独白 希望湖が見える。それも当然で、ここは湖に浮かぶ場所だから、それは“嫌でも”視界に入ってくる。
ザンブレクではあまり湖は見かけなかったが、代わりに海があった。海は好きだ。嫌う理由がないと言えばそうだが、その色と音に、思い入れがある。
今となってはもう、思い出したくはないと、思っていたのだが。
「……」
この地はいつも音にあふれていた。その全てが人の声に満ちていて、無機質な音は、それこそ己の着る鎧や戦う者の、その音くらいか。
そして聞こえてくる人の声は、その殆どが温かいそれの様に思えた。
空の色は相変わらずで、その色は見た者の心を沈めてしまう。しかしこの地に生きる人間達は、それでも前を向いて生きている。
そう、かつての自分も、同じ気持ちを持っていた……のだと思う。
今はどうなのか正直わからない。
大切なものを、命と同じ、いや、それ以上に大切で、決して手放したくなかったそれを手放して来たから。
この地に至る今まで、私の命は誰かの為に生きてきた。
その誰かが傍に居ないと命が成立しなかった。
なのにそれをこの手で壊し、挙句の果てには手放して来た。
命を成立させるための誰かを手放し、今は、はるか上空に浮かぶソレに、この翼を向ける事にしている。
翼を向けた先に起こる事は、もう考えない様にしている。
「……話していたら、どうなっていただろうか」
終わりを迎える為の準備期間。
誰しもが生きて帰る事を願い、祈り、その為の準備をしている。
かく言う、あの場で手放して来た彼も、この命の無事を願い祈る言葉を残して、微笑んで去っていった。
彼の事だ、話したとしても、結局は同じ結果になっていただろう。
……きっと。
『ディオン様。私はいつも、貴方の無事を心から願っています。どうかまた私の元へ帰って来てくださる事を祈ります』
顕現をした時はいつも彼の声が頭に響いていた。その声を頼りに、この身は元の姿へ戻る。
何があっても、何が起こっても、いつも声が聞こえていた。毎日、それこそ、最早途方もないと思える程の昔から、ずっと傍で聞いていた声だった。
その声が聞こえれば、どんなに身体が痛くても、発狂しそうな程に辛くても、必ず人側に意識を戻してくれる。傍に戻ろうと思える。
きっと、その声はもう聞こえてこないのだろう。
相談もせずに、一方的に“突き放して”来たから。
ここの人間達の声は、前を向く温もりに満ちていた。
これがきっと、ジョシュアやイフリートにとっての戦う力になっていたのだろう。
これだけ沢山の声に、誰かに、支えられていたのだと思う。
別に、だからと言って、何も思う事はない。
全てを手放して来たこの身にとって、今更何かを進展させるつもりはない。
ただ、少し……ほんの少し、羨ましく思うだけ。
「あれ、ディオン、どこへ行くんだい?」
「少し下へ。すぐに戻る」
「ん、わかった」
——ここは一体どこだ。
——私はどれだけの間眠っていた?
——……ああ、そうか……そう言う事か……。
……かつてここに来た時は、自治領を崩壊させた後、私が昏睡状態に陥っていた時。
事の顛末を知った後に見たこの湖は、それはそれは黒く、歪んで見えた。
「なんだ、帰るのか? 金をくれるなら船をだすぞ」
「!」
腕を掴まれそうになって、足を引き摺られそうになって、翼がなくなったこの身では何も抵抗ができなくて、最早どうすればいいかわからなくなって。
隣を見れば必ず居た彼も居なくて、じわじわと侵食してくる石化の痛みが、これ見よがしに命を蝕んできた。
そんな時に聞こえてきたのが、その男の声だった。
「湖を眺めに」
「上から見た方が、眺めがいいだろうに」
「上は音が聴こえないでしょう」
「音だ? なんだ、俺には聞こえない音でも聞こえているのか」
オボルスと名乗った男はあの時も、こうして下に降りてきた私に、こんなふうに声をかけてきた。事情は聞かず、ただ金さえ払えば乗せてやると、それだけを告げて、事を荒立てる事無く静かに出てくれた。
水面を撫でる様な風が、優しく吹いてくる。するとオボルスは「ふぅん」と、同じ方向を見始めた。
「あの時よりも、暗くなったな」
暫く黙っていたと思えば、今度は突然そんな事を言われ、思わず笑った。
「光の召喚獣が、一体どうしたんだ?」
ああきっと、わざとに聞いてきているな。
「いいえ、なにも」
「ああそうかい」
再びの沈黙。
仕事の邪魔をするつもりはなかったので、場所を変えようと足を進めると、再び声が引き留めた。
「何の音がするんだ?」
「え?」
人との関わりには関心がないと思っていたが、どうやらいつの間にか興味の対象になってしまったようだ。
「音が聴こえると言っただろう。何の音が聴こえるんだ?」
「……」
今まで自分自身の興味関心を、一人の人間以外に話す事はなかったから、返答には素直に困った。そもそも興味関心を持つ事自体がそう滅多にあるものではなかったので尚更。
……そう言えば、いつも、どんな風に会話をしていただろうか。それすらも、置いてきてしまったらしい。
「なんだ、教えてくれねぇのか」
「……」
「まぁ、ここに居ても、上の連中の声が聞こえてくる。俺にとっての音はそれだな」
お前さんが居た場所なら、海が近いだろ。海の波の音かねぇ。と、彼は小舟を動かす為のオールの傍に行き、それを掴むと水に浸けてゆっくり動かし波の音を立てた。
「……懐かしい音ですね」
「なんだ違うのか」
邪魔して悪かったな。
そう言いながら、オールを戻す。これで会話は終わり。
そう、終わった。
再び足を、先程向けた方向へ進める。風が後を追う様に吹いてくる。
一体何の用だと思う程に、頬を撫で髪を靡かせようとする。振り向いたって、誰も居ないのに。
それはとうの昔にわかっていたと言うのに、思わぬ声がこの名を呼ぶ。
「ディオン皇子」
勿論あの声ではない事はわかりきっている。振り向かない選択肢もあった。しかしその選択肢はいとも簡単に棄却され、あっさりと振り向いてしまった。立っていたのは勿論、オボルスだ。
「私はもう、皇子ではない。その呼び方はおよしいただけたら」
「そうかい」
再び、今度は隣に立ってきた。一体私の何が彼の興味関心を持たせたのかはわからないが、これ以上は何も言うまいと決めて再び湖を視界に映す。
「聴こえてないんだろ、音」
「……」
「全部吹っ切って来たかと思えば、案外その辺の踏ん切りを雑にしてきたんだな」
「……」
「そんなに死にたいのか」
「……そうかもしれませんね」
「それだけ返事するなよ」
笑われてしまった。相変わらず、彼が傍に来る意味が理解できない私は、他人との会話の仕方もうまく思い出せないので早くひとりにしてほしいと、そう思い始めていた。
なのに、そう思い始めた頃には彼の策に引っかかってしまったらしい。
「空に行くんだろう? 死ぬときは落ちてくるって事か」
「……かもしれません」
「この湖の上に落ちてくれるなら、探してやるよ。身体は溶けちまうだろうが、石になった部分は、残るかもしれない」
「!」
ああ、まただ。思わず彼の方を向いてしまった。この言葉のどこかに期待をしてしまった愚かな自分を、しかし彼は目が合った事に対して微笑んでくれていた。
「おいおい、まさか探せって言うんじゃないだろうな。仮にあったとしても、“届ける事”なんて絶対しないぞ」
どうやら全て気付かれてしまっていたらしい。どうしてわかったのだろう。
「果たしてどこへ、届けるおつもりで」
「しらばっくれるんじゃねぇよ」
あの時ここに降りてきたお前さんは、ずっと陸地を、自治領の方向を見ていた。船に乗った後も、その視線は変わらなかった。事の顛末は聞いていた筈だ。それでも逃げずに戻る決断をしたお前さんに感心したよ。それだけ何かに、誰かに対して、安心できるものがあったんだろうなと。
「……」
「普通戻れば殺される可能性の方が大きい。たとえ皇子であっても。なのに生きて、ここへ単身で力を貸す為に帰ってきた。つまりはその何かに会うか見るかして、支えてもらったんだろう? あれだけボロボロだったのに、お前さんが戻ってくる事を祈って、お前さんの持ち物を大切に保管して、実際に帰ってきてくれたお前さんを受け入れて治してくれた存在がある筈だ」
じゃあそれを、どこへ置いてきたんだ?
その言葉が、心に突き刺さった。目が見れなくなり、視線が落ちる。
オボルスはそんな私を見て再び口を開いた。
「空に行く前に、思い出すなり拾っておくなりしておけよ。お前さんと、生きてまた自治領で会う事を願い続けてくれた何かを。それができたら、今度はお前さんが願うんだ。生きて帰る事を」
召喚獣の力を失っても、また顕現するんだろう?
それは本当に強い覚悟と相応に責任が伴う。シドの話を聞くに、今までのドミナントは暴走してきていた筈だ。それをわかった上でする、できると確信しているお前さんは確かに凄い。だが根底に確信できる何かがあるんじゃないか? まさかそれまで置いてきた訳ではないだろうが、飛び立つ前に思い出しておけよ。じゃないと、お前さんを支えたその何かが一生報われない。
「という事で、お前さん達の遺体探しの依頼はやめてくれよ。豪邸が買える様な金をくれるなら考えるが、“死ぬ為に来た”お前さんは、その何かの為に全部遺してきただろ。金のない人間からの依頼は受けない主義だから、出直してこい」
「……ふふ」
年上の人間とは、こうも全て言い当ててくるのか。報酬金と行先しか話さなかった、後は何も話さなかった私を、ただ船に乗っている間に見ていただけで、そこまで話せるものなのか。
いや……。
『ディオン様! ああ良かった、無事に戻って来られて、本当に良かった』
『すまないテランス……』
私“だけ”が帰ってきてしまった。バハムートの力は失ってしまった。
そう伝えた。するとテランスは、強く抱きしめて、私が生きてくれていただけでいいと、真っ直ぐに返してくれた。テランスならば、その言葉をくれると信じていた。生きてしまった事を肯定してくれるその言葉を、求めていた。
……そうか、そうじゃない。
オボルスはただ私を見ていたのではなく、“心配”してくれていたのか。
テランスの様に。
だから、わかるのか。
今まで他者から“そういう意味で”心配をされた事がなかったから。バハムートの力が残っているか否か、それだけだったから、こんなにも私についてを話される事が、なかったから……。
『ディオン、どうか、ご無事で』
「わかりました。私がまた戻ってきた暁には、今回の講習代のお支払いを」
「お、そいつはありがたいねぇ。だが、金はいい。時間があるなら、ひと仕事受けてくれないか」
「このお話の対価に見合うものでしたら」
「皇子サマ達は話が早くて助かる」
船の修復をする為の手伝いを。船を支えるだけでいいが、黙ってるのも暇だから今度はお前さんの国の景色の話を聞かせてくれ。水の音を聞きながら。
初めてそんな依頼を受け、受けたからには手伝い、話を始める。
どんな場所にあって。
どんな景色が広がって。
何色が多く見えて。
そこにはどんな人間が住んでいて。
その空を飛んでいる時に見える世界。
地面を歩く時に見える世界。
オボルスはその全てに相槌を打って、言葉を返してくれた。会話をした。
それは、テランスと話をしている時と同じ感情を呼び起こした。
命令じゃない。
経過報告でも、結果報告でもない。
私の言葉で、今まで見た景色を、思った事を、素直に話していい時間。
しかも相手はテランスじゃない。父と、近しいであろう年齢の大人に。
「さすが、育った国が違うと、話す事も違うな。言葉が上手いから、中々わかりやすかったぜ。それに、歳相応の話し方ができる様で」
話を終え船を湖へ戻していると、そう言われた。
「帰ったら、これから先見てくる景色と、ここでの生活を、“その人間”を置いて行ったバツとして、しっかり話してくるんだ。その後にまた、俺に教えてくれ。生きて帰ってきた報告はお前さんを見ればわかるから、その続きを今と同じ様に“ディオンの言葉”で話してくれ」
『いつか、この背にお前を乗せて、色んな景色を見に行こう』
『それはとっても嬉しいけれど……僕は、ディオンと同じ目線で、同じ景色を見たい。“ディオン”と一緒に歩きたい』
風が吹いてくる。
それは静かな水面を揺らし、波の音を響かせた。
思わず、いつも眺めるその方向に視線を向ける。
『ディオン、また、歩いて海を見に来ようね』
「ええ、必ず」
テランス。
まだ信じてくれているならば、どうかまた、お前に逢える様に、お前の傍に戻る事ができる様に、願っていてほしい。
その声を、私に聞かせてほしい。
「手伝ってもらって助かったぜ。ありがとよ、ディオン」
「こちらこそ」
必ず傍に、戻るから。
.独白 希望.