再再再解散Ⅱ 血迷っていかにも胡散臭い占い師にふらふら吸い寄せられていた。友人が冷静に「やめておきなさい」と止めてくれなければ危なかった。
あからさまに弱っている客なんていいカモだ。中身の伴わない見せかけだけの労りなんて、毒にしかならない。ネロ。そんなもので痛みを麻痺させても、きみの問題は何も解決しないだろう。……いつでもどこまでも、真っ直ぐで正しい。年下の友人の声音は、厳しい物言いに反して柔らかかった。
だけどそんなふうに言われてしまったら逃げ場がない。真っ向から立ち向かうたびに丸め込まれてきたから、どうしようもなくて逃亡した身としてはつらい。まあ、厳格な一方で懐に入れたやつにはそれなりに甘く、今日までネロを匿ってくれていたのはこのファウストなのだけど。
無責任な偽りの言葉で安心したがったり、くだらない気休めに凭れかかったりすることをファウストは許さない。だけど「逃げるな」とは一度も叱らなかった。ほとんど何も持たずに飛び出してきたネロを躊躇なく自宅に招き入れ、好きなだけいたらいいと言う。ネロと同じで、簡単には他人と打ち解けられない性質なのに。
――きみなら構わないよ。
隙を見て少しでも荷物を取りに戻るべきか、今後どのように行動すべきか、一旦思考を整理したかっただけなのだ。民家に紛れてひっそりと佇む喫茶店に突然呼び出したのは、これからのことを考える前に友人の顔を見てほっとしたかったからに過ぎない。あとはまあ、少し相談に乗ってもらえたらとは思った。
しかしファウストは挨拶も省略し、開口一番に提案した。僕のところにいればいい。あの男が仮に押し掛けてきても、僕が追い返してやる。
最初は冗談だと思ったが、至極真剣な表情をしているので本気なのだと気がついた。予想外も予想外だ。ネロはぽかんとファウストを見つめた。ファウストは間の抜けた顔で返事をしないネロを見つめ返す。「お待たせしました」と愛想のいい店員がホットコーヒーを運んできて、その溌剌とした声にハッとしてようやく硬直が解けた。
――いやいやいや、気持ちはありがたいけどさ……俺、あんたが手に入れた生活の雑音になりたくないよ。
――ならないよ。仮にきみがなろうと思っても。どんなに頑張っても、きみは僕の暮らしを滅茶苦茶にできない。
一点の曇りもない信頼が眩しくて、思わず目を逸らした。「俺みたいなの信頼しすぎない方がいいよ」と呟くと、「もう誰も信じるものかと僕だって思ってた」と返ってくる。涼しげな面持ちでカップに手を伸ばす友人の、人間不信の理由を知っていた。首を横に振り溜息混じりにネロは諭す。
――だったら尚更、やめとけって。俺から連絡しといてあれだけど、付き合うやつはもっと選ばねえと。
――選んでる。だから、きみなんだ。
――見る目ねえなあ、先生は。
そう笑うと、むっとしたように「きみに言われたくない。だからあんな男とは早く縁を切れと言ったのに」と痛いところを突かれた。縮こまって顔を背ける。深い溜息が聞こえた。
ネロとは活動期間がずれる(正確に言えばあまり被らなかった)が、ファウストも漫才師を志していた過去がある。大学で漫才研究会に入り、幼馴染とコンビを組んでいたのだ。一緒にやろうと誘われたらしい。俺たちで革命を起こそう、とか何とか。
どこかで聞いた話だな、と頭が痛くなる。ファウスト本人も割と乗り気だったようなので、引き摺られるようにしてこの業界に足を踏み入れた自分とは若干事情が違うけど。
卒業後は会社で働きながらアマチュアとして活動し、養成所にも「面白いやつらがいるらしい」と囁かれる程度には成功への道を歩んでいた。少なくとも、外部からはそう見えた。
しかしながら突如として彼らの活躍を耳にすることはなくなった。ファウストの相方であった男は現在もタレントとして知名度を上げ続けているが、ファウストの方はいつの間にか、舞台上にぱったりと現れなくなっていた。
名が知られているとはいえ、日の目を見ない地下芸人にも詳しいお笑い好きや、同世代の漫才師に限った話だ。「幼馴染と漫才をしていた時期があったらしい」くらいのことしか世間には伝わっていない。次第に初めからそんなやつはいなかったかのように人々の記憶から消えていった。
ただ「ファウスト」という名前だけが時折、ぼんやりと亡霊のように浮かんでくる。同じ世代の人間にとっては、なんだか信じ難いのだ。きっとこの世代を代表するコンビの一つになると、みな勝手に思っていたから。
そう遠くない未来、会って話す機会もあるだろう。好敵手として競い合うときが来る。養成所で徐々に一目置かれるようになっていた頃、ネロはそう考えていた。だけど予想は外れ、同じ舞台に立つ日は訪れなかった。
テレビでその男を見かけては、相方の方は今頃どうしてんのかなと気に掛かった。コンビの解散なんてめずらしい話でもない。仲がいいと評判だったから、きっと話し合って円満に決断を下したのだろう。周りの連中はそう結論付けていたが、しっくりこなかったのだ。
円満に道を分かつことができたなら、何故公式にコンビ解散を発表しなかった? 何も告げず煙のように姿を消したのは不可解だ。
もちろん家庭の事情や病など、あまり公にしたくない理由があるのかもしれない。コンビを解消するに至るまでに何があったのか、いちいち説明する義務もない。
それにしても、とネロは二人の過去のコント動画を見て思う。彼らの笑顔はいつだって明るく清々しかった。
スケールが大きい、ぶっ飛んだ内容のネタを大真面目に披露するやつらだった。揃って声量がすさまじい。マイクトラブルがあった際にも平然と最後までやり通し、観客のほとんどは舞台裏でスタッフが慌てていたことなどちっとも気づかなかった、というエピソードもある。
劇場内に響き渡る、凛とした声。始めと終わりにはいつも深々と頭を下げる。詳細は伏せるにしても、簡潔な報告くらいはしそうなやつらだ。ファンに対して最後の最後で誠実ではなかったのが、どうも引っかかるのだった。
思い出すともやもやと消化不良のような気分になったものの、結局は顔を合わせることも一度もなかった相手だ。普段は忘れていたし、思い出す頻度も少なくなっていった。去った者のことを考えるほど時間に余裕はなかった。ネロは現役で、ありがたいことに仕事も次々と舞い込んでくる。
成功したい。勝者になりたい。そんな貪欲な感情を抱いていたわけではない。芸人になる予定なんてなかったし、ネロはごく平凡で穏やかな人生を送るつもりだった。
スポットライトを浴びるにふさわしいのは、ほんのひと握りの者だけ。自分にそんな才能はない。秀でた何かを持つ特別な存在ではない。この魂に与えられたのは、眩いステージを客席から見上げて満たされるエキストラだ。
だけどネロの幼馴染が脚本をすっかり書き換えてしまった。配役も何もかも大胆に変更され、とんでもないことになったと思った。昔から無茶苦茶なやつなのだ。固いシートに腰を下ろしてスターを眺めているのが性に合っていたのに、強引に腕を引かれ、ついには舞台に上がっていた。
容赦なくライトがネロを照らす。隣では満足そうに幼馴染が笑っている。あまりの場違いさに目眩がした。
だけど表には出さなかった。こうなった以上は仕方ない。最初から主役以外あり得ないやつが、本来はただの端役をスターと偽ってこんなところに連れてきてしまった。その選択を正解にしてやりたい。こいつにふさわしい相方になろうと思った。思ったのだ。信じてもらえるかはわからないけど。
傍目から見た自分たちは順風満帆そのものだっただろう。養成所時代から注目されていたし、売れるのも早かった。「本物」たちに囲まれて萎縮しそうになる心を叱咤し、足りない分は努力で補った。意外にも頑張っただけ報われるのが楽しかった。
完売したチケット。埋まった客席。響く笑い声。ベテランたちから掛けられる期待の声。ネロにとって居心地の悪かった場所が、次第に自分の居場所のようになっていった。ここにいてもいいと許されている気がした。もしかしたら俺にも、才能の欠片のようなものは存在していたのかもしれない。そんなふうに浮かれる瞬間もあったのだ。
だけど少しずつ理想と噛み合わなくなってきた。才能があってもなかなか這い上がれない連中がいる業界で、こんなのは贅沢な話だ。自分でも理解している。それでも、本業以外の仕事が増えていくのは喜ばしいことではなかった。
昔から応援してくれていたファンたちが、近頃は所在なさげにしている。ライブでも動画でも日々実感する。モデルや俳優としての活動を経て獲得した、新規のファンたちの振る舞いに戸惑っているようなのだ。トークバラエティ番組に呼ばれる機会も増えたため、熱心なお笑いファンだけでなく、比較的ライトな層にも顔と名前を覚えてもらえるようになっていた。
喜ばしいことなのに素直に喜べない。本当にこれでいいのだろうか。すいすいと泳ぐようにして成功への近道を突き進んでいるが、このまま流れに身を任せて上昇した先に何があるのだろう。
養成所時代から「イケメンコンビ」として知られていたが、ここ最近はなんだかアイドルのようにきゃあきゃあと騒がれる。ネタを面白いと思って気に入ってくれたというよりは、「イケメン」であることがネロたちに興味を持った一番の要因らしい。きっかけはそれでも構わないのだ。でも、板の上でただ愛想を振り撒くだけで何も喋らなくても、新規のファンは十分喜ぶ気がして虚しくなる。
――いいじゃねえか。演技でも何でもやって、のし上がろうぜ。てっぺんまでたどり着いたら、てめえが嫌だっつう仕事は全部蹴ってもいいけどよ。
――でも……。
――それに、他の仕事もちゃんと様になってるだろうが。評価されてんだから自信持てって。だからドラマに出てくれだのファッション誌で特集組ませてくれだの、次から次にオファーが来るんだろ。
――わかってる、わかってるけどさ……。
ンな辛気臭え顔してないでシャキッとしろよ、と相方は背中を叩いてくる。ちっとも気に留めないどころか、絶好のチャンスだと捉えているのだ。どう言えば伝わるのか言葉を探すけど見つからず、ネロは口を噤むしかなかった。
確かに普段から漫才を見る層以外も取り込めたら、自分たちの地位はさらに向上するだろう。なりふり構わず体を張った芸をしているやつらからすれば、ネロは酷く甘ったれたやつに映るに違いない。恵まれている自覚はあるのだ。鳴かず飛ばずの苦しい時代もなく、安いギャラで割に合わない仕事を振られたこともない。
それでもネロの胸を覆う靄は少しずつ濃くなっていった。違う。こんなのは違う。こういうのじゃなくて、もっとちゃんと、俺たちは出来るのに。
芸人になると幼馴染が言い出したときは猛反対した。おまえみたいに何にでもなれるやつが、なんで敢えてそれを選ぶんだと驚愕した。でもスポットライトのなかで生きていくのはきっと向いてる。舞台の上で生きていくというなら、俳優やモデルがいい。
別にお笑いを下に見ていたわけではない。人を楽しませるためにああでもないこうでもないと試行錯誤して大勢の前に立つことが、どれほど恐ろしいか。渾身の出来だと思って披露したネタに対して返ってくるのが、溜息と愛想笑いだけだったら? 白けた空気に膚をちくちくと刺されながらもオチをつけるまでどこにも逃げられない。客席の冷め切った眼差しを一身に浴びて舞台に滞在するあいだ、背中には滝のような冷や汗がつたうだろう。
俺たちが漫才をするって? 絶対にあり得ない。本当に最初は全然想像がつかなかった。ネロは客が誰も笑っていないのを想像しただけでもゾッとするのに、自分が一生懸命に作り上げたものをたった数分で評価される世界に足を踏み入れようものなら瞬く間に心が折れると思った。ブラッドリーはどこでもやっていけるだろうが、少なくともここは最適ではない。誰かの希望になれるやつだけど、誰かのために道化になるようなやつではない。この男なら漫才よりも演技の方が人を惹きつけるし、より適性があるという確信があった。
だって幼馴染には華があったし、学生の頃には芸能事務所から声が掛かる日もめずらしくなかった。連中は何故か隣にいるネロにも名刺を渡してきたけど、まあ本命のついでだろう。自分には縁のない世界だと、自分が一番わかっている。
今でもブラッドリーには向いていると思う。どんな役もこの幼馴染は見事に演じてみせるし、表紙を飾る堂々とした美しい顔は他のモデルたちを霞ませるほどだった。それでもネロは嫌だった。
本人は納得して「これはこれで悪くねえな」と楽しんでこなしているのに、ネロが嫌だったのだ。顔だけで売れているなどという揶揄は聞き流せばいいのに、いちいち腹が立って仕方がない。もういっぺん言ってみろと凄みたくなる。
容姿で随分と楽をしているのは事実とはいえ、見た目だけで行ける場所なんて高が知れているのだ。そんなこともわからない連中から偉そうにレッテルを貼られるのが悔しくて堪らなかった。中傷まがいのことを平気で言う売れない同期や評論家気取りのやつらを黙らせたい。そのためには強力な証が必要だった。芸人たちが命を削るようにして参加する、歴史ある漫才コンテストでの優勝。きらめくトロフィーを掲げれば、もう誰も「顔だけ」なんて言えないはず。
完売したチケット。埋まった客席。響く笑い声。ベテランたちから掛けられる期待の声。幼馴染が心から満足そうにしていたのは、センターマイクを挟んで舞台に二人で立っているときだった。今ほど売れていなかった頃、客席を沸かせた瞬間の眩しい笑顔が眼裏にこびりついている。あの顔がネロはこれまで見たなかで一番好きだなと思って、だからやっぱり、どうしても芸人として成功したかったのだ。
一刻も早く上り詰めたい。そのためには無冠のままではいられない。それまで以上にネタ作りに没頭しつつ、SNSもファンの要望に応えて定期的に更新するようになった。
そんな矢先のことだ。同じ業界にいたときには顔を合わせる機会がなかったファウストと、街中で遭遇した。買い物の帰り道、思いついたネタをメモしていると、潜めた声を聴覚が拾った。何やら揉めている気配がする。「いや絶対ファウストさんですよね?」「違うと言ってるだろう」。思わず足を止めると、閉店したレストラン前で二人の男が小声で言い合っている。
――さっきから何度も言っているが、完全に人違いだ。いい加減にしてくれ。
眼鏡を掛けた細身の男は、生真面目でおとなしそうな外見に反して口調は刺々しかった。ラベンダーのような色合いの瞳が苛立ちで染まっている。
――俺、ずっとファンだったんです。ライブ通ってたんですよ、コンビ解散するまで。この近くに住んでるんですか?
――だから……僕はただの一般人だ。何回説明させる気なんだ、おまえは。
――大丈夫です。誰にも言いませんから。ああ、また会えるとは思わなかったなあ。俺、あのネタがめちゃくちゃ好きで……ほら、アルバイト面接の。
ファンを名乗る男は興奮していて、一方的に話し掛け続けている。会話が成り立っていない。
どんなに否定しても聞き流されるので、絡まれている方の顔には徐々に憔悴の色が浮かんできた。メモをし終えてスマートフォンをポケットに仕舞うと、ネロはスーパーのレジ袋を持ち直して二人に接近した。背中を向けている『ファウストのファン』を名乗る男は気づいていないが、『ファウスト』はすぐにこちらを見た。疲労が滲んでいた紫色の目が丸くなる。
――なあ、夕飯変更していい? 鶏肉が安かったんだよ。
自然な調子で割り込んできたネロに、男たちは呆気に取られていた。え、え、と困惑するファンの男に対して首を傾げ、「知り合い?」とさも友人のように『ファウスト』に訊ねる。一つ持ってくれ、とレジ袋を片方手渡す。『ファウスト』は若干ぎこちなく受け取ると、「違う」と答えた。
――また間違われてるんだ。きみからも言ってやってくれないか。
あと夕飯はなんでもいいよ、きみが作るものは全部美味しいから、と言う。スイッチが入ったのだろうか。途端に演技が滑らかになる。とはいえ、この男は現役の頃から台詞に感情が乗らないというか、若干棒読みに近いのだけど。自然と話を合わせてくれたので、会話自体はスムーズだしまあ大丈夫だろう。
――あはは、また? まあ、かなり似てるもんな。
――笑い事じゃない。それに、どこが似てるんだ。僕みたいに陰気な男が漫才なんかするわけないだろう。
どこが似てるも何も、とネロは内心思う。正真正銘、この男はファウストなのだ。昔は眼鏡を掛けていなかったし、髪型も異なる。服装ももっと明るい色のものを身につけていたはずだ。確かに纏う雰囲気は変わったが、注意深く観察すればこの端正な顔立ちは誤魔化しきれない。特にファンだったなら、尚のこと。
――悪いけど、この人が言ってるように、他人の空似だからさ。今どこで何やってんのかわからないけど、また会えるといいな。
ネロが優しく声を掛けると、男はしどろもどろになりながら立ち去った。跡をつけてくる可能性を考慮して、しばらく二人で「そういや食パンってまだあったっけ」「僕が買っておいたよ」などと演技を続行し、人通りの多い駅前まで移動して袋を返してもらった。
運のいいことに帰宅ラッシュの時間帯だ。ぞろぞろと学生や会社員が改札口から出てきた。これだけ人が行き交っていれば、紛れてしまって見つけ出しにくいだろう。それにタクシーもある。無駄な出費にはなるが、遠回りして完全に撒いてから帰るのもいいかもしれない。
――助かった。ありがとう。
――別に大したことしてないって。あんたも災難だったな、間違われて。
あくまでも人間違いだということにしておこうとしたネロに対し、眼鏡の奥でラベンダーカラーの瞳がそっと細められた。ありがとう、ともう一度言われた。その意味は訊かなくてもわかったので、ネロは頷いた。
――余計な世話かもしんねえけど、できれば引っ越した方がいいんじゃねえかな。あの手の思い込み強いタイプって、たぶん諦めないと思うし。家突き止められたら面倒だろ。
――この街は少し賑やかすぎるけど、生活する分には便利だったから惜しいな……でも、そうだな。またこんなことが起きるのは御免だし、今月中に新しい部屋を探すよ。
うんざりしたように小さく首を縦に振るファウストは、酷く消耗していた。それでつい口を開いた。
――引っ越しの手伝いとか……は、まあ、親しいやつに頼むと思うけどさ。なんか力になれそうなら連絡してよ。
スマートフォンを差し出してから、しまった、とネロは悔やんだ。人付き合いは不得手なのに、どうしてこう首を突っ込んでしまうのだろう。
こんなふうに距離を詰められては、ファウストだって困るだろう。息を潜めて暮らしているのは、容易く他人に打ち明けられないような理由があるからだ。だけど助けられてしまった手前、ファウストは恐らくネロの申し出を拒めない。誰とも繋がりたくなくても。
慌ててスマートフォンを引っ込めようとしたときだった。ファウストはまじまじとネロの手元を見つめてから、ふ、と可笑しそうに表情を綻ばせた。
――今をときめく人気若手芸人のきみを、そんな雑用めいた用事で呼び出してもいいのか? きみの相方に怒られそうだな。
一瞬、思考が停止した。脳が正常な働きを取り戻し、たちまち状況を理解する。ネロは妙な気恥ずかしさで目を逸らした。
――なんだよ、あんた気づいてたの?
――気づいてたよ。いつか同じ舞台に立つだろうと思っていた相手が目の前に現れて、さっきはさすがに驚いた。
そんな経緯で知り合い、ファウストとは徐々に親しくなっていったのだった。
ファウストはもう引退した身だ。消息を気にする同期はちらほらいたけれど、誰にも教えることなく二人だけで友情を育んできた。広く浅く付き合うのが楽なのに、思いの外こうして一人とじっくり向き合うのも悪くない。業界外の友人ができるのは久々だ。
互いに解放できる心の面積が広がっていくと、踏み込んだ話もできるようになった。今は何をしているのかと訊ねたら、自棄になってゲーム実況を始めたところ、意外に人気が出て戸惑っている、と返ってきて、ネロは堪えきれずに腹を抱えて笑った。
見た目に似合わないことばっかりしてるな、この人。芸人といい、実況者といい、なんか変だ。どこかの大手企業で若くして昇進、あっさり出世してバリバリ働いていそうな風情なのに。
それでいて、芸人時代も現在の実況者としての活動も好評なのが余計に面白い。ファウストもスポットライトを浴びるにふさわしい人間だったのだろう。だからステージを降りてもこうして人が集まってくる。いや、死ぬまで降りることができないのかもしれない。
――きみもやってみるか?
――え、俺? あんまりゲーム詳しくねえんだけど……。ていうか、実況動画って俺、あんたのしか見てないし……よくわかってねえから、邪魔だと思うよ。
――隣で喋ってるだけでいいよ。僕の動画を見てるきみなら知ってるだろうけど、僕も全くゲームに詳しくない。視聴者がなんとかしてくれてるだけだ。
――まあ、そう言ってくれるなら……。
それってファウストの実況ファン的にはどうなんだろう。些か不安ではあったが、せっかく誘ってくれてるんだし、と思って頷いた。
結果的に、かなり楽しかった。ファウストのファンはみな穏やかで、ネロにも優しかった。〈今日はお友達と一緒なんですね〉〈先生がこんな喋るの初めて聞いた〉〈二人ともゲーム下手すぎてかわいい〉といった具合なのだ。「これ次どうすんの?」「見当がつかない」と右往左往するたび的確なコメントが幾つも素早く寄せられて、それを頼りになんとかクリアした。
――なんだかんだ、達成感あるなあ。助けてもらいっぱなしで、ほぼ何もしてないのに。誘ってくれてありがとな、先生。楽しかった。
先生とは、ファウストがゲーム実況をするにあたって名乗っているハンドルネームである。正確には『東の先生』らしいが、みんな先生と呼ぶ。「何で東?」と訊いたところ、「前に住んでいた部屋が東向きだった」と返ってきた。先生に関しては、幼馴染に芸人になろうと誘われるまで、教職の道も考えていたからだそうだ。
ファウストは微笑むと、「きみさえよければまた一緒にやろう」と言った。「え、いいの?」「いいよ」という短いやりとりをして、その後も時折二人で密かに実況動画をあげている。ファウストとネロだけの秘密だった。他の誰にも教えていない。この二人が親しくしているなんて、同期も世間も想像していなかったことだろう。
少しずつファウストが自分の過去を話してくれたように、ネロも現在抱えているものをぽつぽつと零すようになっていった。顔色がどんどん悪くなっているようで、心配させることが増えたのだ。
どれだけ真剣に話しても真面目に取り合ってくれない相方。コンテストの優勝を連続して逃して心底滅入り、いよいよ本気で解散しかないと思った。俺みたいな紛い物があんたの隣に立ってるせいで、あんたは永遠に一番になれないんだ。だけど解散話は何度持ち掛けても相手にされず、「そんな寂しいこと言うんじゃねえよ」と甘えるように抱きしめられて丸め込まれる。
早く縁を切れ、とファウストは焦れったそうだったが、ネロはなかなか最後の踏ん切りがつかなかった。あいつを一番輝かせたかった。期待に応えたかった。その未練が口を噤ませる。
だけど三回だ。三回続けて準優勝だった。このまま万年二位の座に安定してしまう予感がして、貼りつけた笑顔の裏で崖っぷちに追い込まれていく。隣に立つ男は相方の様子がどこなおかしいような、と感じつつも、この絶好調のなかで一体何がネロを追い詰めているのか見当もつかないようだった。
ぎりぎりでどうにか立っていたネロにとどめを刺したのは、割とどこでも聞くような話だった。粘着質なアンチから送られてくる何の捻りもない誹謗中傷。「おまえのせいでブラッドリーは勝てないんだよ」「相方にふさわしくない」。
自分でも常に後ろめたく思っていたことをネットの匿名性に安心しきってぶつけられるのは、もちろんその卑怯さに苛立ちもするけど、今回ばかりは非常に堪えた。ふんわり膨らんだパンケーキよりも弱っだ心には簡単にナイフが通り、ばらばらに切り分けられて血が溢れた。それでネロはついに決意したのだ。俺はあんたの隣に立ちたかったけど、俺なんかじゃやっぱり不足だったな。認めると心臓が締めつけられるように痛んだが、手放す覚悟はようやくできた。寂しくて寂しくて堪らない。昨日も今日も当たり前のように傍にいた男が、明日にはもういない。
ネロ・ターナーにとってブラッドリーは特別で、特別なんて言葉じゃ足りない存在だった。この先どれほど長生きしたところで、二度とこんなやつには出会わないだろう。この男の代わりはどこにもいない。だから一生、胸を覆う寂しさが晴れる日は来ないのだ。
それでもいい。一番大切なやつが自分のいないところで、自分の人生とは交わらない場所で、どこか遠くで世界一幸せになるのならそれで満足だ。半分明け渡した心臓はそのまま置いていく。不要なら捨てても構わないし、でもできれば、たまに思い出してくれたら嬉しい。ブラッドリー・ベインの隣にいた男のことを。
そういう覚悟で挑んだ本気の話し合いに、相方はいつも通り有耶無耶にしようとするだけだった。もう全然駄目だ。こいつは話をろくに聞く気がない。めずらしく困惑するブラッドリーの手を振り払い、ネロは家を飛び出してきたのだ。
それでひとまずファウストに連絡した。ずっとネロが相方との仲を清算できずにいることにやきもきしていたから、その報告もしたかった。まさか匿ってもらうことになるとは思わなかったけど。
しばらくは実に平穏な日々だった。ファウストの家に居候しているあいだ、好きな料理をして、二人でマイペースなゲーム実況をして、他愛のない会話をして笑い合った。こんなにも心安らかに過ごせる日が来るとは、と密かに感動したものだ。
親しくしている同業者たちを頼れば、一瞬で連れ戻されていたに違いない。ネロと交友関係にあるということは、相方であるブラッドリーとも当然親密なのだ。だけどファウストとのことは誰も知らない。ブラッドリーも、同期たちも。
ここは安全地帯だ。そう油断してのんびりと穏やかな生活を送っていた。だけど無計画に逃亡中のネロを見つけ出したやつがいた。更新を停止していたSNSにDMが届いたのだ。
ファンからのメッセージには「読んでるよ、ありがとう」の意味を込めてリアクションだけ返していた。もう戻る気もないのに、こんな対応はかえって不誠実だろう。それでも時間を割いて、たくさん言葉を選んで、ネロのために思いを伝えてくれた気持ちに何か返さずにはいられなかった。
通知を確かめては、一つひとつちゃんと目を通して心のなかでネロは謝った。ごめん。ごめんな。でも俺はやっぱり、客席側の人間だったんだと思う。あいつなら俺がいなくてもやっていけるし、寧ろその方が全部うまくいくよ。だからもう舞台に上がるつもりはない。
そうして一番新しいメッセージを開いたとき、ネロは真っ青になった。同年代と思しき一人の男から、ファウストと二人で実況した動画が送られてきたのだ。男はメジャーデビュー前とはいえ、すでにそれなりの人気を獲得しているアイドルだった。記憶を辿ってみたが、ドラマで共演した等の繋がりは一切ない。しかしこの顔、どこかで見た気がする。
――これ、おまえだよね。秘密にしてほしい?
どれだけしらばっくれたところで、噂が立てられてしまったら終わりだ。ファウストが手に入れた日常を脅かすことはしたくなかった。「要求は?」と短く訊ねると、住所と日時が送られてきた。この時間にここに来い、とのことらしい。検索したところ、指定された場所は男が所属する芸能事務所だった。どういうつもりかわからない。不安がないわけではなかったが、腹を括って時間通りに赴いた。
まさかこんなことになるとは。
これまで生きてきたなかで、一、二を争うほどネロ・ターナーは追い詰められていた。犯罪に手を染めてしまったとか、借金取りに追われているとか、命の危機に瀕しているわけではない。対人関係で深刻なトラブルが発生したとか、浮気がばれて修羅場になったとかでもない。
きっと事務所にはブラッドリーが待ち構えているのだと思っていた。
ネロを脅迫めいたやり方で呼び出したオーエンという男は、アイドル業の傍らでモデルもこなしているらしい。恐らくどこかの撮影現場で、ブラッドリーと一緒に仕事をしたのではないだろうか。その縁もあって、相方の行方を追っているブラッドリーのためにこの場をセッティングしたに違いない、と。てっきりそう思っていた。
「やあ、ネロ。はじめまして」
優雅な微笑で歓迎してくれた男は、ラスティカと名乗った。オーエンと組んでいるアイドルだ。柔らかな声質に上品な顔立ち。舞台に立つにふさわしい佇まいだが、個人的にはミュージカルとか演劇が似合いそうだな、と思った。ラスティカはそれは嬉しそうに美しい所作でネロの手を握りしめると、ずっと会ってみたかったんだ、とにこやかに言う。
「俺に……? なんで?」
「きみが前にテレビで披露した歌声が、とても素敵だったから」ラスティカは屈託のない笑みで答えた。「休業してしまって寂しかったけど、僕の友人の動画を見ていたとき、たまたまきみの動画にたどり着いたんだ。いろんな動画を流しながら曲を考えていたから、いつ、どんな繋がりできみの動画がおすすめに出てきたのかはわからないけど……でも、すぐにきみだってわかったよ。ねえ、オーエン?」
同意を求められたオーエンはそっぽを向いたが、否定はしなかった。そんなに特徴的な声をしているのだろうか? そもそも、テレビで歌ったことなんて数えるほどもない。たとえそれを記憶していたとしても、これからどんどん売れていくであろうアイドルに気に入られるような歌唱力ではないだろうに。
「実は僕たち、新メンバーを募ってるんだ」
「し、新メンバー……?」
「メジャーデビュー前に、もう一人欲しいって話になった。僕とこいつだと、ばらばらすぎるって」
何が何だかと困惑しているネロに、オーエンが素っ気なく追加の説明をした。なるほど。人気はともかく、方向性の違う気ままな雰囲気の二人をフォローできるやつが必要だと事務所が判断したらしい。
それはそうとして、なんで俺は呼ばれたんだろう。疑問に思っていると、ラスティカがそっとネロの手を握り直してきた。
「ネロ、きみに入ってもらえたら嬉しいんだけど、どうかな?」
「……は?」
突拍子もない発言に呆然としていると、オーエンがにじり寄ってきて顔を覗き込んでくる。
「芸人は辞めたんだから、問題ないだろ」意地の悪い笑い方をして、オーエンは続けた。「それとも、何? 相方が迎えにきてくれたら戻るつもりで、本気で解散するつもりはないの?」
あからさまな挑発だと頭ではわかっていたのに、うっかり乗ってしまった。本気に決まってるだろ、と睨むと、じゃあ決まりね、とオーエンはあっさり言った。何が「じゃあ」なんだよと思ったし、勝手に決めるなよとも思った。が、断る前に「よかった」と朗らかな声が聞こえた。
「ありがとう、ネロ。断られてしまうかもと思っていたから、実はどきどきしていたんだ。もしかしたら芸能界自体を引退したいのかもしれないのに、こんなふうに誘ったらきみを困らせてしまうかもしれないって」
「え、あ……いや、その」
「ああ、この素晴らしい日にぴったりの曲を作りたいな。全部で何曲くらいになるかな?」
そうだ、先に紅茶とお菓子でお祝いしよう、とっておきのがあるんだ。そう言ってラスティカは部屋を後にした。おっとりしているのに嵐のようなやつだ。瞬く間にネロの意志とは関係のないところで話が随分と進んでしまったように思うが、気のせいだろうか。
不意にオーエンと視線が交わった。数秒ほどじっと見つめてきたかと思うと、何事もなかったかのように顔ごと背けられてしまう。そのとき記憶の底でチカチカと光るものがあった。慎重に手繰り寄せて、「あ!」と思わずネロは叫ぶ。
「煩いな。なんなの」
「なんか見覚えあると思ったら……あんた、カインたちのファンだろ」
「…………」
オーエンは途端に押し黙った。やっぱり、とネロは確信する。ライブで何度かこいつを見かけた記憶があるのだ。マスクで顔を隠しているので、思い出すのに時間が掛かった。
「カインが言ってた。前に行きつけのカフェでばったり会ったから、いつも応援してくれてありがとうって言ったら逃げられた、って。びっくりさせちまったかもって気にしてたけど……。なんか、印象に残ってたみたいだぜ」ネロは自分の髪を指差した。「ほら、あんたの髪って目立つだろ。さらさらの銀髪だから覚えてたんだってさ」
「……騎士様が、そう言ってたの?」
騎士様?
心底びっくりした。声に出なくてよかった。カインが一部のファンにそう呼ばれているのは知っていたが、急に名状し難い面持ちで髪をいじり出したオーエンを見て察した。どうやらオーエンはカインたちのファンというより、カインのファンのようだ。
驚愕と困惑の連続で精神がすり減り、さすがに思考が鈍ってきた。ぼんやりしているうちにラスティカが戻ってきて、美味しい紅茶とケーキでお祝い(果たしてこれは俺にとってお祝いでいいのか?)をし、これからよろしくと言われて曖昧に頷き、ファウストの家まで帰ってきてやっと事態を正確に把握した。大変なことになってしまった。
ふらふらと玄関で靴を脱ぎ、手洗いうがいをいつも以上に丁寧にして、よろよろとリビングに向かう。おかえり、と言いかけたファウストは眉をひそめた。ひと目で異常事態だと察する有り様らしい。
「何があった?」
「先生……俺、アイドルになるかも……」
長い沈黙の果てにファウストは「は?」と言った。気持ちはわかる。ネロも逆の立場なら、何をどうしたらそうなるんだよと思うし、それ以外の言葉が出てこないだろう。
血迷っていかにも胡散臭い占い師にふらふら吸い寄せられていた。友人が冷静に「やめておきなさい」と止めてくれなければ危なかった。
あからさまに弱っている客なんていいカモだ。中身の伴わない見せかけだけの労りなんて、毒にしかならない。ネロ。そんなもので痛みを麻痺させても、きみの問題は何も解決しないだろう。……いつでもどこまでも、真っ直ぐで正しい。年下の友人の声音は、厳しい物言いに反して柔らかかった。
だけどそんなふうに言われてしまったら逃げ場がない。真っ向から立ち向かうたびに丸め込まれてきたから、どうしようもなくて逃亡した身としてはつらい。
誰でもいいから教えてほしい。俺の人生、どこに向かっているんだ? この先、どこで何を選択すれば軌道修正できるんだ? 毒でもいい、正しくなくてもいい。大丈夫だと誰かに言ってほしかった。
でも、誰よりもネロに「大丈夫だ」と言い続けてくれたやつのことは置き去りにしてしまったので、ネロは自分で大丈夫になるしかないのだった。
時間は恐ろしい速度で流れていく。断るタイミングを幾度となく逃し、話は着々と進んでいる。ここまで来るとネロはもう、なるようになれとしか思わない。
新メンバーお披露目前の撮影を凪いだ気持ちでこなす。よりにもよって自分がセンターだ。こんなグループ、長く保つはずがない。だったら少しつき合ってもいいんじゃないかと考えを改めたのだ。ネロにしては比較的前向きな気分だった。今にも空中分解しそうな面子だけど、ちょっとでもいい思い出になればいいなと思う。
思い思いにポーズをとってみてほしいと言われたので、そういうの指定してくれた方が楽なんだけどな、と内心ぼやきつつネロは従う。このとき、宣材写真と同じポージングをしていたとは全く気づかなかった。