきた。剣呑な雰囲気を可能な限り押し殺しているのであろう短い挨拶。だが、明らかに歓迎していないのが丸わかりのそれに、僕の機嫌は急降下していくし、甚爾は呆れたように僕を見る。大人たちの間に漂う妙な雰囲気を敏感に感じ取った子供たちが不安そうな目を僕や甚爾に向けてきたので、僕はなるべく優しく帰宅を促した。
「ほら、みんなそろそろ帰らないと。悠仁は帰り道暗くなっちゃうし、恵と津美紀もご飯遅くなるでしょ」
「う、うん」
「……悟さん、今日もありがとうございました」
「……また明日」
「はーい、三人とも。また明日」
甚爾に帰宅を促す視線を送ると、呆れたように肩を竦めてから片手を上げて去っていく。甚爾は傑のことなど知らん顔で隣を素通りし、子供たちも戸惑いながらも後に続いていく。伏黒姉弟に別れを告げて階段を降りていく悠仁の後ろ姿を見送ってから、僕は仕方なく傑に視線を向けた。
「………………入るなら入れよ」
「あぁ、すまない」
傑が玄関を潜ったのを確認して、僕は踵を返してリビングに戻る。ダイニングテーブルのからの食器類は綺麗に台所の流しに片付けられていたので、僕は貰ったさくらんぼの袋をそのまま冷蔵庫に突っ込んで洗い物に手をつけた。後からやって来た傑は、買って来たのであろう食材をダイニングテーブルに置いて部屋の中を見回している。
「悟」
「…………」
「ゲーム、やってくれたの?」
「………………」
傑の言葉に背後を振り返れば、ソファの上に出しっぱなしの携帯ゲーム機が放置されていた。いつか傑が買ってきたやつだ。
「…………別に。三人に触らせてただけだよ」
津美紀と恵はあまりゲーム自体に興味がなく、悠仁も同居している祖父が機械系に疎いだとかでゲーム機をあまり触ったことがないと言っていたので少しばかりやらせてみたのだ。三人とも一度やってみればかなり興味が湧いたらしく、どうにかして買ってもらおうと微笑ましい作戦会議を開いていた。
「君はやらなかったのか?」
「興味ないし」
「………そう、か」
嘘だ。本当は僕もお手本がてら少しは触った。なんなら三人がゲーム機を買ってもらったら対戦する約束までした。だが素直にそんな事を言ってやる必要はない。
大した量もないので洗い物はあっという間に終わった。傑が冷蔵庫に食材を仕舞うのを一瞥してから、いつもの定位置へと収まる。
「悟」
「…………」
「何度も言ってるけど、同じマンションの住人だからって気を許しすぎるなよ。特に差し出される食べ物には気をつけて」
いつもの小言が始まった。どうやら傑は、僕が甚爾から食べ物を受け取ることが気に食わないらしい。何か毒でも盛られると思っているのだろうか。まあ、傑からすれば記憶喪失であるはずの人間が、同じマンションの住人であるというだけで子供を預かったり食べ物を貰ったりしているのだから警戒するのも無理はないのかもしれない。僕は、甚爾が危険でもないし毒を盛るなんて遠回しな事はしない奴だと分かっているけれど、傑にそれを理解しろというのは難しいのだ。理解させるつもりも義理もないけれど。
ここ数日で僕と傑の関係は明らかに以前とは違うものに変化していた。具体的に言えば険悪というか、多分だけど解散直前だったあの頃と似たような感じ。今思えばあの頃の傑は何かしらの苛立ちを抱えていたように思う。本当に、今更そう思った程度だけど。
あの頃の傑の苛立ちの原因は知らないけど、現在の原因は明らかに僕の行動だろう。自分の忠告を無視して外部と接触を持とうとする僕に対して、傑は苛立ちを感じているのだと思う。そして僕はそんな傑に清々すると同時に苛立ってもいる。今の今まで連絡を絶っておいて、なぜ記憶喪失になった程度でそこまで口を出されなければならないのか。たかが近所付き合い程度のことで。
少し前までの傑は、夕食を作りながら当たり障りのない話を振ってきて延々と一人で喋っていたが、最近は苛立ちを表すように黙々と作業している。僕から話を振ることは絶対にないので室内には調理音だけが響いていた。
BGM程度にまた昔の収録でも流そうかとも思ったが、最近はあまりの滑稽ぶりに嫌気が刺していて無理をしてまで見ようという気にもならない。というか子供たちが帰ったことで気が抜けたのかなんだか妙に頭も体も重い。何をする気にもなれず、結局ただ黙ってソファで置物を続けた。
「悟、ご飯できたよ」
ただひたすらにぼーっとしていたら、いつの間にか調理を終えた傑が声を掛けてきた。いつものように黙って席に着く。傑も同じように僕の正面に座って食器を手に取った。
今日の夕食はサラダとおそらくはペペロンチーノを目指した何かなのだろう。切って盛り付けるだけのサラダはともかく、メインであろう大皿には黒いカスみたいなのに塗れたスパゲティが盛り付けられている。この黒いカスは多分炭と化した唐辛子とにんにくに違いない。フォークで巻いて一口食べてみれば、焦げの風味と塩辛さが口いっぱいに広がった。ちなみに麺は茹ですぎたのか柔らかくもさもさしている。ちょっと食べにくい。
「…………どう? 食べられそう?」
気まずそうに傑が聞いてくる。今日のは本人の中でもかなり失敗寄りなのかもしれない。食べられないほどではないので、小さく頷くだけで返事をしてさっさと食べ進めた。傑はその後、「無理そうなら残していいから」とだけ言って、あとは会話もなく食事を終えた。
食べ終わってからペペロンチーノってシンプルだけど作るのかなり難しい料理だったよな、と昔出演した番組で知った知識を思い出す。無難にミートソースとかにすればまだ失敗も誤魔化しやすいのに。そう思ったけど口には出さず、小さくご馳走様と呟いて食器を片付けた。
「悟、なんだか顔色悪くないか?」
料理をするのも食器を洗うのも傑がやりたがるので、食べ終わってすぐに定位置であるソファに座ってまたぼーっとしていたら、いつの間にか近くまで来ていた傑に心配そうに声を掛けられた。額に触れようと手を伸ばしてきたので払いのけると、気にした素振りもなく引っ込める。
「また体調崩したかい?」
「別に」
「別にじゃなくて、頼むから調子が悪いなら言ってくれ。また前みたいに倒れたら……」
「食い終わってから胸焼けと胃もたれがするくらいだよ」
「…………」
気まずそうに目を逸らされた。ちなみに胸焼けと胃もたれは事実だ。普通のペペロンチーノより油っぽくて塩辛く、見た目よりも質量があったので、いま僕の胃は必死に消化活動に勤しんでいる。食べている最中はそこまで辛くもなかったが、内臓機能に関してはそうはいかなかったようだ。
「………他に調子の悪いところは」
「特にない」
「そうか……」
傑は気落ちしたように肩を落とす。思ったよりも落ち込んでいるようで、ほんの少しだけフォローを入れた方がいいかとも思ったがすぐにやめた。そんな事をしてやる筋合いも気力もない。
「食後のコーヒーでも淹れようか。……ちゃんとインスタントだから安心して」
何に対して安心しろと言っているのか定かではないが、僕としてはあっても無くてもどっちでもいい。特に返事もせずにソファに深く座り直した時、本日二度目のインターホンが鳴った。
「……こんな時間に誰だ?」
傑の表情が瞬時に険しいものに変わった。こんな時間と言っても八時にならない程度だが、確かに人の家を訪ねるにしては少しばかり遅い時間帯か。
僕が重い腰を上げてインターホンに出ようとすると、傑が強く肩を掴んで静止してきた。
「私が出る」
「僕の家なんだけど」
「いいから、下がって」
こうなると傑は絶対に譲らない。ため息をついて顎でさっさと出ろと示してやれば、神妙な顔で応答ボタンを押した。
「はい、どちら様ですか?」
「伏黒だ」
「こんな時間に何の……」
「今行く」
「待て! 悟っ!」
スピーカーから甚爾の声が聞こえてきたので、傑の後ろから声を掛けて玄関に向かう。傑が背後で静止の声を上げて追いかけてくるが、気にせず解錠してドアを開けた。扉の先には当たり前のように甚爾がいた。
「飯時に悪いな」
「別に。なんか忘れ物?」
「悟!」
追い付いた傑が腕を掴んで無理やり室内に引き戻そうとするのを振り払う。僕と傑を見比べて、甚爾がまた呆れた表情を浮かべた。
「お前な……」
「要件。早く」
睨みながら急かすと、甚爾は小さくため息を吐きながら面倒そうに頭を掻いた。さっさとして欲しい。後ろで傑の纏う雰囲気がどんどん殺気立っていくのを背中で感じながら僕はじっと甚爾を睨み付ける。
「明日の予定なんだが……」
僕の視線に根負けして喋り出した甚爾は、しかし眉を顰めてまた口を閉じた。
「甚爾?」
「……オマエ、なんか顔色悪くねえか?」
訝しんで名前を呼べば、さっきの傑と全く同じ事を言い出した。どうやら僕が思っている以上に傑特製ペペロンチーノによって引き起こされた胸焼けと胃もたれは重症らしい。
歳かなあ。まだ二十代だと思ってたんだけどなぁ。ていうか同じ物食っててなんで傑は平気なんだ。
思わず遠い目になっていたら、甚爾がやけに分厚い手のひらを僕の額に当ててくる。
「なっ!」
「………何?」
背後で傑がひっくり返った声を上げ、僕は甚爾の手を払い除けながら顔を顰めた。甚爾は僕の額に置いた手のひらを一瞥して、眉を歪めながら言った。
「オマエ、熱あんぞ」
「えっ」
予想外の言葉に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。つい二週間前に熱出したばっかりで、胃もたれと胸焼け以外に身体の不調もないのに熱?
「嘘だと思うなら体温計で測ってみろ。それほど高くはねぇだろうが、少なくとも平熱ではねぇだろ」
「気のせいじゃない?」
「オマエもう少し自分の身体に関心持て。………明日の予定はこりゃ変更だな」
「……………」
そう言われて自分の額に手を当てて見るも、手のひらより熱いという事しかわからない。でもとりあえず、背後で傑の殺気立った雰囲気が爆発しそうなことだけは感じ取れたので、適当に頷いて納得した振りをする。甚爾が帰った後の傑の相手が大変そうだなと思った。
「取り敢えずオマエの体調が戻るまではガキどもを預けるのは無しだな」
「まあ、感染したら困るしね。……体調良くなったら連絡するよ」
「あぁ。じゃあな、さっさと寝ろよ」
別に体調が悪いことを自覚した訳ではないけれど、子供たちに万が一影響が及ぶことを考えれば会うのは控えた方がいいに決まっている。僕が同意すれば、甚爾は一つ頷いて、それからさっさと扉を閉めて去っていった。話が早すぎる。
「………………」
「………………」
そして玄関には、気まずい沈黙が満ちた。正確には気まずいと思っているのは僕だけで、傑は気まずいどころか怒り狂っているに違いない。怒りに満ちた視線を背中に感じる。
「………………」
「………悟」
「………………………」
「取り敢えずすぐにベッドに横になって。それから熱図ろうか」
「………………………」
怒気に満ちた低い声だ。体調不良を指摘されたせいか、傑のせいかはわからないが。何だか視界がグラグラと揺れているような気がした。
流石にこの状況で否とは言えないので、大人しく傑の指示に従った。
結果から言えば熱があった。38℃台だった。
甚爾のあれは野生の感か、それとも父性の為せる技みたいなもんだったのだろうか。あんなんでも本当に父親なんだなと思いながらベッドで横になりながら目を瞑った。
気がついたら、僕はソファに座っていた。いつもの定位置。傑が来たら、余程のことがない限りは僕はここから動かないと決めている場所。
キッチンの方から物音がする。自然と向けた視線の先に傑がいた。何か料理を作っている。僕のための晩御飯。出来上がった料理を皿に盛って、ダイニングテーブルに並べるために振り返った傑の表情は能面のようなそれだった。
何の感情も乗っていない顔。自分の中身の一切を覆い隠す表情。僕のことを、見ようとしない目。
僕は、そんな傑の顔を見て、やっとか、と思った。
長い一ヶ月だったなぁ。やっと終わるんだなぁ。
僕のことを見ないまま、傑が口をひらく。
「悟、解散しよう」
覚醒。
意識はあるものの脳も身体も追いついていない。ただ勝手に目が開いて天井を見ている。そんな感じ。
全身は汗でびっしょりで、布団の中にいるはずなのに身体は芯の芯まで冷え切っている感覚がする。頭の奥が冷たくて、鈍く痛む。心臓がバクバクと音を立てているのに、普通に呼吸が出来なくて、浅い呼吸をなるべく音を立てないように繰り返すので精一杯だった。
夢。夢だ。僕は夢を見ていた。
何度もそう言い聞かせて、身体のコントロールが出来るようになるのを待つ。でも身体は冷たいままで、呼吸も浅いまま。胸の奥からじわじわと湧き上がる絶望感が身体全部を支配しようとしている気がした。
「終わらせなきゃ」
唐突に、この記憶喪失ごっこを終わらせようと思った。事務所も辞めよう。何なら日本から出たっていい。
とにかく、傑のいない場所に行こう。
夢を見た。そして気付いた。気付いてしまった。
僕はまた、傑に捨てられる事を恐れてる。
望んでいたはずのことがこんなにも怖い。多分、もう一度同じ事を言われたら、僕は満足に呼吸も出来なくなる。
生きていけなくなる。
僕は一人でも生きていけるはずだけど、アイツに捨てられたらきっと死んだも同然だ。ゾンビみたいな生き物になるんだ。僕が僕として生きていくために、傑という存在が必要なんだ。
出会う前なら必要なかった。でも出会ってしまったから。僕の魂を構成する一番大事な部分が傑の形になってしまったから、もう無かった事には出来ない。
僕には傑が必要なんだ。
でも傑には僕はいらないし、僕が居なくたって傑は生きていける。それはあの八年で証明されたことだ。
僕はずっと傑が去っていくのを待っていたはずだったけど、それは飛んだ勘違いだった。大体それなら僕の方からさっさとネタバラシをすれば良かったんだ。記憶喪失なんて嘘だって。そしたらきっと、傑は呆れてすぐに去っていただろう。なのにどうして一ヶ月もダラダラこんな生活を続けてしまったのか。簡単だ、僕が終わらせたく無かった。傑と居たかった。こんな状態だからこそいてくれただけの傑が、これからもずっといてくれる事を望んだ。
だけどもうこの生活を終わらせなければいけない。こんなの長く続くはずないってわかってる。僕の中の傑まで居なくなってしまう前に、傑に否定されてしまう前に、僕の方こそここを出なくてはいけない。
夢の中の傑だけは、僕の相棒の傑で居てほしいから。それだけは失うわけにいかないから。いつか見た夢で得たあの温度が、僕はずっと、どうしようもなく恋しかった。
「悟?」
静かに寝室の扉が開いた。逆光の向こう側に見慣れた人影が立っている。今一番会いたくない人間が、そこにいる。
「起きたのかい?」
足音もなく近寄ってきて、横たわったままの僕の顔を覗き込む傑の表情を僕は直視できない。
「顔色が悪いね。真っ青だよ。身体も震えてるしもしかして寒い?」
動けない僕の顔に傑のふしくれだった手が伸ばされる。手のひらは、最初は額を触り、それから頬と首を当てられた。
「熱はちょっとは下がったみたいだけど、まだ微熱程度かな。寒いのは汗をかいているせいだろうね。着替えようか。身体も拭かなきゃ。動けそう?」
引き攣った声さえ出ない。怖い、と素直にそう思った。
何となく直感的にわかる。本心を覆い尽くす優しい声音。傑が感情を隠している時特有の穏やかな話し方。
「ご飯も用意してあるよ。食べられる分でいいから食べよう」
「…………」
頭の芯が凍ったようになったまま、僕は動けなくて。見かねた傑に上半身だけ起き上がらせられた。ぐらりと頭が揺れて、このまま気絶してしまいたいと思ったのに、程なくして眩暈は治ってしまった。傑は僕が起き上がったのを確認して一度出ていき、程なく片手に濡れたタオルと乾いたTシャツを持って戻ってきた。
「熱かったらごめんね」
そう言って手慣れたように僕の上衣を脱がし、汗を拭う。硬く絞られたタオルは少し熱くて、すぐに僕の身体よりも冷たい温度になった。背中や脇や首辺りの汗がしっかり拭われて、少しだけさっぱりした感覚を得る。拭い終わってすぐに、乾いたTシャツを着せられた。
「少しはすっきりしたかな? じゃあ行こうか」
どこに、と聞く暇もなく、ベッドから起き上がらされて腕を掴まれる。連れて行かれた先はいつものダイニングだった。いつもの定位置のソファまで連れて行かれて、「ここで待ってて」と座らされる。そして傑はキッチンの方へ向かう。
途端に心臓が早鐘みたいに動き出す。まるで、あの夢のような。
程なくしてキッチンから何かを温めているのであろう、いい匂いが漂ってくる。少しだけ懐かしさを感じるその匂いが何なのか検討もつかないが、傑があの夢の中と同じように料理をしていることだけはわかる。
振り返らないで、そのままでいて、もう何も言わないで。
今すぐここから逃げ出したいのに身体は凍ったように動かなくて、ただ傑の動向から目が離せない。
やがて、傑が火を消し止める音がした。おそらくは調理工程が終了したのだ。手元は見えないが、おそらく今は料理を盛り付けている。
せっかく身体を吹いたのに、また全身から嫌な汗が吹き出ていた。頼むから夢なら覚めてほしいと、今にも叫び出しそうなほどに身体が震えている。
「悟」
丼を持って振り返った傑の表情は、まるで口だけ微笑みの形をした能面のようだった。
「出来たよ」
夢とは違う言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。ダイニングテーブルに座るよう促されて、ぎこちない動きで何とかそこまで足を引きずって歩き、着席した。傑が僕の目の前に丼を一つ置いた。
テーブルに置かれたそれはうどんだった。でも、傑の作るいつものうどんじゃない。いわゆる京風うどん。傑が作るのはいつもめんつゆとかを使った関東定番の黒いつゆのうどんだったのに。
「それじゃ食べようか」
冷たく優しい声がする。自分の心臓の音が聞こえる。胃が丸ごと出てきそうなほど気持ち悪い。
強張る指をどうにか動かして、箸でうどんを一本摘み上げた。一口啜る。久しぶりに食べる京風うどんは、薄味すぎるのか味がしない。
「どう? 食べられそう?」
「…………」
口元だけ貼り付けたような笑顔のまま、傑が尋ねてくる。僕はいつも通りを意識して何も言わずに食事を続けた。いや、いつも以上に意識して食事という行為をしている。そうしないと今にも箸を落としてしまいそうで。
やっとの思いで食べ終わり、箸を置く。胃に優しいはずのうどんを食べたのに、胃もたれしたように気持ち悪い。今にも吐いてしまいそうだ。
「どうだった?」
「?」
「今日のうどん、どうだった?」
「…………」
いつもは感想なんか求めないのに。今食べたうどんには特別な要素でもあったのだろうか。問われて器を見ても、そこには透明なつゆと少しばかりのネギしか残っていない。
「君、うどんは京風の方が好きだって聞いてさ。知らなかったな、私の作る料理を何でも食べてくれてたから」
「…………」
聞いた? 誰から? というかうどんに対してそんな拘りを持ったことなんかないのにどこからそんな話が出て来たんだ。
ぐるぐると思考だけが巡る。言葉は何も出てこない。
「私の料理、そんなに美味しくないのに君はいつも文句ひとつ言わずに食べてくれてたよね。嬉しかったよ。だって両親にさえも酷評されるレベルだったのに、君だけは何度も強請ってくれたし、おかわりしてくれたし」
「…………」
傑は立ち上がって役目を終えた食器類を回収していく。キッチンの方へ行っても傑の語りは続いた。
「なのに好きな食べ物は教えてくれないんて、あんまりじゃないか。何で教えてくれなかったの? 言ってくれれば頑張って作ったのに。………………まあ頑張ったってこのうどんには勝てないか」
「……?」
まるで、今日のうどんを作ったのは傑ではないような言い方だ。流しに食器を置いた傑がこちらを振り向いた。先ほどのような貼り付けたような笑みはそこには無かった。
「ねえ、悟。アイツは君の何?」
「…………、は?」
「子供、二人もいたよねぇ。嫁がどうとか言ってたから奥さんもいるはずなのに。……そんな奴がいいわけ、君は」
「……何の、話」
やっと絞り出せた僕の声は、聞こえたのか聞こえなかったのか。傑は続ける。
「私、言ったよね、知り合いだとしても不用意に出るなって。なのに出ちゃったどころか家に上げて酒盛りしたんだよね? 悟、下戸ですぐ寝ちゃうから滅多に飲まないのに。しかも困ってるからって子供の面倒まで見るなんて。君たち、相当な仲なんだろ」
「………っ?」
多分、傑は今甚爾の話をしている。でも、他は何の話をしているのか全くわからない。そんな奴がいい? 相当な仲ってなんだ。
混乱する僕を他所に傑がキッチンからまっすぐこっちに向かってくる。雰囲気に圧倒されて思わず立ち上がろうとしたら足がもつれて椅子から転げ落ちた。その上から更に強い力で両肩を抑えられ、至近距離で睨みつけられる形で僕は動けなくなる。
「ねえ、悟。本当は覚えてるでしょ?」
確信を持った低い声。頭の中が真っ白になって、何も言えなくなる。
「仮に記憶喪失が本当だったとしても、退院した頃にはちゃんと思い出してたんじゃないの? 私と組んでた時のこととか」
「…………っ」
「何でって思ってる? 簡単だよ。君、最初から私の料理に文句一つ言わずに食べてたろ。君の性格なら得体の知れない奴の作った料理なんか手を付けないか、食べたとしてもあまりの不味さに文句言ってる」
「…………」
「なのに君は私のことを得体の知れない相手だと言いながら、私の差し出すものを拒否することは無かった。……君が何も言わなくても、君の態度は語ってるも同然だったよ」
傑の料理をまずいなんて思ったことないのに。脳が現実逃避でも始めたのか、そんなことを思ってしまった。
「ねえ、悟。私のことどう思ってる? 嫌いになった? もう関わりたくない? 私はね、出会ってからずっと君のことだけ考えて生きてきたよ。離れてからも、君の事を思わない日は一度として無かった」
ぶつぶつと、まるで独り言のように何かを言っている。意味がわからない。だって勝手にいなくなったのは傑の方だ。僕の拒絶したのは傑の方なのに、なんで僕が傑を拒否したみたいな事を言うんだ。
肩に食い込んだ指が痛くて、思わず振り払おうと腕を掴んだら景色がひっくり返った。
「っ!」
何をどうされたのかは全くわからないけど、多分床に叩きつけられた。一瞬息が出来なくなる。頭は打たなかったようだが背中が猛烈に痛い。動けない。傑が更に馬乗りになってきて、余計に動けなくなった。
「ゲホッ、退……け……」
「嫌だよ。もう絶対に手放したりしない」
「な、に……?」
「女が相手ならまだ我慢出来たのに。よりによってあんな男だなんて。こんな事になるってわかってたら絶対に君を一人にしなかったのに」
「何、言って……」
動かない手足を何とか振り回して抵抗するが傑はビクともしない。そういえばコイツ格闘技経験者だ。コンビ組んでた頃も道場破り的な企画でプロ相手にいい試合したりしてたレベルの。傑から見たらいまの僕の抵抗なんて虫のバタつき程度のものなのかもしれない。
まるで呪詛のような傑の言葉は続く。
「ねえ悟、あんな奴のどこがいいの。だって妻子持ちだよ。明らかに君を一番大事にするような奴じゃないだろ。それなのになんであんな奴を選んだの?」
「何の話だよ……。何言ってんだよお前は……!」
「惚けるつもり? あのね、あんなのと付き合ってたって君は幸せになれないよ。週刊誌にすっぱ抜かれでもしたらどうするつもり? 今まで築いてきたキャリアも何もかもを犠牲にしてでもアイツとの関係を続けたい?」
「とぼけてねーしオマエが言ってること訳わかんねーよ! 週刊誌がどうとかキャリアがどうとか、もっと分かるように説明しろっ!」
反射的に腹の底から思い切り叫んだ瞬間、顔の真横で破裂音が響いた。それは傑が俺の顔の近くの床を思い切り殴りつけた音だった。ヒュッ、と思わず息を呑む。背筋が凍った。殴り合いの喧嘩ならしたことはある。でも今のこれは明らかに違う。
…………殴り殺されるかもしれない。そんな考えが頭を過ぎる。
傑は怒りのあまり身体を震わせているようだった。狐みたいな目をかっぴらいて、痛いほどの視線を僕に注ぐ。
「…………こんな事なら、あの時無理やり犯してしまえば良かった」
ぽつ、と低い声の呟きが傑の口から溢れた。相変わらず何を言いたいのかさっぱりわからない。犯すって何だ。誰を? コイツはさっきから何の話をしてる。昔っからそうだった。聞いてもない説教は延々するくせに、大事なことは何も話してくれない。この一ヶ月や今だってそうだし、あの時もそうだった。
一人で考えて一人で結論出して、勝手に居なくなっていきなり現れて訳わかんない事で怒って。
「…………何で」
「…………」
「何でオマエいっつもそうなんだよ……」
「……悟?」
限界だ。もう無理だ。何が限界なのかも何が無理なのかもわからないけど、ただ漠然とそう思った。喉の奥と目頭がカッと熱くなって、気づけば馬鹿みたいに涙が出てきた。できる限り身体を背けて両腕で顔を覆った。涙も鼻水も止まらなくて、上手く息も出来なくて、汚い嗚咽を漏らしながら俺は泣いた。
傑は何を思ったのか、やっと俺の上から退いたと思ったら今度は覆い被さってきた。
「ごめん、ごめん悟。悪かった。私が悪かった。ごめん」
「ひっ……うぐっ、ひっ……」
傑は耳元でただひたすらに謝罪を繰り返す。僕は涙が止まらなくて、傑の体温に包まれながらずっと泣いてた。
「すまなかった」
「………………」
「………………」
「…………‥‥」
傑が何も言わなくなって、部屋の中には僕が鼻を啜る音と窓の向こうの雑音だけが満ちていく。いつまで続くのかもわからないこの沈黙に、先に耐えかねたのは僕の方だった。
「……僕、うどんに拘りとかないんだけど」
「えっ?」
傑が驚いた顔で僕を見る。目を見開いた間抜け顔。昔だったらダサいって笑い飛ばしてやったのに、今はそんな気にもならない。
「京風がどうとか、何の話?」
「だってアイツが、君が風邪ひいた時はいつも京風うどん食べてたって……」
「アイツって甚爾のことだよな。……風邪ひいた時にうどん食うの当たり前だし、俺の実家京都なんだから京風になるのも当たり前じゃん」
「そうだけど……」
「ちなみにお粥とかも普通に食ってたからな」
「ええ……? でも京風うどんじゃなきゃダメだって……黒いつゆなんか許されないって言ってたよ」
「それアイツの好みの話じゃねぇの。同じような家で育ったから似たような食生活だったろうし、関西方面で黒いつゆのうどんが好きだって奴が少ないのは確かだけど……」
「…………あの猿」
本気で苛立ったようにボソリと呟いた呼称は聞かなかったことにした。
久しぶりに傑とまともに会話をした。ずっとささくれ立っていた心が落ち着いてきて、頭もだんだん回るようになっていくのを感じる。
でもまだ何から離せばいいのかわからなくて、これからどうしようと途方に暮れかけた時に傑がボソボソと喋り出した。
「じゃああの……アイツとはどういう関係なんだ?」
「顔見知りみたいなもん」
「その……付き合、って、たり、とか……」
「…………………………………は?」
「あ、ごめん何でもない完全に私の気のせいだね忘れてごめん本当にすみません」
気色悪すぎる妄言に対して睨み付けてやると、傑はその場に突っ伏して謝り出す。かと思えばいきなり床にベシャリと潰れて潰れた蛙のような体制になった。僕はそんな傑の後頭部をただ見つめる。あの頃よりも髪の毛が長くなったからか、ずいぶん量が増えたなと今更気づいた。
「私、何やってんだろ」
「こっちが聞きてーんだよ、このボケ」
反射的にそう言って、軽く頭を叩く。これくらいは許される……と思う。
「……いつ頃からの知り合いなの? 子供の頃のこと、知ってるような口ぶりだったけど」
「アイツの実家と俺の家が繋がりあるってだけ。別に仲よかねーけど。アイツとも偶に顔あわせる程度でそこまで話したこともねーし。存在感あったから認知はしてたけど、ほぼ話したこともねーよ」
「じゃあ、本当に偶然同じマンションに?」
「まあな」
「……それでなんで子供達を預かる話に?」
「家の跡取り騒動に巻き込まれそうだから念の為の保険。僕のとこなら迂闊に手出し出来ないだろうからって」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
傑が床に突っ伏したままグシャグシャと頭を掻き回しながら声にならない叫び声を上げている。なんだこいつ。しばらく冷めた目で放置してたら、いきなりがばりと起き上がった。
「すまなかった」
「何度目だよ」
「何度謝っても足りない」
「……………………」
今なら。今なら聞いても答えてくれるだろうか。まともに話せている今なら。僕のことを見てくれている今なら。
でも聞いたら次の瞬間には表情を変えて出て行ってしまいそうだな、と思ってしまって言葉が出てこなくなる。聞きやすいところから聞こうなんて思っても、結局何も聞けない。たった一言、あの頃何度も投げた言葉すら口に出来ない。
ずずっと垂れてきた鼻水を啜る。また涙が出て来そうになって、慌てて瞬きで誤魔化した。
「……悟」
「……なんだよ」
「その、本当にすまなかった」
「…………それさ、何に謝ってんの」
落ち込んだ大型犬みたいに謝罪を繰り返す姿もいい加減見飽きた。俺は自分を誤魔化すために深く考えずに質問を投げる。
傑は暫く視線をうろうろさせて、やがて僕の目をしっかり見ながら真剣な顔で口を開いた。
「凄く曖昧な言い方するなら、全部に、かな」
「全部って?」
「八年前のこと、この八年間のこと、さっきの事」
「…………」
「今更だよね、ごめん」
自分の質問に答えが返ってきたのに、僕はなんて返せばいいのかわからなくて黙り込んだ。この流れなら聞いたら全部答えてくれるのだろうか? でも拒絶されたらどうしよう。もう傑が何を考えているのか僕には見当もつかない。どんな反応が返ってくるだろうと想像するだけでも怖い。
「…………さっきの事はともかく、他は謝るような事じゃないだろ」
違う、こんなこと思ってない。こんなことを言いたいんじゃない。
「放送作家も養成所の講師もオマエが決めたことなんだからやりゃいいじゃん。僕に口出しする権利なんかないし、話す義理もないし」
違う、違うのに。
「…………解散だって、オマエがそうしたいって思ったんならもうどうしようもないだろ」
結局、本当に言いたい言葉は出てこなかった。山ほどあるのに、どれから言おうか迷うほどあるのに、何時間語っても足りないくらいなのに。
本当は、もう一度オマエと舞台に立ちたかったって、それだけでも伝えたいのに。
「悟、怒らないで聞いてくれるかい?」
真剣そうな顔で傑が言った。
「私はね、ずっと君のことが好きだったんだ。出会った時からずっと」
「…………ふざけてる?」
「大真面目だよ。友情的な意味じゃなくて、恋愛的な意味で君のことが好きなんだ。愛してる」
「………………」
傑から出て来た言葉は、ふざけてるとしか思えないような愛の言葉だった。まさかそうくるとは思わなくて、僕は二の句が告げなくなる。
「君とコンビ組んで漫才だけやってた頃はさ、それだけで良かったんだ。いつか結婚してしまうとしても、君の相棒はずっと私なんだって思えたし。ほら、コンビって夫婦扱いされたりもするだろう? そういう繋がりがあるだけで満足できたんだ、あの頃は」
「…………」
「でも、テレビ出演が増えて、漫才以外の仕事とかも入って来てからそれだけじゃ満足できなくなって。君に媚びを売る女優とか女子アナとか、下衆な企画を持ってくるプロデューサーとか見るたびに、君に近づく奴らみんなぶん殴ってやりたいなって考えるようになってさ」
「…………」
「それで、だんだんと悟は私の物なのにって気持ちが強くなった。実際に違うのは頭ではわかってたんだけど、自分を止められなくって。君が無理やり飲み会に連れてかれて酔っ払って返って来た時、何度監禁してやろうと思ったことか」
「…………………」
話の内容がだんだん物騒になっていく。今まで知りたかったはずの傑の気持ちをやっと聞けているはずなのに、どこか現実味がない。とりあえず僕監禁されそうになってたんだ、とさっきとは別の恐怖が少しだけ芽生えた。
「それで思ったんだ。あぁもう悟とは一緒にいられないなって。いちゃダメだなって。これ以上一緒にいたら、私の願望で君の未来を全部潰してしまいそうだなって。何より」
「…………」
「悟に嫌われたくなかった。この想いを告げて、気持ち悪がられるのが怖かった。……だから解散しようと思ったんだ」
八年間、どれだけ足掻いても得られなかったものがこんなにあっさりと差し出された。突拍子もない話だったけれど、混乱とか怒りとか、そういう感情は特に無かった。どんな理由が来ても納得なんて出来ないだろうけど、ちゃんと聞く、受け止めるってそれだけ決めてたからかもしれない。でもいざ聞いて、どうアクションを起こせばいいのかもわからなくて、僕はただぽんと思いついた事を言った。
「オマエは僕のこと、そういう薄情な奴だって思ってたんだ」
「っ!待って、違う、そうじゃなくて」
「違わないだろ」
怒りも何もない僕とは反対に、傑は焦る。いつかの病室の時みたいな顔をしていたけど、それを見てももう何とも思わなかった。面白いとも、ざまあみろとも。
「オマエは、僕がオマエの話を受け止められない奴だと思ってたんだよ。だから全部一人で決めてどっか行ったんだろ」
「…………ごめん」
項垂れた傑は再び謝罪を口にする。
僕はこの勢いが止まってしまわないうちに聞きたいことを口にすることにした。十年前の解散の理由は知れた。なら次は、
「……それで、何でわざわざまた会おうと思ったわけ?」
「…………それは」
傑は何かを言おうと口を開いては閉じて、必死に言葉を探しているようだった。俺は落ち着いてきた鼻水をズビズビ啜りながら黙って返答を待つ。
「君が、死んでしまうかも知れないと思ったら居ても立っても居られなくて。後悔したよ、本当に。私があの時、あんな選択しなければ、君はこんな目に合わずに済んだんだと思ったら余計に」
「………」
「まあ、のこのこ会いに行ってすぐに夜蛾さんに怒鳴られて門前払い食らったんだけど」
「…………オマエ、怒られたの?」
「まあね」
バツが悪そうに傑は目を泳がせる。少しだけ社長に申し訳ない気持ちになった。だってあの時、社長や事務所にも裏切られた気持ちでいたんだ。だからこんなことしでかしたのに。
「それでもやっぱり諦め切れなくて。命に別状はないとだけは教えてもらえたけど、どうしても自分の目で君の無事を確かめたかった。それで夜蛾さんに何度も頼み込んで、やっと聞いてもらえて、行ってみたら君が起きてたって感じかな」
扉一枚隔てた向こうで、そんな話になっていたとは知らなかった。もっとちゃんと聞けばよかったのかもしれない。自分からきちんと話に行けば、きっとこんな蟠りもあの場で解けていたかも知れないのに。元々ほんのりあった自分の行いに対する反省と後悔の気持ちが一気に膨れ上がっていく。
でもそれと同じくらい、傑に対しての言葉に出来ない感情もあった。
「正直、オマエのその話どう考えて何返せばいいのかも分かんないけど。どうせならちゃんと言って欲しかった。どんな話でも相談して欲しかった。二人で考えたかった。…………何か困ってたんだったら、僕がオマエを助けてやりたかった」
「…………悟」
「お互いちゃんと話せれば、こうして拗らせることもなかったと思う。…………記憶喪失のフリしてたことは僕が悪いけど」
「それも結局は私のせいだ。そんな真似をさせるくらい、私が君を追い詰めた。……本当にすまなかった」
頭を下げる傑の姿に、僕はそうだ、とも違う、とも言えなかった。僕が悪いと思う。でも、自分のせいだと言う傑の言葉を否定したくもなかった。だから、僕が悪いと言いつつ謝罪の言葉だけは飲み込んだ。
傑の後頭部を見つめながら僕は最後の質問を口にする。
「……今でも僕のこと好きって思ってんの?」
「うん、好きだよ。自分じゃどうにもならないくらい好きなんだ。十年ずっと諦められなかった」
「じゃあ返事は考えといてやるよ。いつになるか分かんないけど」
「えっ……」
弾かれたように傑が顔を上げた。ポカンと口を開いて、間抜け顔を晒している。
「なんだよ、いらねーの?」
「いや……いや、だって、悟、考えるって、いま」
「そりゃ考えるだろ」
「考えるのか!?」
「この場でOK貰えると思ってんの……?」
とんでもないポジティブシンキングに僕がドン引きしていると、傑はブンブン首を横に振った。
「違うよ! だって君、性対象は女性だろ!? かん、考えるって、それはダメかもしれないけどOKかもしれないってことだろ!? そんな考えてもらえる余地あるのか、私に!?」
「オマエいつも自信家のくせに変なところでネガティブだよな」
「自分でも言うのもアレだけど、私に今まで何されてきたかわかってる……?」
「話し合いもせずいきなり解散叩きつけられたし、音信不通で好き勝手やってると思ったら急に甲斐甲斐しく通い妻みたいなことするし、勝手に知り合いと付き合ってるとか勘違いされるし、いきなり押し倒して犯せばよかったとか言うし、暴力に訴えられそうになったし」
「……………っ!!!!」
「なんかメンヘラだな、特に後半」
傑が頭を抱えて悶え始める。その姿を見て、久しく感じなかった愉快な気持ちが湧き上がってくるのを感じる。
一通り悶えた傑は、僕の顔色を窺うようにしながらしっかり見つめて口を開く。
「…………そんな最低な行動しか取れなかった男の言葉を、君は考えるって言うのか?」
「さあな。ひょっとしたら希望ちらつかせて叩き落としたいだけかも」
「……君の性格が悪いのは知ってるけど、そんなことしないだろ」
「なんで言い切れるんだよ」
「私の知ってる五条悟は、人の気持ちを弄んで楽しむ下衆な趣味は持ってないからだよ」
「この十年で変わったかもしれないじゃん」
「…………確かに、この十年はテレビの中の君しか知らないね」
「だろ?…………オマエの言う通り、弄ばれてるんじゃないといいなぁ」
そこまで言って、やっと昔みたいに笑える様になった気がした。最近全く表情筋を動かしてなかったからか、ちょっと頬の筋肉が引き攣った感覚がして、上手く笑えたかは分からないけど。傑がまるで眩しいものでも見るような目で僕のことを見てたから、まあ大丈夫だろうと思う。
「悟、可愛い。キスしてもいい?」
「調子に乗んな。殴るぞ」
今後の支部投稿予定について
後日、後編の加筆修正版をアップロード予定です。こちらはあくまで脳直プロット風味版で誤字とか展開無視とか色々すごいので……
ちょろっと後日談とかも付け足す予定ですので良ければこちらも待っててください。
その時か、また後日に謎解き編という名の夏油目線Q &Aも書く予定です。
これ何〜?とかあったらマシュマロとかうぇぼとかに投げてくれたら極力反映させますので良ければお気軽にどうぞ
上記はそこまでお待たせしないかと……思いますが……私生活にもよるかも本当にすみません。
今日まで待って頂いた上にここまで読んでいただき本当に本当にありがとうございました。