メニューをひらいて 全体的に大雑把でひやひやしたものの、確かに基本はできているのだった。一応それなりに。賢者の魔法使いに選ばれて、初めて顔を合わせた頃を思うと感慨深いものがある。カインはしみじみと嬉しい気持ちで無茶苦茶な「店員」を見上げた。
北の魔法使いであるミスラは、突然に気まぐれを起こして殺し合いをしてばかりいた。この男のコミュニケーションといえば和やかな会話を交わすのではなく戦闘で相手を叩きのめすことだったのだ。
そのミスラが、丁寧さとは程遠く、現在シャイロックの元で接客中のオーエンを褒めるようなことをヒースクリフはカインが口にしたから対抗心を燃やしたのが理由とはいえ、店員の真似事を「これくらいできます」と得意げにやってみせるのだから信じられない。丸くなった、なんて表現すれば嫌がるだろうけど、明らかに変わった。本人からすれば複雑かもしれないものの、いい方向に変化した。
「ミスラも、よかったら一緒に食べる?」綺麗な焼き菓子が並んでいる皿をヒースクリフは優雅な仕草で示す。「さっき、給仕をしてくれたから。ネロが作ってくれたやつだから美味しいよ」
「ああ、あの人が……じゃあ、食べます」
どっこいしょ、と腰を下ろしたミスラはすっかり店員役には飽きたようで、だらっと座り自分の分の小皿やカップが用意されるのを眺めている。ヒースクリフはすぐに新しく紅茶を淹れ、カインにもそっと渡してくれた。
オレの主人にあれこれさせるな、とシノがこの場にいたら怒るだろうか。いや、シノはヒースクリフを主として大事にしている割に、「お茶いる?」と訊かれたら「いる」と機嫌よく返事をするやつだ。
主君として尊重し、側に控えてあらゆる泥を代わりに被る覚悟がある一方、ただの友人のように気安く、無自覚に甘えている。シノもヒースクリフも頑なだからよく喧嘩をしているが、可愛いやつらだなとカインは思う。揉めて気まずくなったら、シノはネロの元へ、ヒースクリフはファウストの元へそれぞれ向かうのだった。
互いに線を引いて近寄らない、近寄せないようにしていた東の魔法使いたちは、一体いつの間にこうも心を許せる間柄になったのだろう。あんなに居心地悪そうにしていたのが嘘のようで、今では任務帰りに気に入った喫茶店に寄り道したり、晩酌をしたりするほど親しい。
「あの……カイン、どうかした?」
「え?」
「なんか、ずっとにやにやしてるから……何かいいことがあったの?」
「あはは、内緒」
不思議そうに目を瞬かせたヒースクリフは、カリッと軽やかな音がして振り向いた。ミスラが次々とクッキーを頬張っている。チョコレートチップが入ったもの。ナッツがぎっしり詰まったもの。酒にも合いそうなチーズ風味のもの。
ぼんやりしていたら食い尽くされかねないな、と慌ててカインも皿に手を伸ばす。しかし手当たり次第に黙々と口に放り込んでいたミスラは、不意に指先についた欠片を舐めて呟いた。
「なんでですかね。ネロが作るものは、やっぱり他のものとは違う気がします」
思わずヒースクリフと顔を見合わせた。悪食のミスラがこんなことを言うようになるとは。腹に入れば同じだからと、料理の良し悪しになんて関心がなかったのに。
「……美味しい?」
「はあ、まあ……そうですね。前に街で食べたやつより、こっちの方がいいなとは思います」
つまみ上げたマドレーヌの表面を、ひっくり返したり翳したりして観察して、何が違うんだろう、と呟いてからぱくりと大きな口でかぶりつく。咀嚼しながら断面に視線を落としているミスラの顔には、やっぱり他のと違う、と書いてあった。
ヒースクリフはすごい勢いで食べ尽くしていくミスラを笑って見つめていて、ああ、そういえばヒースはミスラを怖がらなくなったな、とふと気づいた。魔法舎に来たばかりの頃は酷く怯えていたのに、多少緊張するものの普通に話しかけたり誕生日を祝ったりできるようになっているのだった。
(あの日の襲撃で、ネロたちは死にかけたもんな)
子供たちを庇って重傷を負ったネロとファウストが石になることなく今も生きているのは、北の魔法使いが駆けつけてくれたお陰だった。ミスラ、それにブラッドリー。悔しいが、あの場にいたのが彼らでなければ、東の魔法使いはたった一晩で二人も命を落としていただろう。
自分以外どうなろうが知ったことではないという態度を貫いてきた孤高の魔法使いたち。でも絶体絶命の場面に現れ、最悪の結末を覆してくれた。
その恩もあって、北の魔法使いに対する東の魔法使いの態度は随分と軟化したように思う。ファウストとシノは顕著だ。ヒースクリフは二人に比べればまだ若干遠慮がちではあるものの、以前とは違う。確かな信頼を抱いているのを感じる。オーエンはヒースクリフの素直な反応を好んで頻繁に揶揄うから、ミスラとブラッドリーほど打ち解けられずにはいるようだけど。
「ん? ミスラも加わったのか?」
「おい、若造。誘う相手はもう少し選べよ」
香ばしい匂いを漂わせてネロがやってきた。隣には当たり前のような顔をしてブラッドリーがいる。料理を抱えているネロの肩に、懐いたように顎をのせてこちらを見る。
この二人の距離感は独特でよくわからない。例の襲撃事件以降に警戒心を和らげた他の東の魔法使いと異なり、ネロは以前からブラッドリーに対しては遠慮がなく、ブラッドリーは逆にネロにだけはやけに寛容だった。
甘く柔らかな空気がまるく広がっていた空間に、食欲を刺激する濃厚なソースの香りがたちまち充満する。座っているのでよく見えないが、ソテーだろうか。何の肉だろう。
「それ、何ですか」
元よりミスラは菓子の類よりは肉を好む。興味が引かれたようで、ネロの手元を覗き込もうとした。が、そっけなくブラッドリーが割って入って、追い払うように手をひらひらと振る。
「こいつは俺のだ。てめえは坊ちゃんたちとお茶会でも何でもしてろ」
「それも食べます」ミスラは平然と言い返した。「こっちのも食べますけど、そろそろそういうのも食べたくなってきたところだったので。ちょうどよかったです」
「何が『ちょうどよかった』だ、俺が狩ってきたんだから俺が全部食うに決まってんだろうが」
「そんな決まり、知りませんけど」
言い争い始めた北の魔法使いに、ネロは苦笑して「他のやつらに食わせられるくらいの量獲ってきてくれてたろ」と宥めるように口を挟む。途端にむっとしたようにブラッドリーが眉を寄せた。なんでてめえがミスラの肩を持つんだと言わんばかりの表情だった。
「あんたの分は大盛りにしてやるし、他にも一品リクエスト聞いてやるから」湯気が揺らめく皿を持たせてネロは言う。「だから、ほら。あったかいうちにこれ食って待ってなよ。昨日いろいろ買い込んだばかりだし、大抵のものは作れるぜ」
若干拗ねた雰囲気が和らいで、しょうがねえな、とブラッドリーが溜息混じりに応じた。本格的に揉める前におさまってよかった。はらはらしていたヒースクリフが隣で胸を撫で下ろすのを感じる。ネロはミスラに「すぐに持ってくるよ」と告げると、カインたちにも「騎士さんとヒースは?」と訊ねた。
「いいのか? 匂いを嗅いだら急に腹が減ってきたから、俺は欲しい」
「えっと、俺ももらっていいかな? カインも言ってたけど、すごくいい匂いがしたから」
「りょーかい。ちょっと待ってな」
ブラッドリーのために場所を空けようとテーブルに広げたものを移動させたが、どうもここで食べるつもりはないらしい。キッチンに戻ろうとするネロの後をついていく。
「あ、ブラッドリー」
「なんだよ」
面倒臭そうに足を止めたブラッドリーに、ミスラは妙に自信ありげな笑みを浮かべる。
「あなたも店員役、やってみてくださいよ」
「はあ?」
「オーエンも俺もできますよ。ちなみに、俺の方がずっと上手いです」得意そうにカインとヒースクリフに視線を向け、ミスラは「そうでしょう?」と同意を求める。
心底くだらないと言いたげに目を細めたブラッドリーは、肩を竦めて「俺は食う専門だ」と短く答えた。
「ああ、あなたには難しいかもしれませんね。俺からしたら全然、大したことないですけど」
「へいへい、よかったな」
雑にあしらうブラッドリーに少し気分を害したのか、先ほどまで機嫌のよかったミスラからぴりっとひりつく空気を感じた。まずい。北の魔法使いはどうでもいいようなことで本気で喧嘩するので、そこだけは昔と変わらず厄介なのだ。
「あ……ブ、ブラッドリーはお客さん役がすごく上手いんだよ。グルメリポートの……そうだよね、ネロ」
「えっ」
いきなり話を振られて目を丸くしているネロに、ヒースクリフはこの微妙な空気をどうにかしようと必死に話し始めた。カインも先日ちょうど自分の主君たちがその懐かしい話をしていたのを思い出し、「アーサーとシノも褒めてたよな」と助け舟を出す。正確にはアーサーたちが褒めていたのは店員役のネロたちの方であったが、そこは黙っておくことにした。
「ほら、前にファウスト先生と一緒に店員さんの役をしてたよね。賢者様の世界の話を参考にして」
「店員役……? 先生と……? そんな芝居、したっけな……」ぴんと来ていない様子のネロは、しばらくするとはっとしたように手を叩いた。「ああ! そういや、そんなこともやったなあ。あれだ。『らっしゃっせー』つって先生と客を呼び込んでたやつだろ?」
「そうそう!」なんとか思い出してもらえたことに安心したように笑って、ヒースクリフは続けた。「そのとき、ブラッドリーとレノックスがお客さん役で……えっと、注文の仕方とか、慣れた感じでよかったよね」
あれのどこが?
……と、微妙そうな面持ちだったネロだが、どう返すのか腕を組んで真剣に待機しているミスラをちらと見遣り、「まあうんそうだな」と早口に同意した。一応は褒められた形になるブラッドリーも(あれのどこが……)と困惑したそぶりを見せつつ、「まあ俺様はその辺器用だからな」と適当に話を合わせた。するとミスラは微かに眉を上げた。またしても対抗心が燃えてきたらしい。
「じゃあ、やってみてくださいよ」
「え……」
「嫌に決まってんだろ……」
「なんでですか。俺の方が絶対、上手くやってやりますよ。その証明をするために、まず、あなたたちがやってください」
本格的に鬱陶しそうにし始めたブラッドリーが身を乗り出そうとしたのを、ネロがさりげなく牽制した。そしてさすが接客業をしていただけある隙のない笑顔を作って口を開く。
「なあ、ミスラ。あんたは買い物のやり方もすぐに覚えたみたいだし、いい客の演技ができると思うぜ」
「ふふん、そうでしょう」
「でもあんたは食いっぷりもいいからさ、先にメシ食わねえ? 今なら出来立てだよ。料理人としてはあんたみたいにいっぱい食ってくれるのって、かなり嬉しいんだけど」
ブラッドリーに持たせた皿を、持つ角度を変えさせて中身をネロは見せた。腹が鳴りそうだった。早く食べたい。ミスラの反応をカインがこっそり窺うと、あれだけ拘っていたのを忘れたかのようにミスラはソテーを見つめている。
「そうですね。腹も減りましたし、先に食べます」
「はあ、よかった……じゃなくて、すぐ盛りつけてくるよ」
ネロはカインたちに「あんたたちのも持ってくるから」と言って、今度こそキッチンに向かった。当たり前のようにブラッドリーもついていく。
予想外に長いことお預けを食らっていたからか、廊下で少しソテーをつまんだようだ。「美味い?」「美味い、美味い」という密やかなやりとりが聞こえてきた。
交わされた優しい声を反芻していると、ネロがミスラたちの分を用意するあいだ、ブラッドリーは忠犬のように、もしくは甘えたな猫のように、二人きりのキッチンでネロにくっついているような気がした。