吠えてこたえろ満ちる月拝啓
仲秋の候、鯉登少尉殿におかれましては益々御隆盛のことと存じます。
また天皇陛下の御崩御と乃木大将のことで帝都は尚深い悲しみの中にあることと察します。御大喪の御様子を教えてくださつて有難うございます。
こちらでは軍旗を賜つた陛下への服喪の気持ちを忘れることなく日々の教練、演習によく勤しんでゐます。
あめつちに
わが悲しみと月光と
あまねき秋の夜となれりけり
新任の■■少尉が書をよく読まれる方で「一握の砂」という歌集を貸してくださいました。
朝晩冷え込むようになり旭岳の紅葉ももう色づき始める頃です。帝都の紅葉は未だこれからでしょうが一雨毎に秋深まる折どうぞ御自愛ください。
鯉登少尉殿の陸大御卒業と隊への復帰をお待ち申し上げてゐます。
敬具
大正元年九月**日 月島基
鯉登音之進少尉殿
北からの待ちかねていた葉書が届いたのはちょうど満月が輝く宵だった。
女中の清さんがいつものように「鯉登さん、お待ちかねの」と新聞と郵便の束の一番上を月島からの葉書にして渡してくれて、もう一言か二言なにやら言いたげな含みのある笑顔はすっかり慣れっこなので照れたり狼狽えることはない。落ち着き払って「ああ、うん、ありがとう」と右手をずいと差し出してすかさず受け取る。
葉書の表書きが、差出人の名前が、やや右肩上がりのかっちりとした手蹟が恋文に他ならないことを既に知ってはいるが風流な文面は意外だった。
葉書を手にしたままじっと視線を落として二度三度と繰り返し目を通す。
日誌のようにそっけない短い文の、自身のことを詳らかに書いてくることさえ珍しい短い文面に誰かの具体的な名前が出てくるのは滅多にあることではない。新任の少尉もまた己と同じ薩摩出身で北鎮の師団に配属になった者だと聞いている。書を貸すくらいだから月島とはうまくやっているのだろう。それにしたって。
葉書をフランス語の辞書や大学の課題で必要な書籍を置いたままの文机に放ると、どさりと四肢を投げ出して畳に寝転がった。
天井をじっと見据えて木目の節に目を凝らそうとすると電灯のチカチカと橙色を帯びた灯りよりも窓から差し込む月の皓皓とした明るさが鬱陶しかった。
そういえば清さんが朝の膳を持ってきたときに「今日は十五夜、お月見ね」とうれしそうにしていた――清さんはいつだって何だってうれしそうで楽しそうでおもしろがっているけれど。
待ちかねていたはずの葉書が自分が思っていたことと違ったことが少しもおもしろくなくて、そうしておもしろくないと思っている自分が癪でどうにも持て余した。
かといってそのまま燻っているのは益々性に合わなくてがばりと勢いよく起き上がると抽斗から葉書を取り出した。
月島への手紙はいつもは便箋に気に入りの万年筆で濃やかに書きつけるけれど誰にどう見られても構うものかと、何ならその若い少尉に見られたっていいんだと一気呵成に書き上げた。
前略
秋容清爽の折貴兄益々御健勝の由嬉しく思ひます。
手紙をちょうど満月の日に受け取りました。どうも有難う。
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
一日毎に寒くなる折頑健な貴兄とはいえ呉れ呉れも御自愛ください。
草々
大正元年九月**日 鯉登音之進
月島基軍曹殿
万年筆を鉛筆に持ち替えると葉書の空けておいたところに丸々と大きな満月と、見上げている己をささっと描いた。下書きなどせずとも図画は得意な方だから後ろ姿の身長や体格に己の特徴が出るように描くのは造作のないことだ。
描き上げた自分の似姿に満足して眺めるが、絵の中でも一人なのが哀れな気がして軍靴の足元に行儀よく座って月を見上げる犬の後ろ姿を思いつきで描き加えた。
樺太で犬橇を引いていた犬たちを思い浮かべながら線を引いたら思っていたよりもむぞらしく描けたのに興が乗って、そのまた隣にもう一匹を描いて寄り添わせた。描き加えた番は大きく口を開けて上を向いた姿形にしてみたものだから犬というよりは月に向かって吠える狼のような仕上がりになった。
葉書を手にした月島はきっと翡翠を帯びた黒目を真ん丸に見開いて、軍帽の鍔をさっと下げて真っ赤になった顔を隠すだろう。慕う兵らに見つかって慌てて葉書を隠そうとするだろう。いつもよりあからさまな恋文であることが月島にはすぐにわかる筈だから。
手紙を出すのはいつもは清さんに頼んでいるがこの葉書は明日自分で出しに行こうと思いながら縁側に出て、青みを帯びて銀色に輝く満月を見上げる。
秋めいて清々しい夜気が気持ちのいい季節ではあるが紅葉はまだ先だ。こちらの樹々が色づくころには向こうはもう雪がちらつき始めるかもしれない。
季節さえ先へ先へと行き過ぎる北の地で月島もきっと同じ月を見上げているのだと思うと、月に向かって吠える獣のようにできることならば思い切り叫んで呼んでみたくなった。
大きな月をまっすぐに見上げたまま胸のうちで唯一人に呼びかけると、遠吠えに応える声が確かに返ってくるように月島の呼ぶ声が聞こえる気がして夜の向こうへ耳を澄ました。
牀前月光を看る
疑うらくは是れ地上の霜かと
首を挙げて山月を望み
首を低れて故郷を思う
「吠えてこたえろ満ちる月」