開かないドア 開かないドアがある。
201のドアは、ほかのどの部屋よりも固く閉ざされている気がする。仕事を終え家に帰ってきて、泣いているテラさんに会ったのが深夜2時過ぎ。少し時間を空けて、自室に戻ろうとしてふと201のドアを見た。少し迷ったけど、部屋に荷物だけ入れて204のドアの前に立つ。
開かないドアがある。開かないと知りながら、僕はそこに立って待つ事にしてる。
テラさんが何かを抱えながら家を出て、泣きながら帰ってくる事は知っていた。家にいると、何度かそういうテラさんとすれ違い、その度に201の前じゃなくて、204のドアの前に立って待つ。これは善意なんかじゃなくて、僕の自己満足に過ぎないからだ。できれば、テラさんには僕が待っている事を知らないでいて欲しい。ドアを無理に開けたくない。でも、もしドアが開いて、その時誰もいなかったら、美しい鳥はもう二度と見つからなくなるかもしれない。
少し前に、僕の部屋の合鍵をテラさんに渡した。部屋でふたりきりの時、いらないと拒む手に両手で鍵を握らせて、来たかったらいつでも天彦の部屋に来ていいのですよ、と耳元で言った。目を合わせた時、何かを察したのか、潤んだ目をして俯いた。鍵は受け取ってくれたが、使われた事は一度もなかった。無理に使って欲しいとは思わないけど、部屋に来たら何か話さなければいけないと思っているのなら違うと言いたい。何も話さなくていいのに、ただいてくれてるだけで、他に何もいらないのに、伝わりそうになかった。こう考えると傲慢で、押し付けがましいなと思う。やっぱりドアは開かないで欲しい。待っているのは僕だけでいいのだ。
何分ほど経っただろうか。開かないドアも、誰もいない廊下も静まり返っていた。身体からじわじわ疲労が滲んできて、僕はその場に座り込んでしまった。ドアに寄りかかって両膝を立てて座ると、我ながら行儀が悪いなと思う。低くなった視線から201のドアノブを見上げて、これを握るのにどれだけ勇気がいるのだろうか、と考えていると
「……天彦さん?」
急に名前を呼ばれて、見上げるとそこに大瀬さんが立っていた。驚いた様子の彼は、カップラーメンを片手に203から出てきたようだった。
「大瀬さん、こんばんは」
「天彦さん、どうしたんですか」
大瀬さんはそう言いながら201のドアをちらっと見ると、俯いて黙り込んでしまった。察しのいい彼は、僕がここにいる理由を一瞬で悟ってしまったようだ。何を言おうと考えているのか、俯きながらカップラーメンの側面を指先で撫で続ける。きっとテラさんと何かあったのか聞きたくて、でもどう切り出したらいいかわからなくて必死に考えているのだな、と感じ取れるが、こういう時は遮らないで待つと決めている。人一倍優しくて、愛情深いからこそ、考え込んでしまう彼の言葉を座ったまま待つ。威圧感を与えないようにそっと微笑みかけると、両手で持っていたカップラーメンをぎゅっと握った。
「……あの、その、大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。大瀬さんが心配する必要はないです」
「……わかりました」
そう言って大瀬さんは足早に階段に向かった。何段か階段を降りたと思ったら、ふと足音がしなくなった。すると突然戻ってきて
「これ食べますか!?」
そう言ってカップラーメンを差し出されたので少し笑ってしまった。深夜に相応しくない大声を出してしまった大瀬さんは「ご、ごめんなさい、 クソ吉がでしゃばった真似を」と呟き続けるので
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておきます」
と答えた。大瀬さんは「失礼します」と言って階段を降りていった。足音が聞こえなくなると、廊下は再び沈黙が訪れた。ドアはやっぱり開かなかった。
夜も更けてきて、今まで張っていた気が何となく緩むと、お腹が空いたな、と思う。そういえば、家に帰ってきてから何も食べてなかった。大瀬さんの心配は的中していたのだ。言葉に甘えていればよかったな、と少し後悔していたら突然206のドアが開いた。
「天彦じゃん、何してんの」
そう言いながらふみやさんが近づいてくる。僕は思わず立ち上がった。ふみやさんは右手で頭を掻きながら気怠そうに歩いてくる。僕をじっと見た後、201のドアを親指で指差して
「なんかあった?」
と言い放った。ふみやさんに下手な隠し事は出来そうにないな、と思い、少し考えて
「……物音がしたので、念の為出てきたんですけど」
と言うと、ふみやさんは201の前に立った。無理に開けたりしないだろう、という気持ちと、何の躊躇もなく開けそうだなという気持ちで、緊張が走る。ふみやさんがいつドアノブに手を伸ばしても止められるように、肩に手を置こうとしたら、201の奥から何かが割れる音がした。咄嗟にふみやさんの肩に手を置いた。
「ふみやさん」
名前を呼んで牽制すると、不満そうな目が僕を刺してくる。ふみやさんは「……別に」とだけ言って、じっと僕を見つめる。
「そっとしておきましょう。僕が見ておきますよ」
「……わかった。なんかあったら言えよ」
そう言いながらゆっくり歩き出し、階段を降りていく後ろ姿を見ながら、僕はそっと息を吐いた。
そろそろ夜より朝を数えた方が早いだろうか、いつまで待っていようかと考える。座ると眠ってしまいそうで、立ったまま204のドアに寄りかかった。1時過ぎにショーが終わって、早く家に帰りたくて打ち上げも断りシャワーも浴びずに帰ってきたのだ。この時間になるならシャワー位は浴びた方がよかったな、と思いつつ、そうしていたら泣いているテラさんに会えなかったので、やはり帰ってきてよかったのだと言い聞かせる。ワックスで固まった髪の束を摘む。ドアを開けて、こんな汗臭い男が待ってたら嫌だな。テラさんならきっと「お風呂入ってないならやだ」って言いながら自分の部屋に戻りそう。テラさんの、そういうところが堪らなく好きだ。
もう少しだけ待って、理解さんが起きる時間より前に部屋に戻ろうと決めた。その前にシャワーだ、と考えていると
「待って」
201の部屋のドアが突然開いた。ずっと待っていたはずなのに、まさか開くとは思ってなかった。部屋の主と目が合う。乱れた長髪、リビングにいた時より腫れた目。それなのに、充血した目から落ちる涙は真珠のように美しかった。僕は汚いのに、テラさんはこんな時まで美しくて息を呑む。触れていいのか少し悩む。でも今言わなくてはならない。
「ご指名ですか」
そう言ってテラさんの右手を取る。小さく頷きながら、ふらふら歩くテラさんの足裏から血が滲んでいて、まずはこれを何とかしないとな、と思った。204のドアを開ける。冷え切ったテラさんの指先を、二度と離さないように優しく握った。