空気のような本の話ー2– 吉田が昔、小説家だった。
しかも三木が定期的に読み返す、気にしていた作家だった。
その事実を知った直後は混乱の極みで、暫く挙動不審だった。
だが一時間で落ち着くと、混乱している場合ではなかったと、三木は吉田の肩を掴んだ。
「吉田さん! もし編集が何か言ってきて困ったとかあれば相談してくださいね! 特に注意する出版社はオータムとかオータムとかオータムとかです!」
「エ!? ヨシダサンノ危機!?」
辞書を片手に本を読んでいたクラージィが顔を上げる。
いつもなら俺一人でというところだが、相手はあのオータム。戦力はあった方がいい。
「クラさん。一緒に吉田さんを守る為、戦いましょう」
「ハイ!」
「なんか大事になってるー! ミキさんはクラさんを煽らない! クラさんは氷で杭つくらないっ! って、いつの間に杭作れるようになったんですか上手ですね畏怖い!」
吉田は早口で言うと深呼吸をして微笑み、自分の肩に乗る三木の手をポンポンと叩いた。
「大丈夫ですよ、三木さん、ありがとうございます」
「本当ですか? 定期的にお願いという名の脅迫とか、くじで旅行券当てたように見せかけてホテルでかんづめにされたとか、会社で隣の席の同僚が実はオータムの刺客だったとかないですか?」
大袈裟ではない。それら全てをやってのけ、しかもそれより上のことをやってのけるのがオータムという出版社だ。
「大丈夫ですって」
吉田はハハハハと笑うと、でも、少し意地の悪い顔をした。
「隣の部屋の仲良しさんがオータムの臨時編集者とかはありますねぇ」
「よし引っ越します」
スマホを取り出せば、吉田がその腕に飛びついてくる。
「待ってー! 嘘だからー! そんな即決で引越し業者の見積もりだそうとしないでー!」
三木が取り上げられない為に腕をあげれば、ぴょんぴょんと吉田が跳ねる。
クラージィが単語を拾い、驚きの声をあげた。
「ミキサン引ッ越ス!?」
「止めないでください! 吉田さんの心の平穏の為です!」
スマホを上にしたまま操作すれば、吉田が腕に飛びついた。だが三木の鍛えられた体幹の前では、木にぶら下がった猿のようになる。
「めっちゃ電話かかってくるやつですよそれ!! あーもうクラさん! スマホ取り上げちゃってください!」
「ハイ!」
吉田がクラージィにGOを出せば、クラージィがコタツを足場にして軽く飛び、妨害しようとした三木の手を軽くいなして、一瞬にしてスマートフォンを奪う。
「あー!」
三木は悲鳴をあげ、クラージィはスマートフォンを取り返されないように隙なく構え、吉田は「冗談にしてもタチが悪すぎましたごめんなさい!」と謝る。
その後、三人とも落ち着きを取り戻した後、三木は吉田に引っ越さないでくださいと念を押され、解散となった。
◯◯◯◯◯
問.B4の160枚の紙の保存方法を答えよ
答え.一枚一枚、透明なチャック袋に入れてから日が当たらず、除湿剤を入れた場所に保管する。
◯◯◯◯◯
臨時とはいえ編集をしたり、親友が漫画家でアシスタントをしたりするので、漫画や小説を作り出す人達の苦悩をそれなりに耳にする。
かけない、思いつかない、売れない、世間に認められない、親や周りが反対している、仕事を辞めるわけにはいかない、身体を壊した、編集と決定的にそりがあわない、等々だ。
——吉田さんはどれだろうか?
商業デビューまでして、筆を折るまで思いつめたのだ。それなりの理由があったに違いない。
——俺が軽率に踏み込んでもよいものか。
それならば本人には聞かず、臨時編集の伝手をつかって調べられないかと考えたが、それは三木が吉田が元作家だと知ったとオータムに気付かれる可能性がある。あの時は冗談半分で吉田の新しい原稿をとか言われたが、今度は冗談が抜ける可能性がある。
臨時編集の仕事はいつでもやめて手を切ってやる気ではいるが、親友のアシスタント業は厳しい。
となれば一番良いのは静観だ。
吉田には何も聞かず、オータムには何も気付いてないふりをする。
吉田の事も、こちらから藪を続かなければ、作家だと気付かなかったのだから。
そう理解はしているのだが、気になってしまう。
三木がどうしようかうんうん悩み、二週間が経ち、部屋でうーんと悩んでいた時、吉田からRiNEのメッセージが届いた。
“肉じゃが作りすぎたので食べませんか?”
“行きます”
二秒で返信して、財布とスマホ、鍵だけ持って外に出る。
鍵をかけて5歩も歩けば吉田の家だ。
呼び鈴を鳴らして、「吉田さん、俺です」と来訪を伝えれば、数秒して扉が開き、中に招かれた。
机の上にはすでに皿に盛られた肉じゃがと、コップや箸が二つずつ置かれていた。
肉じゃがはおそらく温かい。
あれ? と思う。
吉田から誘いがあってから一分もかかってない。
それなのに温かい料理がすでに用意されている。
メッセージを送る前から用意していた?
三木がいつ返信するかも、行くかもわからないのに?
三木が動けないでいると、吉田が肉じゃがの前に座る。
「一緒に食べましょう。三木さんも座って」
「え、えぇ、…………はい」
ストンと座るも、なんだかとても居心地が悪い。
「では、いただきま〜す」
吉田が手を合わせて、三木も手を合わせ「いたまきます」と言った。
味の染みたじゃがいもを食べて、あぁ美味しいとさやいんげんも口に運び、チラリと吉田を見れば、「で」と言われた。
「三木さんは僕に聞きたい事、ありますよね?」
「ミ」
なんて変な声がでた。ついでにさやいんげんに咽せた。
ゴホゴホゴホと咳き込んでいれば、吉田が背中をさすり、お茶を差し出してくれる。
「あり、ゴホッ、が、ゴボゴボッ」
「いいから飲んでください」
頭を下げて水を受け取り、飲み込む。
楽になり、涙目で吉田を見れば、ニコッというよりニィーと意地悪っぽく笑われる。
「まぁ逆の立場なら僕も聞こうかどうか悩みますけど、なんていうか三木さん、人付き合い上手そうで下手ですよねぇ」
「……そう、ですか?」
初めて言われたかもしれない。
得体が知れないだとか、どこでもいるだとか、距離感が絶妙だとか、いつの間にかいないだとか、そういう事は言われたけれど。
「なんていうかな、懐く前は距離感が上手なんですが、懐いた後はバグるというか、下手になるというか」
「……」
そういえば過去に親友に言われた。
『ミッキーは距離感が一定以上縮まるとバグるから、上手くかわせる人か整備できる人がいよね』
すぐに違う話に変わり、どういう事だよとも聞けなかったが、あれは、今の吉田と同じ意味か。
「クラさんは下手そうで上手ですよね。正直すぎて初めっから下手だから上手にみえるっていう意見もあるでしょうけど、なんていうか、真っ直ぐすぎるから、聞かれたくない事はこっちが自衛すればいいんですし、もし聞かれても言いたくないといえば納得してくれますし」
クスクス笑った後、吉田は肩をすくめた。
「クラさんは一巻読み終わった段階で、『面白カッタデス。ナンデ作家辞メマシタカ?』って、直球できましたよ」
「……おぉう」
クラさん。
そうだクラさんだった。
クラさんならばナンデドウシテと聞くだろう。
「クラさんがいる場所でなんでもないように話してるんだから、色々察して三木さんも世間話のように質問してくると思ったんですが悩ませちゃったみたいで……こうして質問しやすい場を作ってみました」
吉田は言うだけで言うと、パクリとじゃがいもを食べる。
三木は見抜かれていた事に少しの恥ずかしさと、気をつかわせた事にすまなさを感じたが、ここは好意に乗るところだろうと、口を開いた。
「その……なんで作家を辞めたんですか?」
「ん〜フフフ。どう答えようか考えてたんですけど、忘れちゃったな……えーと、三木さんはさ、編集をしているし、親友が漫画家だしで、作家の色々な悩みや苦しみを見たり聞いたりしてますよね?」
「はい」
「出版社で本を出してもらえるだけでも狭き門で、出してもらえてからも世間のニーズだとか、書きたいものと違ったり、書けなかったりだとか、出版社や編集者とのトラブルだってある。お金が動きますからね、商売ですし、売れなきゃ意味がないんですよ」
吉田さんもそういった苦しみに晒されたのだろうか。
「悩みに悩んで、身体も精神も病んで、筆を折る——」
そうやっていなくなっていった作家を、何人か知っている。
「——なんて事はなく、就職でただ安定を選んだだけなんですよね、僕」
「…………はい?」
あっけらかんと言った吉田を三木が見やれば、んふっと笑われた。
「高校一年からなんとなく書き始めて、高校三年の時、受験勉強の息抜きにそれまで書いてたのを直して出版社に送って、で、なんかとんとん拍子に話が進んでデビューしたんですよね、僕」
小説家を夢にしている友達には羨ましいだとか、なんで、とかちょっと言われました。
「一巻目の売り上げがよくてシリーズになって、2巻、3巻と続いてもそれなりに重版がかかって、固定ファンもついて、編集さんにも次の作品もともちかけられるほど順調でしたよ。雑誌に載せた短編も好評でしたし」
自分が書きたいものと乖離してるとかもなかったなぁと懐かしそうに語る。
「で、大学三年の終わり、就職を本気で考えた時に、このまま小説を職業にするのかと考えたんですよ。で、うーんとなっちゃって」
「うーんですか?」
「そう。うーん。なんていうか、小説家って入れ替わりが激しいというか、長く続けられている人、稀じゃないいですか。まぁ娯楽なんて消費されていくものですし、自分の文体や作風に飽きられたら終わりで、だから小説家一本じゃなくて、ゲームのシナリオだったりアニメにいっちょ噛みして、別の食い扶持を増やしていってって話なんですけど……そうしても食べられる人ってほんと一握りだと考えたんですよね。それに……小説って約十五年前から先細りしていくってみえてましたし」
「それは……」
「小説よりも漫画が手に取られやすいのは事実としてあって、活字離れも叫ばれて、そもそも少子化だなんだと本を読む人口自体が減るのは目に見えていて、僕の作品はラノベよりで、あの時点でラノベ業界は書き手も出版社も飽和状態で、粗製濫造なんて言われて、読み手もありすぎる本に分散されてそうすると書き手に入るお金も減って……うーん、って」
小説家として恵まれた環境にいるとは分かってはいたんですが、と吉田は眉を八の字にした。
「普通に就職して、毎月、賃金貰ったほうが安定するでしょう? これで就活全滅とかなってたらまた別だったんですけど……こっちもスルッと内定とっちゃいまして、で、シリーズ完結と同時に辞めちゃいました」
「兼業とかは……」
「考えなかったと言えば嘘になりますが、就職したら執筆の時間とれるか不安で、書けなくなって編集さんに迷惑かけたり催促されるのも嫌だったので、それならスパッとと」
「…………」
正直なところ、もったいない、と思った。
売れていて、次も期待されていたのにと。
三木が何も言えなくなっていると、吉田が困ったように笑う。
「友達の一人に小説家が夢だった奴がいて、ふざけんなって怒られたんですよね……三木さんは生で作家さん達の悩み聞いているでしょうし、舐めた奴だと怒りますか? 殴るなら手加減してもらえると……」
「え? えぇ?」
なぜ殴る? え? ひょっとしてその友達に殴られた?
「よし、その友達の住所と名前を教えてください。その友達は右利きですか? 左利きですか?」
「うわー、不穏な質問」
「大丈夫です。過去の事ですから、全治一ヶ月ぐらいですませます」
「全然、大丈夫じゃなかった。あの三木さん、怒ってくれるのは嬉しいんですが、僕も悪いとこがあって、」
「吉田さんは悪くないですどこが悪いんですか? 将来の事考えて、決めただけですよね? そりゃ勿体無いとは正直、思いはしますが」
だからって吉田さんを殴るなど許されるわけがない。
真剣な三木の態度に、吉田が目を逸らした。
「最悪、嫌われるかもなぁと思ってたんので杞憂でした」
「俺が? 吉田さんを? ありえない」
「クラさんにも、『ミキサンニカギッテ』と言われました。『モシ嫌ワレタラ、ミキカナエヲドーンシニイクノデ言ッテクダサイ』とも」
どうやら知らぬうちに、クラさんのドーンを回避できたようだ。
胸を撫で下ろしていると、吉田に目線を逸らしたまま名を呼ばれた。
「……三木さんは」
「はい」
「僕の小説、面白いですか?」
「分からないです」
正直に即答すれば、なぜかガクッと吉田の肩が下がった。
流石に本人を前にしてまずかったかと、慌てて弁明する。
「でも増販かかって固定のファンもいたんですよね? 世間的には面白いと認識されていたと、」
「僕は!」
吉田が珍しく声を荒げて、三木を見据えた。
「三木さんが面白かったか聞いているんです!」
「すみません! 面白いか好きかも分かりません!」
あくまで正直に答えた。
「でも俺の人生でなくてはならない小説です! 空気みたいで定期的に読み返さないと息ができない!」
「っ」
吉田が息を呑み、やや頬を赤くして俯いた。
「た、例えばですよ、短編とか書くとしたら、どうしますか?」
「え、読みたいです」
「面白くないのに?」
「吸い慣れた空気もいいですが、たまには山や海の空気も吸いたくなるじゃないですか。そこに面白さって必要ないと思うんですよね」
「好きじゃないのに?」
「空気って好き嫌いで吸う吸わないじゃないと思うんですよね」
「……」
吉田がポケットから手のひらに収まるほどの物体を取り出し、スッと三木の前に置いた。
USBメモリだ。
「別に嫌いで辞めたわけじゃないので……趣味でちょくちょくは書いていて……三木さんに読んでもらうようになおしもしたので、短編でなく長編なので、三木さんさえよければですけど……」
「ありがとうございます!」
机の上から掴み上げると、早速読もうと家に帰ろうとして、残っている肉じゃがに気がつく。
吉田さんの手料理なのだからと焦る気持ちを抑えつけて味わって食べ、ごちそうさまでした! と手を合わせると、食器は洗っときますからという吉田の好意に甘えて、部屋に帰った。
その夜のうちに読み終え、翌朝、出勤前の吉田に感想を伝えに行けば、「ちゃんと寝てください」と怒られてしまった。