再再再解散 日頃の猫背が嘘のように姿勢がよく、やけに真面目な面で切り出すものだから、なるほど次はそのネタでいくのかと思った。惜しくも逃したグランプリの優勝を引き摺っていない。次の目標、新人コンテストに向けてすでに思考を切り替えているようだ。
やや意外に思ったが、嬉しかった。ブラッドリーの相方は何かと引き摺る性質だ。これまでのこいつならあと二日は落ち込んでいる。いい変化だと密かに喜んだ。
ネタ決めの際、大まかなテーマはブラッドリーが決めるが、細かく設定を詰めていくのは相方の仕事だった。基本的には。だからコンテストで敗退すると、「俺のネタがいまいちだったから」と無駄にへこたれる。馬鹿馬鹿しい。本当にいまいちだったら採用しない。そもそも、こだわりの強い相方が妥協したものを客の前に出すわけがない。ブラッドリーが「いいじゃねえか」と言ったものであっても、僅かでも引っかかるときは延々と唸って作り直すやつなのだ。
打ち合わせの時点でブラッドリーが指摘するか、本人が「ここちょっと弱いよな」と自ら欠けている部分を口にする。時にはそれなりに激しく言い合いながら、推敲を重ねていく。要素を足したり引いたり、煮詰まってどうにもならないときは街をぶらついて気分転換したり、思い切って一からやり直してみたり、あらゆる手を尽くす。
そうして互いに「完璧だ」と納得するに至ったものを披露しているのだ。いまいちなはずがない。決して。
ネタ作り担当が決まっている他のコンビに比べると、ブラッドリーたちのやり方は時間が掛かるし面倒だ。だからといってこのスタイルを変えるつもりはない。手間を惜しまず作り込むからこそ、板の上から見下ろす景色はいつだって最高だった。
芸人が裏でどれだけ頭を捻って工夫したかなど観客には関係がないから、努力が必ずしも報われる世界ではないのだ。連中の評価は常にシビア。膨大な量の漫才を研究し、命を削るようにしてネタを書き上げているやつらが本気で笑わせようとしているあいだ、劇場がしらけていることなどめずらしいことでもない。面白くなければ費やした時間も労力も何もかもが無駄。そういうところにいる。
こいつはネタをこなすのに必死で、客席の反応をろくに見ていないんじゃないだろうか。時折そんなことを思う。ちゃんと見ろ。どいつもこいつも腹を抱えて笑っているのに、何故おまえだけが追い詰められたように冷や汗をかいている?
連続して準優勝している時点で、世間的評価は十分高いのだ。ブラッドリーが自惚れてるわけではない。相方は謙虚というよりは自己肯定感が全く足りてないやつで、どんな賞賛もあまり響くことなく胸をすり抜けていく。こういうところには昔から手を焼いている。何度も言い聞かせるうちに、ブラッドリーの褒め言葉だけはきちんと受け取るようにはなった。が、依然としてそれ以外がつける高得点には他人事のような顔をしているのだった。
誰の目からも明らかに、人気若手芸人としての地位はすでに確立している。しかも負けは負けだが今回も一票差。審査員たちのコメントはどれもポジティブなものばかりで、「最後までどっちに投票するか迷った」と数人が難しそうに唸っていた。
採点する側にも苦悩はある。優勝者の発表後、げっそりした一人が「もう来年は審査員辞退したいです」とぼやいてひと笑い起きた。あれは結構本気で言ってるな、とブラッドリーは思った。真面目で公正、ネタの細部までじっくり見て評価する繊細なタイプにとって、自分の票が他人の人生を左右する事実が重すぎるのだろう。
「ブラッド、聞いてるか?」
「聞いてる、聞いてる」
不服そうな声に、ひらりと軽く手を振って応じる。固い面持ちの相方を正面から見据える。数滴ほど青空を垂らした琥珀色の瞳が揺れる。
アレンジの幅があまりないような思いつきでも、かなりぼんやりとした提案であっても、こいつは与えられた題材をいつだってうまく調理する。ライブ用。テレビ用。大会用。「こういうのはどうだ?」のひと言を投げれば「じゃあこんな感じは?」と即座に返ってくる。その出来栄えは常にブラッドリーが想定した以上のものだった。
輪郭さえ曖昧だったものが、あっという間に形を作られていく。それでいて流行りや無難な内容に逃げず、自分たちの色を最大限に活かしたネタに仕上げるからこいつはすごいのだ。滅多にない才能だというのに、本人だけがそれを自覚していない。
「俺は……本気だから。何言われてもあんたに譲るつもりはない」
「おう」
「……おう、って……それ、どういう返事だよ。いいってこと?」
投げやりな口調で相方が問うてくる。何がそんなに不安なのか、膝の上で祈るように両手を組んでいた。足元に視線を貼りつけている相方を眺め、ブラッドリーは感慨深く自分たちの芸人生活を振り返る。まあ、振り返って浸れるほど長年組んできたわけではないのだが。
相方とは幼馴染で、付き合い自体は長い。小学から大学まで同じところに通い、複数の内定を蹴って半ば強引に幼馴染をこの道に引き込んだ。最初は猛反対された。「おまえ引く手数多なんだからノリで芸人なんか目指すなよ!」「やるならせめてアイドルとか俳優とかだろ!」と親兄弟よりも煩かったが、ブラッドリーは粘り強く説き伏せた。
ピンでやっていくつもりは毛頭ない。一人でやっても成功はするだろう。でも、こいつが居ればもっとすごいものが見れるはずだ。さらに上へとたどり着くはずだ。
堅実に生きたがるこの幼馴染を、ブラッドリーはどうしても相方にしたかった。こいつでなければ意味がないので、それはもう必死だった。「いいから『はい』と言え」と迫り続け、途中からは「なあ頼むよ」と甘え倒す作戦に切り替え、ついには「ああ、もう……わかったって」と幼馴染が折れてくれたときは本当に嬉しかった。
ブラッドリーに引き摺られるようにして養成所に入学した頃は、それはもう心底嫌そうにしていた。しかし元来、凝り性のやつだ。次第に熱が入ってきて、周囲から手当たり次第に技術を盗んでいった。雑にこなしていた課題に対して丁寧に向き合うようになり、全部ブラッドリーの思惑通りだ。こいつは頑固なので初めこそ手こずるが、説得できればこっちのものだった。幼馴染は手間暇かけて何かを作ることに抜群の適性がある。いつの間にかいきいきとネタ作りに取り組み始めているのだった。
養成所を主席で卒業する頃には、すでに業界内では名が知れ渡っていた。
コンビ結成から順調も順調、瞬く間に人気が出て大勢のファンがついた。揃って派手なビジュアルをしているのもあり、出待ちの数も相当なものだ。相方には「やるならアイドルとかにしろ」などと以前言われたが、若手の美形漫才師なんてアイドルとそう変わらないのかもしれない。
実際、ブラッドリーたちがこなしている仕事には、モデル業や俳優業が多い。芸人としては全く求められていない……と、いうわけではないのだが、どうもタレント的な立ち位置になりつつあるのは感じる。
若手漫才師に仕掛けられがちな過激なドッキリやきついイジりなどとは無縁で、寧ろ人気俳優にするようなちやほや具合だった。よくも悪くも他の同業者たちと同じようには扱われない。漫才をする機会は少しずつ減って、バラエティ番組で「こいつとは幼馴染で……」という話を何度もさせられたり、ドラマの出演オファーが次々と舞い込んできたり、とにかく本業以外の仕事が増加傾向にあるのだった。
それでもライブのチケットの売れ行きは好調。だが、相方は客層の若干の変化に思うところがあるらしい。無名の頃からブラッドリーたちの漫才を純粋に気に入り、足繁く通っていた連中は近頃肩身が狭そうなのだ。
年若く着飾った女性客が増えた今、板に上がるだけで甘ったるい歓声が響く。ネタの最中にもはしゃぐ声がして、もはやただ手を振って笑いかけてやるだけで満足して帰っていきそうな勢いだ。
もちろん男だから本当のファンとか女だからにわかだとか、そういう話ではない。性別で限定した物言いは正確ではなかった。相方が懸念しているのは、男女問わずミーハーな客が押し寄せるようになったために、昔からのファンが居心地悪そうにしているということだ。
ブラッドリーはさほど気に留めていなかったが、相方はその辺りの感覚が繊細なのだった。これなら最初からアイドルになればよかったじゃん、と言う。定期的に更新する動画につくコメント欄を眺めながら。〈ネタは好きだけど最近はライブ行きにくい〉〈やっぱ生で観たいなーでも会場の雰囲気が変わったからな……〉といった、古参と思しきやつらの零す言葉を、一つひとつ真正面から受け止めるから落ち込むのだ。
アイドルか。それはそれで面白い選択だっただろうが、薄っぺらな愛をばら撒き恋に落とす生業を嫌がったのはこいつなのだ。
芸能事務所からスカウトされるたび断ったのは、いつも嫌そうに俯く幼馴染のためだった。もしこいつが少しでも前向きなそぶりを見せていたなら、ブラッドリーはそちらを選んでいたかもしれない。幼馴染となら何だって出来る、何にでもなれるという確信があった。
仮定の話を延々としても仕方がない。ブラッドリーが選択したのはこの道なのだ。芸人として今以上に有名になるには、いろんな仕事を引き受けるべきだ。俳優業だろうがモデル業だろうが、何がきっかけでも構うものか。結果としてファンが増えるならそれで正解なのだった。当然去るやつもいるだろうが、いずれ連れ戻してやるくらいの気概を持てよと思う。もっと売れて実力をつけ、確かな地位を築き上げたら、相方が好まない仕事を断る余裕も十分に出てくるだろう。それまでの辛抱だ。今は勝負の時なのだ。
新しいファンは二人の新ネタよりもプライベートに興味津々で、何気なくSNSに投稿したオフの写真が大反響を呼んだ。あれは本当に何事かと思った。〈仲いい〜〉〈お休みの日も一緒なんですね!〉〈めっちゃかわいい〉といった反応がずらりと並ぶ。相方と写っているのがファンにとっては相当嬉しいらしい。
熱心に追いかけてきてるやつらの情熱にたまには報いてやろうと思い、時折ツーショットを載せるようにしている。更新するたび素直にはしゃぐので、まあこれくらいはしてやるか、という気分になる。住んでいる地域や家が特定されないよう注意を払うのは面倒だが、その労力以上の効果が見込めるのだから悪くない。
相方の方はやはり乗り気ではなく、ライブ情報の告知以外はしたがらなかった。しかし出待ちのファンに「ネロさんはあんまりSNS好きじゃないですか?」と控えめに、暗に「ネロさんももっと更新してほしいです」と伝えられて以降、普段よく飲んでいるものや綺麗な景色、ブラッドリーの横顔なんかを淡々と投稿するようになった。
これも仕事だと割り切ったのだろうか。それにしてはいつまでも不本意そうな、冴えない顔をしている。
それが気掛かりではあったものの、仕事に追われるうちに忘れて、今の今まで声を掛けてやれなかった。我慢して我慢してついには爆発するタイプなので、SNSはブラッドリーの担当にしてやった方がいいかもしれない。後で持ち掛けてやろう。
さて。
先ほどから順風満帆だったと豪語しているが、紛れもなく事実なのだ。暗く狭い地下劇場の舞台に立つことはほとんどなく、階段を一気に駆け上るようにしてブラッドリーたちはすぐさま地上に飛び出した。
未だにあの古びた小さなステージにしか居場所がない無名のやつらにすれば、突然現れて瞬きのあいだに名を知らしめた若手の存在は面白くないだろう。当然だ。何年もこの業界の底辺で燻り続け、しかし立ち去ることもできずに地縛霊のようになっている連中だ。嫉妬なんて単純な言葉で片付くものでもない。
――顔ファンしかいねえくせに。
すれ違いざまにそう呟かれたり、露骨に無視されたりと、まあ思いつく限りの幼稚な嫌がらせはひと通りされてきた。軽く一回り以上若い世代に陰湿なことをするのが、おまえらにとって最優先ですべきことなのか? 本当にそれでいいのか?
まだ諦めてないやつらがどれだけいるか知らないのだろう。同期(とはいえ年齢には若干の差がある)のなかには、複雑な思いを胸など仕舞って、先を走るブラッドリーたちから貪欲に学ぼうと連絡を取ってきたやつらもいるというのに。
あるコンビ(ボケとボケ)は「ネタのダメ出しをしてくれないだろうか」と頼みにきて、また別のコンビ(こいつらもボケとボケ)は「毛色が違う私たちでツーマンライブをやってみませんか?」と大胆に持ち掛けてきた。
夢が夢のまま終わるのが当たり前の世界だと認めながら、腐ることなく限界まで足掻こうとしている。できることは全部やろうと決め、己の未熟さと向き合う姿は好ましい。悔しさもやるせなさも呑み込んだ眼差しは、少しも濁らず真っ直ぐだった。全身に新鮮なエネルギーが漲っている。まあ、一人はやる気のなさを見てくれでどうにかカバーしているのだが、それはそれで本人の武器だと言えなくもない。使えるものは何だって使えばいい。
ふて腐れてこちらに当たり散らす老害は哀れだなと思うだけだったが、同期のスターに食らいつこうとするやつらのことは嫌いじゃなかった。そんな経緯で親しくなった芸人仲間たちは、近ごろ揃って頭角を表しつつある。
ネタを見て相方と驚いたものだ。運に恵まれなかったり売り込みが下手だったりするだけで、才能は十分に備わっている。どちらのコンビも、天然同士の掛け合いが奇跡的にマッチして独特の世界観を作り上げているのだ。大衆受けするかどうかは置いておいて、ハマるやつにはかなりハマるだろう。
――なあ、あんたたち最近ドラマばっかりじゃないか? そろそろ新しいネタが見たいよ、俺は。あ、もちろんコンテストの準備もあるし、忙しいだろうけど。
――私も私も! カインさんと同じ気持ちです。同期としてはちょっぴり悔しいけど、毎回「面白い!」って思わされちゃうんです。ね、ミスラさんもそう思うでしょう?
――はあ。まあ、好きにしたらいいんじゃないですかね。俺もこのあいだモデルの仕事したら、意味がわからないくらい知名度上がりましたし。何でもやってみたらいいんじゃないですか。
――私はミスラの意見に近いな。カインやルチルの言う通り、二人の新作はもちろん私も楽しみにしている。でも、先週が最終回だった、あの……訳あり探偵事務所のドラマは、最後までとても面白かった! 演技の仕事も素敵だと思ったよ。
あれこれ注文をつけたりエールを送ったりしたのち、「準優勝おめでとう」と祝われた。「おめでとうでいいんですか? 残念でした会じゃなくて?」と言ったミスラの太腿をルチルがきつく抓る。
――もう、準優勝なんてすごいに決まってるじゃないですか! おめでとうで合ってます。
――でも、二番目だったの、これで三回目でしょう。いい加減優勝しないと、俺たちが先に一番になりますよ。
ふんぞり返って宣言するミスラに代わって、ルチルが申し訳なさそうに頭を下げる。「後できつーく言っておきますから!」と。ミスラの指摘は事実だったし、特に腹も立たない。今のところブラッドリーたちは無冠。悔しければ結果を出せばいいだけの話だ。ブラッドリーは相方の肩を抱き寄せて、唇の端を持ち上げる。
――ふん、次のコンテストで俺たちが時代を変えてやるさ。なあ、ネロ。
顔を覗き込んで笑うと、相方は目を伏せ、曖昧に微笑んだ。あの表情。今にして思えば妙だった。大きなことを言うブラッドリーに、小心者のあいつは怯んだのだろうとあの場では考えた。だけど、それにしては。それにしては何かが、引っかかる。恥ずかしがっていただけなら、構わないのだが。
「もう一度言う。ブラッド、解散しよう」
物思いに耽っていたブラッドリーの耳に、きっぱりとした声が届く。たちまち過去ではなく現在に感覚が戻ってくる。薄い唇を噛んで反応を待っている相方に、ブラッドリーはあっさり頷いた。
「いいんじゃねえか?」
瞬間、相方は目を見開いた。なんだその反応。自分から言い出した癖に「いいのか?」「本当だな?」と念を押してくるので眉を寄せる。
「だから、いいって言ってんだろ」
「……本当に、本当だな?」疑り深い視線を執拗に向けてくるのだった。「後からひっくり返すなよ」
「ンだよ、しつけえなあ。何回も確かめんじゃねえよ」
「だって……あんた、これまでずっと『解散はしねえ』の一点張りだったろ」
今回は最悪、本気で殴り合うつもりだったから。ブラッドリーの相方、ネロは脱力したように息を吐いた。纏っていた固く張り詰めた空気がたちまちほどけていく。
凪いだ面持ちで微笑まれた瞬間、ブラッドリーは自分たちの会話が噛み合っていなかったことに気づいた。すっかり寛ぎ始めたネロとは逆に、ブラッドリーの機嫌は急降下していた。清々しい表情の相方を信じられない思いで見つめる。
妙に嫌な予感がした。ネロが癇癪を起こすのは今に始まったことではない。これまで通り宥めすかして、丸め込めばいいだけのこと。そう思うのに、てのひらに汗が滲んだ。
「てめえ……何遍、同じこと言わせりゃ気が済むんだ。解散は絶対にしねえからな」
「はあ?」ネロは瞬く間に剣呑な顔つきになった。「さっき、あんたも了承したじゃねえか。ふざけんなよ」
「コンテスト用の新しいネタだと思ったからに決まってるだろうが。本気の解散話だってわかってたら頷かねえよ。何回もやったろ、このやりとり」
強引に言うことを聞かせようとすると余計に頑なになるやつだ。上から押さえつけるより、甘えられるのに弱い。ブラッドリーはネロを片腕で抱き寄せ、猫撫で声を出す。
「なあ、冗談でも言うなよ。寂しくなるだろ」
切り札の「寂しい」を前にしても、ネロは今度ばかりは少しも揺らがなかった。それどころか殺気立った目で睨みつけてくる。
「俺は冗談で解散を切り出したりしねえよ」
ブラッドリーの腕を振り払って立ち上がると、「これまでもずっと本気で言ってた」とネロは絞り出すように言った。
「ネロ、待てって」
「あんたって、肝心な話は全然聞いてくれないよな」諦めたようにふっと笑ってネロは呟いた。「大丈夫だって、ブラッドならどこにでも行けるし何にでもなれる。俺のことなんかすぐに忘れるよ」
「なんだよ、それ……おい、ネロ」
マネージャーにはあんたより先に話してるから後はよろしく、と一方的に告げ、ネロは出て行った。二人で住んでいたマンションの部屋から。ふらっとコンビニにでも向かうような軽装で出かけたのに、いつまで待っても玄関から「ただいま」という声がしない。
結果的にあのときの直感は正しかった。
どうせいつものやつだと高を括っていたけれど、ネロは未だに帰ってこない。電話には出ない。メッセージの方は内容次第では返信が来る。他愛のない話題なら返ってくるものの、ブラッドリーが本当に知りたいことには一切応じないので、どこで何をしているのかはわからない。
仕方がないので一人でこなせる仕事だけ受けた。相方に関しては「諸事情で一時的に活動休止」と濁し、モデル業や俳優業など、本業から離れたものばかりを何も考えずにこなす。いつでもあいつが帰ってこれるように、芸能界で居場所を失うわけにはいかない。
何事もきっぱりとしているブラッドリーが曖昧な物言いをしたので、世間は好き勝手に想像した。〈もしかして病気とか?〉〈なんでネロからは何の説明もないんだろう〉〈今年の賞レースは諦めんのかよ〉〈実は不仲だった、とか言われたら泣く〉〈実質解散予告みたいなもんだろ〉……不安になったファンがブラッドリーのSNSのアカウントに押し寄せてきたが、まともに取り合う義理もないので放置した。
普段通りの投稿を続けるうちに騒いでいた連中も次第に落ち着いて、一部のしつこいやつを除けば以前とほとんど同じ状態に戻った。〈ネロのことを教えてください〉〈ネロはどうしたんですか〉と何度も訊ねてくるやつらには、ンなもん俺が一番知りてえよ、と苛立ちつつ仕事に打ち込んだ。
仕事をしているあいだは少しだけ楽だった。何故、と考える時間が多少は減るから。とはいえドラマの撮影でもバラエティ番組に出演していても、常にあの柔らかな空色の髪に夕焼けを映した瞳、困ったような笑顔が眼裏に貼りついていて、忘れる瞬間はなかった。
ようやく僅かながら時間が作れたので、ネロの捜索を行うことにした。目を瞑って候補を挙げていく。あいつがいそうなところ。突発的に家出したわけではなさそうだが、前もって準備が整っていたようにも思えない。荷物はほとんど二人で暮らしていた部屋に置き去りだし、一から家電を買い直して住居を整える気力がネロにあるだろうか。あの性格を思えば、解散を切り出すだけでも消耗したはずだ。
まずは一時的に信頼できるやつのところに身を寄せている可能性が高い。あいつは気が利くし料理が上手いから、「いつまでもいてくれていい」と喜んで迎え入れられているのは容易く想像がつく。どこかに居候しながら、こつこつと一人暮らしの準備を始めているのではないだろうか。
人といると気を遣いすぎて疲れるやつだが、ブラッドリーと離れた今、誰かのところに避難している気がする。他人と深い関わりを持つのはしんどいのに、どうしようもない寂しがりなのだ。こういうときに一人でいるとは思えない。
しかし、ネロが頼るならあいつらか、と最初に見当をつけた二人は首を横に振った。世間的には「一時的に活動休止」ということになっているので、事情を知った今それはもう驚愕している。
「そんなことになってたんだな……」カインはよほど信じ難いのか、腕を組んで唸っている。「あんたたち、仲がいいイメージしかないからなあ。喧嘩の弾みで、つい『解散』って言葉が口から出ただけじゃないか?」
「私もそう思う」
カインの見解に力強く同調したのち、悔やむようにアーサーが俯いた。
「……ひょっとすると、先日のお祝いが負担になってしまったのかもしれないな。純粋におめでとうと伝えたかっただけなのだが……ネロはひたむきだから、次こそは勝たなければ、と自分を追い詰めてしまったのだろうか」
「俺も余計なこと言っちまったかな……優勝逃したばかりで、本当は結構堪えてたのかもしれないのに」
居場所に心当たりがないか知りたかっただけなのに、〈センター!〉の二人はみるみるうちに元気をなくしていった。勘弁してくれ。ブラッドリーはカインとアーサーの頭を雑に撫でながら思う。俺は今、あいつのことで手一杯なんだよ。おまえらが気に病むことじゃないと言い聞かせてから、ブラッドリーはもう一つの心当たりの家を訪ねた。
「ええっ! ネロさん、行方不明なんですか?」ルチルは紅茶をテーブルに並べてから、口元を覆って凍りついた。「それに、解散って……どうしてですか? 二人ならきっと、優勝だって何だって、できたはずなのに……」
「ンなもん、俺が訊きてえよ」
「あ……ごめんなさい……」
「いや、てめえが謝ることじゃねえけどよ」
あからさまに肩を落としているルチルを励ますため、「美味いなこれ」「どこの茶葉だ?」と大袈裟に褒める。するとまだ幾分しょぼくれてはいたものの、ほんの少し笑って言った。お友達からもらったんです、と。
「SNSで知り合ったお友達で、この前初めてお会いしたときに頂いたんです。私が『美味しそう』って言ってたの、覚えてくれていたみたいで」
「へえ? 気の利くやつだな」
「そうなんです。ラスティカさんって言うんですけど、実はアイドルをされてる方で」素早くスマートフォンを取り出したルチルは、一人のアカウントを見せてきた。「まだ少し先の話だそうですが……新メンバーを迎えて、メジャーデビューする予定なんですって!」
「新メンバーって、どんな人なんですか」
だらんとソファに寝そべっていたミスラが、突然割り込んできた。さほど興味なさげに「ラスティカとかいうやつは知りませんけど、もう片方のやつとは撮影の現場で会いました。確か、オーエンって言ったかな……何言ってるのかはよく分かりませんでしたけど、割とにこにこしてたし、アイドルに向いてそうでした」と言う。ちなみにミスラの言うことはあまりあてにならないので、オーエンとやらに本当に適性があるのかは正直怪しい。
「それが、まだ発表されてないんですよね。でも……歌声や指先まで気を抜かないパフォーマンスに惹かれていたから、入ってくれて嬉しいって、ラスティカさんが言ってました。だからきっと素敵な方だと思います」
「ふうん」
ミスラと揃って気のない返事をした直後、「あ!」とルチルが声を上げた。「ラスティカさんのSNS、更新されてます」と画面を見せてくる。
三人のシルエットが並んでいた。ライトで調整されていて、顔は全く見えなかった。髪の色もよくわからない。全員背丈が同じなのだろうか。頭の位置が変わらない。それはそれとして、とブラッドリーは思う。この真ん中にいる男。
「なんかネロに似てません?」
「え? そうですか?」ルチルは目を凝らして画面を覗き込み、首を傾げた。「どの辺がですか?」
「はあ。うまく言えませんけど、なんとなく」
気怠そうにスマートフォンから離れたミスラは、ちらとブラッドリーを見つめた。
「ブラッドリーはどう思いますか?」
「……似てるような気もしなくはねえけど、さすがにこれだけじゃわかんねえだろ」
「ああ、まあ、そうですね」
ミスラにはそう言ったが、内心嫌な予感がしていた。そんなはずはない。元より俳優業やモデル業に積極的じゃない男が、よりにもよってアイドルグループに加入するわけがないのだ。学生時代、スカウトマンに名刺を差し出されるたび憂鬱そうにしていたあいつが。
でも体の線には見覚えがある。緩く首を傾け、腰に手を当てているこのポーズ。ただの偶然に違いない。違いないのだが、宣材写真でネロは全く同じポーズをしているのだった。