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    Ishmael_said

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    Ishmael_said

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    剣盾の過去小説①
    だいぶ昔のやつです ホップとユウリのライバルとしての友情の話

    世界で一番透明なガラスの向こうに生きるきみへ 見るだけ夢は無料(ただ)なのだからと、その夢を抱いて、当然のように叶えるつもりで歩いた。これに関しては、悲しいことに大勢の人にとって大抵が気のせいだ。いつだって、夢という無敵の言葉は破れるためにある。少なくとも、力を尽くした先で何者にもなれなかった人達には。
     いつしかその傷が懐かしい思い出になって、そのことにほんの少し戸惑って、それでもいたって普通に、生きている。


    世界で一番透明なガラスの向こうに生きる君へ


     十八の誕生日も過ぎてしばらく、ホップがソニアから手渡されたのは、一つの冊子だった。表紙には、カントー語で『タマムシ大学』とある。ちゃちであからさまな色遣いに思えるが、もしかしてこの色、タマムシ色だとでも言いたいのだろうか。首をひねりながら、タマムシといえば、とホップは本で読んだことを想起していた。
     ポケモンの生態学の記述に必ずと言っていいほど現れる名前だ。カントー地方のポケモン博士の権威、オーキド・ユキナリ。彼が名誉教授としてつとめているのが、そのタマムシ大学だ。

    「ソニア、これは?」

     どういう意図のものか、と問えば、彼女は白衣を翻して腰に手を当てる。その姿はどこか誇らしげだ。
     近くのコーヒースタンドで買って来たばかりと見えるコーヒーを手渡してから、ソニアが笑む。

    「ホップは今まで頑張って来たからね。優秀だし、カレッジでも頭一つ抜けた成績で」
    「話が見えないぞ……」
    「カントーはタマムシの携帯獣学部は、ポケモン博士になるならば誰もが通りたい通過点よ。ここで学位を授与された博士たちは、大抵がいまこの瞬間も活躍している。もちろん、わたしも今からでも通ってみたい──でもね」

     デスクに、大きめの封書が置かれる。これは通っているカレッジからのものだ。
     ホップ宛てのそれの中身を引っ張り出す。ガラル地方独自の進化をしたポケモンの特性について、そのプロセス、数十年前の生態系との比較、空白のガラル史──ホップが課題で書いた論文が、評価がつきで返ってきていた。有り体に言えば、推薦枠を取らないか、ホップに提案が出ている、ということだ。

    「わたしは、後進の優秀な若者が育つのも見てみたい。何より、あなたがここで学んでガラルに戻って来れば、間違いなく研究は進むという確信がある。ホップ、あなた、タマムシ大学を受ける気はない?」

     ホップが口をつけたコーヒーは、味がしなかった。ただその熱だけが、知らず冷えていた体に沁みていく。受けない理由はない。間違いなく千載一遇のチャンスだろう。

    「ちょっと、……考えるよ」

     だというのにそう答えたホップの気持ちを知った顔で、ソニアは頷いた。
     姉のようであり、先達であり、友人でもある彼女は、この話を受けることが何を意味するかを、よく理解しているように見受けられた。

     帰宅すると、テレビがつけっぱなしで放置されていた。液晶には、公式リーグ戦にて、またもチャレンジャーでありスパイクジムリーダーのマリィに大接戦の勝利を収めたチャンピオン・ユウリの姿が大写しになっていた。見せ場のリプレイが、解説と共に流れている。

    『チャンピオンが追い込まれた、手に汗握る接戦でした。ここでリプレイを確認しましょう』
    『マリィ選手のオーロンゲ・タイプは悪・フェアリー。ドクロッグの剣の舞をバトンタッチされた状態で未だ余裕があります。チャンピオンのダゲキ・タイプは格闘。「ねこだまし」で「頑丈」の特性を潰されていますね。タイプ相性においても不利です』
    『それでも常での素早さではダゲキが優ります。ここでチャンピオン、「堪える」を発動しました。オーロンゲの「じゃれつく」を食らって瀕死一歩手前。しかし次の瞬間、「起死回生」が決まる!』
    『体力も限界状態の「起死回生」の威力が凄まじいのは一目瞭然。有利なタイプでなくとも一発でオーロンゲを上から退けた。あとは体力も限界のドグロッグのみです。消化試合でしょうね。ここはチャンピオン・ユウリ選手の勝利でしょう』
    『チャンピオンは追い詰められてからの勝ち筋を用意していたのか、最初から追い詰められる予定だったのかが気になりますね』
    『戦法としては珍しいものではありませんが、やはり最後の一匹で追い詰められたところをすぐさま反撃で下すのはロマンですねぇ』

     ここでヒーローインタビューです、という声で画面が生放送に切り替わる。ホップはそれをぼうとしながら眺めていた。
     画面の向こう側の友人であり、対の伝説を分かち合う人。彼女は額に流れる汗を拭い、マリィと握手をしている。バトルの最中の泰然と構えた表情ではない、花が咲いたような笑顔だった。

    『放送席、放送席。ヒーローインタビューです。今日は、見事チャレンジャーを下し連勝記録を伸ばしたチャンピオン、ユウリ選手に来ていただきました。いや、実に白熱する勝負でした』
    『ありがとうございます』
    『今回取ったバトル中の動きには何か、チャレンジャーへの対策のような意味合いはあったのでしょうか?』
    『勝ち筋として残していたから使っただけです。あとそれが確実で、楽しいから。特に対策ということは──』

     リモコンの電源ボタンを押した。彼女の顔を見ていると、もう心のどこかで決めているものが揺らぎそうになる。知っている。互いの道は分かれた。それでもホップとユウリはずっと友達で、ライバルだ。
     ユウリとするバトルは楽しいし、彼女も自分と戦っている時心底楽しんでいるのを解っている。
     いつの日か言っていた、「自分にとってポケモントレーナーは天職だけれど、あえて言うならわたしにはこれしかない」という言葉がずっと残っていた。テレビの向こう側で命を削るようにせめぎ合う姿は、確かにジムチャレンジに旅立つ前の、手を引いてやらなくては不安になる少女の面影を持っているのに。
     ユウリはホップがいなくてももうとっくに立派に、一人で立っている。それが自分のように誇らしく、そしてなんともいえず寂しかった。
     自分たちが絶えずのせられている天秤は、ずっと彼女の方に傾いて、そのままだ。釣り合いの取れない天秤、あるいは隣にいるようでいて薄い薄いガラスの向こう側にいるような。
     茶封筒の中身をちゃんと読み込もう、と思った。願書に名前を書いて志望動機なんかも考えよう。まずは目の前にあることを一つずつこなしていこう。そうすれば、この胸にある重石みたいなつかえも、多少はマシになっているはずだから。

     結局、願書を書き終えてから家族に報告して、バトルタワーからダンデを呼び戻すほどの大騒ぎになったのは言うまでもないことだった。

    ***

     春の雨を一つの傘の下で見た。短すぎる夏を遊び、木枯らしの吹く秋を「冷えてきたね」などと笑い合って、冬はクリスマス前にプレゼントを送り合って。
     そして今年も、ジムチャレンジを終えて幾度かになるクリスマスを迎えようとしている。ガラルの冬は厳しく、外は身を切るような寒さに凍てついている。ホップの住む家の戸を叩いたユウリの鼻の頭は赤かった。

    「こんばんは!クリスマスプレゼントを届けにきました!」
    「いらっしゃい。近いとはいえ寒かったでしょう、上がって上がって!」

     雪を玄関で払って、ユウリが帽子を脱いだ。母が「あとこれ、焼いたプディングです」と差し出されたバスケットを受け取っているのを後目に、ホップは雪のついている上着を受け取る。

    「ユウリ、わざわざ手渡しに来たのか?」
    「毎年のことだし、それにせっかくのオフだし、ホップに会いたいなと思ったからね」
    「毎年といえば、子供の頃からクリスマスが来るたびにプレゼント交換してたんだなあ、オレたち。周りの人にはもう渡したのか?」
    「まだビートくんに渡してないなあ、マリィには遊んだときお互いに贈りあった」
    「オレはこの間スタジアムに呼び出されたと思ったらバトル申し込まれて、『あなたがぼくに勝ったら手渡してあげますが負けたら華麗な投球フォームで顔面に当てる』とか言われたんだよな」
    「結局くれるところも面白いけどいくらなんでも素直じゃなさすぎる」
    「負けたけど接戦でいい勝負だったからって手渡してくれたぞ。ジョウト地方の珍しいモンスターボールだった」
    「バトルとプレゼント、どっちが口実だったんだろうね」

     ユウリもホップも、その立場や忙しさからそう友人が多いわけではないが、数年前から付き合いのあるマリィやビートと時々ワイルドエリアでキャンプをしたり、集まって話したりする惰性じみた関係は続いていた。友達、と言ってもいいのかもしれない。その前に競い合うトレーナー同士だけれど。約一人、友達と言ったそばから不本意そうな顔をするフェアリースタジアムジムリーダーがいることは割愛しよう。
     やれキバナからはヌメラの卵をもらっただの、ネズからライブチケットをマリィの分と一緒にもらった、ソニアが研究室で使う椅子を自分へのご褒美だと言って良いやつを新調した、そんな浮かれた話題をぽつぽつ語りながら、やがてユウリが「ダンデさんからは何かもらったの?」と尋ねたので、ホップは気づかれないように深く息を吐いた。

    「……? ホップ、どうかした?」
    「兄貴、受験勉強のために、いい文房具と、好きな参考書を買えるくらいの小遣いをくれたんだ」
    「受験勉強?大学、どこに行くか決めたの?」
    「ユウリ、オレさ」

     カントーの大学の入試を受けるんだ。もし今年落ちても、その次の年も受けるつもりでいる。
     そう言った時、ホップはユウリの顔を見ることができなかった。外の雪はふりしきって、家の中の音を吸い取ってしまっているのかと思うほど、痛い静寂に満ちていた。

    ***

    「それで、言い放ったのが『そっか、頑張ってね。応援してる』ですか」
    「……、……、うん」
    「は〜〜〜これは、難儀やね」
    「ちなみに聞いてもいい?どうしておれは連れてこられたんです?」
    「アニキ暇そーにしよるから」
    「別に暇では……いや妹の頼みとあらば付き合いますがね」

     シュートシティにて、非公式の勝ち上がりエキシビジョンマッチをこなしたあと、ユウリはビートとマリィの袖を引っ張って、今にも死にそうな顔で「話を聞いて」と縋った。
     その時のビートの顔といえば推して知るべしである。マリィはぴんと来た顔をして、ついでとばかりに参加者の一人だった兄のネズも引っ張ってきたのだった。
     それから、チャンピオンやジムリーダーが御用達である個室レストランに入った。話を聴く体制になったは良いが、防音機能が抜群とはいえ、不思議な面子すぎて聞き耳がたてられないか。不安に思う面々の気持ちをつゆ知らずユウリが手のひらで顔面を覆い、こう言ったのだ。
    「ホップに心にもないことを言ってしまった」、と。経緯をざっと説明し、今に至る。

    「道理でバトル中の指示が冴えなかったわけですよ。この状態のユウリさんに勝てないのが、それはもう、ものすごく、とても、不服だけれどね」
    「いやなんかあれは……逆に精神が研ぎ澄まされすぎて雑になるっていうか」
    「それについてはよか!もーバトル馬鹿なんだから、そもそも、ユウリはどうしてそんなこと言ったの」

     マリィにバトル馬鹿と言われて縮こまってから、ユウリは視線を落とす。眉がぐっとしかめられて、迷子の子供のようだった。

    「わたしは、わたしだけはホップの決めた道行きを応援したいんだよ」
    「それは、義務感で?それにしたって素っ気なさすぎるんじゃねとは思うけどね」

     ネズが鋭く指摘するのをマリィがじろと睨み口を開きかけたが、それを制したユウリが首を振る。

    「ちゃんと本音。わたしはホップのライバルで、友達で、彼の強さと弱さを一番わかってる。だから、ホップがこうと決めてわたしに言ってくれたなら応援したいに決まってる──だから」

     剣と盾の英雄となり、ガラルを守り、チャンピオンになったという称号があっても、正直な話、ユウリはそれに付随する権威など要らなかった。欲しいのは、 チャレンジャーやライバルとの胸の躍る戦い。いつか自分を敗退させる勝負だ。

    「だからこそ、『カントーに行ってしまってもわたしに勝つまで諦めないで』とか重すぎて言えない……」
    「ははぁ……」
    「言うべきではないのを色々押し込めたら『頑張ってね』くらいしか言えなかったの!だって地方を離れる覚悟で、離れている間にわたしとの勝負なんてどうでも良くなっちゃったらどうしようってでもさあホップのあんな顔見たらさあ……わたしが決定的に間違えたことをまざまざと……」
    「何を聞かされてるんだこれは……」

     三者三様の面倒くさそうな顔とステルスロック並に視線が突き刺さるユウリがテーブルに突っ伏す。ビートが肺活量めいっぱいかと思われる長いため息をついてから、ちょこざいな仕草で肩をすくめた。

    「あなた、それを言うならもっと前から後悔するべきでしょう。自分の存在をホップの枷にしたくないとか今更すぎる。下らない罪悪感を披露するのはやめることだ」
    「……」
    「それとも自責の念に駆られてみせるんですか?"あのセミファイナルで、ホップに勝ってしまったから"って。むしろ、彼にずっと勝ち続けていること自体を後悔しますか?」

     今回はネズがおいおいという顔をする番だった。ビートの言葉選びが容赦ないのは、彼の師であったポプラに叩き直されても相変わらずである。
     流石に喧嘩になる前に仲裁を、などと重たい腰を上げかけ、ユウリの顔を見ると、その表情は真っ直ぐビートを見ていた。そこに揺れる感情は見つからない。

    「いや全く。わたしはわたしが勝って申し訳ないとか全然思わないし、わたしが勝ちたいと思うから勝とうとするし、結果的に勝ってるだけ」
    「勝つを連呼するな馬鹿の一つ覚えか。言いたいことがわかるのがかえって腹立ちますねこれ」
    「勝負の是非に努力が報いることは少ないでしょ。わたしが勝つのは相手より強かったから、運が良かったからってだけ。その結果の勝敗に一切の後悔は……なにその『出た〜』って顔」
    「いや……あなたの勝ち上がり方思い返すと本当世界の残酷さを感じます」

     なんてことないように会話する二人を交互に見るネズの肩に、半笑いのマリィが手をのせる。彼女にとってそう珍しい光景ではない。バトルの構築理論で喧々諤々の議論をしている時と概ね変わらない。

    「心配することなか、アニキ。ビートもこれで助言のつもりだし、そもそもユウリはこういうやりとりに関しては感情の起伏がめちゃくちゃ平坦」
    「命のやりとりしてる最中の会話かと……」
    「これでとはなんです、これでとは」

     咳払いをしたビートがふんと肩をいからせてから唇の端を曲げた。

    「ま、つまりそういうことでしょう、ユウリさん。変な遠慮をする仲でもあるまいし、そのままぶつければいい。このまま彼が受験に合格してカントーに行ってしまった方が、お互い後悔するかもしれませんよ」
    「……うん、そうだね。そうする。ありがとうビートくん!」
    「バカ早い解決」
    「あーもうやめやめご飯食べよ、あたしシチュー」
    「あ、おれも」
    「ぼくはローストビーフ」
    「わたしミートパイにしよ」

     店員に注文してから、ちょっとお手洗い、と言って席を立ったユウリが見えなくなってから、ビートはぽつりと呟いた。

    「この件に関してはホップに同情したくなりますね」

     それに対して、うんうんとネズが肯定する。二人の言葉なく思考が通じ合っている様子が理解できないのか、マリィが怪訝そうな顔でそれを見た。

    「何が?」
    「マリィ、おまえだって、自他共に認めるライバルで、仲が良くて、しばらく会えなくなるって伝えたらあっさりと応援される……なんてそれはそれで複雑になっちまうでしょう?」
    「あ、あー、そういうこと。確かに、泣けとまでは言わないけど流石に惜しまれたい」
    「まあぼくは教えてあげないけどね」
    「なんで?敵に塩は送らない主義?」
    「何を言ってるんですかねこの人は。そこまで世話は焼かないって話ですよ」

     まあでも、仕方がないので、口添えだけはしてあげましょう。そう言ったところで帰ってきたユウリに、ビートは間髪入れず「ちなみに呼び出しておいて割り勘なんてしませんよね?」と口にした。
     もちろんこの度の食事代はユウリが奢る運びとなった。ブティクでよく擦っているから大して私財がないのは公然の秘密である。

    ***

     クリスマス当日、ダンデが帰った。チャンピオンの座を後にしてからというもの、どこか慣れないように家庭へと戻る姿は、二度目の新しい生を受けた人間のような振る舞いだ。ただ、それが不思議に思えてもホップにとって、家族にとって嬉しいものだった。

    「お帰り、兄貴!」
    「ただいま、ホップ!メリークリスマス」

     ダンデは他の家族に挨拶を終えてから、ホップを自分の部屋に連れ出した。下の階からは、オーブンで焼かれた鳥の匂いやら、クリスマスプディングの用意やらで忙しない空気が漂っている。
     祭りのような気配から遠ざかって、腰掛けるよう促され、戸惑いながらもホップは椅子に座った。

    「なあホップ、お前は、もう自分が大人になってしまったと思うか?」
    「何だよいきなり、ふわっとした話だなあ」
    「まあ、いいじゃないか。たまには曖昧な話も」
    「いいけど……まあ、酒も飲めるような年齢にもなったしなあ。……なってしまったって、いう言い方なら、まあ、思い当たる節はあるぞ」

     少し間を置いて、ホップは兄の部屋に飾られている帽子を目で追いながら、囁くように言う。

    「不思議だよな。いっぱい手にしたものがあったんだ。それなのに、なくしたものを、諦めたことを振り返って、指折り数えてしまう」
    「それはそうだ。俺だって、ここだけの話、勝った回数より負けた回数が物凄く重いんだぞ。その分、自分を倒せるヤツがいたって歓びもあるけどな」
    「うわ、強者の理論だぞ、それ」
    「もちろん、俺は強いぞ」
    「……そっか、兄貴もなのか。……はは。じゃあ、ちょっと後ろめたいことも、思ってていいのかな」
    「そうとも。振り返っても、そのことを苦しく思っても、誰も咎めやしないさ」

     にっ、と歯を見せて笑うダンデの姿は精悍だが、苦味をたたえている。不思議な話、兄弟揃って一人の強者に与えられると同時に奪われているのが少しおかしく思えて、ホップは笑った。

    「……兄貴、オレさ、ユウリから離れたいからカントーに行くわけじゃないんだ。オレ、あいつが強いことが誇らしいし、それに、今の自分の歩いてる道を気に入ってる」
    「ああ」
    「なのにオレ、あいつに快く送り出されるのが嫌なんだ。頑張ってね、なんて、本当は言われたくなかったんだ!……行かないで、ずっと近くでライバルでいてくれって、言って欲しかったんだ。カントーに行こうとするのは、変わらないのに。最低だよなあ」

     涙声まじりに自嘲する弟の頭を、ダンデがわしわしと撫でた。かつての、今のライバルたちを、もうライバルでいることを辞めてしまった人達の、すべてを思いながら。

    「ホップ。お前の感情は、そのままにしておくべきだと思うか?このまま、お前の気持ちを話さずに、全てが過去になってしまうのを良しとできるか?」

     答えは明白だった。伝説を、重荷を分け合ったひと。大切な、ライバルであり、友達であり、そんな役割を語るのもおこがましいほど近くにいた、ただひとつ。まだ受験もしていないのに、ここで言っておかなければ、何もかもが崩れ去ってしまうような気がしていた。

    「……できない。できないよ……」

     チャンピオンの座を降りて、少し崩れた笑みを浮かべるようになった兄が笑った。

    「なら、行ってこい」

     頷いたホップが、せっかく家族で過ごすクリスマスだというのに家を出て行く。戸惑う母や祖父母の声を聞きながら、ダンデは椅子の背に体を凭れた。

    「『大人になる』、っていうのはな、ホップ。俺みたいに、言葉を尽くしたところで意味のないような、そういう奴のことを言うんだよ」

     どうか、かけがえのない生涯の好敵手を一人も失わないでいてほしい。チャンピオンとしてひとり立つ少女にも、彼女と道を違えた弟にも。そう考えてしまうのがエゴだとしても、ダンデは思わずにはいられなかった。


     雪が、普段から静かな道の音を全て吸い取ってしまっているかのような無音を裂くようにして、ホップは駆けていた。ユウリの住む家への一本道は、緩やかな傾斜になっていて、分厚く積もった雪が阻む。
     蹴躓きながら、前傾姿勢が行きすぎて倒れそうになりながら、走った。
     辿り着いた馴染みの家には、あたたかな光が灯っている。家族の団欒が、ひっそりと行われているのだろう。一抹の申し訳なさと共に、戸を叩いた。

    「……ホップ?」

     出てきたのはユウリだった。突然対面するとは思っておらず、僅かに面食らってから、ホップは気合を入れ直すように、ふうと息を吐いた。

    「話を、したくて。走ってきたぞ」

     
     ユウリの母は、ひと目見て何かに感づいたらしく、「待ってるから話してきなさい」と促した。どうも、違う方向に勘違いしているように思えてならないにやつき方ではあったが、都合が良かったのでホップは特に弁解しなかった。
     ユウリはホップを部屋に通してから、自分の部屋だというのにしばらく所在なさげにしていた。やがて、黙りこくっているホップの方に向き直り、「どうかしたの、お家のクリスマスパーティーは?」と尋ねる。

    「言ったろ。話すことがあって、いてもたってもいられなかったから走ってきたんだ」
    「話すこと、って?」
    「……オレはさ、前言ったとおり、タマムシ大学を目指すことは、変わらない。カレッジから論文の評価をもらって、推薦の枠をもらったんだ。もしダメでも、筆記で受験しようと思ってる」
    「うん」
    「ガラルを出ることになったとしても、後悔は無いつもりなんだ」
    「……うん」
     
     ためらいがちな相槌に、今度はホップが静かになる番だった。永遠のような痛い静寂ののち、からからの喉を開いて、一番言いたかったことを、告げようとして、言い直した。

    「ユウリは、……オレがいなくても、平気か?」

     ひゅう、とユウリがふいごのような音を上げて息を吸った。あまりに決定的なひとことだったから。ユウリがあの時言った「頑張って」が、彼にどんな意味をもたらすのか、嫌でも理解してしまった。
     勝手に慮った気でいたのだ。その実、大切なひとに、雨は降りかかっていた。自分のやっていたことは、スコールの最中にある友人の目の前で、傘を広げるようなことだった。

    「平気な……わけ、ないよ。ホップはわたしの唯一無二だから。ずっとずっとライバルでいてほしい。ずっとわたしに挑み続けてほしい。でもだからこそ、わたしは、あなたの進みたい道を進んでほしいって心から、願ってるんだよ。ホップ。いなくなって、平気なわけ、ないじゃん。でも、わたしがいなくならないで、なんて、わたしだけは、言っちゃ駄目じゃん」

     笑おうとして、声が震え始めたあたりから、ユウリが泣いていることを認識した。ホップはその頬を伝っていく涙を茫然と眺めながら、彼の脳が残酷なまでに涙の理由を弾き出していくのを感じている。あどけない泣き顔にかつてのことを思い出す。幼い日のことだ。
     どんくさかったユウリが、隣町からの帰り道で転んで、泣いているのをなだめながら、手を繋いで帰った。本当に頼りない、女の子だったのだ。擦りむいた傷を痛い痛いと泣くユウリを家に寄らせて、手当てをして帰らせた。母には、カッコいいよなんて褒められたっけ。
     一緒にチャンピオンとしてのダンデの試合を見て、二人して本気で憧れて、騒いで、リザードンポーズを練習した。彼女は滅多に帰ってこないダンデと会ったことはなかったけれど、たくさん尊敬する兄について話したし、その分手紙でユウリのことをダンデに話していた。
     ──ずっと一緒だった。
     意趣返しのつもりはなかった。ただ、行ってしまうことが寂しいと言ってほしかった。彼女が内在化させていた罪悪感のことを考えもしなかった。
     ユウリは勝って申し訳ないなどと思わない性質だ。勝ち負けはそんな一時的な感情で測れない、というダンデと似通った観点でものを見ている。それはホップにだって同じこと。
     それでも、ホップが道を違えて行ったことをずっと抱えて、悲しいと思うことすらおこがましいと胸に押し込めて、そうすることがホップへの誠実になるのだと決め込んでいたなら?

    「ごめんね、ごめん、ホップ。わたしに泣く資格なんてないよね……ごめん、帰って……」

     いつからこんなに遠くにいただろう。はじめての拒絶の感触は、冬に凍てついた冷ややかな窓のようだ。

    ***

     時間が瞬く間に過ぎ去った。ガラル地方でも受けられるビデオ通話による面接と推薦入試を経てから二週間、ホップのもとに届いたのは、合格の通知書だった。

    ***

     ソニアから呼ばれて来てみれば、それはホップの送別会の打診だった。ダンデに死ぬ気で休みを取らせたり、他にも色々な人を呼びたい、という。ホップ本人よりも気合が入っているので、彼女がホップの合格を心底喜んでいるのがうかがえた。
     真冬のただ中、ホップにはカントーに渡る準備のための期間が幾ばくか残されている。
     あれから、ユウリとは会っていなかった。どうしても、もう一度話そうとして躊躇ってしまう。『大人になった』からなのか、ダンデは来ないので、教えてもらうすべはない。

    「……ひどい顔だね、ホップ。これでもかってくらいシワが寄ってるよ」

     ソニアが苦笑する。ぽんぽん頭に手を置かれて、むずがゆくて目を閉じた。胸のつかえはあの日よりもずっと塞ぎ込んで、塵が溜まっている。
     彼女に何かを話した覚えはないが、なんともなしに、ダンデから聞いたのだろうな、と思った。

    「こんなにどうすればいいのかわからないの、ジムチャレンジの時以来なんだ。解決するのは簡単なのに、直視するのが怖い。このまま、見ないフリをしてやり過ごすのが楽なのはオレが一番わかってる」
    「ふぅん。でも、そうしたくはないんだ」
    「……うん。嫌なんだ。しばらく会えないのに、最後の記憶が悲しいのは」
    「そっか。あのね、きっとそれはユウリも同じだよ」
    「やっぱり事情は知ってたんだな……」
    「まーねー。ソニアお姉さんはなんでも知ってるんだぜ?」

     とぼけたソニアが、やがて柔らかく笑う。懐かしむような、過去を悼む女性の貌をして。

    「『大人』になっちゃうとさ。無意味な前置きをして、全部遠回しになっちゃうよね。または、それらしい理由をつけて言葉を尽くそうとする。わかってほしい、こうしてほしいって、相手の行動を導こうとする」
    「……」
    「でも結局どれもエゴなんだよ。なら、もう何も飾らなくてもいいんだよ。月並みだけどさ。ほしい言葉を求める前に、自分から叫んじゃうとかね?」

     その言葉は、自分の人生から得たものなのか、とは聞けなかった。

    ***

     キルクスタウンはイオニアホテル。その中にあるホテルバーを貸し切り、ホップの送別会は行われることとなった。
     ユウリはしんしんと降り積む雪が、曇りガラスの向こうに見えるのを眺めている。バーに一番最初に着いたのは、マリィとビートに半ば強引に引っ張って来られて、あれよあれよという間にバーに放り込まれたからだ。二人はユウリをぶち込むなり、そこから一歩も動くなと命じてどこかへ行ってしまった。
     来ないという選択肢はなかった。最後の方に顔を出して、謝って、帰ろう。そうしたら元に戻れると言い聞かせていた。どうやら謀られたらしいことはわかる。
     主役であるホップは流れとして最後に合流することになっていた。メンバーはダンデ、ソニア、ビートやマリィは確定として、何か楽しそうということでキバナ、マリィが心配なネズが来るようだ。
     誰かが来たら、言伝してしばらく姿をくらましてしまおうかと思案しながら、視界の外でドアベルが鳴ったのを聞いた。

    「──ユウリ」

     心のどこかでやっぱりか、と思っていた。想定の範疇内の声に、ユウリは顔を向ける。最後の最後にやってきて、クラッカーを向けられるはずのホップが立っていた。
     ずんずんと歩いてくるホップの顔は決然としている。もう拒絶する気も逃げる気も起きず、どんな訣別の言葉を向けられるか、その表情を見ていた。

    「寂しい!!」

     あれ。
     ユウリはついすっとぼけた顔になってしまった。

    「……って、ユウリに言ってほしかったんだ、オレ。自分で言うと恥ずかしいぞ、これ」
    「え……」
    「というか、オレもめちゃくちゃ寂しい!!向こうもきっと楽しいだろうけどさ、やっぱりオマエらと一緒にワイルドエリアでカレー食べながら駄弁ってたのには敵わないと思うんだ」

     照れたように、ホップが笑う。随分大人びたけれど、くしゃりとしたその表情は、子供の頃とあまり変わらないように見受けられた。

    「オレさ、……オマエのこと試してたのかもしれない。ユウリが、どこにいてもオレをライバルだと思ってほしいし、オレがそばにいなくて寂しいと思ってほしい。最初から、そのまま言えばよかったんだ」

     ホップは、自分の掌に目を落として、それを握り込めるのを見ていた。

    「だから、ごめんな。泣かせてごめ──」
    「そういうところ!!」

     だから、被せるようにして叫ばれたユウリの声に弾かれるようにして、顔を上げる羽目になる。常にない怒声だった。また、彼女は泣き出しそうな顔をしていた。慌てるホップをよそに、ユウリはまくし立てる。

    「そうやって、一人で結論を出して先に行っちゃうところとか、ずっとライバルだって言い逃げして先に落とし所を見つけちゃうところとか!それに、ホップを試させたのはわたしだよ」
    「ユウリ……」
    「寂しいよ、そういうところが。ずっと寂しかったよ」

     どうしようもなく泣き笑いだったから、ああ、やっと一枚奥の本音がぶつかり合ったんだな、と互いに思っているのを感じていた。どちらからともなく背中に腕を回した。子供の頃のような抱擁なので、二人して背中にぽんぽん手を当てているのがおかしかった。

    「ホップはすごいよ。わたしに無いもの、たくさん持ってる。ホップがそれを誇るから、わたしも自分が誇れる自分でありたいって思うんだよ」
    「うん」
    「どこにいっても、わたしのライバルでいてほしい。わたしに勝つことを、ずっと諦めないで。わたし、ホップと戦うのすごくすごく好きなんだ」
    「うん。オレ、絶対博士課程を修了して、あとバトルの腕も鍛えて帰ってくる。オレが戻るまで、チャンピオンから引き摺り下ろされてるなよ?」
    「もちろん!」
    「オレも、何一つ諦めないよ」
    「わたしもわたしを生きるよ」

     ややあって、体を離して、「ところで」と二人揃ってドアを見た。ホップとユウリは目配せをして、つかつかとドアに近寄って開け放った。
     案の定というか、今日招かれた面子がべったりと耳をくっつけていたようで、わあっと室内に雪崩れ込む。呆れた顔で顔を眺めるが、ダンデは目が赤く、ソニア に至っては滂沱の涙を流していた。

    「ええ……」
    「ちょっとやめて見ないで!マスカラのせいで黒い涙が」
    「盗み聞きをしておいて何言ってるんだソニア……兄貴も何やってるんだよ」
    「……」
    「おーおーあんまり責めないでやってくれよな、俺様たち三十路世代には直撃する話なんだよ」

     ぬっと姿を現したキバナがからから笑って、手を振る。その大きな背から、ひょこひょこと顔を出すビートとマリィ。遅れてネズも飛び出した。

    「そんな余裕ぶっといてキバナさんも割と思うところあったみたいで目頭抑えてましたよね」
    「うわこの生意気ピンクフェアリー、先達の威厳を切り崩しにかかりやがる」
    「ドラゴンタイプには強気になれるんじゃねーですか、知らんけど」
    「アニキ適当こくんじゃなか。タイプ相性に基づくとビートがあたしに大して強く出られない理由が消えてかわいそうやろ」
    「うるさい!うるさーい!!」
    「あの、お客様、他のお客様のご迷惑になるのでお静かにお願い致します……」
    「大変ご迷惑をおかけしました」

     急にいつもの調子を取り戻したダンデを皮切りに、ぞろぞろとバーに入った面々が顔を見合わせて、手に構えたクラッカーを向けた。家族へ、戦友へ、友達へ、かつて子供だった大人への祝福を。その道に幸あれと願いながら、別れのための騒がしい夜が始まる。

    「それでは、門出を祝って!」

     きらめきが散って、ホップとユウリは笑った。寂しいけれど、こんな寂しさなら、きっと悪くはない。
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