天気雨稲荷崎高校バレー部三年生の引退の日、晴れ渡った青空に、キラキラと小雨がパラついた。
「はは、狐の嫁入りや。誰やろな」
体育館で三年生の最後の挨拶を終え、校門の前で卒業生、在校生、入り乱れて記念撮影をした後、北信介は後輩の宮治を学校の裏山にある小さな社に連れ出した。
山肌に沿って長く連なる赤い鳥居をくぐり、呑気に笑う信介のすぐ後ろを歩きながら、治はなぜ今自分がこんなところに呼び出されたのか、緊張を隠しきれずガチガチになっていた。
どれくらい登って来たのか、眼下には稲荷崎高校のある街の、さらにその先には、信介の実家のあるあたり、広大な緑の景色が広がっている。
「治、何も憶えてないんか?」
「何がですか?」
「ほうか。まぁええわ」
明らかに落胆の色を見せつつも、信介はどんどん歩を進め、鳥居のさらに奥、稲束を咥えた狐の像の前を通り過ぎ、社で手を合わせたあと、片隅にある苔むした小さな碑の前で立ち止まった。
「これ、俺やねん」
「へ?」
もともとあまり表情を変えない人間だ。本気なのか冗談なのか図りかね、素っ頓狂な声を出す治に構うことなく、信介は話を続けた。
「何から話したらええかな。ずっとずっと昔、この辺りには人身御供の習慣があってな。日照り続きの年やったな。もうちょっと登ったところに洞穴があって、俺はそこに縛られて転がされて、いまもそのままや。たぶん探せば骨もあるんちゃうかな」
言いながら信介は碑の前にしゃがみ込み、上に乗った枯葉を丁寧に一枚ずつ退かした。
「みんなが腹空かせてこんな辛い思いせんで済むなら、まぁええかと思った記憶はある。まだちっちゃい子どもやったし、昔すぎて細かい事は全部忘れたけどな。気が付いたらここの神さんのお使いにしてもらっとった」
一通り碑を綺麗にした後、在校生から贈られた花束から、ガーベラを数本抜き取って、傍に置かれたガラス瓶に挿し、手を合わせ、そして深く息を吐き、話を続けた。
「そうなったら、俺はとにかく、この里の誰もひもじい思いせんように、疫病ひとつ入り込まさんと毎日頑張っとった。そしたら、ある年にな、野狐の双子の兄弟が俺に懐いてきた」
治は、その情景には心当たりがあった。子どもの頃から何度も見る夢だ。自分たち双子がまだ子狐で、真っ白い立派な狐と、ころころと転げ回って遊ぶ夢。
「そのうち双子の片割れが、俺と長いこと過ごしとったからやろうな。なにやら術を覚えて、他の山の奴らと仲良ぉなって、この山を去っていった。もう片方もここに供えられた握り飯を気に入ってな。人に化けることを覚えて、人里に降りていった」
そこで一旦話を切って、信介は視線を治に向けた。目が合う。
「俺はそれまでずっと一人で平気やったはずやのに、兄弟がいなくなったら途端に寂しくなってな。結局狐の片割れを追って、人に化けて里に降りた。そこからは楽しかったなぁ」
ここには無い、どこか遠くのものを見つめるように、街を見下ろして信介は笑った。
「でもなぁ、生き物の寿命って、あっという間やねん。普通の人間よりは多少長かったけどな。狐は歳をとってこの世を去った」
途端に、治の記憶の中にひとつの情景が流れ込んだ。たぶん、思い出したと言って良いのだろう。
(俺、いつまでも待っとるから。この里が廃れんように頑張って待っとるから。また、生まれ変わったら、俺のこと探して。気が向いたらで、それでええから)
「そんな、でも、北さんにはちゃんと家族が」
「本来の北家の子どもは姉弟の二人だけや。信心深いばあちゃんがな、俺のことを大事に受け入れてくれた。一人が強く信じてくれたら、後は楽やねん。まあ、本人にそんな自覚はないやろけど。なぁ、角名。おるんやろ?」
角名?治が疑問に思う間も無く、木陰から同級生が姿を現した。
「いいの?そんな事まで話しちゃって」
「角名、お前、北さんに何ちゅう口きくんや」
「ええねん、治。人から変化した俺と違って、角名はちゃんとした生粋のお狐様や。角名の地元にでっかいお稲荷さんあるやろ」
「へ!?角名、お前、狐なんか!?」
「ごめんね、黙ってて」
「そんななんかスマホばっかり見とる神さんおるんか」
「失礼だな、ちゃんと目的があって見てんだよ。人ならざる者はね、気を抜くとカメラを通した時に映らない。信介くんもね」
「え!?じゃぁ角名も写らへん時あるんか」
「俺は器用だからそんなヘマはしないよ。まあでも、愛知で信心深いおばあちゃんのいる家族に迎え入れてもらって今があるっていうのは、信介くんと同じ」
「すまんな、治。急にこんな話して、困らせたな。俺はこの里を出られんから、バレーは終いや。農家の信ちゃんやるのも楽しなってきたしな。でもお前らとバレーやれて楽しかったわ。有難うな。角名はバレー続けんのか」
「俺はバレーもいまの人の世も楽しくなって来たから、もうちょっとやるつもり」
「ほうか。治のこと、頼んだで」
「北さん、何言うてはるんですか!俺の気持ちはどうなるんですか!いまやっとちょびっと思い出したところやのに」
「すまんな、この記憶は一旦消させてもらうわ。そうせんと、角名に怒られるからな」
「北さんが自分でそうしてくれるなら俺は助かるけど。治は頑張って自分で思い出しなよ」
「治、俺は卒業した後もこのままずっとばあちゃんとこにおるつもりやから、もし気が向いたら、いつでも遊びにおいで。まぁ、昔のことは昔のことで、お前ら双子はバレー続けるべきやと、俺は思うけどな」
その出来事から数ヶ月。
自身の卒業が押し迫ったある日。
宮治は、ひと足先に卒業した北信介の家に向かうため、バスに揺られていた。
「北さんの作ったお米を使ったおにぎり屋さんを経営したい」
果たして北さんにその事をうまく伝えられるだろうか。
そして北さんは米を使う事を許してくれるだろうか。
ぐるぐると巡る不安に苛まれ、答えが見つからないままにバスは目的地に到着し、治は料金を支払ってバスを降りた。
信介の家の方向へ道路を渡ると、晴れ渡った空から、キラキラと舞い散るものがあった。
「はは、狐の嫁入りや。誰やろな」
ふと、見上げる横顔が浮かんだ。
今はもう見ることのできない、制服姿。右手には在校生から贈られた花束を持ったままだ。
鮮明に憶えている。あの時俺はその横顔を見て(綺麗やな)そう思った。
せやけど、三年生を送る会の後、こんな出来事はなかったはずや。おかしい。
疑問に思い、顔を上げると、北家の田畑に大きな虹が渡った。
その虹がかかるのに合わせるように、唐突に、全ての記憶が治の脳に流れ込んだ。
そうか、この雨は、そういう事か。
治は、降り注ぐ光の粒の中を、愛しい人のもとに向かって、走り出した。もう迷いはなかった。