呼び捨ての話 下から何かが焼けるいい匂いがしてくる。
柵の隙間から覗くと、リンクが下の階の台所で何かを作っているのが見えた。そろそろおやつの時間だろう。
ゼルダは再び筆を動かし始めた。おやつになる前に今書いている手紙を完成させたい。
黙々と筆を走らせ、手紙を書き終えた。羽ペンを置いて、ゼルダが腕をぐぅーっと伸ばしたのと、リンクが声をかけたのが同時だった。
「ゼルダ、おやつにしましょう」
その瞬間、ゼルダは硬直した。何故か頬が熱くなる。
「ゼルダ?」
「は、はい! 今すぐ行きます!」
ゼルダは慌てて椅子から立ち上がり、顔が赤いまま下の階に駆け降りた。リンクと目が合い、なんとなく気まずくて目をそらす。
「どうされましたか?」
「い、いえ……」
「お顔が赤いですよ。熱でもあるのでしょうか?」
すると、ゼルダの額にリンクの手が当てられた。ゼルダは限界にまで頬が熱くなり、耳の先まで赤くした。
リンクはそんなことはお構いなしにゼルダの熱を測っている。
「熱いですね。それに、熱が上がったような……? とにかく、安静にしましょうか」
「ち、違います!」
上の階に連れていこうとしたリンクを制止させる。
「あ、あの、リンクが私のことを呼び捨てで呼んだことに驚いて……」
リンクはキョトンと首を傾げていたが、すぐにああ、と呟いた。
「申し訳ございません。記憶が無い時はそうお呼びしておりましたので、つい」
「いえ、驚いただけですから! お、おやつにしましょう!」
そう言って、ゼルダは逃げるように食卓に向かう。その頬と耳はまだ赤いままだった。
リンクはしばし考えた後、おもむろに口を開いた。
「ゼルダ」
直後、ゼルダの肩が大きく跳ねた。リンクはゼルダに近づいて、耳元で囁く。
「ゼルダ」
「リ、リンク」
「ゼルダは呼び捨てにされるのが弱点なんだ」
「ち、違います……」
「ねえ、顔を見せてよ、ゼルダ」
さっきからずっとゼルダはリンクに後ろ姿しか見せていない。リンクはゼルダの前に立とうとするが、直ぐにゼルダは後ろを向く。
「ゼルダ、どうして顔を見せてくれないの?」
「無理ですって、こんな酷い顔……あっ」
ゼルダの腕がリンクに捕まれて引っ張られ、強制的に顔を正面に向かされた。ゼルダの頬が発火した。
「酷くないよ、こんなに可愛いのに」
「え、あ……」
ゼルダは顔を真っ赤にして、混乱しているのか口をぱくぱくしている。それだけで可愛い。
「そういえば、ルージュはゼルダのこと呼び捨てにしていたよね? ルージュからでは反応しないのに、俺からだと反応するんだ。嬉しい」
「ち、ちが……」
「ねえゼルダ様、俺も呼び捨てで呼んでもいいですよね?」
「ね、ねだる時は様付けなのはずるいです……」
「二人きりの時だけにするからいいでしょ、ゼルダ」
とにかく、リンクに顔を覗き込まれながら呼び捨てで呼ばれるという状況から逃げたくて、ゼルダは声を上げた。
「わ、わかりましたから! ふ、二人きりの時だけですよ! おやつにしましょう!」
「ありがとうございます、ゼルダ」
リンクは微笑んでそう言った後、ようやくゼルダの手首を放した。
おやつはゼルダの大好きなフルーツケーキだ。しかし、ちゃんと口の中で咀嚼しているはずなのに、あまり味を感じない。耳の先の熱さは引いたが、まだ頬は熱い。
食卓の向かい側を見ると、リンクが涼しい顔でケーキを食べている。自分はこんななのにあっちはなんともないのか。
「……ずるいです」
「え?」
「私、リンクの弱点を知っていません。なのに、リンクは私の弱点を知っているなんて……」
「不公平ですか、ゼルダ」
呼び捨てに反応しないよう、いたって冷静にいようとするのだが、やっぱり少し頬が熱くなっている気がする。自分の身体のことなのに制限が効かない。
ゼルダは、そらしたくなる目をなんとかリンクの目と合わせようとした。
「ねえ、リンクの弱点はなんですか?」
首を少し傾げて、リンクはしばらく考える。
「……寒いとか熱いとかですかね」
「それは私も他の人もそうではないですか。服や料理で対策はできますし。その、リンクだけにしかなくて、対策しづらい弱点というのはないのでしょうか」
「……一つ、あります」
すると、ゼルダは身を乗り出した。
「あるのですか!? 何ですか!? 教えてください!」
「目の前にありますよ。あ、ゼルダからだと目の前という表現はあっているのでしょうか?」
「え、どこですか!?」
ゼルダは部屋のあちこちに視線を向けた。だが、リンクが言う弱点らしきものはない。
「もしかして、コログなど一部の人にしか目に見えないものですか?」
「いえ、皆見ることができますよ。ただ、ゼルダの視点からだと、どう表していいのかわかりませんね」
ゼルダは首を傾げた。
「どういうことですか……? ますますわかりません。
何故それが弱点なのですか?」
「厳密に言うとそれ自体が弱点ではありません。むしろ、それは俺にとって己の命よりも大切なものです。俺はそれが傷つけられるのが、たまらなく辛いのです」
「……そんなに大切なものなのですか」
「はい。ですが、その方はよく調査に夢中になって周りが見えなくなり、俺は危険なところに行かないか、いつもひやひやしています。また、努力家で皆のことをご自分よりも大事にしていまして、それは良いことなのですが、俺はもう少しご自分のことも考えていただきたいです。あと、俺の身に危険が及びそうになったら、ご自分のことなど構わずに俺のを庇いました。
その方は、俺のことをよく気にかけてくださいました──いえ、よく気にかけている、ですね。俺は一介の騎士に過ぎなかったのに、記憶を失ってしまったのに、その方は昔も今も俺の傍にいてくださいます」
珍しくリンクが長々と話してくれた。ゼルダはそれに驚いたのと、リンクの話の内容にしばしぽかんとした。
「……もしかして、その方というのは……」
「あ、食べ終わりましたか。皿を洗いますね」
リンクは二人分の皿を持ち上げると、そそくさと台所に向かった。その後ろから見える耳の先が少し赤くなっている気がする。
さっきの言葉は、話すことが得意ではない不器用な彼なりの精一杯の願いやお礼なのだろう──「その方」への。
ゼルダは椅子から立ち上がり、後ろからリンクに抱きついた。リンクがびくっと震える。
「いつもありがとうございますね」
「え?」
「いえ、何も。ただ、リンクの言う『その方』は幸せなんでしょうね」
「そうであったら俺も幸せです。そういえば、ゼルダ」
不意打ちで呼び捨てで呼ばれて、すっかり冷えたゼルダの頬がまた熱くなった。
「あ、まだ反応するのですね。ケーキを食べている時も赤くなっていましたよね」
「え、あ……」
リンクはいたずらな笑みを浮かべた。
「後で訓練しますか? 呼び捨てに慣れるために……ゼルダ」
「か、考えておきます!」