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    しおん

    🪄(ブラネロ|因縁|東と北)

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    しおん

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    シースク本の期間限定WEB再録です。
    章タイトルがイメソンになっているので、よかったら聴いてみてください!

    #ブラネロ
    branello

    世界を滅ぼすにふさわしい1.新宝島

     波打ち際に男が倒れていた。
     溺れたのか。怪我をしたのか。あるいは酷い船酔いだろうか。とにかくそいつは力尽きたように微動だにせずにいる。
     こんな光景はブラッドリーにとって然程めずらしくもなかった。海賊団を率いていれば、打ち上げられた死体を目にする機会なんてざらにある。海は恐ろしいところだ。花の色が滲んでマーブルに輝く姿は大層美しいが、あらゆる生死を丸呑みにする場所だというのは老いも若きも胸に刻んでおかねばならない。ほんの僅かな油断で嘘みたいな死に方をするのは御免だった。
     それにしたって、あれはまだ息をしているのだろうか。船の上から目を凝らしても、生きているのか死んでいるのか定かではない。ここから判別できることなんて高が知れている。男と判断したのだって、それなりに背丈がありそうだからだ。体格のいい女である可能性だってまだ完全には捨てきれなかった。
     ただ、いずれにせよ金目のものは持っていないだろう。粗末な身なりではなさそうだが、裕福な生まれならもっと華やかな装いをするものだ。よくよく見れば質のいい服や靴をじっくり吟味して選んでいるのだとしても、結局はそれもこの距離から確かめられることではなかった。
     久々の陸にはしゃぐ船員たちと別れ、ブラッドリーは海辺を一人歩いた。キャプテンも一緒に行きましょうよ、と散々誘われたが、なんとなくあの行き倒れが気に掛かる。その身の健康状態を案じたわけではない。遠くからでも目を引いたのだ。寄せては返す波のなかで揺れる空色の髪は、透けるように光って綺麗だった。
     昨夜中ずっと降り続けていた雨に洗われて、どこまでも澄んだ青空である。雲は切れ端も見当たらない。遮るものなく陽射しが大地に降り注ぐ。間近で見るとより一層きらめいて見えて、悪くないなとブラッドリーは思う。
     船を降りて一直線、あっという間にたどり着いた。足元にそいつは倒れたままでいる。うつ伏せに近い姿勢なので、顔はよくわからない。が、男だ。歳は若い。目立った外傷はなく、呼吸もちゃんとしている。意識不明とはいえ、これならすぐにでも目を醒ますのではないだろうか。
    「おい」ブラッドリーは膝を折り、男の肩を揺さぶった。「起きろ。こんなところで居眠りするやつがあるかよ」
     思った通りだ。男は呼び掛けに反応し、小さく身じろぎをした。呻くような声を洩らし、ゆっくりと上体を起こす。あんまりとろくさいので抱き起こしてやればよかったかもしれない。元来、短気な性分なのでつい気が急いてしまう。
     しかし覚醒した直後にきびきび動けというのはさすがに酷か、と何とか堪えて、ブラッドリーは大人しく男を見守った。見守っていたのだが、男は砂浜に手をつき、俯いたまま固まった。恐らく状況が飲み込めていないのだろう。無理もない。いつから倒れていたのか知らないが、長時間ものあいだ直射日光を浴びていたとすれば、頭もぼんやりするだろう。
     少し待ってやるかと思って待っていたものの、いつまで経っても男は口を利かない。まさかまた気を失っているのか? こんな妙な体勢で? そんな疑念が湧き上がり、ブラッドリーは男の顎を掴んだ。強引に上向かせた瞬間、かちりと視線が交わった。麦穂の黄金。そこに一筋、澄み渡る青が横切る。男の瞳はめずらしい色合いをしていて、一目で気に入った。
     海水で髪は頬に張りつき、男はあちこち砂塗れだった。随分と間の抜けた様子だが本人は気にするそぶりがない。まあでも起きたばかりだ。そこまで気を回す余裕がないだけかもしれない。
     しかし、その分を差し引いたって男は奇妙だった。乱暴に顎を掴まれているのに、手を振り解こうともしない。されるがまま受け入れている。見つめ返してくる表情はやけに無垢だ。戸惑っているのはひしひしと感じるけど、抵抗らしい抵抗を一切しなかった。
     極めつけは首の紋章。ブラッドリーは顔にはちらとも出さなかったが、内心驚いていた。黒ではなく青色。知識としては当然知っていたものの初めて見た。こいつはスクアーマだが、ギフトを持っていない。
    「てめえ、どこから来た? 何者だ?」
     ブラッドリーが訊ねると、男は顔を強張らせた。目を逸らしてブラッドリーの手をぐっと押しのける。言えない。男はきっぱりとそう答えた。何故、と訊いても首を横に振るばかりで、自分に関する質問を露骨に嫌がっている。これは相当な訳ありだ。
     わざわざ海辺の行き倒れを見にきたのはほんの気まぐれだし、場合によっては連れて帰ってもいいかもなとは思っていたが、深くは考えていなかった。どちらでもよかった。こいつの意志次第だと思っていた。が、これはもう確認するまでもない。うちで面倒見てやった方がいいだろうと判断し、ブラッドリーは口を開いた。
    「わかった、わかった。てめえが訊かれたくねえって言うならもう訊かねえよ」警戒を解かない男を宥めるようにブラッドリーは見据えた。「これが最後だ。他のは答えなくていい。名前は?」
     よっぽど予想外だったのか、男は目を丸くした。毛を逆立てた猫のようだったのに、呆気なく緊張の糸が緩んでいる。無言で瞬きを繰り返し、ブラッドリーを不思議そうに見つめるのだった。
    「名前はっつってんだろ」
     痺れを切らしてもう一度訊ねると、
    「……ネロ」
     と男は囁くように答えた。

     ネロはとにかく可笑しなやつだった。
     名前の他に何も持たず死にかけていたこいつは、感情の起伏があまりなく、喜怒哀楽がその端正な顔にろくに浮かんでこない。ぼんやりとして地に足がついていない。ほんの少し目を離した隙に、うっかりくたばっているんじゃないかとはらはらする。心を閉ざして他人と距離を置きたがる一方、幼子のように純粋で無邪気な振る舞いが目立つのだ。そこが妙に危なっかしい。
    「ネロ」視線をあちこちに走らせてはぐれかけている新入りの腕を掴み、ブラッドリーは内心しょうがねえなあと思う。「勝手にうろちょろすんな。今日も迷子になりてえのか? 用事が済んだら、この辺にはまた連れてきてやるから」
    「あ……はい、すんません……」
    「連れてきてやるっつってんだろうが。ンな萎れたツラすんじゃねえよ、馬鹿」
    「いや、あの……キャプテンにまた迷惑かけちまったな、って」
     光が差していた顔はたちまち曇った。ままならなさに舌打ちしそうになるが、そんなことをすればますますネロは萎縮する。堪えてネロの薄青の髪を撫で、行くぞ、と切り替えて野暮用を片付けに向かう。
     ネロは素直で健気だ。深く訊ねることなく船に置いてくれたブラッドリーに恩義を感じていて、どうにかして役に立ちたがっている。が、大人しそうな印象に反して好奇心旺盛かつ注意力散漫なきらいがこいつにはあって、気を抜くとすぐに人混みのなかに消えているのだ。
     先日初めて見失ったときなんて、あちこち捜し回ったものだ。振り返ったらいなくなっていた。あり得ないほど静かなやつなので、気づくのが遅れたのだった。
     なかなか見つからないので徐々に嫌な想像が脳裏を掠めるようになってくる。気分が優れず蹲っているのか。どこかでろくでもない連中に何かされたのか。あるいはブラッドリーの元にいるのが嫌で逃げた、ただそれだけの話かもしれないともちらとは考えた。考えたが、捜すのはやめなかった。
     あいつは無欲で、自分から世界に働きかけることができない。己の望みもまともに把握できていない。どこにも行けないという諦念をうっすらと身に纏っていて、まだ若いくせにどうにもならないとすべてを受け入れている。何故かそういう生き方が骨身に染みついているのだった。
     一見すると、若者特有の真綿のように軽いメランコリーに思えた。しかし注意深く観察したところ、ネロのは紛れもなく呪いだと直感的に確信した。してしまったのだ。単純な臆病や怠惰ではない。この無気力は本人に由来するものではなく、確かにネロを縛るものがどこかにあった。
     誰がおまえをそうしたのか。おまえに何もかもを諦めさせたのは何か。問い質したところでネロは答えない。そもそも答えを持たないのかもしれない。世間には呆れるほどくじ運の悪いやつがいる。ネロは恐らく、たまたまそういった役回りを引いてしまったのではないかと思う。それがどういう役目なのか、ネロが何を背負い、何を隠しているのかはさすがに見当もつかなかったが。
     そこら中を歩き回った果てに、寂れた細道でネロを見つけた。大通りからかなり離れている。人の群れに押し流されるうち、帰る道がわからなくなってしまったのだろう。
     ぼんやりと通りの隅で野良猫を構っているネロは、さして心細げではなかった。それどころか平然としているようにさえ見える。何も問題はないと言いたげに。
     呑気なやつ。キャプテンをこれだけ走り回らせておいて、大した肝の据わり方をしている。呆れたらいいのか感心したらいいのか迷いつつ「ネロ」と呼ぶと、弾かれたようにネロは立ち上がった。視線を必死に彷徨わせ、ブラッドリーの姿を認めた瞬間のあの顔。駆け寄ってくるから思わず抱きしめてしまった。
     ネロは遠慮がちにブラッドリーのジュストコールの腰の辺りを掴んだ。よかった、と頼りなく呟くのを聴覚が拾って、一瞬ぐらりと揺れるような感覚がしたのを覚えている。
     こいつはちゃんと帰りたかったのだ。俺の元に。その事実が酷く心臓を揺さぶるものだから動揺した。叱ろうとしていたのにすっかりそんな気分ではなくなって、離れんなよ、とだけブラッドリーは言いつけた。ネロは従順に頷いて、だけどその後も何度も危ない瞬間はあったのだった。「ネロ」と咎められてはしゅんとして、しゅんとされるとブラッドリーは何も言えなくなる。もう手を引いてやった方が確実だなと思って、ネロがふらふら怪しい動きを見せたら即座に片手を掴むようにした。最初からこうすりゃよかった。
     それは今日も変わらない。無理もないとは思う。一度の迷子でそれはもう懲りたような落ち込み方をしていたが、未知との遭遇によるときめきはその程度で抑えられるものではないのだ。ネロは相変わらずそこかしこに目を奪われて、ふらふらと吸い寄せられそうになっている。
    「キャプテン」
    「ん?」
     ネロがとある店の商品を指差す。
    「あれ、何すか。みんな平気な顔して食ってるけど……」
     形はアイスに似てる、とネロは軽く眉を寄せてぼそりと呟く。似てるも何もその通りだ。が、ネロに食わせたことがあるのはバニラくらいのものなので、あんな奇抜な色合いは初めて見たのだろう。
     何でも試してみりゃいいかと思ってブラッドリーは一つ買い求めた。きょとんとしているネロの手に握らせると、たちまち困ったようにブラッドリーを見上げてくる。容器とスプーンをぎこちなく握りしめている。
    「これ、食っても大丈夫ですか」
    「当たり前だろ。てめえに買ってやったんだよ」
     ネロはばつが悪そうに目を逸らし、「それはありがたいんすけど」と口籠る。溶ける前にさっさと口をつけろよと内心やきもきしつつブラッドリーは問うた。
    「ああもう、何が言いてえんだよ。サッと喋れ」
    「あの、これ、変な色してるから……」
     腹壊さないかなって、とネロはぼそぼそと失礼極まりないことを言った。人の親切を何だと思っていやがる。ブラッドリーは腹を立て、買い与えたアイスクリームを取り上げた。地面を掘るようにひと口ひと口を大きく掬い、ばくばくと飲み込んでいく。とっくの昔に知った味だ。いまさら味わって食べようなんて思わない。
     ネロは金色の瞳を輝かせながら、ブラッドリーが食べるのを見つめていた。カラフルなアイスよりもブラッドリーの食べっぷりに興味関心が移ったようだ。なんというか、本当に子供のように無邪気なやつである。
     別に食べたそうにはしていなかったが、ブラッドリーは毒々しい色合いのアイスをがっつりスプーンで掬う。薄い唇に問答無用でぐっと押しつけると、ネロは恐る恐る口を開いた。強張った表情で味わっていたネロは、次第に不思議そうに目を瞬かせ、無言でブラッドリーを見た。まさかと思いつつブラッドリーはじっと見つめ返す。
    「……もうひと口食うか?」
    「はい」
     はい、じゃねえよ、と呆れながらも食わせてやった。ネロは先ほどより柔らかな顔つきで慎重に舌の上でアイスを溶かしているようだった。記憶を辿るような目をして腕を組み、うーんと唸ったり首を傾げたりしてから、ネロは言った。
    「バニラのが美味い」
    「てめえな……」
     まあ俺もバニラの方がいいけどよ、と内心ぐったりしつつ残りのアイスに取り掛かる。
    「キャプテン」
    「なんだよ。俺はてめえが残したもん片すのに忙しいんだよ」
     拗ねた口調のブラッドリーを気に掛けることなく、ネロはへろっと笑った。
    「ありがとうございます。食えてよかったっす、それ」
    「あんま気に入ってなかったけどな」
    「そんなことないっすよ。これも嫌いじゃないけど、でも前にあんたが食わせてくれたやつが、なんかすごく美味かったから……」ネロは目を伏せてはにかんだ。「たぶん、あれがなかったら、今日のこれがめちゃくちゃ美味く感じたんじゃないんすかね。先に一番を知っちまったから、他のが駄目になったんだと思う。駄目っていうか、いや、駄目ではないんすけど……」
     言い訳するようにネロはおろおろ言葉を重ねた。ブラッドリーは不機嫌ぶるのも馬鹿らしくなって、そうかよ、と破顔した。
     ネロが言っているのは、つい先日の一件だ。船での生活に毎日必死に慣れようとしていた矢先、迷子になって途方に暮れたことで酷く消耗したのだろう。その晩いきなりネロは寝込んでしまったのだった。食欲がないというので、冷たいものならどうかと思ってアイスクリームを下っ端に持って来させた。遠慮するネロの口元に、ブラッドリーが自らひと口ずつ運んでやったのだ。
     俺らがやりますよ、と船員たちはみな申し出た。それらすべてを突っぱねてネロの面倒を見ている。ネロの体調が回復した今でも。
     自分でもよくわからない意地だと思った。新人教育なんて普通はキャプテンが行うものではない。だけどあの日、名前を呼ばれて弾かれたように立ち上がったネロの姿が。ブラッドリーを見つけて心の底から安堵したような表情を浮かべたことが。よかった、と小さく、囁くように呟いたあの声が。それとも、海辺で見つけたあのときからだろうか。
     一つひとつが不思議と魂の芯を貫いて、心臓に焼きついてしまったというか。具体的な理由を並べることはできなかったが、ブラッドリーはもうネロを誰かに預けようとは欠片も考えなくなっていたのだ。
     こいつは俺が見る。そう船員たちに宣言し、一般教養から海賊としての振る舞いまでブラッドリーが一から仕込んでいる。教えるそばからぐんぐん吸収していくので、近頃では案外、ネロの教育が他の何より楽しいかもしれない。
     この俺が? ブラッドリーは自分の変化に思わず笑いそうになる。宝と名のつくすべてのものを奪い尽くすのが人生だと、そういう血腥い生き方を好んできた俺が、まさか教育なんざに夢中になるとは。
     元より見どころのある連中を鍛えてやるのは嫌いじゃなかったが、熱量が桁違いだった。気が早いと古株には笑われたものの、いずれ副船長の座につかせてやるのもいいなと半ば本気で考え始めている。まだまだ右も左もわからないような半人前を前にして。
     本人曰く成人しているとのことだが、ネロの知識量はあまりにも心許なかった。物を知らないなんて話ではない。普通に暮らしていれば学のあるなしに関係なく自然と覚えるようなこともネロは身につけていない。そんな有様でよくこれまで生き延びてきたものだと驚いたものだ。
     大病を患っていて、ほとんど寝たきりで過ごしてきたのか。あるいはよっぽど不勉強な生き方をしてきたのか。詳しく話したがらないのでブラッドリーのただの勘ではあるが、恐らくそのどちらも見当はずれだろう。
     ブラッドリーに拾われる以前は、恐らくどこかで閉じ込められるようにして日々を過ごしていたのだと密かに予測している。監禁よりは保護に近い形で。
     髪も膚も傷んでいないし、細身ではあるが瘦せぎすではない。身につけていたものだって、さほど上等な品ではないものの路地裏で投げ売りされているような粗悪品とは違う。衣食住は保障されていたはずだ。そう劣悪な環境下に置かれていたわけではないのだろう。
     命を落とさないようしっかり見守られていた気配はある。一応。ただ、ネロがかつての住処で大事にされていたかは疑問だ。丁重に扱われてはいたのだろう。でも、もしネロのことを思うならもっと、他にやりようがあったのではと思わざるを得なかった。
     何を打っても響かなそうな無表情を貼りつけているくせに、ネロは目に映るすべてのものに関心を示すのだ。薄い唇を引き結んだ横顔はさやかにきらめいていた。いつだってありふれた風景にさえ興味深そうな眼差しを向け、世界中の光を吸い込むように琥珀色の瞳はきらきらする。
     それを眺めると何でも与えてやりたいような気分になった。無知で無垢なこの男を、ブラッドリーは自分の手によって完成させたくなったのだ。腹の底から沸き上がってくる。どうにも手放し難い欲求だった。
     ブラッドリーはネロに本気で何もかもを与えてやろうと思ったし、その一方でネロのすべてを当たり前のように所有するつもりでいた。ネロがいつか一人で立てるようになった頃には、頭のてっぺんから足のつま先まで、ブラッドリー・ベインによって構成されていることだろう。それで構わない。何か問題があるか? いずれにしたってこの男は、俺と生きて死ぬのだから。
    「キャプテン、あれは?」
    「どれだよ」
     無邪気に訊ねてくるネロの髪を梳くように撫でて、ブラッドリーは示された方向を見た。

         ◯

    2.滅亡と恋

     一つも慣れない。
     宝珠の子、と呼ばれないのは何だか違和感があって、誰かがネロの名前を口にするたび不思議な心地がする。嫌なわけではない。決して、嫌なわけではないのだけど。
     ただ単純に、他の連中と同じように扱われるのが新鮮なのだった。態度がとてもラフなのだ。親しげに肩を組まれたり冗談で軽く小突かれたり、こんなことは初めてだった。できればずっとこういうふうに接してほしいと思う。
     おまえは特別でも何でもない。だけど好きだし大事にしている。そんな触れ方がネロには嬉しかった。上にも下にも立ちたくない。同じがいい。隣にいるのが一番ほっとする。
    「おい、ネロ。何してんだ。食うもんなくなっちまうぞ」
     世話焼きな先輩の一人が、輪から外れてぼんやりしているネロに気がついた。ジャックかジャクソンか、そんな名前だったはず。似た名前のやつが多くて、また覚えきれていないのだ。骨つき肉を持っていない方の手でその男は大きく手招きしてくる。
    「あ……はい、すぐ行きます」
     確かにどかどかと雑に並べられた幾つもの大皿は、すでに空白が目立つようになっている。男所帯の食事時はいつだって軽く戦争になるのだ。一斉に飛びかかって、肉や珍味は早い者勝ち。彩りのため申し訳程度にちぎられた菜っぱは誰も見向きせず、可哀相に隅っこで干からびている。
     毎度のこととはいえ勿体ない。ネロはまだ人見知りをしているので言わないが、本当はちょっと口を出したくなることもあった。せっかく新鮮な野菜をざぶざぶ洗って、その後何の味付けもしないで出すからああなるのだ。もっと食いやすいように工夫すればいいのに。
     もやもやする気持ちを一旦封じて、ネロはテーブルに控えめに近づく。さほど腹が減っているわけではないが、何か胃に入れておかなければ後がつらい。海賊というのは思った以上に体力勝負なのだ。
     『宝珠の子』として隠されていた頃とはまるで違うので目が回る。寝て起きて食べる。時折キッチンで料理をする。それだけの生活に必要なエネルギーなど高が知れていて、食べる気分でなければほとんど口にしなくてもよかった。今はそうもいかない。あんまり食欲がないなんて甘えたことを言っていたら、後々空腹に泣く羽目になる。
     手招きしてくれた先輩に隠れるようにしてそっと料理の前に立つ。「ほら、皿」「これ飲めよ」と近くにいたやつらが次々と当たり前のように取り皿やジョッキを手渡してくれる。
    「肉はもう売り切れちまってっからなあ。お、魚の焼いたのはまだあるな。オリバー、こいつに取ってやってくれ」
    「いいぜ。俺も食うから半分な」
    「はあ? おまえはもう散々食ってんだろ、譲ってやれよ。こんなひょろいのから取り上げて恥ずかしくねえのか。そのうち樽と間違えて蹴飛ばしちまいそうだぜ、おまえのこと」
    「ふん。何とでも言えよ。俺は普段山ほど食うから、いざってときに役立つんだ。半分は絶対に俺のだからな」
    「あ、いや、俺……」言い合う男たちのあいだでネロは縮こまる。「あの、別に俺いいすよ。他の食うんで……」
     必死に止めたのだが、聞こえなかったのか先輩連中は口喧嘩を一向にやめなかった。
     空の皿を握りしめて、どうしたものかとネロは途方に暮れる。海賊の口汚さにまだ慣れていないネロには、これが冗談の範疇なのか本気で罵り合っているのかわからないのだ。表情を読むのも難しい。どいつもこいつも普通にしていても人相がそりゃあもう悪すぎて、新人のネロが感情を正確に汲み取れるわけがない。
     周囲は面白がって見物している。と、いうことは、恐らくは放っておいても大丈夫なのだろう。そう結論付けても不安なものは不安で、おろおろしていたら急にてのひらに重みを感じた。ぎょっとして皿を握り直すと、空っぽだったはずの皿の上には牛肉が何切れも載せられているのだった。ぽかんとしているあいだにチーズやビスケットなんかも追加されていく。
    「え、あ、えっ……?」皿とネロの皿に次々と食い物を積み上げていくキャプテンとを交互に見つめ、ネロは混乱した声を上げる。「あ、あの、キャプテン……っ」
    「ぼそぼそ喋るな。聞こえねえ」
     聞こえてんじゃん、とネロは内心で拗ねながら皿をブラッドリーから遠ざける。ブラッドリーは片眉を上げ、「まだ持っていくんじゃねえよ」と咎めた。
    「ほら、皿寄越せって。もう少し食っとけ」
     と、言ったそばから強引に皿を取り上げてくる。
    「ああもう、そんな……あんたが食う分もらえないっすよ。その辺の残ってるやつでいいっす」
    「なんだ、ネロ。あいつら相手には大人しかったのに、俺にはやけに反抗的だな?」
     呆れたようにブラッドリーは目を細めた。視線から逃れるように顔をのろのろと背けようとしたものの、先回りしてネロの目を不服そうに見つめてくる。
    「あのな、豆やスープなんかじゃもたねえよ。テーブルをよく見ろ。めぼしいもんは残っちゃいねえだろうが。菜っぱでも食うか? これからはひよっこじゃなくて、子うさぎって呼んでやるよ」一息に捲し立てたブラッドリーは不意に声のトーンを和らげた。「俺が食えっつってんだ。返事は?」
    「……でも、さすがに貰いすぎだし……」
     往生際悪く抵抗すると、舌打ちが降ってきた。反射的に全身が強張った。ブラッドリーは即断即決を信条とする男で、ぐずぐずされるのを嫌う。だから今のネロの態度は絶対にまずかった。
     怒鳴られるかな、と身構えていたら顎を掴まれた。殴られる。ネロが両目をぎゅっと瞑ると、「はあ?」と困惑した声がした。「はあ?」って何だ。折檻するならするでいいから、早く済ませてほしい。ムルに保護される前の記憶が雪崩れるように押し寄せて甦る。もう何年も昔のことなのに。罵声。撲たれる痛み。しまった、と感じた瞬間にはもう遅いのだ。
     怖くて目が開けられない。微かに手が震える。皿を取り落とさないようにすることに必死だった。すると密やかな溜息が聞こえて、歯を食いしばっているネロの唇に何かが一瞬押し当てられた。知らない感触だった。柔らかい。あと、温度があった。熱くはないけど、あたたかめの。
     恐る恐る瞼を持ち上げると、鼻先が触れる距離にブラッドリーがいた。いつもと変わらないきらめきを放つロゼの瞳。そこに映されている自分の姿を見ていたら、張り詰めていた糸がふっと緩むように落ち着いた。ネロは数回瞬きを繰り返し、唇にそっと触った。
    「さっきの、何すか」
     何をくっつけられたのか、どんな意図で接触させられていたのか、ネロにはさっぱり見当がつかなかった。だから訊ねたのに、ブラッドリーは「さあな」と肩を竦めて教えてはくれない。予測していない返答に驚いた。あれは何ですか。これは何ですか。さまざまなものを指差して質問攻めにするネロに対し、ブラッドリーはいつでも答えてくれていたのに。
     もう一度訊いてみようかと口を開いた隙に、肉を一切れ押し込まれた。硬直していると「噛め」と短く命じられる。仕方なくゆっくり咀嚼し始めると、ブラッドリーは疲れたような、それでいて優しげな顔をしてネロを見つめるのだった。
     これはどういう表情なんだろう。ネロはありったけの語彙を並べてしっくりする表現を探したが、結論から言うと見つけられなかった。探しているあいだにもブラッドリーは次々と食べさせてくるので、飲み込むのに必死になっているうちに考えていたことを忘れていたのだ。

     何もしなくていい。ただ健やかにその日まで過ごしてくれればいい。海軍に保護されていた頃に繰り返し言われた言葉は、時折まだ耳の奥でぼんやりと響く。
     酷い言葉を浴びせられていたわけでもないのに、言い聞かせられるたび手足から力が抜けた。何かを願うこともなくなって、平坦な心で毎日をやり過ごしていた。何もしなくてもいい。ただ健やかにその日まで過ごしてくれればいい。でも確実に、その声を思い出す頻度は減り始めていた。
     理由は明快。ネロを取り巻く環境がガラリと一変したせいだった。ここで生きるやつらには必ず何か仕事を与えられる。己の存在価値を自分自身で証明してみせろという方針なのだ。
     拾われた日にはあまりにも厳しい不文律に聞こえたが、実のところ、向いていることを全力でやれということらしい。目が利く船長は船員たちの適材適所を見事に見極め、それぞれを相応しいポジションにてきぱきと押し込むのだった。苦手なことを無理に伸ばしたところで限度がある。それなら「これ」という何か一つをひたすら磨いた方がいい。淡々と、ひたすら研ぎ澄ませて他にはない武器にしろ、と。
     そのため船に乗って間もないひよっこはまず、適性を判断するためひと通り試される。前線での戦闘を恐れない強靭な心を持つのか、後方で細やかな支援を行うのが得意なのか。単独行動向きか、集団で息を合わせるのを得手とするのか。諜報活動に交渉術。学のあるやつは財宝の地図の解読班に、手先が器用で肝の据わったやつは治療班に。面倒見のいい説明上手は後進育成。等々。仕事は山のようにある。
     ネロはまだ拾われたばかりで、何ができるかわからないが頑張りたいとは思う。俺みたいなのを連れて帰ってくれたあのひとに報いるために。
     いくら物知らずとはいえ、海軍にいたため海賊という存在はさすがに知っていた。世話になっていただけでネロ自身は軍人でも何でもなかったけど、それにしたって真逆の組織に転がり込むことになるとは想像もしなかった。期間限定ではあるものの、財宝と浪漫のために命を賭ける生き方を選ぶ日が来るなんて。
     この俺が? ネロは言いつけられた雑務を器用にこなしながら呆然とする。外の世界を見たいと思った。その一心で逃げ出した。大勢に迷惑をかけ、混乱させるのを承知で。
     永遠に開くことがないはずだった扉を気まぐれに開けてくれたやつがいて、その瞬間には自然と足が踏み出していた。瞼の裏に焼きついた彗星の輝きに導かれるようにして、ネロは少しも迷わなかったのだ。
     自分の心の声を初めてまともに聞いた気がした。役目を果たすのは構わない。でもほんの少し猶予がもらえるのなら、ここではないどこかに行ってみたかった。怖い目に遭ってもいい。悲しいのも苦しいのも耐えてみせる。ひとり孤独に海の底で眠りにつく以上に恐ろしいことなんて、きっとないのだから。
     そんな経緯で後先考えず海軍を飛び出したはいいものの、ろくに生き抜く力を持たないネロはあっさり死にかける羽目になった。世の中の仕組みをまともに理解していないのだ。あっという間に窮地に立たされてしまった。
    「名前は?」
    「……ネロ」
     挙げ句の果てに海辺で倒れていたら声を掛けられて、気がついたら船に乗っていたというわけだ。保護下にあった生活は毎日決まりきったことしか起こらなかったが、本来の人生というものは、こういう予測不能な事態がそれなりに引き起こされるものらしい。
     淡々と流れていたこれまでの人生が嘘のように、ネロの日常は唐突に嵐に飲み込まれていた。右も左もわからない。不確定要素だらけで感情が乱高下する日々。今まで保証されてきた安心や安全はもう粉々で、その代わり危険地帯での生活は何もかもが眩しかった。
     悪党たちとの生活は、不安や恐怖との付き合い方を身につけさえすれば楽しくて仕方ない。荒っぽいが船員たちはみな親切で、世間知らずなネロを邪険にすることなく、時には身振り手振りを交えて一生懸命に世の中のことを説明してくれる。中には酷い話下手で、何を喋っているのかさっぱりなやつもいる。だけど、自分のために言葉を尽くしてくれるのが嬉しかった。
     知られたくないなと密かに思う。このままただの『能無し』だと思われていたい。海軍で向けられていたような、憐憫や罪悪感の滲む眼差しで見られたくなかった。どうせ長くはいられないのだ。ここで生活する最後の瞬間まで、正体を隠し通したい。この程度のささやかな我儘なら、どこかの物好きな神様が叶えてくれないだろうか。
    「ネロ」
     この船で一番偉い男が、ネロの名を呼ぶ。素直に振り返れば両手にどっさり上等な服を抱えていて、思わず顔を顰めてしまった。しまった。咄嗟に表情を取り繕ったものの、誤魔化しきれなかった。ブラッドリーはむっとしたように眉を上げ、人差し指を折り曲げてネロを呼び寄せる。
    「なんだ、その面はよ」
    「いや、だって……」
    「ぼそぼそ喋んなっつってんだろうが。何回言わせやがる」溜息を零したブラッドリーは、切り替えるように得意げな顔で手に持っていた服を広げた。「まあいい。ほら、ちょっと着てみろ」
    「あの、俺、服はもう……大丈夫です」
     たくさんあるんで、と答えながらネロは必死に頭を回転させ、どう断るべきか悩んだ。狭いというのもあるが、「これを着ろ」「あれを使え」と命じられるまま受け取り続けた結果、身につけるもので船室は溢れかえっている。最初はそういうものかと思ったが、周りを見渡してみると、どうやらこれは普通ではないと察した。みんなもっと簡素な機能性重視の装いで、ネロのようにごちゃごちゃと飾り立てられているやつはいない。誰の目から見ても明らかに、分に過ぎた扱いを受けていると思う。
     幸い船員たちはおおらかで、ネロをやっかむ声は今のところ聞こえてこない。ブラッドリーが何かをやると言っては口籠るネロに、「いいから貰っておけよ」とみな笑ってくれる。腹を立てても無理はない状況なのに、どいつもこいつも人がいいのだ。稀にブラッドリーを呆れたような眼差しを向けるやつがいるけど、重要なのはただ一つ。とにかくまだネロと船員とのあいだで揉め事は起きていないのだ。だから今のうちに穏便に、丸く収めてしまいたかった。
    「そりゃよかったな」
     と、言いつつブラッドリーは当然のように自分のお下がりをネロに羽織らせてくる。肩回りやシルエットを確かめて、満足そうに頷くとまた別のものを広げた。小声で控えめに抗議していたらいつまでも聞き入れてもらえない。ネロは腹を括り、息を吸い込んだ。
    「もう足りてますって!」
    「うるせえな、毎回毎回」ゴールドのチェーンネックレスをネロにつけながらブラッドリーは面倒臭そうにする。「俺は足りてねえんだよ」
    「……みんなと同じがいい……」
    「同じだろうが、俺と」
     ネロの訴えは一瞬で退けられてしまった。ふて腐れて口を噤む。私物をどんどん減らして、何がしたいのかわからない。
     ネロに与えることが何故この男の充足に繋がるのだろう。変なやつ。口を開いたらうっかり声に出してしまいそうなので、ネロは唇を引き結んだままブラッドリーの好きにさせることにした。大人しくなったのをいいことに、ブラッドリーは次から次へとネロを着せ替え人形のように扱った。
     そもそもこの男がネロを拾って助けたのだから、この男はネロに何をしてもいいのかもしれない。本当に何をしてもいいのだとしたら、こうやって何でもかんでも与えたがるのは、やっぱりどこか変だなとは思うけど。してほしいことがあるとか、望むものがあるのなら言ってほしい。ネロは思う。たぶん俺はあんたのためなら、何だってできるだろうから。
    「キャプテン」
    「ん?」
    「俺があんたにあげられるもののなかに、あんたが欲しいと思えるものなんか一個もないって……それはまあ、わかってるんだけどさ」
     手を止めてブラッドリーがネロを見据えた。嘘や誤魔化しの一切を許さない、真剣な眼差しに思わずたじろぐ。
    「でも、難しいと思うけど、無茶言ってんのはわかってんだけど、考えといてほしい……です」ネロは俯きがちに、ややつっかえながらも続けた。「俺あんたに……せめて一つくらいは、返しておきたい。返せなかったら、たぶん俺、自分のこと本気で嫌になると思うし……だから、できれば早めに」
    「てめえの話し方が下手なのか、俺の理解力の問題か」俯いていたネロを強引に上向かせると、ブラッドリーはうっすら笑った。「どっちだろうな、ネロ」
     声が出なかった。先ほどまでわかりやすく楽しそうにしていたブラッドリーの機嫌は明らかに急降下している。視線から纏う空気すべてが恐ろしく、芯から凍りついてしまいそうだった。
     まさかこうも怒らせてしまうとは。宝珠の子としての役目を果たす前に、何かできないかと思った。ただそれだけのことだったのだ。でも自分の手であらゆるすべてを奪い取ってきた男からすれば、何も持たない者から与えたいなどと言われるのは、酷い侮辱に聞こえるのかもしれない。
     こみ上げてくる激しい羞恥心と自己嫌悪とでずたずたになり、今すぐ逃げ出したかった。だけどブラッドリーに顎を掴まれていて、それすらも叶わない。俯いて視線から逃れることもできない。情けなさのあまり視界が滲んでくる。
    「待て待て待て、何だ? どうした?」ブラッドリーはぎょっとして、ネロの頬に触れた。「なんで泣いてんだよ」
    「こ、んな怒られるとは、思わなくて……」
    「いや、おまえ……」めそめそと静かに答えたネロを見下ろし、ブラッドリーは困り果てていた。「怒るに決まってんだろ。自分が言ったこと思い出してみろ。近いうち俺の船降りるっつってるようにしか聞こえねえだろうが」
     予想外のことを言われてネロはきょとんとした。降りる。船を降りる。俺が? 自分から望んで? さすがに心外でネロはブラッドリーを睨みつけた。
    「俺は降りたくない!」
    「ああ、わかってる! わかってるって! 俺が悪かった。そう聞こえたんだよ、さっきは」
     すっかり毒気が抜かれた様子で、ブラッドリーは「悪かった」と繰り返した。
     ネロに着せるために持ってきていた服やネックレスなんかを床に放り捨てて、癇癪を起こしたネロを抱きしめひたすら宥めている。完全に子供扱いだ。悔しいけど腕のなかに収められると不思議なくらいほっとした。ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸がほどけるようにして、少しずつ落ち着きを取り戻す。
    「……あの、キャプテン。俺もう、大丈夫なんすけど……」
     頭が冷えてくるとこの状況が居た堪れなくなってくる。ネロはやんわりとブラッドリーの胸を押し返したが、ブラッドリーは離してくれなかった。
    「……キャプテン?」
    「『俺は』って言ったよな」
    「え」
     精神的な疲労とブラッドリーの体温とでほんの少し微睡みつつネロは考える。何の話だ。「俺は」って?
    「『俺は降りたくない』ってことは、てめえはここにいたいって思ってても……降りざるを得なくなるかもしれないって?」
     この男のこういうところは嫌になる。馬鹿みたいに騒がしいくせに頭が切れて、少しの綻びも見逃してはくれない。
    「……それは」
    「俺に追い出されるって思ってるわけじゃねえだろ。おまえが怯えてんのは別の何かだ。訊かれたくないって言うから何も訊かねえようにしてきたが、話したくないってのは今も変わんねえか?」
     ネロは答えず目を瞑った。ブラッドリーはネロが沈黙することを許し、しばらくのあいだ二人して黙り込んでいた。
     今日に限って風が穏やかで、海面は凪いでいる。お調子者の船員たちはこぞって出払っていて、船内に残っている連中は比較的口数の少ないやつばかりだった。静かだ。何もかもが静かだから、今こうして触れている心音だけが胸に迫る。ネロはそっと口を開いた。
    「話せないって言ったら、俺を船から降ろす?」
     突然、引き剥がすように肩を掴んで遠ざけられた。膚に食い込むほど強く掴まれていて痛かった。だけど手を退けてほしい、とは言い出しにくい。信じられないものを見るような目でブラッドリーはネロを見ていた。拗ねたような傷ついたような、難しい表情だった。
     何か言わなければ。でも、何を。ブラッドリーが訊きたがっていることは、どうしたって言えないのに。
     あからさまに狼狽えていると、ブラッドリーは深く息を吐いて、ネロの後頭部に手を回した。あっという間に引き寄せられて、気づくと唇が重なっていて、重なったと思った次の瞬間にはもう離れていた。ネロは目を丸くして、自分の薄い唇にそろりと触れる。
    「今の、何すか」
    「何だと思う?」
     質問で返されるとは思わず、首を傾げる。するとブラッドリーはまた顔を近づけてきて、ネロの唇に自分のものを重ねるのだった。二回もした。くっつけるやつ。
     どういう意味なんだろうと考えているとき、ふと先日のことを思い出した。
     きっと殴られると思って目を瞑ったら、唇に何かが押し当てられたのだ。柔らかくて、あたたかい。あの感触が今のこれと同じなのだとしたら、実はもう二回目ではなく、三回目なのかもしれない、とネロはぼんやり思った。結局これが何なのかは、わからないのだけど。

         ◯

    3.時間をとめるラブソング

     ネロがいつの間にか行方知れずになっていて、慌てて数人を召集する。もちろんブラッドリー自身もすぐに近くを見て回るつもりだ。好奇心の赴くままにふらふら出歩いた挙句、また迷子になっているのだろう。本当に世話が焼ける。
     目を離してそう時間は経ってない。だから遠くには行っていないはず。いくらぼんやりしたやつだからと言って、間違って別の船に乗り込んでしまったわけではないだろう。道がわからなくなってその辺をおろおろ彷徨っているに違いない。
     それぞれに指示を出して手分けして捜索させようとしていたところ、ネロはひょっこり帰ってきた。帰ってきたのはいいのだが、かなり予想外な大荷物を抱えている。いまからこの新入りを捜しにいくつもりで準備していた先輩連中は唖然として、ちらちらとブラッドリーの反応を窺う。悩んだが、小言が先だ。背負っているものは一旦視界から外し、困り顔のネロが口を開く前に叱った。
    「てめえなあ、何処かうろつくなら誰かに言付けてから行け」
    「あ」
     すっかり忘れていた、と無垢な表情が物語っていた。ネロは基本的に言いつけをきちんと守るやつだが、何か気になるものがあると素直に吸い寄せられてしまう。その無防備さに時折はらはらする。世の中にどれほどの悪意が溢れているのか、どうにかして教え込まなければいつか痛い目に遭うだろう。
     ブラッドリーの側に控えている他の船員たちを見て、何の目的でこいつらが集められたのか察したようだ。申し訳なさそうに眉を下げ、ネロは俯いた。
    「すんません……ちょっと、放って置けなくて。遠目で見つけて、気が動転してました。先に報告とか許可とか取るべきだったのに……」
    「反省してんならいい。次はやるなよ」
     縮こまっているネロにブラッドリーはきっぱりと告げる。長々と叱るようなことでもなければ、延々と謝り続ける必要があることでもない。この話はこれで終いだ。
    「で?」一時的に視界から弾き出していたものに、ブラッドリーはまっすぐ視線を向ける。「そいつは? 知り合いか?」
    「あの……他人なんすけど、なんか、倒れてて」
    「……それで連れてきたのか」
    「はい……」
     ネロが人間を拾ってきた。友人でも知人でもない。見ず知らずの若い男を。
     男の意識はなく、ぐったりとネロの肩に顔を埋めているのでどんな面をしているのかは拝めなかった。近づいて耳を寄せると、規則正しい呼吸音が聞こえる。手首に妙な火傷の痕がある他には怪我もなさそうだ。特別気に掛けてやらずとも、じきに目が醒めるだろう。少し休ませてやれば、何事もなく回復すると思われる。
     自分の意志というものをまるで持たないので頭を悩ませていたら、突然ネロにしては随分と思い切ったことをするので驚く。しかしまあ、別に説教するほどのことでもない。一人や二人、船員が増えたところで余裕がなくなるような資金繰りをしているわけではないし、本人が望むなら置いてやるつもりだ。
    「まあ、わかった」不安げにしているネロの頭からずり落ちそうになっていた帽子を、ブラッドリーは被せ直してやった。「いつまでも背負ってるんじゃ疲れんだろ。日陰で寝かしてやりな。てめえが連れてきたんだ。そいつが起きるまで、責任持って看てやれよ」
    「あ……」わかりやすく金色の瞳が輝いた。「アイアイ、キャプテン」
     緊張がするりと解けた様子で、ネロはいそいそと動き出した。陽射しに体力を奪われないよう、ブラッドリーに言われた通り日陰まで運んでやり、慎重に男を下ろす。軽く頬や腕などについた砂を拭いてやってから、何やら思案顔になったネロは船室に駆けていった。
     仰向けに寝かされた男の顔は、海水で前髪が目元に張りついていて、やはりよく見えない。海賊として生きていれば、年々、好敵手や因縁の相手が増える一方だ。だから万が一を考えて確かめるべきかとも思ったが、さすがにこいつは違うな、と即座に警戒を解いた。ひょろりと頼りない体型からして、海で生きてきたやつではない。稀にオーエンのような痩躯の海賊もいるけれど、そういうやつなら海辺で意識を失うなんて間抜けな事態に陥らないだろう。呑気に陸地で生活していたやつが、何かの間違いでこんなことになったに違いない。詳しい事情は、目が醒めてから本人に訊けばいい話だ。
     それにしても、長いこと漂流されていたのか、男が身に纏っているものはぼろきれのようになっていた。あちこちほつれて穴があいている。この季節だからよかったものの、冬場なら助からなかっただろう。見つけたのがネロだったのも運がいい。世間知らずだが気が優しいこいつだったからこそ、こうして連れ帰ってもらえたのだ。他のやつなら素通りしていたかもしれない。
     船室から戻ってきたネロの手には、ブラッドリーからお下がりでもらったシャツの一枚が握られていた。目が醒めたときすぐに飲ませてやれるよう、水を取りに行ったと思ったが違ったらしい。ネロは気遣わしげに、見ず知らずの人間にそのシャツを被せた。通りがかった船員たちがその光景を見てぎょっとする。
     ブラッドリーが身につけるものはすべて上等な代物で、どれもこれも値が張るものばかりだ。しかしネロは恐ろしく世間知らずで目が利かない。だから自分が次々と与えられている衣服や装飾品に、一体どれほどの価値があるのか、いまいちわかっていないのだった。
     たぶんすごく高そう。かなりいいものな気がする。その程度なのだ。自分には勿体ない代物だとは感じているようで、普段はそれはもう恐る恐る、大事に着ている。が、物の価値より優しさや労る心が勝ってしまって、周囲が青褪めるような使い方もしてしまう。ちょうどこんな風に。
    「おい、ネロ。掛けてやるならこっちの」
     汚れても差し支えのない品を素早く用意し、ディランが慌てて駆け寄ろうとした。そいつの首根っこを掴んで制止する。キャプテン、でも、と小声で心配そうに呟くので、ブラッドリーは笑った。
    「好きにさせてやれ。何でも言いなりでぼんやりしてたあいつが、初めて自分の頭で考えて、どこの誰とも知れねえやつを助けてやろうとしてんだ」
     いい傾向じゃねえかとブラッドリーが言えば、それもそうっすねえ、とディランも感慨深そうに目尻を和らげた。頑なに素性を語らず、受容するばかりで自ら発信することはなく、いつも心細そうにしていた新入り。
     あんまり寂しげにするからこっちはどうしたって放っておけないのに、なかなか懐かないから困っていた。無防備な癖に警戒心は強いのだ。構われるたびにびくびくしていた頃に比べると、ネロは随分とこの船に馴染んだように思う。ブラッドリーに対してはすべて明け渡したみたいな無垢な瞳で見つめてくる。でも未だにこいつ自身については何もわからないまま。後ろ手に扉を固く閉ざして、抱えている秘密には触れさせようとしなかった。
     もうそろそろいいだろと詰め寄りたくなる瞬間がないわけではなかったが、下手に暴けばネロはここを黙って去るだろうと思った。だから慎重にならざるを得ないのだ。ブラッドリーは信じられない思いで眉間を押さえる。この俺が? 問い詰めたい衝動を抑え込んで、自分から話すまでは待ってやろうとでも言うのだろうか? 馬鹿馬鹿しい。いかにも寛容なそぶりで、実際にはただ、ネロが手元から消えるのを恐れているだけだった。
     俺は降りたくない、とブラッドリーを睨んできたあの日の眼差しに嘘はない。紛れもなく本心だと確信がある。ブラッドリーだってネロを手放すつもりなどないのだから、何も問題はないはずなのだ。それなのに金色の瞳は時折ふっと遠くを見つめていて、その視線の先にあるものを掴めないことが妙に胸をざわつかせる。ネロは欲望より義務を優先する。だからきっと、帰りたいのはここだとしても、帰るべき場所があるならそちらを選ぶのだろう。
     あいつに与えた一室に、ブラッドリーのお下がりが丁寧に畳まれて置き去りにされている夢を一度だけみた。指輪もネックレスもすべて、何もかも。一つもあいつは持っていかなかった。のんびりと釣り糸を垂らしているネロを見つけるまで、全身を覆った悪寒が引かなかったのを覚えている。風もなく陽射しの強い日だったのに、芯から凍えそうだった。
     何かが必要だと思った。ここにいたい、ではなく、ここにいる、と決意させるためのものが。ブラッドリーのことも他の船員たちのことも、船上での暮らしもネロは好いている。だけどそれはここを去らない理由にはならないのだ、きっと。いっそ確実に縛りつけられるものが欲しい。ネロが自分から離れ難いと思うような何か。何かがいる。
     ブラッドリーは次の獲物に狙いをつけつつ、やや離れた位置からすやすやと眠っている男を見下ろす。こいつがそれになってくれるなら、それに越したことはないんだが、と密かに思う。情に脆いやつだ。自分が拾ってきた以上、人一倍気に掛けてやるだろう。今だって言いつけられた雑用をこなす合間に、ネロは意識不明の男の側をうろうろしている。
     相性次第だが、ネロに教育係を任命してやろうか。新入りが新入りを育てた前例はないけど、物覚えのいいネロはもうそれなりに動けるようになっている。単なる思いつきにしては悪くないかもしれない。男が起きたら素性や意志を確かめ、この船で生きていく選択をしたなら本格的に考えてみよう。手下に次の上陸に向けての段取りを進めさせ、追い続けている幻の財宝にまつわる情報を整理し、ブラッドリーが船長として仕事をこなしているうち、男は目を醒ました。
     ネロが拾ってきた男は、のほほんとした面構えの割にそれなりに深刻な問題を抱えていた。
     晶という名前はすんなり名乗ったが、自分が何者か、どこからやってきたのか、何も覚えていないと言う。悪意は欠片も感じられないので、余所の船の密偵というわけでもないだろう。記憶喪失の身で放り出されても碌なことにはならないだろうし、本人もここに置いてくれと言うので、予定通り新入りとして迎えることにした。
     素直で屈託がないので船に馴染むのは早かった。ネロにも見習ってほしいくらいだ。宴だと言っているのにあんな隅に隠れて、いつになったら海賊らしさが身につくのだろうか。ぼやっとしたところも欲のないところも、ブラッドリーは好ましく思っているのだが、もどかしくなることもある。特に今日なんて、敵襲から無事に新入りの晶を守り抜いたのだ。十分な功績をあげているのに、何故堂々としない。
     しかしまあ、ピンクの泡が立つジョッキを興味津々に見つめる目は悪くなかった。恐る恐る口をつけて、美味い、と表情を綻ばせたのも。知らないものだらけのこいつに、価値のあるものや美しいものを覚えさせるたび不思議と胸が躍る。見せたい景色も聞かせたい話もまだまだ山のようにある。一つ残らず俺が教えたい。教えてやりたいのだ。
     ああ、でも、飯だけは駄目だな、とブラッドリーは密かに笑った。酒瓶を抱えたまま、すっかり酔い潰れてむにゃむにゃ寝言を呟くネロを見つめる。食い物だけは教えてやれそうにない。希少なスパイスや新鮮な肉がどこに行けば手に入れられるかは教えてやれるが、調理に関してこいつに何かを言えるやつはいないだろう。ネロが今晩振る舞った料理より美味いものを、ブラッドリーはこれまで味わったことがない。どの皿も手が込んでいて、舌に染み渡るようだった。
    「おい、酔っ払い。寝るなら下に戻ってからにしやがれ」
     いよいよ寝息を立て始めそうになってきたので、ブラッドリーは空色の髪を雑に撫でる。普段は一定の距離を置きたがるのに、酒が入るとこうもひっついてくるのか。もう少しこのままでいさせてやりたい気もしたが、ネロの眠気はもう限界だ。瞼がほとんど落ちていて、先ほどの声も届いたか怪しい。もう一度「ネロ」と呼び掛けようとしたときだった。ブラッドリーに凭れて半分意識を手放しかけていたネロは、突然、絞り出すように「嫌だ」と言った。驚いて訊き返すとした声が返ってくる。
    「ひとり……独りで、眠りたくない……」ネロは不安酒瓶を抱きしめている。「暗くて冷たくて、静かな海の底には、まだ、行きたくない……」
    「誰もそんなことは言ってねえよ」
     下の船室に行けって言ってんだ、となるべく優しい声音になるよう意識して言い聞かせた。が、すぐに寝息がすうすう聞こえてきて、ブラッドリーの気遣いはまるで無駄になったのだった。とりあえず酒瓶を取り上げて、ぐっと腰を抱き寄せる。不安定に揺れたネロの頭を自分の肩に落ち着かせて、ブラッドリーはネロの言葉を反芻する。
     海の底?
     ネロが頑なに語ろうとしない秘密の一端に、不意に触れた感触がある。これを機に洗いざらい聞き出してしまいたいのに、肝心のネロは気持ちよさそうに眠りこけている。叩き起こしたところで意識がはっきりしていない以上、あやふやなことしか口にしないだろう。かと言って翌朝になって訊ねたところで、とぼけるか覚えていないと突っ撥ねるか、あるいは無言を貫き通すのが目に見えていた。
     みんなに飯の出来を褒められて、照れ隠しにばかすか飲んだネロの目元は泣き腫らしたように赤い。顔全体が真っ赤になっているならいかにも酔っぱらいといった風情だが、頬や目の周辺だけが染まっているのが妙に痛々しい。膚が白いのでどうしても目立つ。下瞼をそっとなぞり、目尻に口づける。ブラッドリーはネロをそっと抱き上げた。起きる気配がまるでないので、下の船室まで運んでやることにしたのだ。
    「どこにも行かせねえよ」明日のネロはきっと二日酔いで参ってるだろうな、と想像して小さく笑いつつ、ブラッドリーは囁く。「てめえが言ったんだ。俺の船を降りたくないって」
     おまえ自身の力ではどうにもならないことがあるのなら、俺が全部どうとでもしてやる。事情を話したくないならもうそれでもいい。ただ、ここに居ろ。俺の目の届く範囲に居ろ。それさえ守るのなら他は許してやってもいい。船室に寝かせたネロの額にそっと唇を押し当ててから、ブラッドリーは静かに扉を閉めた。

     ネロに晶の教育係を命じた辺りまでは順調だったのだ。
     片割れを捜しているというスノウが襲撃してくるアクシデントはあったが、最終的には仲間に引き入れることに成功したのだから、結果的には悪くない。寧ろ喜ばしいことだ。腕の立つやつが味方に増えれば、幻の宝珠にもこれまで以上に手が届きやすくなる。小遣いをくれと煩かったり、船長を船長として敬うことをしなかったりと、幾つかの問題は目を瞑れる範囲だ。上手くいっていた。大体のことはブラッドリーの思い通り。
     フォルモーント島に上陸し、食料調達班から連れ出したネロを金物屋に引っ張っていったときなんて最高だった。店で一番いい包丁を買ってやったときのあの顔。ぽんと気軽に押しつけられたものにネロは驚いて、戸惑って、恐る恐る刃のきらめきを確かめて静かに感動していた。世界を優しく照らし出すような金色の瞳が揺らめいて、瞬きするたびに星の欠片をぽろぽろ零すように輝いている。
     こいつでちゃんと美味い飯を作れよ、と言ったブラッドリーに、頑張ります、とはにかんだように笑ってネロは頷いた。陽だまりのなかで嬉しそうに包みを抱えている横顔は、絵にして残しておきたいくらいには好ましかった。おまえにそういう顔をさせてやれるやつが、俺以外にいたか? いなかったならもうこの辺で腹を括っちまえよ。幸福になることを恐れるな。ブラッドリーは思う。おまえが自分の望みを声に出して言えたなら、必ずそれは叶えてやるから。
     紙袋を大事そうに胸元に抱きしめているネロは、視線を感じたらしく顔を上げた。ブラッドリーをまっすぐ見つめて、何か言おうとして、上手く言葉にならなかったのだろう。照れたようにへろっと表情を緩ませて、すぐに顔を背けた。強引にこちらを向かせて唇にやんわり噛みつくと、ネロは微かに困惑していた。
    「あの……キャプテンがよくするこれって、結局、何なんですか?」
    「何だろうな?」
     また教えてもらえなかった、とやや不服そうに眉を寄せ、ネロは首を傾げている。この顔も悪くないな、と密かに思う。愛情と揶揄いが半々のキスをすると、さすがに二回目にはむっとしたのか、ネロがブラッドリーの胸ぐらを掴んできた。
    「はは、なんだよ。おっかねえな」
     と、笑っていたら唇が塞がれた。ネロの薄い唇で。ほんの一瞬くっつけてから、挑むようにネロは見上げてくる。
    「……これくらい、俺だってできます」
     この行為の、意味も理由もわからない癖に。見よう見まねで子供っぽいキスをして、反抗的にブラッドリーを睨んでくるのだ。そりゃもう、可愛いのなんのって。
     うっかり息も絶え絶えになるほど大笑いしてしまって、ネロの機嫌をものすごく損ねてしまったが仕方ない。必死に宥め、謝り倒し、馬鹿にしたわけじゃねえよと何度も言い聞かせてようやく許された。……と、いうのは正確な表現ではない。依然として拗ねているけれど、美しい街並みに気を取られ、ブラッドリーに対して抱いていた怒りはほとんどすっかり忘れているようだった。
     ここまでは順調。順調だった。チレッタの息子であるルチルを見つけ出し、船に招き入れて新たな旅を威勢よく始めるはずだったのだ。フォルモーント・ネービーが突然、攻撃を仕掛けてきてとある要求をするまでは。
    「水色の髪の男を、ネロを渡すのじゃ!」
     スノウに生き写しの軍人が、厳しい声で叫ぶ。名指しされたネロは可哀相なほど青褪めて、その場に凍りついていた。金物屋で見せた笑顔が容易く塗り潰されて、途轍もなく気分が悪い。いい一日だった。完璧だったのだ。それを丸ごと台無しにしやがって。
     呼び掛けに従い、ふらふらと海軍の元へ向かおうとするネロにも腹が立って仕方がない。俺の船を降りたくないとおまえは言ったんじゃなかったのか。そんな簡単に手放せるほど、ここはおまえにとって大した価値のない場所なのか。
    「てめえは本当に、戻りてえのか?」
     ネロの瞳が頼りなく揺れる。ほら見ろ。ブラッドリーは拳を強く握りしめる。そんなふうに何もかも諦めたような面をして、その実おまえは何一つ、諦めきれていないのだ。最後の最後で諦められないものは、血を流して戦い抜いてでも持ち続ける他ないのだと、世間知らずのおまえもそろそろ覚えておくべきかもしれない。
    「……いたい……」
     重苦しい沈黙の末に、ネロはブラッドリーを見据えた。不安と怯えでゆらゆらと麦穂の瞳は揺れていた。
    「ああ? 小せえ声だなあ。もっと、船中に聞こえるように言え!」
     ブラッドリーが怒鳴ると、ネロはびくりと大きく震えたが、決して目は逸さなかった。「許されるなら……」と呟いて、ネロは深く息を吸い込んだ。
    「まだ、ここにいたい!」祈るような形に両手を組んで、ネロは言った。「だって、あんたにもらった包丁も、まだ、一回も使えてないんだ……」
     ああ、おまえ、やっと言ったな。ようやく覚悟を決めやがったな。ブラッドリーは内心酷く疲れたような愛おしくて堪らないような気分になって、そっと優しく目を眇める。もうここにはいられないと絶望しているネロを安心させるように微笑む。おまえは自分の望みを声に出して言った。だったら必ずそれは叶えてやろうと、ブラッドリーはとっくにそう決めているのだ。
    「きちんと言えたじゃねえか。……上出来だ」
     向こうの要求を蹴る以上、厳しい戦闘になるのは承知の上だった。だが、ネロを引き渡そうと言い出すやつはこの船にはいない。当たり前だ。誰の船だと思っていやがる。海軍なんざに言いなりになって新入りを差し出すような船員が、このブラッドリー・ベイン率いる死の海賊団に一人でもいるものか。
     新入りを守ると腹を決めた船員たちは、容赦のない攻撃にも怯むことなく立ち向かい続けた。晶もルチルも、温厚そうな顔つきの割には神経が図太い。いまの自分にできることを精一杯にこなしていた。船には派手な傷がついたが、収穫もあった。ネロがやっと本音を零したこと。ほんわかした新人たちは、存外めきめきと力をつけて、立派な海賊になる可能性を秘めていること。
     激しい砲戦に何とか耐え抜き、ひと息ついた頃にはまた奇妙な拾い物をした。優雅でおっとりとした貴族らしい佇まいの男だが、先ほどまで海軍に捕らわれていたと言う。名前はラスティカ。酒場で演奏をしていたところ、急に捕まえられたそうだ。
     どんな曲を奏でたらそんな目に遭うんだと呆れたが、ラスティカ自身よく理由がわからないらしい。そりゃそうだ。故郷の歌を演奏するのが、どんな罪になるというのだろう。連中の考えることには興味がなかったが、ネロに関係してくるなら話は別だ。軍のやつらは一体、どんな意図でラスティカを捕らえ、ネロを追っているのか。
    「……ネロよ」ラスティカの話がひと段落ついたのを見計らったかのように、スノウが口を開いた。「そなたがフォルモーント・ネービーに追われていたのは、この者と同じく酒場で歌を演奏していたから……というわけではなさそうじゃな?」
     未だに顔色の悪いネロは頷き、自分の正体について語り始めた。『宝珠の子』という定めを背負って生まれてきたネロの身の上話に、どいつもこいつも絶句しているなか、ブラッドリーだけが興奮していた。やはりあったのだ。幻の宝珠は。
     スノウには呆れられたが、ブラッドリーからすればスノウたちが纏う深刻な空気が信じられなかった。何をそう落ち込むことがある? ブラッドリーたちは先ほど、海軍とやり合って無事に生き延びたのだ。次もその次もやることはずっと変わらない。戦って勝つ。勝ち続ける。世界の平和なんてものは、それこそ軍の偉い連中が必死になって守るべきものだ。命懸けで。矜持にかけて。罪のないスクアーマを犠牲にして保った平和な日常を、よくも平気で生きていけるものだ。面の皮が厚いにも程がある。恥ってものを知らないのだろう。
    「だからおまえも、ここにいたいと思うならいればいい」
    「キャプテン……」
     目を見開いて固まるネロの元に、船員たちが続々と集まってくる。ブラッドリーの言葉に古株も新入りも女海賊の息子、そして音楽を愛する旅人の全員が賛同すると、ネロは金色の瞳を潤ませ、俯いてしまった。
    「……みんな……ありがとな」
     ここにいたいと言った。ネロは確かにそう言った。だからブラッドリーはそれを叶えてやるつもりでいた。俺が全部どうとでもしてやると思っていたのだ。

     翌朝、船中を捜してもネロは見つからなかった。夜のあいだに攫われたのだろうか。ブラッドリーは舌打ちする。迂闊だった。あいつには窮屈だろうが、護衛をつけるべきだった。何なら俺の側に置いておけば、それが一番安全だっただろうに。そう悔やんでいると、ルチルが駆け寄ってきた。厨房で見つけたと言って、鍋と真新しい包丁を見せながら。
    「俺がネロに買ってやった包丁に間違いねえ」
     嬉しそうに紙袋を抱えていた姿が眼裏に甦り、心臓が痛くなる。何を作ろう、キャプテンはやっぱ肉がいいっすよね、とあれこれ楽しげに献立を考えていた。
     みなが寝静まった時間帯に侵入してきたやつが、強引にネロを引き摺っていったに違いない。ブラッドリーはルチルに厨房の様子を訊ねたが、争った形跡はなかったと返ってきて混乱する。寧ろ綺麗に片付いていただと? 何故? スノウなんかは自ら出て行ったのではと言いやがるので頭に血が上りそうだった。そんなはずがない。あいつは「ここにいたい」と、やっと自分の望みを声に出して言ったのだ。
     船内に充満する澱んだ空気を打ち消したのは、ラスティカの演奏だった。こんなときによくも、とその呑気さに苛立ったが、流れる旋律は労りに満ちていて、不本意ながら癒やされてしまった。ばらばらに散らばっていた思考も元に戻り、とりあえずネロの残していった料理に口をつけることにする。ルチルに注がせた具沢山のシチューをひと口ずつじっくりと咀嚼する。
    「……相変わらず、美味いな」自然に唇から滑り落ちていた。「こんな美味い飯で舌を肥えさせるだけ肥えさせて消えやがって。次に見つけたら、厨房に縛りつけてやる」
     ブラッドリーに倣って全員がネロの残していった料理を食べ終えた頃には、船を覆っていた靄はすっかり晴れたようになっていた。いい調子だ。最初から気持ちが折れていたのでは話にならない。とはいえ、どうしたものか。ブラッドリーは思案する。手掛かりは何もない。闇雲に海軍を襲撃すればこちらがもたないだろう。それに、捜しているのはネロだ。まずはネロがいる場所に目星をつけなければ、……そう頭を悩ませていたのは、ほんの僅かなあいだだった。
     いい風が吹いてきましたね、とラスティカが再び奏で始めた音色に、晶が反応した。その旋律に魅了されたのではない。突如、苦しみ出したのだ。しかし本人たっての希望で演奏は続けられ、みなが固唾を飲んで見守っていると、晶はたどたどしく歌い始めたのだった。拙い歌は次第に滑らかになり、その場にいた者たちの鼓膜をそっと揺らした。
    『零れ桜の光とともに 渦巻く海は 花の浮き橋 その下に私は眠る……』
     晶が歌い切ると、辺りが不意に明るくなった。マーブル模様の海が光を放ち、ざあざあと波が奇妙な動きを見せ、ゆっくりと渦巻いていく。渦潮だ。突如として現れたこの渦の下に、間違いなくネロがいる。ブラッドリーはそう確信していた。船を船員たちに任せると、躊躇うことなく渦に飛び込んだ。

         ◯

    ハッピーウェディング前ソング (2年以内に別れないver.)

     また随分と憂鬱そうな顔をしている。
     ネロは人の輪から離れてぽつんと腰を下ろし、何をするでもなく海面に視線を漂わせているのだった。酔わないのだろうかとつい思う。きらめく波に見惚れていたところ、晶はすっかり具合が悪くなった。ようやく落ち着いてきたところだ。しかしネロは晶より長いこと海を眺めているのに、どうってことないとでも言うように平然としている。新入りとはいえさすが海賊だ。
     手を動かしていた方が余計なことを考えずに済むから助かる、とネロは前に言っていた。だけど彼は仕事が早いので、淡々とこなすのにちょうどいい作業がいま必要だという瞬間までどうしたって残しておけない。だから時間を持て余すと、こんなふうに目を伏せて物思いに耽るのだ。
     何を考えているのだろう。俺にできることはあるだろうか。心配する気持ちはもちろん本当だけど、長い脚を無造作に組んだのが様になっていて、晶は密かに感嘆する。絵になるなあと思う。憂いを帯びた横顔が余計に。
    「もー……なんだよ、さっきから」
     気をつけていたつもりが、本人に気づかれてしまった。ネロが困ったように見つめてくる。正直に答えるなら「綺麗だなと見惚れていた」になるのだが、いきなりそんなこと言われたら戸惑わせてしまうかも、と晶は口籠る。するとネロの表情が曇り、身につけている装飾品の一つひとつに触れながら口を開いた。
    「……やっぱ変?」
    「え?」
    「新入りがこんな格好してるの、あんたもおかしいって思うよな。外でも、なんか妙にひそひそされるっていうかさ……どこの船長だ、あいつ、とか聞こえてくるんだよ」
     晶は目を瞬かせた。ネロはたぶん、嘘を吐いているわけではない。下っ端が煌びやかな衣装に身を包むのは分不相応だという思いは確かにあるのだろう。だけど、ネロを憂鬱にさせている本当の原因は、恐らく他にある。そんな気がした。
     キャプテンと旅をして、どこへでも行きな。そうしたら、きっと出会える。先日の、優しいトーンで紡がれた言葉を思い出す。
     ネロは瞬きをした瞬間にも見失ってしまいそうな、どこか危うい感じがする。勘違いならいいけど、ネロは日に日に物思いに耽るようになってきた。できれば抱え込んでいるものを話してほしい。だけど、ネロが話さないと決めているなら、無理に聞き出すような真似はしたくない。そんな権利は誰にもないのだから。
     まだ出会って間もない人間に何もかも打ち明けるのは、とても怖いことだと思う。すごくつらくて仕方のないことを、「なんだそんなことで」って軽く扱われてしまったら、どんなに傷つくだろう。そんなふうに軽んじるつもりは絶対にないけど、そんなつもりがなくても傷つけてしまう可能性は絶対にないとは言えない。だから晶はもどかしさをぐっと堪え、「服のことで悩んでたんですね」と話を合わせた。ネロは心なしかほっとしたように頷いた。
     そういえば、晶も最初は驚いたのだ。こんな立派な装いをした人が新入り? 思わず船内を見渡した。だって他の船員たちはもっとシンプルで、装飾の少ない似たような服を着ている。単純に着飾ることに興味がないのかなとも考えたのだが、みな思い思いに綺麗な石の指輪や耳飾りなんかをつけていて、どうやらそうわけではなさそうなのだ。
     それで雑用を手伝っているときに、それとなく何人かに訊いてみた。すると船員たちはなんだか意味深な笑みを浮かべて「さあな」と惚けるのだった。そのうちわかるさ、と面白がるように言われたけど、今のところまだ晶にはぴんときていない。お下がりをもらってるって話は、確かこの船に拾われた日に聞いた。だけどまさか、全部が全部ブラッドリーから与えられているわけではないだろう。だからてっきり、ネロ自身が派手な衣服を好んで購入し、身につけているのだと思っていた。
    「確かに、新人さんっぽい服装ではないですね」居心地悪そうに、だよなあ、と溜息混じりに零すネロを晶はじっくり眺めた。「でも、とても似合ってるので、変だなって感じはしないですよ。ネロが気になるなら、もっとシンプルな格好をするのもいいかなって思いますけど……俺はいま着てるやつ好きです」
     そっか、と幾らかは気が軽くなったような面持ちでネロは小さく笑った。上等な釦や腕輪なんかをいじっていることからして、まだ気にしてはいるようだ。
    「次の買い物、服も見てみませんか? 気に入るやつがあるかも」
    「うーん……」
     ネロは首を傾け、「キャプテンが」と呟いた。
    「俺の持ち物、全部あの人のお下がりなんだよ。服も宝石も高い指輪も、ぽんぽん寄越してきてさ」溜息混じりにネロは呟いた。「もらった小遣いで、みんなと同じような服買おうとしたこともあるんだ。でも結局、『そんなもんよりこっちのがいいだろ』って、キャプテンに止められて……キャプテンが気に入ったやつを試着させられて、気がついたらキャプテンが会計済ませてた。みんなと同じやつがいいって言ったら機嫌悪くなるし、下手に買えないんだよな。あ、だから晶、欲しいものがあったら言いな。俺、ほとんど小遣い使えないまま貯め込んじまってて」
    「それは……」
     晶は何を言えばいいかわからず言葉を途切れさせた。なんというか、すごい。目を掛けている感じは確かにしていたけど、ブラッドリーは相当ネロのことを可愛がっているらしい。可愛がっている、というか、甘やかしている、というか。船員たちに訊ねたときの、あの妙な反応の意味をようやく理解する。なるほど。
    「じゃあ、えっと……俺も一緒に、ブラッドリーに頼んでみましょうか?」
    「えっ、……何を?」
    「こういう華やかな衣装は、もう少し組織に貢献できるようになってから着たいそうです……こんな感じで俺が間に入って言えば、あまり角も立たないですし」
    「いや、でも……キャプテン、基本的に言い出したら聞かないしさ。こんなことにあんた巻き込むのも、嫌だし」
    「大丈夫ですよ。駄目なら駄目って言われるだけですし、試すだけ試してみませんか?」
     躊躇するネロを説得していたら、「楽しそうじゃねえか」とよく通る低い声が降ってくる。ブラッドリーが普段通りの勝ち気な笑い方をして「何の話してんだ」と訊ねながら側に座った。いいタイミングだと思ってネロに目配せすると、ネロは困ったように頷いた。十中八九、聞き入れてもらえない。そう考えているのがわかる。晶は即座に援護射撃できるよう、密かに深呼吸してネロが口を開くのを待った。
    「あの、キャプテン……お願いがあるんすけど」
    「お」ブラッドリーの鮮やかな赤い瞳が嬉しそうに輝いた。「めずらしいな。いいぜ、聞いてやる。欲ってもんがろくにねえおまえが何を望むって?」
     なんだ、と拍子抜けした。この調子なら晶がお節介を焼くまでもなく、すんなり許可がおりそうなものだけど。いけますよ、これなら、と晶は視線でエールをおくる。しかし当のネロは微妙な面持ちで、あんまり期待するなよ、と言いたげな苦笑が返ってきた。
    「俺の着てるもの、やっぱちょっと分不相応だと思うんで、他のやつみたいにもっと大人しいデザインの」
    「却下だ」
     最後まで言い切る前にばっさり切り捨てられてしまった。晶は思わず呆然とする。援護する隙など一切なかった。
    「何回言わせんだよ、てめえは。俺がやるっつってんだから、それでいいんだよ。ごちゃごちゃ言わずに大人しく着てろ。いいな」
     よくねえよ、という顔を一瞬したものの、諦めたようにネロは頷いた。どうせこうなる、と予想していたのだろう。特に落胆する風でもなく、ネロは船の周りを飛んでいる海鳥をアンニュイに眺めている。ブラッドリーは拗ねたように眉を寄せた。
    「あのなあ、ネロ」
    「わかりましたって。もう言わないんで、勘弁してください」
     面倒臭そうにあしらう(新入りがキャプテン相手にすごいな、と密かに晶は思った)ネロの頬を両手で挟んだ。強引にネロと視線を合わせ、ブラッドリーは言った。
    「本当にわかったんだろうな。いいか。俺の楽しみを奪うんじゃねえよ」
    「た」と、呟いたきりネロは絶句した。「たのし、い……すか、これ」
    「おう」
     躊躇いなくきっぱりと頷かれてしまって、ネロはしどろもどろになっていた。端からあまり粘るつもりはなさそうだったが、食い下がる気力をもうすっかり失っている。面映そうに目を伏せて大人しくなったネロを見下ろし、ブラッドリーは不意にポケットを探り始めた。取り出されたのは耳飾りだった。ネロの瞳を思わせるような色合いの宝石がきらめいていて、とても美しい代物だった。
    「忘れるところだった」陽の光を受けてまばゆく光る耳飾りを、ブラッドリーは当然のようにネロの耳につける。「このあいだ返り討ちにしてやった連中の船にはろくな財宝がなかったが、これは悪くねえと思ったんだ」
     真剣にネロを見つめていたブラッドリーは、唐突にぱっと破顔した。狙い通り悪戯が成功したときの子供のような笑い方だ。とても海賊とは思えないような。
     自分の耳におずおずと触れながら、「変じゃないすか」とネロは訊ねた。落ち着かなそうに空色の髪をいじったり、首を傾げたりしつつ、不安と期待、嬉しさと申し訳なさが入り混じる目でブラッドリーを見上げる。
    「変なわけねえだろうが」自信なさげにもじもじしているネロの額を軽く小突いてから、前髪を持ち上げてそっと同じ箇所にブラッドリーは唇を押し当てる。「似合ってるぜ。昔からてめえのもんだったみたいにしっくりくる」
    「キャプテンが、そう言うなら……つけとく。ありがとうございます」
    「おう。普段からそうやって素直に受け取りゃいいんだよ」
    「だって……」
    「だって、じゃねえよ。もー、てめえは本当によお……」
     やや疲労を滲ませた声でブラッドリーはそうぼやいたけど、ネロを見つめる眼差しは胸がうっとなるほど優しかった。ごく自然にネロの背中に腕を回し、鼻先が触れる距離で微笑んでいる。そのまま口づけかねない雰囲気である。
     何やら様子がおかしくなってきたので、晶は咄嗟に気配を消してその場を離れた。見間違いだろうか。あるいは、あんなのは別に普通のことなのか? 記憶喪失の身なので、何が当たり前で常識なのかいまいち確信をもって言えないのがもどかしい。甲板の掃除をしていたローガンを捕まえて、晶は必死に訴える。ものすごく声量を落として。
    「ブラッドリーとネロって、長いこと連れ添ってたとかじゃないんですよね? 俺と一纏めに新入りって呼ばれてるし、まだ出会ってそんなに経ってないんですよね?」
     晶が何を言いたいのか、ローガンはすぐに察したようだ。困ったような呆れたような笑みを浮かべて、「そうは見えねえよな」と耳打ちしてくる。首がちぎれる勢いで何度も頷いた。
    「一応、あの二人はまだただの上司と部下だ」
    「絶対嘘だ……」
     自分を助けてくれた、優しくて頼りになるネロにこんなことは言いたくはない。言いたくはないけど、ネロはちょっと隙が多すぎる。世間知らずのきらいがあるようだし、なんだか危なっかしいのだった。呑気だと言われがちな晶でさえそう思うのだ。容易くキャプテンに丸め込まれているのが目に浮かぶようだった。
    「本当なんだよな、これが」疑いの眼差しを笑って受け止めながら、ローガンはしみじみと呟く。「あそこまで無邪気に好かれると、かえってなかなか手が出せねえみたいでな。俺はこの船に乗ってそれなりに経つけどよ、あんなに振り回されてるキャプテンは初めて見た」
    「へえ……ネロってすごいですね」
     強くて格好いいし、料理上手だし、その上、組織で一番偉い人を困らせることができるとは。そんな人に教育係になってもらえたのは、かなり運がよかったのかもしれない。
     彼らのただならぬ空気に呑み込まれて混乱していた心がようやく落ち着いてきた。二人とも、もう移動してしまっただろうか。そう思いつつ、先ほど逃げ出してきた方角に晶は視線を向ける。なんと、未だに同じような体勢で髪を梳いたり、頬を撫でたりしているのだった。あ、目尻に口づけた。一瞬のうちに頭が痛くなってくる。
    「あの、ローガンさん……本当に……?」
    「あれでまだ本当に何も進展してねえよ」
     早くくっついてくれた方が、俺らも気が楽なんだけどなあ、とローガンさんはのんびりと笑った。本当ですね、と晶は心の底から同意した。

         ◯

    4.勿忘

    「ここからしばらく歩くよ」
    「わかった」
     ムルの後を追いかける形で、ネロはゆっくりと進み始めた。ここはウンディーネの遺跡。海軍の技術なくしては、決してたどり着けない海の底。石造りの巨大な神殿は、こうして無惨に沈んでいても荘厳さを失ってはいない。円柱のあいだから、銀波桜の花弁が波と混ざり合って輝くのが見える。マーブル模様の水中の景色は綺麗だった。海の底にはこんなものが遺されていたのだ。すごいな、とは思ったけど、それだけ。ネロの心はそれ以上動かなかった。
     舞い上がっていたのだ。開くはずのない窓が開けられて、それはそれは大きな彗星を見た。つめたく点滅する無数の星々を掻き消すように、夜空を裂いた凄まじい光。未だにあのきらめきを鮮明に思い出せる。眼裏にくっきり焼きついて色褪せない。
     世界というものはとても広くて、自分が知るのはほんのごく僅かだというのはネロも知っていた。それでも構わなかった。ここには生きるために必要なものは揃っていたし、無知のままでも困らなかったのだ。誰もネロに智慧をつけることを望んでいないようだったし、彼らに逆らってまで学びたいとも思わなかった。幼い頃、ムルに見つけてもらうまで、酷い暮らしに耐えてきた。それに比べたらここは全然ましだ。だから時折、ぼんやりと空想するだけ。窓の外には一体、どんな世界があるのだろう。物を知らないネロの想像力は乏しく、ちっとも上手くイメージできなかった。イメージできない外の世界への興味や憧れが湧いてくるはずもなく、厳重に管理された退屈な日々を過ごすことに不満は特になかったのだ。
     だけどネロは星を見た。あの星がすべてを変えてしまった。彗星の輝きは魂を貫き、一度も燃え上がることなく止まる運命にあった心臓に火を灯した。無欲で無垢で無知な魂の奥底に封じ込めていた本音が照らし出されて、衝動的に窓から逃げ出したのだ。このまま死んだように生きたくない。役目も保証された安全な生活も何もかも放り捨てて、ひときわ明るい夜にネロは外へと足を踏み出した。俺の番が回ってくるまでのことだから、と心のなかで言い訳しながら走った。少しでいい。時間が欲しい。外には何がある? あの部屋の外には? 今日見上げた彗星以上に目を奪うものもあるのだろうか?
     美しさや優しさだけで世界が作られているわけではないのは身をもって知っている。恐ろしいもの汚いものが溢れ、悪いやつらだって数えきれないほどいるのだろう。知識も財産もなく、決して正体を知られてはならない自分が、いま決死の思いで逃亡したところで、何にもならないかもしれない。あっという間に連れ戻されるか、もっと悪ければ、子供のときみたいに奴隷船に乗せられてしまう可能性だってある。それでもあの星のように綺麗なものが外にはあるというのなら、与えられた清潔で安全な部屋で一生を終えるのは嫌だと思った。思ってしまったのだ。
     それで飛び出したはいいものの、右も左もわからず途方に暮れたネロに手を差し伸べたのは海賊だった。海辺であれこれ質問してきたけど、ちっとも答えないネロに困っていた。普通ならここで放っておく。素性のわからない、それも『能無し』なんかに時間を割く価値なんてない。だけどあの男は「答えたくなきゃそれでもいい」と言って、ネロを自分の船に連れて帰ってくれたのだ。物好きなやつ。ものすごく馬鹿なのかもしれないとも思った。少しだけ。
     状況が飲み込めていないネロを置き去りに、海賊としての生活が始まった。毎日が未知との遭遇の連続で目が回りそうだった。視界がずっとちかちか眩しくて、眩しくて、眩しくて、そうか、世界はこういうものだったのか、と心で思い知る。言葉では上手く説明できない。なんとなく、腑に落ちたのだ。窓の外には「安全」以外のあらゆるものがあった。
     新入りは覚えることだらけで大変だったが、教えてもらえるのが嬉しかった。一般常識もまともに身についていないネロを笑うことなく、わかりやすく説明してくれるので何でもすぐに記憶した。物覚えがいいとよく褒められたけど、それは単に覚えるのが苦ではなかったからだ。新しいもの、知らないものに触れるのは楽しい。できることが増えるのも。誰かの役に立てるのも。それにしたって「あれは?」「これは?」と、我ながら子供のように何でもかんでも訊ねすぎていたな。振り返ると若干気恥ずかしくなる。どんなにつまらないものでもいちいち船長が答えてくれるから、少しでも気になったら何でも訊く癖がついてしまったのだ。
     海辺で初めて会った日。鼻唄を歌いながらネロの手を引いて船に連れ帰ってくれたあのとき、本当はとても嬉しかったのだと、そういえば伝えそびれてしまったなと気づく。明日や明後日が今日の繰り返しではなく、何が起こるかわからない滅茶苦茶な日常は息切れしそうになるほど疲れるけど、楽しくて堪らなかった。常に危険と隣り合わせでありながら、愉快で騒がしい日々が永遠に続くように錯覚してしまった。言えばよかったのに。幸せにすっかり慣れてしまう前に、ちゃんと言っておけばよかった。
    「ネロ?」
     無意識のうちに足を止めてしまっていたようだ。ついてきていないことに気づいたムルが、振り返って首を傾げてくる。ネロは慌てて距離を詰めようとしたが、思うように体が動いてくれない。全身が鉛のように重かった。いまさら逃げたいとか、怖いとか、そういうわけではない。ただ後悔していた。最初から何も持たなければよかった。窓の外へ出なければ。あの日、ブラッドリー・ベインに差し出された手を掴まなければ。いずれはすべて失うと知っていたのに、それでも無欲ではいられなかったのだ。馬鹿だなと自嘲しても時間は巻き戻らなくて、ネロはもう進むしかないのだった。とっくに決められていた道を。
     いま心臓がちぎれそうに痛いのは、何もかも投げ出して自分の欲望を優先した罰なのだろう。ネロ以外の『宝珠の子』はちゃんと理不尽な運命を受け入れてきたのに、ネロはそうしなかった。世界を見捨てた大罪人なのだから仕方ない。
     これまで犠牲になってきた青い紋章のスクアーマたちは、一体どんな気持ちで役目を果たしたのだろう。『能無し』だと何も知らない連中には散々侮られながら、ギフト持ちのスクアーマたちを滅亡から救っているのはその『能無し』たちなのだ。馬鹿馬鹿しいと思わなかったのだろうか。勝手に滅べばいいとは考えなかったのだろうか。どいつもこいつも底抜けのお人好しばかりだったのか? それともネロと同じように、どうしても死んでほしくないひとができてしまったから受け入れたのだろうか。
    「……なんでもない」
     やっとの思いでそう答えて、歩くのを再開しようとした矢先、すたすたとムルが戻ってきた。じっとネロの顔を覗き込んで、形容し難い表情を浮かべる。どういう感情が表れているのかわからず、ネロは密かに戸惑った。他の海軍の連中に向けられる眼差しとは種類が違う。憐憫や後ろめたさ、そんな単純なものではない。エメラルドグリーンの瞳は曇りなく輝いているのに、どこか寂しげだった。
    「きみはもう、諦めてしまった?」
    「……は?」ネロは他にどうしようもなくて、小さく苦笑いをする。「諦めさせたのは、他でもないあんただろ。俺が役目を果たさなかったら、キャプテンが死ぬって……」
    「きみが知りたがっていたことを教えただけだけど、確かにそうなるのかもね」
     ムルは普段の気ままで明るいトーンをほんの少し抑え、静かに言った。
    「俺はね、ネロ。本当はまだ、全然、諦めてないよ」
    「諦めてない、って……」
     突然、何を言い出すのだろう。困惑するネロの手をムルは掴み、ぶらぶらと揺らして歩き出す。幼子にするみたいに。手を繋いだまま、のんびりと目的地を目指す。
    「別に、逃げねえよ……」子供でもないのに手を繋ぐなんて恥ずかしくて、ネロはぼそぼそと抗議する。「……わざわざ、こんなことしなくても」
     ムルは構うことなくネロの手をひときわ強くぎゅっと握りしめ、視線をこちらに寄越してきた。
    「ブラッドリーにもしてもらった? こんなふうに」
     この男は俺を幾つだと思ってるんだろう、とネロは思いつつ、首を横に振る。そうなんだ、割と甘やかすタイプかなと思ったんだけど、とムルは意外そうにしているが、返事をする気にはなれなかった。どういうつもりかわからない。ネロよりは年上だが、ネロの父親になるには若すぎるフォルモーント・ネービーの大将は、何故いまになってこんなことをしたがるのだろう。
    「……まだ着かねえの?」
    「遠回りしてるからね!」
     思わず絶句した。本当に何を考えてるのだろう。もう寿命が尽きるっていうから、「次」をここに連れてきた癖に。もし時間に余裕があるのならもっと船で過ごしたかったし、ないのなら急ぐべきじゃないのか。頭が痛くなってきたので思考を放棄すると、不意にあの日のことを思い出した。
    「手を繋いだことは、ないけどさ」
    「うん?」
    「初めて会った日……手を引いて船に連れ帰ってくれたよ。あと、迷子になった日とか」
    「ふうん、そっか」
     やっぱり大事にされていたんだね、と言われて、どうかな、と返したら笑われた。ムル曰く、「こんなにわかりやすく大事にしてくれてるのに、ネロには伝わらなかったんだ?」とのことだ。別に、伝わってないわけではない。ただ、なんというか、ずっと現実味がなかった。何でも持っているあのひとに、優しく扱われる理由などネロは一つも持っていなかったし。
    「大事にしてもらえる自信がない?」
    「……ないよ。あるわけないだろ、そんなの」
     そこからは互いに無言で歩き続けた。長い廊下を延々と。本当に遠回りしているのか、単純にこの神殿が広すぎるのか、なかなか幻の宝珠の元にはたどり着かない。歩いても歩いても似たような景色が続くので、同じところをぐるぐる彷徨っているのではないかと不安になるほどだった。
    「ねえ、賭けをしようか」
     唐突にムルが言い出した。何をいきなり、と困惑したが気づいた。ムルの視線の先。ぼんやりと青い光が漏れている場所がある。あの中にきっと、先代の『宝珠の子』が眠っているのだろう。一歩ずつ着実に近づきながら、ムルは口を開いた。
    「ブラッドリーはきみを連れ戻しに来ると思う?」
    「はあ?」
     つい呆れた声が出た。そんな内容では賭けにもならない。万が一、ブラッドリーがネロのことを諦めることなく捜し続けてくれているとしても、海の底にたどり着く手段を持たないのだ。でも何故かムルは妙に確信のある口調で言い切った。
    「俺は来ると思うよ」
    「来ないって……」
     溜息混じりにあしらって、宝珠の前まで突き進む。弱々しく光る宝珠にそっと手を伸ばしたとき、騒々しい足音が響いてきた。もうさっさと終わらせてしまおうと投げやりになっていた心が一瞬、ぐらりと揺らいだ。
    「ネロ!」
     駆け込んできたブラッドリーの顔を見たとき、さまざまな感情が渦巻いた。会いたかった。会いたくなかった。嬉しい。どうしてここに。もっと一緒にいたい。やっと諦めたのに。もう忘れて。忘れないで。あんたとずっと旅をしていたかった。
     ムルはさりげなくネロの耳元で、「俺の勝ちだね」と囁いた。それから何事もなかったかのようにブラッドリーと晶に向かって「よくここまでたどり着いたね」などと笑いかけている。白々しい。さっきまであんなに自信満々に、「ブラッドリーは来る」と断言していた癖に。
    「まあまあ聞きなよ、これは世界の話だ。そして、きみとネロの話」
     挨拶もなしに出て行ったネロを責めるブラッドリーから庇うように、ムルはこの世界の平和がどのように保たれていたのかについて話し始めた。それをぼんやりと何の感情もなくネロは眺める。
     世界のためにと海軍のやつらは言ったが、世界なんてネロにはどうでもよかった。どうでもいいというか、ぴんとこなかった。そんなものが自分一人の身にのしかかっているなんて、とてもじゃないが信じられない。でもネロがここで世界を見捨てたら、すべてのスクアーマが危険に晒されるのだとも言う。ブラッドリーはスクアーマだ。スクアーマである限り、この脅威から逃れることはできない。
     だから仕方ないと諦めた。世界とか平和とかそんなものは守りたいやつらが勝手に守ってろよと少し思うけど、ブラッドリーが死ぬのだけはどうしても嫌だ。あんたが生きていられるなら、この先も旅を続けられるなら、そのためならって。そのためならいいよって、諦めたのに。
     それでもブラッドリーは「帰ってこい」と言う。その上、「もう一度てめえの言葉で聞かせな」と容赦がなかった。本当はどうしたいのか。何を望むのか。よくそんな酷いことが言えるよな、と血が滲むほど強く唇を噛み、ブラッドリーを睨んだ。
    「俺だって、本当はキャプテンと、団のみんなと旅を続けていたい、飯だってもっと作りたい!」蓋をして閉じ込めていた本音は、一度溢れると止まらなかった。「だから、がんばったんだ。がんばって、がんばって、やっと諦めたのに、二回もこんなこと言わせんなよ……っ!」
     ネロがここまで怒りを露わにしたのは初めてのことだったので、ブラッドリーは目を見開いていた。が、すぐに安堵したような、満足げな笑みを向けてくるので無性に腹が立つ。俺は怒ってんだよ。馬鹿。地団駄を踏んでやりたいくらいだった。
     そうこうしているうちにヒースクリフが海軍と海賊の両方を引き連れてやってきた。己の力不足を謝罪する部下に対し、ムルは微笑んだ。
    「……きみに頼まれた代案、間に合ったみたいだ」
     そういえばムルは言っていた。
     俺はね、ネロ。本当はまだ、全然、諦めてないよ。

         ◯

    5. 10,000 Hours

     体の一部のように刃物を扱うやつなのだ。
     まな板の上でそれはもう細かく刻まれていく野菜の大きさは均一で、見事なものだと素直に思う。買い与えた包丁をネロはすっかり使いこなしていた。長いこと手元にあったと錯覚しそうなほどに。
    「ンな小さくしたら煮込んでるうちに溶けちまうんじゃねえか」
    「こんだけ小さくしないと食わないひとがいるからいいんすよ」
     ブラッドリーは目を丸くして、そういうわけだったか、と合点する。なんとなく近頃は小言が減ったなと思っていたのだ。あるいは以前ほどは野菜がテーブルに並ばなくなったような、と。
     ブラッドリーの好みに合わせるようになったのか、単純に諦めたのか。どちらにせよ喜ばしいことなので深く考えなかった。実際のところは、好き嫌いするなとかサラダを残すなとか言う代わりに、密かに料理に紛れ込ませる方法をとるようになっていたらしい。
     ネロの思惑通り野菜の存在に気づくことなく飲み込んでいることも多いので、この選択は正しいように思う。そんな子供騙しに引っかかっていたと知るのは内心複雑な気にもなるが、それはともかく。
     心底憧れているような眩しい目でブラッドリーを見るくせに、ネロはこの船で一番ブラッドリーに遠慮がなかった。自覚なしに。拾った直後の頃から、酒の勢いを借りてのこととはいえ、自分を拾った男の偏食をはっきり咎めてきたのだ。
     誰からも慕われて従順についてくる連中に囲まれてきたものだから、あの態度にはやや面食らった。しかし案外こうやって口煩くされるのも悪くなく、ネロが困ったような呆れたような顔をするたび妙に嬉しくなる。
     キャプテンはネロに甘いとそこかしこで揶揄う声は絶えないが、徐々にはらはらするやつが出てきたのが鬱陶しい。いちいちそんなこと言わなくていい。ブラッドリーは遠回しに諫めるやつらにふて腐れながら突っぱねた。見てりゃわかんだろ大事にしてやってるって。すると船員たちは顔を見合わせて、そりゃ、まあ、と仕方なく引き下がるのだった。
    「……今日はさ」
    「ん?」
     ネロがブラッドリーに背を向けたまま、皮を剥いた人参を手に取りながら口を開く。
    「鶏肉もたくさん買い込んできたから。だからあの、キャプテンの好きなやつ……」徐々にネロの声が小さくなってきた。「……食感とか味とか気にならないように、だいぶ細かめにしてるし、たぶんちゃんと美味いから……スープもぜんぶ食べてほしいっす」
     もう少し声張れよと思わなくもないのだが、主張できるようになったのは前進だ。わかった、と返事をするとネロは振り向いた。視線を宙に彷徨わせてからへろっと綻ぶように笑う。滅多に表情が動かなかったやつがこうやって素直に感情を零すのを見るたび、無性に抱きしめてやりたくなる。
    「野菜は形がなくなるまで煮込んでおけよ」
     一瞬のうちに視線が冷たくなった。ネロはブラッドリーを睨みつけると、さっさと仕込みに戻ってしまった。こういう生意気な顔するのもいいよな、と密かにブラッドリーは思う。
     トトトト、と一定の速度を保ちながら切る音の穏やかさは、不思議と退屈を嫌うブラッドリーの胸に深く吸い込まれていく。てきぱきと厨房を動き回るネロが発する音は、いつだって優しく鼓膜を揺らすのだった。
     いまいち冴えない気分のときでも、ここでぼんやりしていると細胞がまっさらに生まれ変わる感じがする。このところ、狙っていた獲物を逃したり船員同士が女を取り合って大怪我をしたりと、つまらないことが続いていた。鬱々として錆びつきかけていた心臓が洗われる。
     枯れてひび割れそうになっていた大地に雨が染みるような、積もった雪が春の陽射しにゆっくり溶けていくような。これまで熾烈な生き方をしてきたブラッドリーには馴染みの薄い平穏さで、その長閑さに戸惑わないこともなかったが、どういうわけか気に入ってしまった。それですっかり調理場に居着くようになって、ネロはほんの少し困った顔をするけれど、嫌というわけではなさそうなのでそのままにしている。
     こんなの見てて楽しいすか、と前に控えめに訊ねてきたときに、楽しいに決まってんだろ、と返して以来ネロはもう何も言わなくなっていた。キャプテンは変だよ。ブラッドリーのお下がりの、ややサイズが大きいシャツの袖をいじりながらネロは零した。
     照れ臭さを誤魔化そうとして幾分か反抗的な口調だった。そのくせちょっとだけ嬉しげで、あまりにも雄弁な表情に思わず笑いそうになった。難解で複雑なようでいて、素直でわかりやすいところもある。乱暴にひと言で纏めるなら可愛げがあるに尽きるのだが、うまく言えないだけでもっと形容するに相応しい言葉はあるのだろう。とにかくブラッドリーはネロを気に入っている。そういう話だ。
    「あ」
     捲ってた袖が落ちてきて、ネロは小さく声を洩らした。少しずり下がった程度とはいえ気になるだろう。そう思って代わりに整えてやると、はにかんだようにネロはすみませんと言った。
     謝ることかよという意味を込めて雑にくしゃりと薄青の髪をかき混ぜる。微かに居心地悪そうに身を固くしつつも、目を伏せたネロの表情は柔らかい。やっと俺に慣れてきたなと思う。ブラッドリーに構われるたび驚いたり、びくびくとこちらの様子を窺うように見上げてきた頃を思うと感慨深い。
     大人しくされるがままになっているのをいいことに好き放題に触れ続けた。髪を梳くように撫で、そのままてのひらを滑らせるようにして頬をなぞる。すっきりとした首筋から顎のラインまで。形を確かめるみたいに耳の輪郭に指先を走らせる。
     あの、キャプテン、とネロが困り果てたような微かな声で呼ぶ。こういうところが駄目だった。やめさせたいならもっと堂々とした態度で、きっぱりと押しのけるくらいはするべきなのだ。
     閉じ込められて育ったものだから、ネロは歳のわりに無垢で幼い。あらゆる人生経験が足りていないこいつにそれを求めるのは酷だろうが、でも、できないのならブラッドリーはやめてやるつもりがなかった。
     ブラッドリーにネロへの態度を改めるよう諫言するやつらからすれば、この強引さが不安なのだろう。多少は案じる気持ちもわからなくもないのだが、何も酷いことをしようとしてるわけじゃねえだろうが、とやはり納得がいかない。「可愛いならもっと待ってやれ」と「十分すぎるほど待ってる」を一部の船員とブラッドリーはしばしば言い合っている。本人の与り知らないところで。
     大人しくしていたネロがやんわりと手を掴んできた。そっと押し返されてほんの少しつまらない気分になる。拘束してきた手を逆に捕まえて指を絡めるように握り締めれば、ネロは眉を下げた。
    「触りすぎ……」
     飯作れないんすけど、と呟くネロの、空色の髪のあいだから覗く耳が赤い。それに気づいた瞬間、ネロの顎を持ち上げてキスをしていた。
    「う、……っン」
     逃げようとするので後頭部に手を回して固定する。噛みつくように角度を変えて口づけて、引き結ばれていた唇を半ば強引にこじ開けた。舌を吸うとネロは小さく震えた。強張った全身から混乱が伝わってくる。
     そういや子供染みたキスは何度かしたが、これは初めてだったか、と思う。息を止めている気配がしたので一旦離れてやると、ネロは顔を真っ赤にしてじりじり後退った。
    「な、……んすか、いまの」
    「あ? キスだよ、何回かしてるだろ」
    「だって、いつものやつはこう、唇くっつけるだけじゃないすか」
     あんまりまっすぐ狼狽えるのがなんとなく堪らない心地がして、ネロが後退した分の距離をあっという間に詰める。ぎょっとしたようにまた後ろに下がろうとするので抱き寄せた。往生際悪く身を捩るネロと視線を合わせ、ブラッドリーは口を開いた。
    「俺が嫌いか?」
     慌てて首を横に振るのがいじらしくて、何か言おうとしていたのを無視して口づける。ネロが言う「いつものやつ」だ。「う」と小さく声を零したネロは、困ったようにブラッドリーを見上げた。
    「……キャプテンは」
    「ん?」
    「これが好きなんすか」
     何とも言えない微妙にずれた質問だった。どう答えたものかと考えつつ、「そうだっつったら?」と訊ね返す。するとネロはうろうろと足元に視線を彷徨わさせ、ぽつりと言った。
    「じゃあ、あの……頑張ります」
     神妙な面持ちでそんなことを口にするので、思わず笑ってしまった。むっとするのがわかって表情を引き締めようとはしたのだが、どうにも上手くいかない。
    「頑張らねえとできねえのかよ、この俺様相手に。贅沢な野郎だな」
    「だって、なんかこれ、変……? っていうか」距離を取りたそうにネロはブラッドリーの胸を両手で押した。「合ってんのかな、って」
    「合ってるって?」
     ネロはしっくりくる言葉が見当たらないのか、宙を見つめて首を捻っている。何が言いたいのか一応は想像がついた。要するに「なんで俺?」と困惑しているのだ。あんたならもっと他にいろんな選択肢があるのに、わざわざ俺を選んで構うのがわからない。恐らくネロが言いたいのはそんなところだろう。
    「ま、さっさと慣れろよ」
     揶揄うように頭を撫でると、だから触りすぎだって、とネロは拗ねたようにブラッドリーの手を払おうとした。その手首をぐっと掴んで顔を覗き込む。
    「この程度で狼狽えててどうする。てめえの頭のてっぺんからつま先まで、ぜんぶ俺のものなんだ。恥ずかしがろうが何を言おうが、俺は俺の好きなように触るぜ」
     呆然としているネロにそっと口づけてから告げる。
    「俺のやり方に慣れろ。てめえのペースに合わせてたらじじいになっちまう」
     きっと途方に暮れた顔をするのだろうと思ったが、ネロは目を丸くした。夕焼けを閉じ込めた瞳が明るくきらめく。
    「どうした」
     とブラッドリーが訊ねると、
    「じいさんになってもあんたといられるんだな、って」
     とネロは答えた。
     ここまで無邪気に嬉しそうな顔をされると、さすがに後ろめたいような気分になる。ブラッドリーは溜息を堪えてネロを抱きしめ、そうだよ、と言った。

         ◯

    6.ラヴ・ミー・テンダー

     ここ最近のことはすべて夢みたいだ。
     幸福がどういうものかよくわからなかったけど、きっとこれがそうなんだろうな、と一応はネロも理解した。あんまり自分に都合がよすぎて、いつかどこかでやっぱり嘘だったと言われてしまう気がする。だってずっと地に足がついていない。妙な浮遊感に包まれてぼんやりするうち一日が終わり、そしてまた始まるのだ。なんてことない普通の日々の、その端から端までをネロは好きで堪らない。
     綺麗なものや凄いもの。めずらしいもの。優しい仲間。得意なこと。延々と眺めていても飽きない特別なひと。
     そういうものだけに囲まれているせいで、かえってネロは微かに憂鬱だった。前までは何も持っていなかったので、ある意味ではとても気楽だったのだ。今は失くしたくないものだらけで両手が塞がっている。
     一度は役目を果たさなくてはと何もかも諦めようとしたが、次はもうできる気がしない。頑張っても頑張っても手放せない。世界の行く末とネロとを天秤にかけ、当然のようにネロを選んだ男の影響に違いなかった。これまでは相当、我慢強い方だったのに。随分と欲深くなってしまったと思う。
     あれがしたいこれがしたいとつい何かを望むたび、こんなに幸せなのにまだ欲しがるのかとネロは自分自身に呆れる。だけど『能なし』なんかを手に入れたがった船長は、ネロに染みついた無欲さが崩れるほど嬉しそうにするのだった。本当に変なやつ。内心そう思っていると、顔に出てるぞ、と軽く小突かれる。俺って結構わかりやすいのかなと首を捻れば、それも出てるぜ、と可笑しそうに髪をぐしゃりとかき混ぜられるのだった。
    「こんなのは別に大したことじゃねえよ」
     ブラッドリーはネロに時折言い聞かせた。
    「何でも嬉しそうに受け取るのは無邪気でいいけどな。てめえにはまだまだこの先、見せたいものも与えたいものも幾らでもあるんだ。いちいち驚いてちゃ心臓がもたねえだろうが」
     お下がりの上等なシャツの袖を引っ張りながら、大したことじゃない、とネロは呟く。ネロには少しサイズが大きくて、新入りが着せてもらうには分不相応なほどの高級品。
     他の船員が身につけているような、簡素な装飾のものでいいとやんわり訴えたこともある。でもブラッドリーは頑として譲らなかったし、周囲も「似合ってるし貰っておけ」と言うだけだった。後から来たやつが、それも何のギフトもなくなってしまった自分が受けるに相応しい扱いとは思えなかった。こんなに嬉しくて、夢みたいなことが? これが当たり前なんてことがあり得るのか?
    「……もたなくてもいいっす」
    「あ?」
     思わずたじろぐほど低い声だった。底冷えするような眼差しに指先が強張る。何が気に入らなかったのだろう。
     ブラッドリーは普段、世間知らず故のネロのずれた言動に怒ることはない。からっとした笑い方をして簡潔に世の常識を教えてくれる。こうも殺気立った顔を向けられるのは初めてのことだ。続けろと目で催促されて、ネロは恐る恐る口を開く。
    「あとから全部、取り上げられるくらいなら……俺は今が一番幸せだから、今のうちにくたばった方がいいかもなって」
     国の一つや二つ滅ぼしかねない目つきをしていたブラッドリーは、途端に脱力したように溜息を吐いた。しょうがねえなあと言いたげな顔でネロを見つめる。
    「誰がてめえから取り上げるって?」
    「誰が、ってわけじゃ、ないすけど……」ネロは視線を逸らしてぼそぼそと言った。「なんていうか、未だに現実だって信じらんねえから」
     そんなに不安なら頬でも抓ってみろとブラッドリーは投げやりに口にする。呆れたような、どこか拗ねたような口調だった。頬を? なんで? と思いつつ、言われるままぎゅっと抓ったネロを見て、本当にやるやつがあるかよ、とブラッドリーは笑うのだった。
     あまりにも笑われるので複雑ではあるけれど、機嫌が直ったのはよかった。むくれるブラッドリーの扱いは少し難しいのだ。あらゆる経験が足りていないネロの手には余る。だから内心ほっとした。
     しかし安堵したのも束の間のこと。ブラッドリーは楽しげにネロの薄青の髪にするりと梳くように触れ、自然な調子で輪郭に手を滑らせた。あ、とピンときた直後には、顎を持ち上げられていた。
     ルビーレッドの瞳に映り込む自分の姿を信じられない思いで眺める。そこに仕舞うべきなのは、もっと素晴らしくて、唯一無二の価値を有するものであるべきなのに。
     ネロがぎくしゃくと目を瞑ると、すぐさま唇が重ねられた。幸福すぎるほどに幸福な新しい生活において、悩んでいることなんてこれくらいのものだ。ブラッドリーが頻繁にしたがるこれの意味が、ネロにはいまいちわからない。決して嫌ではないのだけど。

     仮にも海賊と海軍という立場。ここまで堂々と交流を続けていいのだろうか、とネロはたまに悩む。気にしているのがどうやら自分だけらしいのが余計に心細いのだった。
     死の海賊団船長のブラッドリーとフォルモーント・ネービー大将であるムルの両者が全く構わないので、まあ大丈夫なのだろうということにしている。一応。
     ネロが正式に海賊団に所属するようになってからも、定期的にかつての住処の者たちと顔を合わせることを許されているのだ。もうこれっきりの覚悟で去ったので、肩透かしを食らった気分だが嬉しいには嬉しい。
     軍からすればネロにもはや価値はない。だからネロがふとした拍子にあの船に隠されてきた日々を思い出すことはあっても、彼らは綺麗さっぱり忘れてしまうだろうと思っていた。それがまさかこうなるとは。「我のとっておきじゃ」とホワイトがウィンクをして香りのいい紅茶を淹れる。「ネロも好きだと思うんだ」とヒースクリフがいそいそとお気に入りのサブレを出す。訪ねるたび歓迎されるので、不思議な心地になる。
     ネロがこの先生きていく場所はブラッドリーの側だと確信しているし、あそこが自分の家だと思う。でもネロ・ターナーにとってここは所謂、実家というものなのかもしれない。そんな考えが唐突に、頭の片隅に降ってきたのだ。
     ムルにそれを小声で打ち明けると、いつもと変わらない猫のような笑みを向けられた。なんか恥ずかしいこと言ったかも、とネロが慌てて取り消そうとしたところ、ムルは普段より幾分か目尻を和らげた。「俺の息子だからね」。さらりと言ってのけてから、ネロの頬を両手で挟んで顔を覗き込んでくる。それで声をぐっと潜めて「海賊が嫌になったらいつでも帰っておいで」と囁くのだった。
     妙にどぎまぎしてろくな返事をできなかった。ネロの人生には縁のなかった、物語のなかでしか見たことのない存在。保護されていたときには特に思わなかったのに、今になって初めて父親みたいだなと思った。照れてる、と揶揄われてその話は有耶無耶になって、追及されなくてよかったとも感じたけど、もっとちゃんと言いたかったと悔やむ気持ちもある。冗談みたいな言い方をしていたけど、ムルは本気だった。もしネロが本当に帰ってきたら、「おかえり!」と笑って迎え入れてくれるつもりでいるのだ。いつでも帰ってきていい、と本気で思ってくれている。戻るつもりは今のところないけど、それでもこうしてずっと気に掛けられているのは、照れ臭くはあるものの素直に嬉しかった。
     そんなふうにして一定の間隔でムルたちと会っていたのだが、ここのところばたばた慌ただしく過ごしていて、なかなか軍に顔を出せなかった。
     船員同士が揉めたり、あと一歩のところで財宝を逃したり、なんとなく船全体にどんよりとした空気が充満する。冴えないムードをきっぱり打開してみせるのは新人のネロには困難だった。それでも何かしようとあれこれ頑張っていたところ、前回の訪問から日が経っていたのだ。しばらく会っていないなとようやく思い至った頃、船内が騒然としたのである。
     トラブルだろうかと首を傾げていると、先輩たちが大慌てでネロを呼ぶ。状況がわからず混乱していたら「やあネロ」と明るい声がしてぎょっとした。ムルだ。「仕事は?」「たくさんあるよ!」「大丈夫なのか?」「大丈夫なんじゃない?」と不安が募る会話を交わしていたら部下たちもやってきた。
     即座にこの困った上司を連れ戻そうとするに違いない。そんなネロの予測に反し、合流したホワイトとヒースクリフは、連れ戻すどころかにこにことネロに手土産を両手いっぱい持たせてくる。元気にしていたか。困っていることはないか。軍を訪ねるたび必ず訊かれることを、このときも訊かれた。
     心配して顔を見にきてくれたのだとわかって嬉しかった。嬉しかったのだが、何故かなかなか帰ろうとしない。元気な姿も見せたし、もう目的は果たしているだろうに。
     船長が不在にしているタイミングで突撃訪問してきた海軍に対し、他の船員たちが困惑しているのがひしひしと伝わってくる。ネロの客なので追い返そうとはしないが、居心地は大層悪そうだ。どうしたものかとネロは内心焦った。もう少し話したかったけど、別の機会にするべきかもしれない。この船に招くなら、せめてブラッドリーがいる日にした方がいいだろう。あるいはこれまで通り、ネロが彼らを訪ねればいい。
     しかし困惑気味の海賊たちを余所に、三人はネロの話をいつものように聞きたがる。代わる代わる口を開くが内容は大体が同じこと。ネロがここ最近で経験したことや新しく覚えたもの、今気になっているもの、取り留めのない話をしたがるのだった。
     密かに意外に感じたのが、ヒースクリフの態度だ。
     ネロが海軍の保護下に置かれていた頃から、慎重で真面目な性分であるのはなんとなくわかっていた。人に気を遣いすぎる、優しく繊細なところがある。宝珠の子に対する後ろめたさや、本当にこれしかないのかと藻搔く気配がいつもブルーの瞳から漂っていて、いいやつなんだろうな、とはずっと思っていた。
     そういうやつなので、自由奔放な上司たちをやんわり止めると思っていたのだ。が、ヒースクリフは積極的に会話に参加してネロと話そうとする。何でもない話にも楽しげに相槌を打ってくれるので、なかなか会話を打ち切る気になれない。
     ヒースはそなたを弟のようにも兄のようにも思っておるからの、と以前ホワイトに耳打ちされたのを思い出す。知らないことだらけでぼんやりと無防備なところをはらはら案じられている一方、なんとなく懐かれているような気も微かにしていた。でもそんなのは思い上がりだと思っていたので驚愕し、それからじわじわ照れ臭くなったのを覚えている。俺みたいなやつの、一体どこが気に入ったんだか。
     あのときの感情が鮮やかに甦って、ネロは顔に力を込めた。おまえは何でも顔に出るとブラッドリーによく指摘されるのだ。絶対に隠したくて頑張ったところ、体調が悪いのでは、と余計な心配をさせてしまった。
     必死に大丈夫だと言い張っていたら、外出していたブラッドリーが戻ってきた。めずらしい客人の姿に片眉を上げ、軽いトーンで「用件は何だ」と訊ねる。
     ムルが朗らかに「息子に会いに」と答えると、ブラッドリーはちらっと笑った。すぐに部下に命じてテーブルを用意させ、ネロに向き直る。厨房のある方向を顎で示されてはっとした。弾かれたようにその場を飛び出す。船内を駆けながら思う。やっぱりあのひとが好きだな。好きにならずにいられるやつがいるのかな。
     それ以来、ネロが海軍を訪ねるだけでなく、ムルたちがネロの元にやってくることも増えていった。ブラッドリーは何も言わなかったが、恐らくブラッドリーが働きかけてくれたのだろうなと、それくらいはネロにもわかった。
     どういう顔をしたらいいのか悩んでいると、もう少し嬉しそうにできねえのかてめえは、と呆れたように頭を撫でてくるのだった。嬉しそうな顔はいまいちできてないのだとしても、ちゃんと嬉しいとは思っている。ネロがむきになってそんな内容のことを言い返すと、ブラッドリーは目を丸くした。
     それから妙に機嫌のよさそうな表情になって、当たり前のように口づけてくるからネロは混乱する。もう何回もこんなことをしているのに、ちっとも慣れる気がしない。ようやく解放されて熱を逃がすように熱い耳を引っ張っていると、何がよかったのかあるいは悪かったのか、ブラッドリーは再び唇を重ねてきた。思わず小さく震えると微かに笑う気配がして、直後には舌を甘く噛まれていた。
     これは何なんだろう。ネロは途方に暮れながら思う。ずっとずっとこのことだけは本当にわからない。
     行為自体は一応知っているのだ。読み書きができるようになったので、ルチルが勧める小説を最近は少しずつ読んでいる。そのなかに時折これは出てきた。キスと呼ばれるもので、物語のなかでは恋人たちが交わしていた。どうやら愛情表現の一つらしい。
     ネロがわからないのは何故それをブラッドリーが自分にしようとするのかというその一点だった。ひょっとするとネロが知らないだけで、仲間や部下、友人にもするものなのだろうか。今度ムルたちに会ったとき、それとなく訊ねてみようと思った。

     大変なことになってしまった。
     ネロは二人の追及にしどろもどろに答えながら小さくなっていた。
     自分の話だと気取られるのは恥ずかしいのであくまでもさりげなく、一つの話題として取り上げるつもりではいたのだ。しかし上手く誤魔化す術をろくに身につけていないネロは、ほとんど直球で問いを投げかけてしまっていた。一応は親のような立場であるムルが席を外した隙に、あのさ、と意を決して口を開いたのだ。
    「ホワイトとヒースって、キスしたりする? 仕事仲間とか……部下とそういうことってするもん?」
     瞬時にホワイトもヒースクリフも絶句したので、あ、結構まずいこと言ったかも、と悟った。
     なんでもない、と急いで打ち消そうとしたのだが、そうさせてくれるはずもなく、矢継ぎ早に問い詰められてネロは大いに狼狽えた。取り繕うこともできずに、すっかり洗いざらい話してしまった。ホワイトは「スノウに見張らせるべきじゃった」と頭を抱えているし、ヒースクリフはその繊細な美貌に青白い怒りと困惑を浮かべている。
    「なになに、問題発生?」
     呑気な調子で椅子に座ったムルの耳元で、ホワイトがぼそぼそと囁く。ムルは二人の部下ほど激しい反応は見せなかった。微かに目を見開いてから、何かを確かめるようにネロをじっと見据える。
    「それじゃあ、行こうか!」
    「え? どこに?」
     ぽかんとするネロにムルは片目を瞑ってみせた。「もちろんブラッドリーのところだよ」と言うや否やさっさと行ってしまうので、慌てて追いかけた。
     どうして急にそんな、と戸惑い、ホワイトとヒースクリフに視線で助けを求める。いつもならどちらかが、あるいは両方が助け舟を出してくれるのだが、今日は苦い表情を向けられるだけだった。
    「……一度ネロを連れて帰った方がいいのではないでしょうか。まさかこんな……」
     ヒースクリフが小声でホワイトに進言するのを耳にして、ネロは愕然とした。ホワイトが何やら宥めているが、衝撃のあまりその後の会話は全く聞き取れなかった。
     自分はどうやら、よっぽど取り返しのつかない失敗をしてしまったらしい。優しいヒースクリフはどういうわけか随分と腹を立てていて、ホワイトは何故か困り果てている。もうあの船に帰れないのかもしれないと思うと胸が冷えた。他のことは大概我慢できるけど、それだけはどうしても嫌だった。
     船が見えるとほっとした。風を受けて翻る海賊旗を見上げ、やっぱりここにいたいなと思う。慣れた様子で海賊船に乗り込んでいく海軍に続き、ネロも重い体を引き摺るようにしてついていく。
    「ネロ」
     声がした瞬間走っていた。さっきまで全身が鉛のようだったのに、不思議と走れていた。なんだよ、と驚いているブラッドリーの背後に隠れ、ネロは口を開く。
    「俺、帰んねえから。絶対」焦るあまりきつい口調になったのを恥じつつ、ネロは続けた。「……あんたたちと話すの好きだよ。これからもできれば会ってほしいし、俺の飯もたまには食べてほしいけど……」
    「待て待て、何の話だ」
     ブラッドリーはネロを背中に庇ったまま、溜息混じりに問うた。
    「帰るって?」
     目線の先にはムルがいる。事の経緯はこの男から聞き出すと決めたらしい。ムルは顎に人差し指を当て、首を傾げた。わざとらしいのに妙に無邪気な印象を与える仕草だった。
    「うーん……簡潔に言うと、ブラッドリーが俺の息子にいろいろしてるみたいだから、『連れて帰った方がいいかも?』っていま審議中!」
    「いろいろはしてねえよ」
     しとるじゃろ、とすかさずホワイトが突っ込むと、だからいろいろではねえよ、とブラッドリーは顔を顰めた。しばらく口を噤んでいたヒースクリフもついに遠慮がちにものを言うようになり、さほど雰囲気は悪くないが全員がそこそこ大きな声で言い合うようになっている。
     ネロは会話についていけず黙っていたのだが、ブラッドリーに有利になるようなことを言うべきじゃないのかと思って「あの」と口を挟んだ。自分の発言のどれかが誤解を招いたのなら、自分で片をつけるべきだと思ったのだ。
    「いろいろしてくれてるよ、キャプテンは」
    「ネロ、いい子だから黙ってろ。ややこしくなる」
     自分の背中から顔を出したネロをすぐに隠すと、ブラッドリーは再びムルたちを睨みつけた。
    「そもそもてめえらがちゃんと教育してねえからこんなしち面倒なことになってんだろうが」
    「これ、責任転嫁するでない」
    「あ? どっちがだよ」
     ネロを置き去りにしてネロのことで海賊と海軍はひたすら互いを責め立てる。言い合ってはいるが殺伐としているわけではないのがまだ救いかもしれない。居た堪れない気持ちで俯いていると、不意にムルが「ネロ」と呼んだ。
    「ネロはここにいたい?」
     ムルが問うた瞬間、ブラッドリーがネロを見つめた。その若干不機嫌そうな目を見つめ返しながらネロは「うん」と頷く。ブラッドリーはぐったりとした様子で溜息を吐いて、ネロの頬に唇を押し当てた。

         ◯

    ワンダーランド 

     何か欲しいものはないかと訊かれた。あまり高価なものや、めずらしいものは、あげられそうにねえけど。申し訳なさそうにネロはそう付け加えた。
    「……何にもなかったら、せめて、あんたの好物でも作らせてくんない?」
    「うーん……」頬杖をついてじっとシトリンの瞳を見つめて、ムルは小さく頷く。「ちょっと待ってね、考えてみる」
     この子の無垢な心に触れるたび新鮮な驚きがある。ネロはムルを恨むどころか、恩義を感じているのだ。「世界のために犠牲になれ」と海軍に自由を奪われてきたのに。
     過去の記録を読む限り、ネロのような宝珠の子は異端だった。大概は自分の運命を嘆き、怒り、自分を閉じ込める軍人たちに殴りかかったり罵ったりと、扱いに酷く手を焼いたと記されている。どんな言葉をぶつけられても、怪我を負うことがあっても、やり返して万が一死なせてしまうわけにはいかない。それを理解しているから、宝珠の子の多くが役目の日が来るまで海軍の者たちに散々当たり散らしたそうだ。おまえを呪ってやる。恨んでやる。そう吐き捨てて海の底へ向かったやつも一人や二人ではなかったし、その呪詛に囚われて心を病んだ軍人も一人や二人では済まなかった。
     ムルが宝珠の子を直々に担当したのはネロが始めてだったので、どんな尊大な態度をとってくるかと楽しみにしていたのだ。だから思いきり肩透かしを食らった気分だった。大人しく、静かで、反抗するそぶりもない。食べて寝るだけの生活をすんなりと受け入れて、ぼんやりと過ごしている。その眼差しで悟った。自分が暴れて嫌がったところで周囲を困らせるだけで、役目から逃れられるわけではない。まだ子供だった頃から、ネロは自分のことを諦めてしまっていた。まだ生きているけど、もう死んでいる。
     気まぐれにネロの部屋を訪ねるときは、いつでも微かに期待していた。きらめきを失ったあの子の魂がもう一度、息を吹き返す奇跡を。
    「ないなら、ないでいいって」沈黙が居た堪れなかったのか、ネロは空色の髪をいじりながら呟いた。「言ってみただけ。あんたの立場なら大体のものは手に入るだろうし……」
    「そんなことないよ! ネロから貰いたいものはもう思いついてる。今はただネロのことを見てたいだけ」
    「ええ……? それ楽しい?」
    「すっごく楽しい!」
     じゃあいいけど、と照れ臭そうに俯くネロに微笑んで、ムルは思う。幼い頃にネロを奴隷商人から買い取ったのは、軍が血眼で捜していた青い紋章のスクアーマだったから。海軍は別にすべての奴隷を解放するわけではない。ネロには価値があった。だからあの地獄から救い出されたのだ。
    (救い出された、か)
     寧ろ、自分たちが救われるためにネロは海軍に求められたのだ。すべてこちらの都合に過ぎない。枷で繋がれる先が商人から海軍に移っただけのこと。もちろん、待遇はこれまでと比較すればずっとましだっただろう。清潔で安全で、飢えることもなく、痛めつけてくる者もいない。でもやっぱり、ネロはムルや海軍に感謝する必要があるとは思えなかった。ほとんどの連中が自分自身のことしか考えていなかったし、ネロの行く末を案じていたのは数えるほど。例えばそう、ヒースクリフなんかはずっと胸を痛めていた。ホワイトも幾らか気に掛けていたと記憶している。
     じゃあおまえはどうなんだと訊かれたら、ムルは取り繕うことなく恋のためと答える。すべて自分の恋を守るためだった。愛しのウンディーネ。きみの血を引く者たちを、今度こそ。奴隷商人を丸め込んであっという間に交渉を成立させ、幼いネロに手を差し伸べながら誓った。今度こそ、守ってみせるよ。
    「ねえ、ネロ」
    「ん?」
     別に内緒話でもないのだけど、わざと耳元に口を寄せて囁いた。よっぽど予想外だったのか、ネロは目を丸くしている。
    「そんなのでいいのか? まだ練習中だから、かなり不恰好になっちまうと思うけど……」
    「それがいいのさ。古いものから並べたとき、きみの成長がよくわかる」
     自分の口から零れた言葉に、おや、と思う。今のはかなり、父親らしい台詞だったような気がする。手元に置いていた頃に比べれば、随分と情が湧いていたのかもしれない。ムルに対してだけは殊更厳しい友人に聞かせれば、その程度で父親になれたと思い上がらないように、と釘を刺されるだろうけど。

     今朝届いた手紙を読みながら、ムルは部下の淹れたコーヒーを飲む。書いてあることは基本的にいつも同じ。大半はあの子が好きで好きで堪らない人物のことを中心に綴られている。こんなことを新しく教えてもらった、とか。こういうものを貰った、とか。ここで素晴らしい景色を見た、とか。あとはたまに、野菜を食べようとしないところが嫌い、とか。
     嫌いだって、と思わずムルは笑ってしまう。生きているけど死んでいるような目をしていた子が、こんなことを言うようになるなんて。きみに奇跡は起こった。会うたびに魂の輝きが増している。何もかもを諦めていたきみの手を乱暴に掴んで、海の底から強引に連れ戻したやつの影響だ。人形みたいだったあの子はもういない。
     それにしても子供の書き取り練習のようだったのが嘘のように、滑らかな文字を書くようになった。ネロの教育はすべて船長が自ら行っているというのだから、大したものだと思う。大事にされているなんてものではない。そんな言葉では足りない。新人教育の件だけならそういう気まぐれを起こすこともあるかもねと考えた。だけど違う。だってあの男は、世界なんかあっさり見捨ててネロを選んだ。
     ヒースクリフやホワイトは、彼が些か手を出すのが早いきらいがあるため警戒しているけど、ムルは案外、ネロの初恋を応援してあげてもいいかなと思っている。天秤にかけることすらしない潔さはよかった。恋はそうでなくては。世界を滅ぼすにふさわしい、それだけの価値があると信じられるものでなければならない。その一点で、ムルは彼にネロを任せておくつもりでいる。今のところは一応。
     便箋を取り出して、ムルはすらすらと返事を書き始める。書きながら思う。ネロ、きみの人生はこれからだ。ようやく始まったばかりだ。今は何もかもが鮮やかに見えて楽しいかもしれない。それでいい。思い詰めた顔をして日々を深刻に生きるより、明るく愉快で騒がしい生き方の方が個人的には断然好みだ。だけどこの先、途轍もない悲しみや苦しみもついて回るだろう。そこから逃れるには、船から降りるしかないよ。きみが恋をしているのは、きみにとって危険人物だ。平和や安心より、スリルを求めて駆けていく。その隣で走る覚悟を決めるのは、そう容易いものじゃない。
     つらかったら、いつでも帰っておいで。手紙に封をしてムルは祈る。でも、できればきみの恋がいつまでも優しいものでありますように。

         ◯

    7. 支離滅裂に愛し愛されようじゃないか

     呼び掛けても呼び掛けても返事はない。人混みのあいだをするりと通り抜けて、一人で足早に歩いていく。以前は人や物にぶつかってばかりいたのに、ネロはもうすっかり街の歩き方を覚えたようだ。長いこと閉じ込められて育ったとは思えないほど、当たり前のように景色に馴染んでいる。
    「おい、ネロ。そんな拗ねんなって」
    「拗ねてない」
     振り返りもせずネロは言い返してくる。どこからどう見ても拗ねてるだろと言いたくなったが、指摘すればますます機嫌を損ねるのはわかりきっていた。
     経緯はこうだ。
     ネロが海軍に顔を出すというので送り出したのが三日前。事前に泊まってもいいかと訊かれて承知したので、その日の晩には帰らないとブラッドリーもわかっていた。が、翌日も、翌々日も帰ってこなかったので、どういうことだと戸惑った。確かに、一泊したらすぐに帰るとはひと言も言っていない。でもあいつは夜が明けた頃にはもうこの船に戻っていると思っていた。まさかしばらく滞在するつもりなのだろうか。船員たちは「たまには実家で寛がせてやればいいじゃないすか」だの「あんたが普段すぐに割り込むから、積もる話もあるんでしょうよ」だの、呆れ顔で宥めてくる。積もる話だと? 手紙のやりとりをあれだけ頻繁にしておいて、それでもまだ足りないのか。
     元来、ブラッドリーは気が短いのだ。三日目にはもう苛々してきた。テーブルをこつこつと指先で叩いていたら、ルチルが優しく笑って提案した。「お迎えに行ってあげたらどうですか? もしかしたら、帰るタイミングがわからなくなって、困っているのかもしれないですし」と。
     それもそうだな、と納得したブラッドリーは、一直線で海軍の施設に向かった。一人で堂々と乗り込んできたブラッドリーを見て、ムルは腹を抱えて笑った。ヒースクリフはお茶会が中断されて残念そうに俯き、ホワイトは呆れたような視線を寄越してくる。お迎えが来ちゃったなら仕方ないね、またいつでもおいで、とムルたちに玄関まで見送られてネロと出てきたわけだが、それ以降、ネロが口を利かない。正確には、一人で帰れるのに、と呟いてからずっとだんまりだ。
    「おっ」
     分厚い歴史書から軽い読み物までずらりと並んだ露店を見つけて、しめた、とブラッドリーは一人密かに笑う。読み書きを覚えたネロは、近頃は暇な時間に読書を楽しむようになっていた。最初はルチルに勧められるものにしか手を出さなかったが、徐々に自分の好みがわかってきたようで、ネロ自ら書籍を選ぶことも増えている。ブラッドリーは駆け寄ってネロの腰を抱くと、強引に方向転換させた。
    「見ろよ、ネロ。なかなかの品揃えだぜ」
     おおらかな雰囲気の露天商はにっこりと笑った。気になるものは試し読みしてくれて構わんよ、と積み上げられた自慢の品々を示してくる。礼を言ってネロの様子を窺うと、思った通りだ。まだブラッドリーに対して不機嫌な表情を保っていたいのに、目の前の本の山から視線が外せなくなっていた。唇を真一文字に引き結んで堪えているものの、眼差しは正直だった。必死に興味のないふりをしているが、ちらちらと端から順に表紙を眺めて、手に取りたそうにしている。
    「……あ」
     しまった、という顔をしてネロは慌てて口を噤むけど、ブラッドリーはそっと目を覗き込んだ。どうした、と優しく問うてやると、ネロは観念したように、おずおずと一冊の小説を指差した。作家の名前には見覚えがある。さして文学に明るくないブラッドリーでも知っているくらいなので、よほど有名なのだろう。他の作家の作品より、店頭に揃えてある数が多い。
     ネロが示したのは、上下巻ものの小説の下巻だった。上巻を探したのだが、売り切れてしまったのだろうか。どこにも見当たらないので、仕方なく下巻を手に取った。
    「なあ、親父。この上巻は置いてねえのか」
    「いやあ、すまんね」露天商は申し訳なさそうに頭を掻いた。「人気作家の最新作でなあ……ついさっき、最後の一冊が持っていかれちまったんだよ」
     そうか、と頷いて、ブラッドリーは考えた。下巻だけ購入してやったところですぐには読めないし、上巻が入手できるまでずっと本棚に眠らせておくことになる。できれば揃えて与えてやりたいが、この大通りでは恐らくここが一番品揃えがいい。そうなると、余所の店をあちこち見て回っても結果は同じだろう。
    「あの、キャプテン……」
    「ん?」袖を引いてくるネロに視線を移す。「ああ、これか。下巻だけとりあえず買っておくか?」
     ルチルに訊けば、大通りから外れた細道でひっそりと本を売っているところも知っているかもしれない。案外そういうところにこそ掘り出し物があるものだ。上手くいけば上巻もすんなり手に入れられるだろう。
    「俺、上巻はもう持ってます」軍の施設を出る前に持たされていた紙袋をごそごそと探り、ネロは真新しい小説を見せてきた。「ムルがくれたんだ。最近、本を読むようになったって言ってたから。気に入ったら下巻も買ってあげるから、って」
     気に入りそうなのか、と訊ねると、まだ少ししか読めてないけど、面白いっす、とネロはあどけない笑顔になる。機嫌が直って何より。しかしまあ、正直なところ、先を越されたようで面白くない。
    「……ふうん」
     ブラッドリーの声のトーンが不機嫌そうに低くなったので、ネロは困惑したように「キャプテン?」と呼んでくる。
    「なんだよ」
    「なんで怒ってるんすか」
    「さっきまで怒ってたのはてめえだろ」露天商に金を払い、下巻をネロに押しつける。「俺は別に怒ってねえよ」
     我ながら大人気ないと思いつつ、ネロを置き去りにしてさっさと歩き始める。人と人の隙間を縫うようにして素早く追いついてきたネロは、大事そうに二冊の小説を抱きしめて眉をひそめた。
    「嘘だ。絶対、怒ってる」
    「ああもう、しつけえな。怒ってねえっつってんだろうが」
    「だって……どう見ても、怒ってんじゃないすか」
     ブラッドリーは足を止め、ネロを見下ろした。麦穂の色をした瞳が不安げに揺れる。
    「怒ってねえ。これ以上、同じこと言わせんなよ」
    「でも、キャプテン……」
     道の真ん中でいつまでも立ち止まっているわけにもいかないので、ブラッドリーはネロを置いて歩き始めた。キャプテン、ともう一度弱々しく呼ばれたけど、ネロはもう街中を一人で悠々と歩けるようになった。放っておいてもあっという間に追いついてくるだろう。先ほどのように。そう思って振り返ってやることもなく人混みをかき分けていくうち、大通りの出口までたどり着いてしまった。
     慌てて踵を返しても、賑やかに行き交う集団のなかにあの空色の髪は見つからない。まさかまだ大通りの中心でぽつんと立ち尽くしているのだろうか。ブラッドリーは来た道を急いで戻ったが、ネロの姿はなかった。一体どこに行った。行く当てなんかねえだろあいつ、と思った直後、「あークソ……」と思わず呻くような声が洩れた。ある。一つだけ。行きたくねえなあと頭を抱えたが、ここで突っ立っていても仕方ない。腹を括ってブラッドリーは走った。

     海軍の施設の門前で見つけて、ネロ、と叫ぶ。びくりと肩を跳ねさせたネロは、あきらかに聞こえているのにブラッドリーの呼び掛けに応じなかった。それどころか門の前に配置されている軍人の背中に隠れやがるので、こいつ、と思わず舌打ちをする。
     一気に距離を詰め、目を白黒させている軍人を押し退けてネロを睨む。頑なに足元に視線を固定しているので、顎を掴んで強引に引き剥がした。てめえの帰る場所はここじゃねえだろ、と怒鳴りつけるつもりだったが、顔を見たらもう何も言えなくなってしまった。ネロがここに引き返したのも無理はない。冷えた頭ではそう思う。突如あんなふうに突き放されれば、途方に暮れるだろう。
    「キャプテン、俺……」やや潤んだ目をしたネロは、心細そうに言った。「俺、何かしましたか? 何が駄目だったのか、考えたんすけど、わかんなくて……」
     船に帰っても、乗せてもらえねえかも、って。心底寂しそうな声で呟くので、罪悪感めいた感情に押し潰されそうになりながら、ネロを抱き寄せた。
    「何もしてねえよ、おまえは。俺が勝手にふて腐れてただけだ。……悪かった」
     ブラッドリーを控えめに抱き返しながら、ネロは不思議そうに目を瞬かせた。
    「ふて腐れてたんすか? なんで?」
    「言わねえ」
     なんで、と重ねて不満そうに煩く問い詰めてくるネロの手を引いて、海軍の施設を後にした。質問の一切をブラッドリーは聞き流し、さっさと自分の船に戻って休むことばかり考えていた。
     ネロはしばらくのあいだ不満そうにしていたが、気がつくとすっかり大人しくなっていた。ちら、と横目で様子を確かめると、ネロの視線は繋がれた手に向けられている。そういえばずっと掴んだままだった。離してほしいのだろうかと思ったが、たまにはいいだろうとそのままにする。ネロは何も言わなかった。だけどもうすぐ船に着くというところになって、指の先だけでそっと握り返してくる感触があった。思わず顔を見ると、かちりと視線が交わる。
    「キャプテン、あの」
     と、ネロが何かを言いかけるのを遮り、唇を重ねた。唇だけでなく、目尻や頬、顔中にキスしたくなってきて、繋いだ手を一旦離して抱きしめる。くすぐったそうに身を捩っていたネロが、意を決したようにブラッドリーに抱きついてくるまではずっとそうしていた。
    「キャプテン、俺、ここにいたい」
    「なんだよ、今更」空色の髪を梳くように撫でながら、ブラッドリーは笑った。「知ってるよ。ここにいろって、俺も言っただろ」
    「うん……」
     でも置いてったじゃん、とネロはほんの少し責めるような口調で呟いた。これに関しては何も言い返せないので、だから悪かったって、とブラッドリーはひたすら謝った。
    「もう置いてかないって、約束してほしい……です」
     めずらしく甘えたことを言うので、いいぜ、約束してやるよ、とブラッドリーは上機嫌で応じ、それからもう一度そっと口づけた。
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    しおん

    DONE芸能人パロ①|人気若手芸人のブは、ある日相方のネに突然解散を告げられる。戻ってくることを信じて一人で仕事をこなしていたところ、何故か相方と思しき人物がアイドルグループの新メンバーとして紹介されていて……?

    含:中央主従(芸人)|縁ある二人(芸人)|同じ視点で見ていた(アイドル)
    再再再解散 日頃の猫背が嘘のように姿勢がよく、やけに真面目な面で切り出すものだから、なるほど次はそのネタでいくのかと思った。惜しくも逃したグランプリの優勝を引き摺っていない。次の目標、新人コンテストに向けてすでに思考を切り替えているようだ。
     やや意外に思ったが、嬉しかった。ブラッドリーの相方は何かと引き摺る性質だ。これまでのこいつならあと二日は落ち込んでいる。いい変化だと密かに喜んだ。
     ネタ決めの際、大まかなテーマはブラッドリーが決めるが、細かく設定を詰めていくのは相方の仕事だった。基本的には。だからコンテストで敗退すると、「俺のネタがいまいちだったから」と無駄にへこたれる。馬鹿馬鹿しい。本当にいまいちだったら採用しない。そもそも、こだわりの強い相方が妥協したものを客の前に出すわけがない。ブラッドリーが「いいじゃねえか」と言ったものであっても、僅かでも引っかかるときは延々と唸って作り直すやつなのだ。
    10709

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    44_mhyk

    SPOILERイベスト読了!ブラネロ妄想込み感想!最高でした。スカーフのエピソードからの今回の…クロエの大きな一歩、そしてクロエを見守り、そっと支えるラスティカの気配。優しくて繊細なヒースと、元気で前向きなルチルがクロエに寄り添うような、素敵なお話でした。

    そして何より、特筆したいのはリケの腕を振り解けないボスですよね…なんだかんだ言いつつ、ちっちゃいの、に甘いボスとても好きです。
    リケが、お勤めを最後まで果たさせるために、なのかもしれませんがブラと最後まで一緒にいたみたいなのがとてもニコニコしました。
    「帰ったらネロにもチョコをあげるんです!」と目をキラキラさせて言っているリケを眩しそうにみて、無造作に頭を撫でて「そうかよ」ってほんの少し柔らかい微笑みを浮かべるブラ。
    そんな表情をみて少し考えてから、きらきら真っ直ぐな目でリケが「ブラッドリーも一緒に渡しましょう!」て言うよね…どきっとしつつ、なんで俺様が、っていうブラに「きっとネロも喜びます。日頃たくさんおいしいものを作ってもらっているのだから、お祭りの夜くらい感謝を伝えてもいいでしょう?」って正論を突きつけるリケいませんか?
    ボス、リケの言葉に背中を押されて、深夜、ネロの部屋に 523