鍵「そんな戯言を信じられる程馬鹿じゃないんだよ。」
そう言ってドは笑う。
ロがどれだけ愛を伝えようとしても、のらりくらりとそれを躱す。
痺れを切らしたロが詰め寄れば、
「だって、人間は移り気だしすぐ死んでしまうし。きっと君を好きになったって、私は辛いだけだもの。」
何かを諦めたような顔でドは笑う。
「いつか死ぬのはしょうがねぇ。けどな。」
目を合わせようとしないドの両頬を両手で包み、離して、と身をよじり固く閉じられた瞼にキスを落とす。
「退治人君……?」
驚いて見開かれた視界に飛び込む激情を閉じ込めた美しい瞳にドは目を奪われる。
「もし砂漠でお前が砂嵐に飲まれて死んでも、俺は砂の中からお前を全て探し出してみせる。」
「……そんなの一生かかっても無理だよ。」
「一生をかけるだけの価値があるって事だ。」
熱のこもった言葉に、ドの目に涙があふれる。
「ずるいずるいずるい!君は!ずるい!」
ぽこすことロの胸元を叩く手はやがてロの赤い服の胸元を掴み、泣き濡れた瞳を隠すように額を胸元に預けた。
「…君が好きだよ。知っているんだろう?私がそれを諦めようとしてるのも。」
「知ってる。」
「知っているならそうさせてよ。」
「お前の血を飲ませてそうさせればいいじゃねぇか。」
「……やっぱり君は、ずるい。」
そうする事が出来ないのを、君は分かって言っている。
分かっているよ。
ずるいのは私。
君に愛される心地良さを捨てきれない。
でもその愛に応えるのは怖い。
ずるずると答えを先送りにする私に気付いているのに、それでも会いに来てくれる君に甘えている。
「これやる。」
そう言って渡された小さな紙切れと小さな鍵。
「これは…?」
「俺の部屋の住所と鍵だ。」
「君の?」
「腹が決まったら来い。それまでは俺はここには来ない。」
「……!!」
「二度と会わねぇってんなら鍵は送り返せ。じゃあな。」
それだけ言ってロは城をあとにした。
「退治人君…。」
扉の陰から日の光に当たらないようにドはロの背中を見送る。
小さくなっていくその背中。日に灼かれないように角度を変えながら、なんとか視界にロの姿を捉える。
その姿が完全に見えなくなっても扉の前から動けずにいた。
「…ずるいよ…。」
へなへなと座り込み、背中で重い扉を閉めた。
膝を抱え、頭を乗せて縮こまる。
じわりじわりと滲む涙がひざを濡らした。
悲しいはずはない。
むしろ嬉しいはずだ。
好意をぶつけられて、合鍵まで渡されて。
でもきっとこれは嬉し涙ではない。
では何だと聞かれても、当のド本人にも分からなかった。
「君が好きだよ。」
ロがいない事は分かっているがあえて声に出してみる。
紛れもない真実。
正直な気持ち。
ロだってそう言ってくれる。
なのに自分はどうしてこんなにも気分が晴れないのか。
分かっている。
自分は吸血鬼で、ロは人間だ。
決定的に違うイキモノ。
そんな二人が結ばれたって、いつか来る結末は分かりきってる。
永遠の別れ。
高確率で自分は置いていかれる。
そしてその後の長い長い生。
愛したロの記憶さえも薄れていく程の長い時間を、一人で生きていける気などしなかった。
ツライって分かってる。
それから逃げちゃ駄目なの?
じわり、じわり。
涙は止まらない。
よろよろと立ち上がり、ふらふらと歩いて棺桶に倒れ込む。
色んな感情に嬲られて、体は静かに崩れ落ちていった。
どのくらい死んでいたのか、ドはようやく再生し、ゆっくりと目を開けた。
手の中の紙切れを開く。
綺麗ではない字。
簡単な手書きの地図。
紙の隅に書かれた小さな文字。
待ってる。
涙が溢れた。
声を押し殺して咽び泣いた。
嬉しい。
日の光に灼かれようとも今すぐ会いに行きたい。
会って、抱きしめて、愛しているよと口付けたい。
怖い。
もしロの気持ちが冷めてしまったら?
一度手に入れたものを手放す事なんて自分にはできない。
そんな事になったら、きっと、ロを。
寂しい。
どうして今ここにロがいないのか。
こんなに泣いているのに、どうして抱きしめてくれないのか。
哀しい。
もし自分が人間だったら。
ロが吸血鬼だったら。
でももしそうだったなら、きっと私達は出逢えていない。
色々な感情がせめぎあい、ぎりぎりと心を締め付けた。
小さな鍵をにぎりしめる。
この鍵を送り返さず、でも会いに行くこともせず、許しだけを心の支えにいきていく。そんな選択肢だってあるのだろう。
そうするうちにいつかロが自分を待たなくなって、諦めて、忘れて、誰かを愛して。そうしていつか自分の知らないうちに天に召されて、でも自分はいつまでもこの鍵と紙切れを握りしめて。
──そんなのは、嫌だなぁ。
ロの視線も、声も、誰にも向けられて欲しくない。
心だって、…そう体だって。
誰にも触れさせたくない、触れてほしくない。
でもこのままこうしているだけだと、いつかそうなってしまう。
嫌だ
嫌だ
嫌だ!
人間同士の番だって、どちらかが先立つんだ、異種族間に限ったことじゃない。
私はとんでもなく雑魚だから、最悪私が先に消滅する事だってある。
恐れるな。
決めつけるな。
迷うな!
愛していると、言ってくれたのだ。
二人のことを丸投げしたのではない。
委ねてくれたのだ。
選ばせてくれたのだ。
そうだ、彼はいつだって正面から想いを示してくれていた。
逃げていたのは私。
きっとたくさん傷つけた。
だから私に出来ることは。
その気持ちに、ちゃんと応えること。
棺桶から身を起こし、エントランスへ。
重い扉をうっすらと開ければ、深い夜が空を覆っていた。
あれから一体どれだけの時間がたったのだろう。
ドは城の外へと一歩踏み出した。
膝が震える。
怖くないわけではない。
けれど、心は決まっていた。
車が行き交う道路まで歩き、タクシーをつかまえる。
行き先を告げ、窓にもたれかかった。
窓の外を通り過ぎていく景色。
だんだんと建物が増え、街に近づいていく。
こんな遠いところから、通ってきてくれていたんだな。
来るのはいつも突然だけど、それでも来訪が嬉しかった。
突然の呼び出しも何回もあった。
でも自分から会いに行くのは初めてだった。
ゆっくりとしたブレーキ。
運転手の着きましたのよ、の声。
ありがとうと料金を払い、コーヒーでも、とチップを渡す。
恐縮です。と、嬉しそうな運転手。
お気をつけて、と丁寧に送り出された。
建物の中に入り、目的の部屋を探す。
ドアの前に立ち、大きく深呼吸。
インターホンに伸ばされた指先が震える。
これを鳴らしたら。もう逃げられない。
まだそんなことを考えているのかと苦笑する。
夜もだいぶ更けてしまった。
退治人君寝てるかも。
今鳴らしたら迷惑かも。
出直した方がいいかな。
伸ばした指を引っ込め、胸の前で手をにぎりしめる。
そんな事を何度も繰り返す。
…本当に来てよかったのかな。
ねぇ、分からないんだよ。
インターホンを押す。
それだけの事が出来ないまま、時間だけが過ぎていく。
ふと空を見れば東の端から色味が変化してきている。
このままだと、朝日に灼かれて死んでしまう。
ギュッ。
もう一度だけ両手を胸の前で握りしめ、すぅ、はぁ、と大きく深呼吸をした。
私だけ逃げるなんて、ずるいよね。
震える指でインターホンに触れる。
ほんの少しだけ、力を込める。
…ポーン…。
押し方が弱かったのか、短い音が鳴った。
心臓が爆音を立てるのと同時にドアが勢いよく開いた。
現れたのはやつれたロ。
目の下にはハッキリとしたクマ。
伸びた髭。
美しいはずの銀髪はボサボサだった。
伸ばされた腕。
絡め取られ抱きしめられる体。
「遅ぇよ……!」
震える声。
「退治人君…?」
ドの声にロがばっと顔を上げた。
「鍵、返しに来たとか言わねぇよな!?」
不安に揺れる青い瞳。
「無様な俺の顔みて笑ってやろうとかじゃねぇよな!?」
マントをにぎりしめる手に力がこもる。
「お前が……っ!」
震える唇をそっと塞ぐ。
ロの体の強ばりと震えが収まった事を確認して、ドは唇を離した。
「君が好きだよ退治人君。」
少しやつれた頬を撫でる。
「君がくれた鍵、返せって言っても返してあげないから。」
覚悟してね?
そう言ってにこりと笑うはずだったのに、目からは涙がこぼれた。
「…返せなんて言うかよ。」
涙を拭ってくれる温かい指。
少し見上げた先にある優しい瞳。
その瞳にキラキラと光が入り込み、ドの耳の先が灼ける。
「…!中入れ!」
抱え込むようにドを部屋の中へ引き込むロ。
バタンとドアを閉め、ドの耳先を確認する。
「大丈……」
その言葉を最後まで聞くことなくドはロに口付けた。
ドアを背に、ロの首に腕を回して。
すごく、キレイだった。
月の光を宿した瞳ももちろん美しいのだけれど、白金の光を纏わせたその瞳は何よりも美しかった。
耳を灼かれてるなんて気付きもしなかった。
あの美しい瞳が見られるのなら、朝日に灼かれるのも悪くないとすら思う。
君に見惚れながら死ぬなんて、もしかして最高の死に方じゃないだろうか。
「ド…」
全部、欲しかった。
ロがその気持ちを伝えてくれるずっと前から。
もう我慢しなくていいと思うと心が踊った。
失う事は怖いけれど、今だけでもこの甘やかさを享受したい。
だってせっかく君が愛してくれたのだから!
受け取らないなんて勿体ない!
誰かに譲るなんてとんでもない!
満足するまで口付けたあと、ドはゆっくりと唇を離した。
ロは荒い息を繰り返しながらドの肩に額を乗せる。
「あっ、ご、ごめんね?苦しかったね?」
「…お前がこんなにがっつくとは思ってなかった…。」
ロの言葉に、ドの顔に血が上る。
「だって、嬉しくて…!」
「ありがとよ。」
顔を上げたロがふわりと笑う。
やつれているのに、身だしなみだって整っていないのに、それでもその笑顔は充分美しかった。
「…ねぇ、君を愛してるよ。君の全部が欲しいんだ。」
ドの言葉に、ロがごくりと唾を飲む。
「……駄目?それとも、君の好きと私の好きは、違う?」
ドの問に、
「…バーカ…もっとエロい事まで込みだ。」
そう答えたロの顔は真っ赤で。
「…ベッドルームに御一緒しても?」
とドが手を差し出せば、
「そんないいもんじゃねーよ。」
とロがその手を取る。
二人で入るベッドのある部屋、その惨状にドが目を見張る。
「…男の人の一人暮らしって、こんな感じなの…?」
乱雑に散らかる雑誌や服や空のペットボトル。
「普段はもう少しちゃんとしてる!ここんとこずっと…その、お前を待ってたから…。」
テーブルの上は食べっぱなしの弁当容器。煙草があふれた灰皿。
「……?煙草、火、付けなかったの?」
灰皿にあふれていたのはもみくちゃにされた煙草。その殆どに火がついた形跡は無い。あったとしても紙が少し焦げている程度だ。
「お前、煙草の臭いで死にそうだし、その…煙草吸ってる最中にお前が来たら…キス出来ねぇなって…。」
「そうまでして待っててくれたんだ…。もしかして、あんまり寝てない…?」
ロが頷く。
仕事も執筆だけにしてた。
仕事中にもしお前が来て、俺がいなかったら誤解して帰りそうだったし。
…お前が動けるのが夜だけだから、夜はずっと起きてたし。
日が昇っても、万が一お前が明るい時間に来て、インターホン聞こえなくて出そびれたらとか、考え出したらあんまり寝れなかった。
お前が来たことにはすぐ気づいてたんだ。
でも、…インターホン、お前が鳴らさなきゃ意味ねぇから、ドアの前でずっと待ってた。
「…押すの、遅せぇよバーカ…。」
「……もう。」
可愛い。
ドは緩みそうな頬を無理やり引き締め、ロの手を引く。
「ねぇ、君の夜着を借りられる?私君に会いたいばかりで何も持たずに来てしまったよ。」
これでいいか?と差し出されたルームウエアを受け取り、ロをベッドに座らせ、横になるように促す。
ドはマントを外し、夜着に着替え、その横に潜り込んだ。
「まずは一度眠ろうか。」
ドは優しくロの髪を撫でる。
「……。」
何か言いたそうなロの目はしかし、しょぼしょぼと瞬いている。
「一緒に眠るのも初めてだね?」
幼子をあやすようにドはロの額にキスを贈り、優しく頬をなでる。
「…起きたら。」
「うん?」
「…お前と…今まで出来なかったこと…」
「うん。」
「たくさん…する…。」
やがて聞こえてきた寝息。
触れる体の温かさ。
「うん。たくさん、ね。」
散らかった部屋。
二人で眠るには少し狭いベッド。
「おやすみ、退治人君。」
そのどれもが愛おしくて、ふわふわとした心持ちのまま、ドもそっと目を閉じた。
目覚めた後に訪れるだろう、今まで以上に素敵な日常に思いを馳せながら。