こちらへと近づく微かな足音に、ミナミは気が付かなかった。扉がキィと小さな音を立てて開いて初めて、ミナミは書物から顔を上げた。「先生」と呼ぶ声はすでに部屋の中へと足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めているところである。ミナミは分厚い本の開いたページに栞の代わりにガラスペンを挟み、椅子をわずかに後ろに引いて助手を見た。彼の手には木製のトレイと、その上にガラスのティーポットとマグカップが二つ。ミナミがスペースを広げるように紙束を机の端に避けると、そこにトレイが置かれた。
「ハルカ」
ミナミがその名を呼ぶと、助手──ハルカは目をきゅっと細めて微笑み、ミナミの背後に鎮座する小型の装置を一瞥した。
「どうですか。何か変化はありましたか?」
ハルカの視線を追いかけるように、ミナミも背後の装置に視線をやる。この装置は錬金術には欠かせない炉で、アタノールと呼ばれるものだ。煉瓦で出来た小塔のような作りをしていて、器に入れた対象の金属を間接的に温められるようになっている。しかし、その先端に繋がれたガラスの管と器にミナミが求めた結果はなかった。無言のまま首を横に振る。ハルカは少し残念そうな顔をして「そうですか」と返事をすると、部屋の隅から丸椅子を引きずってきて、ミナミの隣に腰を下ろした。
「昨日うまくいかなかったから、緑礬を足してみた。それでもだめだったから、次は他の材料も足して、もっと大きな炉で……」
ミナミは先ほどトレイを置くために避けた紙束から一番上の紙を引きずり出すと、つい今しがたの実験結果を書きつけた。それから炉に繋がれたガラスの器を取り外し、中に入った液体を捨てる。部屋の奥にある炉へと向かうミナミの様子に、ハルカは少し呆れをにじませながらたずねた。
「続けるんですか? もう夜更けです。明日にされてはいかがでしょう。今火をくべれば数時間は眠れませんし、それに」
「時間がないんだ」ハルカの言葉を遮るように言う。「炉の管理は私がやるから」
ハルカは苦笑した。炉の火が絶えないように、或いは燃えすぎないように番をするのは、一般的には助手の仕事だ。それなのに、寸暇を惜しんで研究に没頭するミナミはそれさえも自分でやってしまおうとする。
「あの、先生。僕は僕が眠りたいから明日にしようと言っているわけではありません」
「ならなおさらいいじゃないか、続きを」
そう言うミナミを無視して、ハルカは座ったままティーポットを持ち上げ、二つのマグカップに均等に茶を注ぎ入れる。ミナミはハルカに背を向けたまま炉の蓋を開けようとして、動きを止めた。炉の蓋の、蝶番の部分が壊れていた。
「先週そこが壊れたの、忘れていたでしょう」
背後からかけられるハルカの声は、最初からそれを分かっていたようだった。
「……」
ミナミは舌打ちしたい気持ちをなんとか抑えて、大股でハルカの元へと戻る。どかっと音がするくらい乱暴に椅子に座ったミナミを見て、ハルカは楽しそうに笑った。
「すみません、僕が直しておくべきでしたね」
ミナミはため息を吐いた。前髪をぐしゃりとかき上げて、一週間ほど前の会話を思い起こす。
「『自分で直すから触らなくていい』と言ったのは私だろう。それくらい覚えているよ」
ハルカは居心地の悪そうに肩をすくめた。
「とにかく」マグカップの片方を差し出される。「蝶番を直すための素材は明日にならないと手に入りません。明日にしましょう」
受け取ったカップに唇を寄せる。金属くさかった鼻腔に甘やかな香りが広がった。口に含むと、普段の紅茶とは違い、どこか花の甘さを含んでいるように感じる。ほう、と息を吐き出した。
「いつもと違う」
「先日街に来た商人がいたでしょう。先生が作った薬と交換でいただいたんです」
「いつの間に……」
ミナミは呆れたように眉根を寄せた。対してハルカはどこか得意げである。
ハルカは錬金の才能はお世辞にもあると言えなかったが、ミナミの研究成果を売り出す商才があった。それを自身の存在意義の一つと捉えているハルカは、ミナミの成果が認められることをミナミ本人より喜ぶのだ。
「そのハーブティーには安眠効果があるそうです」
少しだけ身をかがめたハルカが、ミナミの顔をじっと覗き込んだ。まるで「眠れていないでしょう」と責めるような瞳に、思わず椅子を後ろに引く。しかしハルカはそれを追いかけ、頬を包むように手を伸ばした。目の下を撫でる親指の熱さに張り詰めた心が溶かされて、なぜだか泣いてしまいそうだった。泣いてしまわないように、唇をかみ締めた。
「……わかった。これを飲んだら寝るよ」
「そうしてください」
折れたミナミに、ハルカは安堵をにじませて微笑んだ。
それからハーブティーを飲みながら、進捗のない研究の話をした。やがて三分の二ほどに欠けた月がカーテンの隙間から差し込むころ、ハルカは二人分の茶器を持って研究室を後にした。ミナミは炉の火が消えていることをきちんと確認し、自室へと向かった。
ベッドに倒れ込むと、体も瞼も珍しく重い。ハーブティーのお陰だろうか。カーテンの隙間から差し込む月の光から逃げるように目を閉じ、頭まで布団をかぶる。
ここ最近──というには長い間、ミナミは上手く眠れずにいた。研究が思うようにいかないまま、時だけが過ぎていく焦りに苛まれていた。目に見える成果が欲しくて、実験が危険で過激なものになりつつあることも分かっていた。
──死が怖い。
ミナミを支配している感情は、逃れようのない死への恐怖である。
生きとし生けるものに等しく訪れる死を、ミナミはひどく恐れていた。あまたの錬金術師が追い求め、ついぞたどり着けぬままでいる永遠を、ミナミは懸命に手に入れようとしていた。
布団をかぶったまま身を縮める。先ほど触れられた頬にまだ、ハルカの手のぬくもりが残っている気がする。心配そうにミナミを見る彼の瞳の片方は満月のように優しく、しかし片方は新月のように穏やかだった。
なぜその手の、その視線のぬくもりを思い出すだけで泣きそうになってしまうのか、自分でも分からなかった。しかしそれを考えるより先に、甘やかな眠りに落ちてしまった。