『来年出したい本の出来てるところだけ』一 花、落つ
初夏の昼下がりに、一仕事終わりの一服は実にすがすがしい。三日月宗近は、畑仕事の後に少し早い八つ時を過ごしていた。青い風が開け放した屋敷を通り抜けて心地よい。傍らには適度に温かい茶と黒糖饅頭とくれば、文句のつけようもなかった。
安寧を楽しんでいると、足音が聞こえてくる。ごく小さな、音というよりは気配と言ったほうが正しいような静かな足さばきで速足に、こちらへ向かってくる。その音の主を思い浮かべて、休憩はどうやら終わりそうだと悟る。
「また此処に居たのか、三日月」
思った通り鶴丸国永が角を曲がって現れた。相手の不意を突けるからと、突く必要もない常日頃からむやみに気配を殺して歩く刀である。その表情がやけに期待に満ちていた。仕事の話では無いようだ。
「なにか面白いことでもあったのか」
「わかるか? 実は非番の日にまた例の古本屋を訪ねたんだが……これだ!」
言いながら三日月の横に腰を下ろし、手に持っていた古い雑誌のある頁を示して見せた。どうだと言われても説明が何一つない。見ろと言うことなので見出しを目で辿ると「移植による記憶転移」となにやら小難しそうな題目だ。
例の古本屋いうのは鶴丸が最近入り浸っている万屋の古本屋である。ちなみに政府非公認で、監査から逃れるために所在もころころ変わる。古今東西の怪しい書籍を多数取り扱うことで有名であるが、鶴丸が今手にしている雑誌はどちらかというと眉唾物の、嘘を嘘として楽しむオカルト娯楽雑誌といった風体である。こんなことに詳しくなったのも、今まで何度も同じような書物を見せられているからだ。ちょうどこの時のようにして。
「どうだ。興味をそそられるだろう」
「何やら難しいな。まさかこれをやるつもりか。こればかりは俺たちではできぬであろう?」
記事を斜め読みしてあらかた把握した三日月は、鶴丸が何を面白そうだと思い、何をするためにここまで三日月を探しに来たのかある程度理解してしまった。密やかに眉を顰める。記されていたのは、やろうと思って出来るような内容ではなさそうだ。
「いいや、できないことはない」
「しかしなぁ、一体どこを」
首を傾げると、鶴丸は己の目の下を人差し指でとんと一つ叩いた。
「あるじゃないか。取り出しやすくて、すぐ嵌められそうなやつが」
「……お前はよほど蔵掃除が好きとみえる」
「はは、嫌味とは珍しいじゃないか」
「俺はただ感心しているだけだ」
「まぁ蔵掃除も最初は愉快だったが、二度目は飽きるな」
厩舎を壊した罰として審神者から蔵掃除を命じられてからひと月も経っていない。鶴丸はまったく懲りた様子もなく、顔を輝かせている。この顔をしている時は何を言っても話が通じない。今までの経験則だ。
興味が惹かれたことには首を突っ込まないと気が済まない。見聞きしたことのない事柄は満足するまで追求する。つまるところ、鶴丸国永はやや、いやかなり重度の、好奇心の奴隷である。そして好奇心に従って邁進する鶴丸は何かをする時、決まって三日月に声をかける。そして、断られるとは些かも思っていない調子で「面白そうだろ?」というのだ。まるで三日月もそう思うのが当然のように。
「仕様がないやつだ」
とは言いながら、鶴丸の誘いを断ったことは一度として無かった三日月である。今も呆れつつ、止める選択肢は初めから無かった。審神者に心労を掛けることだろうと解ってはいても歯止めにはならない。今回は蔵掃除で済むだろうか、と考えた。
三日月は視線を巡らせてあたりを確認する。幸いにも自分たち以外には誰も居なかった。途中で見咎められてやり直しになるのが一番嫌だった。鶴丸は中断されても絶対最後までやりたがるのだ。それなら一度で済ませたい。だが、あまりに性急すぎる。
「今ここで、か?」
「善は急げというだろう」
「しかし汚してしまう」
「戦に出たらもっとずっと汚れる。今更さ」
何が善やら、わからない。まだ見ぬ現象に心躍らせる鶴丸のきらきらと輝く両目を見つめる。
「これは俺と以外では駄目なのか?」
驚いたようにはたはたと瞼が瞬く。銀のまつ毛から音がしそうだった。幼い子が知らないものを親に尋ねるような、あどけないほどに純粋な言葉が口から滑り出てきた。
「きみ以外の誰に頼めるって言うんだ。こんなこと」
そう言われてしまえば、己のほかに居はしまい、というのが三日月の応えである。
ともかく結果として、やはり二振りは審神者の顔色を青くした後に赤くして、最終的に土気色にすることに成功したのであった。
「それで、誘われたからって実践するんだから、三日月さんもなんというか」
ね?と燭台切光忠は、肩を竦める仕草で隣の歌仙兼定に同意を求めた。
「悪友だと評されるのも、無理らしからぬことだね」
「はは、悪友か」
老刀をつかまえて随分と面映ゆい響きだ。
場所は厨。三日月は夕餉の支度の手伝いに来ていた。ひたすら芋の皮を剥いている。
鶴丸国永と三日月宗近がまた何やらやったらしいという情報は駿馬のように本丸を駆け抜ける。面白がるもの、顔をしかめるもの、興味がないもの、反応は様々であるが、もう皆慣れたものである。
「主ったら今回は泣きが入っていたよ。ほどほどにしてあげないと」
「それは鶴丸へ言ってほしいものだ」
「駄目だよ。僕の言うことなんか聞きやしないんだから」
だから三日月さんが止めてくれないと困ると嘆く燭台切は、審神者の次に鶴丸に諫言を呈している刀だ。
「本当は小言なんか言いたくないんだ。格好良くないだろう? それも鶴さん相手に。いや……言い訳も恰好悪いけれど」
味噌汁の具になる大根をいちょう切りにしながらどんどん愚痴っぽくなっていく燭台切に、うんうん頷いてやる。現状三日月に出来るのはそれくらいだ。
「それで、目の調子は問題ないのかい?」
「うん。大事ないぞ」
「……影響がないのなら良いが、なんだか見慣れないな」
「俺もだ」
三日月は心配してくれた歌仙に向かって殊更ゆっくり瞬いて見せた。至って問題ない。ただし、奇異と言えばそうだろう。三日月の眼、特に右目を注視した歌仙は変なものを見たような顔だ。
今、三日月の右目には三日月本来の右目ではなく、鶴丸の眼球が納まっている。
善は急げの言葉通りに、あの後二振りはお互いの眼球を抉って取り出した。あれから丸二日経ったが、朝の身支度の際に鏡をのぞき込むと見慣れた自分の顔に、見慣れぬ色彩があるので新鮮に驚いてしまう。明るく輝く黄金。三日月が持つ月の金とはまた違う色合いの、琥珀のような瞳が鏡越しにこちらを見ているので映っているのは自分だとわかってはいても一瞬息をつめてしまう。
「戦の最中ならまだしも縁側でなんて呆れるな。痛かっただろう?」
「そうだなぁ」
正直随分痛かったし取り出すときにぶちぶちと嫌な音もしたので気分は酷いものだった。戦の気が昂っている状態であれば、もう少しマシだったかもしれない。戦場で腕やら耳やら失うことはよくあることだが、これ程柔らかい部分を抉られる体験はそう無い。元から頑丈な身であるので、痛みで気を失うことこそなかったものの、あまり経験したくないものだった。
初めは、鶴丸が三日月の右目を取り出した。鶴丸が自分のを取った後だと力加減を間違えてしまいそうだと言って決まったことで、取り出す時には、これからしようとしていることを思えば一層丁寧すぎるほど慎重に為された。勿論前述のとおり、どれほど丁寧にされようが痛いものは痛かった。ちなみに鶴丸も「酷いもんだ」と呻いていたが、やはり途中で断念することはなかった。
そうしてとりあえずお互いに片目を取り出してみたものの、嵌めなおす段階になると上手くいかなかった。人の体には神経が通っているので考えてみれば当たり前のことだが、眼窩に眼球をはめただけでもとに戻るはずはないのだ。こうなれば頼れるものは審神者しかいない。二振りは顔面も縁側も何もかもが血まみれのまま審神者の元へ向かった。
審神者は血まみれで現れた二振りを見て息を呑み、すわ敵襲か私闘かと顔を青くしたが、そうではないと知るとまず怒号した。やり取りとしてはこうである。
「お前ら今度は一体なんだ!」
「主、悪いがこれをはめちゃくれないか」
「当たり前だ馬鹿野郎。話はあとできっちり聞かせてもらうからな」
「おっと、入れるときは反対にしてくれ。つまり俺と三日月のを入れ替えてほしい」
「はぁ!?」
「早くしてくれ。持ったままじゃ潰しちまいそうだ」
「ちょ、三日月面倒だからって笑ってないで説明しろ!」
この間も二振りの眼窩からは多量の血が滴り落ちて畳を汚しているわけである。このあたりで審神者はほとんど涙目だったように思うがよくわからない。なにぶん、三日月も視界が悪かった。ごっそり半分くらい。
ろくな経緯の説明もないまま、しかしこのまま放置するわけにもいかないと審神者は言われるがまま眼球を交換した状態で手入れを行った。好奇心の虜となった鶴丸に何を言っても無駄だということは、これまでの不名誉な実績による判断だろう。審神者は血をだらだら零しながら極めて冷静な二振りを信じられないものを見るようにしていた。驚いたというより最早怯えであったように思う。致し方無いことである。
とにかくとして、流石に審神者の御業か、無理やり入れようとした時と打って変わって眼球は綺麗に納まった。神経も繋がり視力も問題ない。見た目以外は、もともと自分のものであったかのように体に馴染んだ。
手入れが終わり、落ち着いて話ができるようになってからやっと事の経緯を聞いた審神者は「お前たちは五歳児か?いや、五歳児だってやらんわ、こんなこと。そんな五歳児嫌」と叫ぶと気分が悪いと奥へ引っ込んでいってしまった。最終的に自分たちで汚した縁側の掃除をさせられて騒動はいったん落ち着いたのだが、これで終わりではない。鶴丸の目的は眼球を交換することではなく、その作用として得られるかもしれない事象そのものである。
「その鶴丸は出陣中だったか」
「ああ。今朝がた出て行ったようだ。戦での動きに支障が無いかどうか調べたいと言って、主に部隊へ組み込んでもらったようだ」
「熱心なんだか、どうなんだか」
「鶴さんはどうしてまたこんなこと言いだしたんだろう」
「どうせろくな理由ではないだろうな」
「記憶の実験らしいぞ」
渋い顔をする歌仙に、取りなすように笑って三日月は言う。
「何と言ったか。確か臓腑を移すと相手に記憶も移るだとか。鶴丸が持ってきた本にそのようなことが書いてあった。詳しくは解らんが」
記憶転移という現象がある。体の一部を他者に移殖した際、細胞に宿った記憶も同時に新しい宿主に移る、というものだ。医学の発展により移殖手術が積極的に行われるようになった現代以降、臓器提供を受けた者が自身の体験ではない記憶を保持する事例がみられた。しかし、記憶転移などと名前は付いているが科学的根拠はないらしい。ただの気のせいや思い込みと言い切れる現象と評されており、対象が人の記憶という曖昧なものであるために、覚えのない記憶を持つことと臓器移殖の因果関係が立証された事例はない。だが、臓器の一部に記憶が宿り他者に移るという題目の魅力から未だにまことしやかにささやかれる言説である。
と、鶴丸国永が示した雑誌の記事を斜め読みして得た知識である。
「つまり、記憶が移るかどうか試してみたいということかな」
「人の理屈が僕らに通じるものかね。僕ならやってみようとも思わないけれど。貴殿も甘いことだ。さて、馬鈴薯はどんな具合かな」
「うむ。あと─」
少しだと言いさして、三日月は視界に起こった異変に動きを止めた。
小さな黒点が浮かんでいる。黒々と妙に深い色をしたそれは一瞬羽虫かと疑ったがどうやらそうではない。では、と思考する前に黒点は一息に視界を覆った。
その光景は三日月の視界の、きっかり右半分だけに広がっていた。躍動する視界そのもの。
目線が高い。馬上のようだ。力強く地面を駆ける振動まで伝わるようだが、三日月は変わらず厨で椅子に座っている。はたり、と瞼を閉じる。瞬時に戦場の風景は掻き消え、残ったのは大根の煮える辛いような甘いような匂いと鍋の煮える音だ。三日月の手に握られているのは当然、手綱ではなく皮むき器と剥きかけの馬鈴薯だった。
しかし、ひとたび瞼を開けば、やはり、そこには戦場が映し出された。敵を打ち取ろうと短刀がまっすぐ浮遊してくるのを切り捨てる。閃くのは、己によく似た形の刀身。しかし、視界は切っ先の行く先をまともに追うことはしない。視界の端で短刀が砕け散る。
嗅ぎなれた硝煙や甘い血の匂いが漂っている。いや、それは錯覚だ。だが三日月の脳裏に明るく輝く黄金の瞳がよぎった。きっと獰猛な色を宿して、挑発的に口角を上げる姿。
「三日月?」
返事をしないまま固まっている三日月を不審に思った歌仙が声をかけてくるが、三日月の意識は遠い戦場にあった。
乾いた土埃が立ち込めている。まっすぐ向かってくる短刀を斬り捨てる、己によく似た、しかし見間違えることのない刀身。今は片方しかない黄金の輝きはきっと獰猛な色を宿しているのだろう。
馬の速度が上がる。
そのまま、突進しそうな勢いで流れる視界はしかし、ぐんと、突然に空に飛びあがった。見下ろす敵将。視界の主が馬上から飛んだのだと知れる。流れ落ちる星のように斬撃は敵の体を切り裂いた。
すべてが無音のうちに流れ、美しい無声映画を見ているようだった。
そして、始まった時と同じく突然に戦場の風景は掻き消えた。両の眼は元の通り、厨の食器棚を写している。
「どうやらもう第一部第は帰還するようだ」
三日月が愉快そうな声を上げてそう言うと、燭台切と歌仙は顔を見合わせて首を傾げている。不思議な気分だ。自分が武功を上げた時とも異なる、妙な高揚があった。あと二つだった皮を剥き終え、色白になった芋を水が張った桶に入れる。
「皮むきも終わったぞ」
「あ、ああ。ありがとう。助かったよ」
怪訝な顔をしたままの二振りを残して三日月は厨を出る。大将首を取ったのだから、すぐ帰還するだろう。
門のほうへ向かうと予想通り、丁度部隊が帰還したところだ。帰城する部隊の世話のために待機していた浦島虎徹と平野藤四郎が、すでにテキパキと身を清めるため手伝いをしている。邪魔をしないように端によって落ち着くのを待つ。こちらに気が付いた鶴丸が近寄ってきた。三日月が出迎えに居るのが新鮮だったのであろう。
「なんだ、三日月。珍しいな」
「問題なく見えたようだな」
「え?あぁ、そうだな。いつもと何ら変わらなかったぜ」
「うむ。武功を上げたようではないか」
「耳が早いじゃないか。誰かに聞いたのか?」
「見ていたからな」
鶴丸は何も成果が無かったと、敵将を討った癖にしらけた反応だ。
見ていた、と三日月の言葉を復唱した鶴丸に己の右目を示してやると、事態を理解した途端に身を乗り出してきた。
「本当か?見えたのか⁉」
「そう、慌てる、な」
勢いよく鶴丸に肩をがくがくとゆすられる。戦帰りの高揚も相まって加減がない力だった。三日月はほとんどのけぞるようにして前後に揺れた。
「どんな感じなんだ。色は?はっきり見えたかい?動いたのか?」
「ちゃんと見えたぞ。普通の視界と変らなかった」
「なんだそれは。全然わからん」
文字通り、そのまま見えたのでそれ以上言いようがなかった。もっと言えばモノクロではないトーキーを観ているのに似ている、と思った。音のない生きた視界だ。
説明しても鶴丸は不服そうだ。
「お前にも見えれば良いのだが」
「それだ! 三日月も出陣すれば、俺にもこの目を通してきみの視界を見られるかもしれない」
「んん?」
「条件を揃えるのは実験の定石だぜ」
鶴丸は言うや否や踵を返して三日月を置いて行ってしまった。主に采配を求めに行ったのだろう。いつもの事だが引き留める間もない。しかし、三日月は直感的に自分が戦に出ても同じ結果は得られないだろうと思っていた。ただ戦に出ることは異論もないので、結局その日午後から出陣予定だった部隊に急遽組み込まれたのである。近侍であったへし切長谷部に睨まれたのは言うまでもない。三日月と交代した明石国行は実に嬉しそうであった。
結論から言うと、やはり鶴丸には三日月の視界は見えなかったらしい。玄関口で三日月を出迎えた鶴丸が不満そうに口を尖らせている。
「戦に出ることは条件じゃないのか……。何か切っ掛けがあると思うんだが」
「ところで、記憶が移る、のではないのだな。最初の話では自分のものではない記憶が混じるということではなかったか」
何の気なしに問いかけると、鶴丸は「それは俺も考えていた」と表情を変えた。推論だが、と前置いて続ける。
「俺たちは知っての通り人間と『造り』が違う。刀によってまちまちだが、逸話や名がそのまま形を取る。人が記憶と経験で成るのなら、逸話はいわば俺たちにとっての記憶と言えるだろう。それが俺たち自身のか、語り継ぐ人間たちのかは、最早解らないが」
名が、物語が、体を取る。それが己たちである。
「つまり、伝説や俺たちが`覚えて`いることは俺たち自身を構成する要素だ。だからそれが混じったらどうなるか」
「存在が揺らぐと?」
「ま、これから起こらないとも限らないけどな」
己の存在が揺らぐことになるかもしれないと言うのに、鶴丸は特に重大さを感じさせない口調でさっぱり言った。
「しかし、なぜ常時お互いの視界が見える状況にならないんだろうか。理屈的にはそれが自然だと思わないか?」
「それは随分不便そうだなぁ」
「でもそうならないってことは、三日月に俺の視界が見えるには、条件があるって事だ。じゃあ戦に出ることが条件じゃないなら、なんだろうな」
独り言のような疑問を低く落として、ぶつぶつと推察を呟きながら思考を整理してから、やっと三日月の存在を思い出したように「何か心当たりはあるかい?」と聞いてきた。三日月は首を捻った。
「わからん。ただ……そうだな、俺が見たのは出陣の様子のすべてではなかったぞ。お前が敵将を見つける辺りからだ」
「敵将を」
復唱した鶴丸はしばらく俯いて思案した後「なるほど、何となくわかった」とまた独り言つとおもむろに顔を上げ、何かが晴れた様にこう言い切った。
「つまり、俺は呑気極まりない君を、心の臓がひっくり返るくらい驚かせばいいってこった」
流石にそんな結論が出るとは思わなかった三日月は、虚を突かれて呆けるしかなかった。これと決めたら絶対に引かない男である。頑固な部分は誰に似たのか。三日月に残された道は鶴丸が満足するまでつきあってやることだけだ。
「良い掛け軸だね」
部屋を訪ねてきた蜂須賀虎徹が朗らかな声で言う。三日月の部屋の床の間に下がった、向日葵が描かれた掛け軸のことである。
「うん。俺も気に入っている」
蜂須賀が、三日月が以前貸した本を返しに来てくれたので、少し座って行くように誘ったところだ。三日月は茶の用意をしながら頷いた。褒められたのが素直にうれしかった。
「あの人にしては、少しおとなしいものを選んだようだ」
「夏も終わるが、冬に向日葵を眺めるもの一興だと言っておった」
季節外れの掛け軸は、鶴丸から譲り受けた。蚤の市で見かけて、その一風変わった品物に興味を惹かれて買い求めて見たが、自分よりも床の間を飾るのが好きな三日月の方が楽しめそうだと貰ったものである。誰から貰ったか言葉にしなくとも、なぜかこの最古参の刀にはわかってしまうのだから、不思議だ。
掛け軸には大輪の向日葵が鮮やかに描かれている。やや横向きに描かれた花が天を仰ぐ様は艶やかで、飾り気のない三日月の部屋の床の間を彩っている。
しつこく夏の名残を纏っていた空気は日に日に秋の涼やかさに変化し、木々も色づき始めた。外の本物の向日葵は枯れてしまった後である。
「あれだけ暑かったのに、もう熱いお茶が美味しい季節だね」
「うむ。今年はこの電気ぽっとが活躍しそうだなぁ」
自室で茶がすぐ入るので便利だと、鶯丸から熱弁されて居室に導入した湯沸かしポットは、確かに大変便利だ。審神者に見せると骨董品だと言われたが立派に現役である。
「ところで、その鶴丸なのだけれど。ええっと、その、大丈夫かい? なにか随分張り切っているようだが」
「ははは、うん。大丈夫だぞ。心配させたか」
「それはもちろん。いつもそうだけど、今回は度を過ぎていると俺は思っているよ」
それ、と蜂須賀が視線を注いだのは、未だに鶴丸の眼球が嵌ったままの三日月の右目だ。
「あの人は、何かというと貴方を巻き込む。困ったものだね」
蜂須賀はふぅと控えめにため息を吐く。
最近、鶴丸は三日月を驚かせることに腐心している。あの問答の後、鶴丸の中で結論がどのように着地したのかはわからないが、そういうことになったらしい。未だ三日月の視界が鶴丸に見えたことはない。
先日はホラー映画観賞会を称して参加者を募り、真夜中に明かりを落とした部屋に皆で集まって選りすぐりの恐怖映像を見た。
これには審神者も珍しく乗り気で参加していたが、威勢がよかったのは最初だけで途中からは隣のへし切長谷部にしがみついていた。長谷部は前の主の影響か、異国の宗教観に詳しく、映像に出てくる三日月たちには理解できない異国の風習を解説してくれた。審神者も感心して聞いていたので長谷部は大変得意げであった。
肝心の三日月は趣向としては面白いと思ったが、生憎と本物をよく知ってるだけに、腐った死体も怨霊も恐怖心を誘うものではなかった。それに、実態があるものは斬れると言ったら鶴丸はおかしそうに「違いない」と笑った。本来鶴丸が目的とした『心の臓がひっくり返る』には及ばないが、平和で誰にも迷惑を掛けない企画は悪くなかった。
「まぁ、楽しいことも多いからね。三日月がいいのなら俺は構わないよ」
それにしても、と再び向日葵の掛け軸を眺めた蜂須賀は言う。
「不思議な絵だね。力をつけてはいるようだけど、何か宿るほどではないようだ」
「単に力の強いモノの近くに在ったか、はたまた持ち主の強い願いでも受け取ったかしたのかもしれないな」
画料で描かれた絵である向日葵は当然本物の生花ではない。しかし掛け軸の中の向日葵は、今も風に吹かれるようにそよそよと、絵具で出来た黄色い花弁を揺らしている。
更に今は瑞々しく(絵なので言葉の綾ではあるが)花を咲かせているが、幾日かすると花は茶色く枯れ落ち、種だけ残して茎も草臥れ何もなくなったかと思えば、翌日には新しい芽が出る。そして再び花を開かせるのだ。あたかも掛け軸の中で短い夏が繰り返されるようである。鶴丸がどこからか見つけてきた逸品だった。
不思議なことに咲く度にその花弁一枚一枚の形や色、天を見上げる茎の角度などが変化する。これは前より鮮やかだとか、あまり良く育たなかっただとか、毎回変わる様子を観察するのも愉快だった。
「今回は少し小ぶりだ。その分か色艶がいい」
「咲くごとに様子が変わるなんて面白いね。よくこんなものを見つけてくるものだよ」
「非番とあればあちこちふらふらしているからなぁ」
鮮やかな山吹色の画料で描かれた向日葵は、生物にはない濃淡を持っている。写真や映像とも風合いが異なり、言葉にすれば絵だとしか言いようのない風合いだが、このように命を繰り返していると内から生き物の生命力すら感じるのだ。
三日月は咲き変わるたびに様々な美しさを見せる掛け軸をすっかり気に入っていた。戦から戻った時など、部屋に戻りこの晴れやかな掛け軸を見ると疲れた気分が癒える。秋が深くなる中、再生を繰り返す向日葵を眺めた。
ある時、「これは」と思う程、向日葵の咲ぶりが美しい日の夜であった。
さてそろそろ灯りを消して寝入ろうとした時だ。どこからか微かな声がする。衣擦れの音でさえかき消されそうなほど小さな音で聴き間違えかと思うが、どうも違う。繰り返し確かに聞こえる呼び声。
もうし、もうし、そこな刀。
一体どこから、と耳を澄ますと声は床の間の、掛け軸の中から聞こえる。三日月はぱちりと瞬いて、枕もとの灯りを手繰って掛け軸を照らすと、向日葵の足元に三寸くらいの人影がある。一体いつの前に現れたのか。勿論絵ではないのだろう。小さな客人は恐らくは何処かの神だと見受けられる。面布を掛けていて貌は解らない。
「これは、これは。俺をお呼びか」
小さな身に響かないようにと声を潜めて応じると、小さな貴人は頭上の向日葵を指して、どうか花を譲ってほしいと言う。このように美しく珍しい花を贈りたい者が在ると、是非譲り受けたいという話だった。ちまこい手を忙しなくばたばたさせて訴える様が切実で、如何にこの花を気に入ったかを必死に言い募っている。それを見てやってしまって良いかとも思ったがしかし、この掛け軸は鶴丸から贈られたものだ。それを人にやってしまうのはどうにも気が引ける。切り取ってしまえばまた花をつけるとも言い切れない。
「実は俺もこれを大層気に入っているのだ。簡単に手放すのは惜しい。どのような方に贈られるのか、教えてくれるだろうか」
それによっては考えると伝えると、貴人は恥じらうように俯いて懸想している女神に贈るのだと語った。
「左様か。いやぁ、此度は見事に咲いたものだと俺も思っていたところだ。また枯れてしまう前に恋路に役立ててやってくれ」
ほほ笑んで是と伝えると、貴人の雰囲気はぱっと華やぎ、一礼を執ったかと思えば、一瞬の後に向日葵ごと立ち去って行った。
声など掛けずに勝手に持っていくことも出来ただろうに、随分律儀な御仁である。神とは不遜な存在であること知っている身としては、断りを入れる律義さにほだされてしまった。良いことをした気分で三日月は再び布団へ潜り込んだ。
翌朝、掛け軸は中ほどよりばつりと花を失った茎が描かれているだけの、最早動かない絵そのものになっていた。風が吹いても少しも揺れることもない。すっかり力を無くして普通の掛け軸に戻ったようだ。些か侘しい。鶴丸は何と言うだろうかと今更ながら少し気にかかったが、仕方がないので素直にやってしまったと白状することにしよう。神が突然訪れて花を持って行ったと言えば、もしかすると愉快だと喜ぶかもしれない。
打ち明ける機会はすぐにやってきた。
朝餉の後に厨へ水を貰いに電気ポットをもって行った時である。鶴丸国永がバインダーを片手にペンを持って何やら考え込んでいる。厨の棚をのぞき込んで食料の在庫を数えているらしい。いつもの、右にやや傾いた立ち方の白い背中だ。
鶴丸は厨へ入ってきた三日月に気が付くと、その手に下げたポットを見て笑う。
「お、そいつ活躍してるみたいだな」
「うむ。良い仕事ぶりだ。鶴丸は在庫の確認か」
「あぁ。人数が増えたのもあるが減るのが早くて困る……。よく食う連中だ。きみもそうだが」
「この世には美味いものが多いからなぁ、ついな」
「よく言う」
ひぃふぅみぃと缶詰を数えている背中に声をかける。
「鶴丸」
「んー?」
「この前貰った掛け軸だが、昨日客人があってな」
「客人? そんなやつ来たか?」
「いや、夜半に部屋に突然訪ねてきたのだ」
「はっ?」
「おぉ、急にどうした」
「また何か変な輩じゃないだろうな」
バッと振り返って三日月を凝視した後、咎めるような視線を送られて苦笑する。
「特に変なものでは無かったぞ」
「きみの変じゃないは信用出来ないからな。馬やら猫やら妖やら何から何まで好かれて、挙げ句の果てにはあちこちの神から文まで来る」
「それはお前が焼けと言うから焼いているだろう」
「当然だ。うっかり開けて本丸から向こうに引っ張られていった時のことを俺は忘れないぜ」
まぁ、確かにあの時は騒がせてしまった。流石に文一つでそんな事態になるとは考えもしなかった。と言うと「甘いんだよなぁ」と小言を言われるので釈明はしない。
言うだけ言って正面に向き直った鶴丸はどこまで数えたのかわからなくなってしまったようで、「ひぃ、ふぅ」と、また最初から数えて直している。邪魔をして悪いが、止められないので話は続けてもよいのだろう。気を取り直して続ける。
「その客人が、どこぞの神でな、惚れた女神にやりたいと言うから掛け軸の向日葵をやってしまった。お前から貰ったものを人にやってしまったので一言伝えておこうと」
やや後ろめたく打ち明ける。鶴丸はようやく缶詰を数え終えてバインダーに書き込んでから、振り返った。
「きみにやったものだから、きみが納得してやったのなら構わないさ。折角きみのお気に入りをやったんだ。そいつ上手くいくといいけどな」
確かに気に入ってはいたが、送り主にそう言われるとやや照れくさい。
その話を鶴丸にした後、三日月はしばらく床の間をそのままにしていた。特に強い理由は無かったが、次に飾るものを考えあぐねてのことだ。少し名残惜しい気持ちもあった。
その様子を見た鶴丸が、もぬけの殻になった掛け軸をしばし貸して欲しいと言うので、三日月は回収などしてどうするのか疑問に思いながらその通りに渡してやった。
すぐに種明かしをされるものかと思ったが、鶴丸はそれからしばらく三日月のところへやってこなかった。近頃は例の実験のために何かにつけて近くに居たものだから、鶴丸が近寄らなくなると三日月の周りは突然静かである。一人でいるところに、蜂須賀に「珍しいね」とまで言われてしまって苦笑するしかない。
時折、右目が見せる視界で、出陣している鶴丸の様子は窺い知れたが、本人の視界では本人の姿自体は見えない。鶴丸と部屋が近い太鼓鐘貞宗と同じ部隊になったので尋ねると、最近は時間が出来ると万屋に行って帰ってきては部屋に閉じこもっているらしい。「またなんか仕込んでるんだろーから、待っててやってくれよ」と言われた。
数日後、出陣から戻った三日月を待ち構えていたのは、どこか得意げな鶴丸だった。戻ったばかりの三日月を捕まえて「お疲れさん」と労ったかと思えば、黒い布で目隠しをされる。
「いきなり、なんだ?」
「いいから、いいから。ほらこっちだ」
「鶴さん! 三日月さん戻ったばかりだよ」
「別に手入れが必要なわけじゃないだろう。部屋に連れて行くだけだぜ」
「だ、そうだ。燭台切、ちょっと行ってくる」
見えないが、燭台切のいる方向へ向けて手を挙げて問題ないと伝えてやる。気配で燭台切が諦めた様子を悟る。
そのまま手を取られてどこかへ誘導されていく。三日月を慮って歩調はゆっくりだった。途中で面白がった刀たちに口々に声を掛けられる。「またなんかやってる」「なんか楽しそうです!」「三日月も嫌なら嫌って言いなよー」「どこへ行くんですか?」鶴丸はその声に内緒だと笑みながら進んでいく。
やがて止まったのは方向と歩数から見て、三日月の自室のようだった。
「おや、俺の部屋だな」
「まだ取るなよ」
言われたとおりに大人しくしていると、手が離れて、戸が開く音がする。また手を引かれて中へ入るよう促される。いつもと何ら変わらない畳の感触を足の裏に感じつつ、止まれと言われたので立ち止まる。
「取るぞ。目はまだ瞑ったまま、な」
勿体付けるものである。やわらかい布がするりと頬を掠めてくすぐったい。
「よし。もういいぜ。目を開けてくれ」
許しが出て、そっと瞼を上げる。光がまぶしい。
三日月が向き合っていたのは自室の床の間だった。鶴丸が掛け軸を持っていってからは特に壁に何も掛けていなかった。今はそこに一枚掛け軸が垂れている。
描かれていたのは一輪の向日葵だった。
鮮やかな山吹色。途切れてしまった茎から伸びた力強く青い茎。細い葉の上には小さな天道虫が止まっている。元々の色彩よりさらに豊かな色で、失ったはずの花が天を向いて咲き誇っていた。
「いろいろと顔料を試してみたんだが、やはり同じ風合いにすることはできなくてな。だが、これもなかなかのモンだろう?」
鶴丸は、何日も部屋に籠ってこれを描いていたのか。わざわざ絵具を探しに万屋に足を運んで。何日も。
「おい、何か言ってくれよ、みかづ」
き。と音になる前に鶴丸の声が途切れる。反射的にそちら振り向くと、大きく見開かれた目を視線があう。黄金と藍の一対。本来の黄金と、三日月の小舟が浮かんだ瞳の対称的な色合い。鶴丸は、俺が見える、と信じられないような声色で呟いた。
「俺が見えるぞ、三日月!」
「おぉ」
歓喜に飛び上がった鶴丸に勢い任せに抱き着かれて流石に驚く。
「ははは、こういう感じなのか。変な感じだ。見えにくいな。しかし、きみ結構簡単な事で驚くじゃないか」
「簡単には見えないがなぁ」
絵を描くことの難しさとかを言いたいわけではない。絵のない掛け軸など外して、別の絵に替えればよかっただけなのに、わざわざ手間暇をかけて鶴丸がこれを三日月のために用意したことが肝心なのだ。それを簡単でありふれたことだとは思わなかった。それをどう言ったものか悩んでいるうちに、まだくっついたままの鶴丸から声が上がる。
「あ、もう見えなくなった。きみ落ち着くのが早すぎだ」
「お前、わざわざこのために籠って絵を描いていたのか」
「まぁな。図面を描いたことはあるが絵は初めてだったから面白かったぜ。折角秋に見るために用意したのに、紅葉も前に枯れたんじゃあ、つまらん」
気に入ったなら飾っておいてくれなんて言って、鶴丸はもう絵の事より切り替わった視界のことで頭がいっぱいのようだ。三日月の肩口でぶつぶつとやっている。ある程度やった後で、また自分がくっついている存在を思い出したらしい。こんなことを言う。
「そうだ。これで少しは床の間も寂しくなくなるだろう?」
「そうだな?」
「三日月が床の間に何も飾らずに寂しがっているって聞いたんだが、違ったか?」
でもきみ、他にも掛け軸とか持ってなかったよな、と今更な疑問を口にして鶴丸は首をかしげている。
誰がそんなことを言ったのか。合っているようで合っていない。確かに特に気が向かなかったので向日葵が無くなった後も鶴丸が持っていった後も、床の間はそのままにしていた。何も掛けずにいるのは珍しく、刀掛台しか置いてない空間を侘しく感じたこともあった。だが、その状況を目端に捉えた誰かは恐らく、別の要因で三日月がそうしていると感じたのだろう。
つまり寂しさのあまりに新しく何かを飾る気も起きないのだと勘違いされたのだ。
「あれのようには動かないが、ずっと見ていると毎朝愛でるには可愛げがあるような気がしてくるだろう」
「うむ、そうだな」
訂正しようかとも思ったが「お前が来ないから寂しがっていると思われたようだ」などとはこの状況で言えるはずもなく、三日月は口を噤んだ。
ふと部屋の外で動いた気配にハッとする。開けっ放しの部屋の障子からこちらを窺うようにのぞき込んでいる加州清光と目が合った。燭台切と秋田藤四郎、ほかにも姿は見えないが、いくつかの気配。加州は気まずそうに視線を泳がせた後「あ~、ごゆっくり、どうぞ」と言うや否やぴしゃんと障子を閉めた。それを合図にして外の気配が蜘蛛の子を散らすように遠のく。
「なんだあいつら」
「……はは、そうだな」
三日月はようやく鶴丸を引きはがして離れた。
「それで結局、視界が共有される原因はなんだ? わかったのだろう」
「ああ。恐らく動揺、興奮、そのほか諸々の感情の動きだと思う」
鶴丸が出陣の時に時折その視界が見えるのは昂っているから、ということか。先ほどの三日月も、すぐ治まったとはいえ一時的な感情の高まりで視界が共有されたと考えられるだろう。何ともやりにくいことこの上ない。早く元に戻さねばならない。
「では、主のところへ行こうか」
「主?何故だ?戦果の報告へは隊長の蜂須賀が向かったぜ」
「何故も何も、この目を戻さねば」
目的も達成したので、早く元に戻してしまいたかった。もう十分付き合っただろう。だが、冗談とばかりに鶴丸はぐるりと目を回した。
「何を言ってるんだ。まだほんのちょっと見えたくらいだ。戻すなんて勿体ないぜ」
「お前はまたそのようなことを」
もう十分通常では体験できないことをやれたと思うが、まだ足りないらしい。三日月は呆れかえって目を細める。
「俺はもう少し君の見ているものを見てみたい」
「何も面白いことなど無いぞ」
「そいつは俺が決めるさ」
まるで挑むような目線で見つめられて三日月は困った。別にしおらしい顔で強請られるわけでも泣き落としされているわけでもないのに、そうされると三日月はできるだけ叶えてやりたいと思ってしまう。鶴丸も断りきれないのを分かっているのだからタチが悪い。それでもこの刀のこの顔に、どうも昔から弱いのだった。
そして鶴丸が三日月に要求するものは、三日月の許容する範囲を外れたことは実のところ一度もないのだ。
「いずれは戻さなければならないときちんと覚えておくのだぞ」
「ああ。そう来なきゃな!」
これだから甘いと言われるのだろうな、と毎度思えど結果が変わった試しは無かった。
「三日月宗近、居るね」
「ああ。出られるぞ」
蜂須賀虎徹が部屋の戸口に立って声を掛けてきた。丁度篭手をつけていた三日月は手をあげて応じる。出陣の出立前に、近侍によって出る部隊の隊員の確認がある。体調確認や装備品の最終調整などをとりまとめて審神者に報告し、審神者は部隊長へ出陣指示を出す手はずだ。
「予定は滞りない。指定の時間に門へ集まってくれ」
「あいわかった」
蜂須賀の目線が何気なく床の間へ向けられる。飾られているのが前とは異なる絵になっていると気が付いたようだ。そしてそれが鶴丸国永によって描かれたことはもう耳に入っているのだろう。
「ふふ、うん。良い掛け軸だね」
「うむ。そうだろう」
自慢げに答えた三日月に、何がおかしかったのか蜂須賀は珍しく声を立てて笑ったあと、今日は茶も出していないのに御馳走様と答えた。
そろそろ秋も更ける中、大輪の向日葵は今日も部屋で三日月の帰りを待っている。