そばに 最近、オロルンの姿を見ていない。
あいつのことだ、どうせミツムシの巣でも覗いてて手が離せないんだろう。……いや、野菜の世話かもしれない。大根だの、豆だの。
イファは診察が終わり、診療所の窓際で書類を片付けながら、頭上でせっせと医療器具を運ぶ相棒を見上げた。
「なあ、カクーク。最近、オロルン見てないけど、アイツ大丈夫かな……」
「しんぱいだ、きょうだい」
カクークは、小さく首を傾げて鳴いた。ふわふわした羽毛を揺らしながら、イファの頭に乗っかる。
「だよな……アイツ、ちょっと放っておくと、すぐ塞ぎ込むし……」
その時、くるくると回りながら入ってきたのは、花びらのような羽を持った式神だった。見慣れた模様──これはシトラリの使いだ。
カクークがくちばしで追い払おうとするのを制し、小さな羽の根元に結ばれた紙切れをほどいて広げると、墨の香りとともに短く一言。
“仕事が終わったら来て。シトラリ”
(……ばあちゃん、もしかして)
シトラリの家を訪ねると、彼女はすでに待っていた。
「ちょっと、イファ。あんた、いま暇?」
「ばあちゃん。まあ、手が空いてるには空いてるけど、もしかしてオロルンのことか?」
「そう。新種の紫大根、オロルンがずっと大事に育ててたの。名前まで付けて」
「……名前……?」
「うん、“むらさきさん”。ばかみたいでしょ。でもね、ちょっと気温が急に下がって、葉が全部やられて……」
イファは思わず頭を掻いた。
「それで、あいつ……」
「家で落ち込んで蹲ってるの。あんた、様子見がてら慰めてあげなさいよ。ほら、これで乾杯でもすれば少しは気が紛れるでしょ?」
「慰めてって言われてもなぁ……」
「……そういうの、あんたの方が向いてると思うから」
ため息をひとつ。結局イファは、瓶を受け取って家を後にした。
オロルンの家を訪ねたとき、扉の向こうからは何の音もしなかった。
「……オロルン?」
返事はない。扉を開けるとカクークがスッと家のなかに入っていく。
「だいじょうぶか、きょうだい」
カクークの声が聞こえ、覗くと居間の隅で膝を抱えて蹲る黒髪が目に入る。
「……オロルン、夕飯はまだか?」
コクリと頷く。
「今からタタコス作るから、一緒にたべよう。……それと、ばあちゃんからこれも」
イファは瓶をテーブルに置くと、黙って台所に向かった。
温かい香りが部屋に満ちていく。生地の焼ける音、プリプリのえび、とろっと溶けたチーズ。こういう時、無理に話しかけるより、静かに待つのがいいと知っている。
やがて、トレーを持って戻ったイファの前で、オロルンがゆっくり顔を上げた。
「……イファ」
赤くなった目が恥ずかしそうに伏せられる。
「むらさきさん……死んじゃった」
「うん、聞いた。……でもまぁ、お前のことだから、次はもっと丈夫なやつ育てるんだろ」
小さく乾杯し、食事をとるうちに、オロルンの表情も少しだけ和らいできた。果実酒の効果もあるのか、顔がほんのり赤い。
それより先に、酔いが回ったのはイファの方だった。
「んー……ふふ。ばあちゃんの酒、意外とうまいじゃないか……」
言葉がとろりと甘くなる。座ったまま伸びをしながら、イファは空になったグラスを見つめていたが、ふとオロルンに視線を向けて、にや、と笑う。
「……おまえ……ちゃんと、頑張ってるぞ」
「え……?」
「俺、……好きだぜ。そういうとこ」
酔ってるからだ。こんなこと、普段なら絶対口に出せない。
「イ、イファ……?」
「おまえ天然だけど……優しくて、献身的なところ……俺、好きだからな」
「……っ」
言いながら、イファはすっと立ち上がった。ふらりと足元がよろけてオロルンの方へ倒れこむ。
「わっ、イファ!? だ、大丈夫……?」
「平気、平気……」
そのまま、イファはオロルンの肩に顔を寄せ、両腕をゆるく回した。
「……あったかいな」
肩越しに落ちる吐息が、ほんのり酒の香りを含んでいる。
「イファ……」
「泣いていいぞ。俺んとこで」
耳元に落ちた低く甘い囁きに、オロルンの背筋がぴくりと震えた。
「……イファ、カクークも……ありがとう」
「どういたしまして、きょうだい」
カクークが羽をふわりと揺らして笑うように鳴く。
「……お礼ならばあちゃんに言え。結構心配してたんだぞ?」
言いながらも、イファの口元は少しだけ緩んでいた。
オロルンは何も言えず、ただ小さくこくこくと頷いた。
イファの心音が、すぐ耳のそばで響いている。
どく、どく、どく──酔っているのに、それがどこか安心できて、嬉しかった。