君は、いつでも(春はあけぼの)
うつらルークが目を開けると、辺りはまだ暗かった。
寝静まる空気は春先の早朝らしく、まだまだヒヤリと素気ない。ぬくい上掛けに潜り直すと、好ましい匂いが鼻腔に広がった。無意識にすんと鼻が鳴って、匂いの元へと擦り寄る。鼻先が、広い背中に行きあたった。綿のシャツから微かな柔軟剤の香りを纏ったアーロンの匂いが強くする。密度の高いそれを許容いっぱい肺に詰め込んで、ゆっくりと送り出す。と、あたたかな塊が身じろいだ。
「…ん゙…」
途端いけない事をした気分になって、ルークは慌てて身を離した。そろり上掛けから顔を出す。
起こして、しまっただろうか…
やや緊張して息を潜める。収まりのよい所を探すように、アーロンの肩はうごめいている。
…起きては、くれないだろうか
思って、直ぐに打ち消した。身勝手を叱咤していると、ごろりアーロンが寝返ってベッドが揺れた。切れ長の瞼は閉じられているが、眉間に皺が寄っている。アーロンの、すばらしくよい形をした鼻がスンと鳴った。何となく息を詰めなくてはいけない気がして、ルークはじっと気配を殺して動向を見守る。
更に眉間の皺を深くして、辺りを探っているのか、アーロンの鼻はスンスンと鳴り続ける。だんだんとそれがルークの元へとにじり寄って、前髪の辺りに鼻先が埋まった。すんとまた一つ、鼻が鳴る。
あ、
薄く額に触れていた唇が、淡い弧を描く。
満足気な寝息がルークの髪を撫ぜた。穏やかなぬくもりは、ルークの冷えた頬にじんわりと染み渡る。
アーロンが起きたら、最初に何をしよう。
おはよう、と言おうか。それとも、まずは同じように、頬を温めようか。それとも…
アーロンの向こう側から陽が昇るまで、ルークは悩み続けた。
(夏は夜)
その年の夏は、ウィリアムズ宅史上、最も暑かった。と、後にルークは語ったという。但し、この歴史的記録は毎年更新されるので、誰一人として聞く耳を持つ者はいなかった。
夜になっても昼の熱気は一向に収まる気配は無く、纏わりつく不快感に皮膚呼吸すらままならず、窒息しそうな程だった。冷房が苦手な…もとい、“嫌い”なアーロンでさえ、タイマーを掛けるならヨシと言ったくらいだ。
ルークのベッドで並び寝るのが習慣付いたのは、いつの頃だっただろうか。夏場は毎晩、ベッドへ入る瞬間が一番笑える。あちぃから、もうちっとそっち行け、とか、端っこすぎて落ちる!とか言って、何とか一つのベッドで横になろうとするのだから、もう堪えるのに必死だ。
『別で寝れば万事解決だろ』
お互いがそう思っている。しかし必死に、この一言を堪えていた。それが解ってしまうから可笑しくて、たまらなく気分が弾む。決して言わない一言には、これまた決して言わない一言が添い寝しているのだ。
毎晩それを確かめるべく行う陣取り合戦は、胸の芯まであたたかくしてしまう。本当に、あつくてあつくて仕様がない。
暑い夜にもっと近くで、あつい温もりを感じたいルークが、冷え冷えシーツなる物を仕入れて来たのは、また別の日の事だ。
(秋は夕暮れ)
シュバッと派手な音を立てて、足元のコンクリートに火の粒が散った。火薬の臭いを纏った煙は、ささやかに吹く風にのって庭の暗闇へと溶けゆく。鮮やかな火の花は、ルークの手元で必死に咲き狂っている。
休日前夜、ルークとアーロンは開け放した硝子戸の額縁に並び座って、夕涼みがてらの夕食と洒落込んでいた。虫の声と互いの立てる音、時折風に吹かれた芝生が鳴る一時は、缶のビールだろうと、少し焼き過ぎてしまった肉だろうと、格段に美味しく感じさせるのだから不思議だ。
カシャン、と微かな音にルークが見遣ると、盥に満ちた氷水からアーロンが缶ビールを取り出した所だった。整った横顔には花火の色が淡くのっていて、殊更にその具合を強調している。
長い指先がプルトップを開ける。その視線が、ルークの持つ花火に留まった。鋭く射抜くそれは、火薬で出来た鮮やかな花に何を思うのだろう。
ぐいと缶を煽ったアーロンの瞳がルークを見遣った。深いグリーンにチラチラと、光の粒が瞬いている。その正体を確かめようとルークがうすら腰を上げた瞬間。ザァッと芝生が鳴いて、真っ白な煙が押し寄せて来た。それまで大人しくコンクリートを打っていた火花が、ハーフパンツから出た脹脛に当たってルークは慌てて立ち上がる。うわ、アチッ、みっともなく叫ぶと、盛大に煙を吸い込んでしまう。咳き込みながら逃げ惑っていると、煙の向こうでアーロンが吹き出した。ケタケタと愉しそうなそれに、笑い事じゃないぞ、とは言ったものの、及び腰の己の体勢が可笑しくて、愉しそうなアーロンのそれが嬉しくて、震えてしまったそれは、一応としてもあまりにも明け透けだった。
ジュゥと音がして花が萎れる。
サァサァと再び穏やかに鳴った芝生に、虫の声が聞こえだす。
脹脛の具合を確かめたルークが顔を上げると、薄く残った煙が流されて深いグリーンとかち合った。
優しく細まるそこにまた、光の粒が見えた気がして、ルークは手にしていた燃えカスを放る。小さなバケツに吸い込まれたそれは、見向きもされなかった。
(冬はつとめて)
「おい…ルーク…起きろ」
頭上から、酷く眠そうなアーロンの声が降ってきた。目を閉じたままむずがれば、その髪がルークを抱え込んでいるアーロンの首筋をくすぐる。
「ん゙〜…あと…もう少し…」
「あほ…仕事だろうが」
「うん。いくさ…ちゃんといく」
そう、ちゃんと行く。ちゃんと行く為にわざわざ、早くアラームを設定しているのだから。
真冬の早朝、温かなベッドで目が覚めた瞬間の、何ともいえない幸福感。それは週の始まりだろうと雪の降る日だろうと、変わらないから不思議だ。ただ、その幸せは一瞬で、すぐに凍えて身体ごと縮こまってしまう。それを解すまでに今日やるべき事、やりたい事を確かめて、それで漸くベッドから抜け出す。ルークの冬は、そんなルーティーンから始まっていた。
それが、ふたりの冬になって少しだけ変わった。正確に言うと手順が増えた。アーロンを起こさない様に、最初のアラームは常にミュートにしてある。ささやかな振動を止めて夢うつつに、いつものルーティーンを行う。そうしていると、次の手順が動き出す。アーロンが、ルークを抱き込むのだ。
初めは心底驚いた。起こしたのかとも思ったが、寧ろ寝ているからこそなのだと合点がいって、その日はまるきりポンコツだったのを覚えている。
毎朝必ず、抱擁は行われる。大切に抱き込まれるそれは、週の始まりだろうと、雪の降る日だろうと、あっと言う間にルークの身体を、至福というあたたかさで満たしてしまう。ルークの身体に伝えられたそのぬくもりは凍える事なく、ルークの手を通してまた別のものへと伝えられる。
「…うん、よし…」
擦り寄っていた身体を離して、同じ高さに伸び上がる。冷えた頬をそっと包むと、深いグリーンが柔らかく細まった。
「おはよう、アーロン」
二人のヒーローの、一日がはじまる。