白狐宮治にとって『飯を食う』という行為は、人生の中で1番の幸福な時間であった。ところがこの数日、落ち着いてその至福の時間を過ごせていない。
おにぎり宮の営業を終え、一人暮らしにしては立派な冷蔵庫のある部屋に戻り、一日頑張った自分のために拵えた夕飯の並んだちゃぶ台の向こうに、ちょこんと正座する想い人、北信介の姿があった。いつもと変わらない服装のそのひとには、本来あるはずのない、狐のものと思われる真っ白いふわふわの尻尾と、頭の上にはツンと立ち上がった同じく白くふわふわの三角形の耳が存在していた。彼は治が食事を摂る間、きちんと正座をしたまま、じっとその様子を見守っている。
これが、治がここ最近落ち着いて至福の時を過ごせていない大きな理由だった。そもそも実家で農業を営んでいる彼が、こんな時間に街中の治の部屋にいるはずがないのである。
(いつも夕飯の準備しとると現れるし、白飯の妖精さんやろか)
初日は話しかけてもにこりと微笑むだけの彼に、とりあえずお茶でも出してみるかと席を立ち、戻ったら消えていた。
次の日は、期待も込めて初めから来客用の湯呑みを用意しておいた。思惑通り姿は見せたものの、彼は目の前に置かれた湯呑みにちらりと視線を落としただけで手をつけず、夕飯を食べ終えた頃にはいつの間にか消えていた。
それからは、白狐の耳と尻尾を生やした想い人に凝視されながら夕飯を食う。という苦行のような日々が続いている。
(どこをどうみても北さんやけど、何がしたいんやろ。何も喋らんし、言葉は通じんのやろか)
そんなことを考えながら、チラチラと盗み見ると、彼の背後では真っ白な尻尾がゆらゆらと揺れている。
気付けば10分近く、ひたすらめかぶをかきまぜ続けていた。
「冷めるで。早よ食べ」
「え!?あ、はい!!いただきます!」
(喋りはった!!声も完全に北さんや)
急いでめかぶをご飯をにぶっかけ、つるつるとかきこみながら様子を見ると、彼は相変わらずきっちりと正座をして、食事の様子を眺めていた。
「美味そうに食うなぁ。俺まで幸せな気持ちになるわ」
突然の発言に驚いて咳き込み、お茶で流し込んで視線を上げた時には、もうその姿は無くなっていた。
次の日、ランチ営業を終えアイドルタイム中のおにぎり宮に、いつも通りの北信介が納品に現れた。水色の作業着に長靴。もちろんふわふわの耳はついていない。
カウンターを入念に拭いていた治の横に立つ信介からは、ふわりと柔軟剤の香り。
『メシ食うところに汚れた服で入るわけにいかんやろ』そう言って彼は納品の時にはわざわざ洗いたての納品専用の作業着に着替えるのだ。
「今週の分、いつものところに置いといたからな。伝票はこれ。あと、この野菜はばあちゃんから。何かに使こてて。来週もいつも通りでええか?お弁当の予約はいっとったやろ」
心地良い声。日焼けはしても相変わらず柔らかそうな頬に、形の良い丸い頭。そこにあの耳は反則やな。それにあの尻尾。ふわふわのわたあめみたいなやったな。口に入れたら溶けてまいそうやった。
「治?聞いとるか?」
「はい!いや、ええと、なんでした?」
「どっちや」
立派な野菜がパンパンに詰まったビニール袋を受け取った。互いの手が触れ、目が合う。真っ直ぐな瞳にどきりとする。信介は呆れたように少し笑っただけで話を続けた。
「発注増やしたなったら、いつでも電話寄越したらええよ」
普段通りに店を出て行こうとする信介の後ろ姿。腰のあたりに白くふわりとしたものが目に入った。
「治?どうした」
反射的に、腕を腰に回して引き留めていた。
利き手が山盛り野菜のビニール袋で塞がっているせいで、必要以上に強い力で抱き寄せてしまい、怪訝そうに見上げる顔が近い。
「北さん、尻尾」
「尻尾?」
恐る恐る尻尾に触れる。タオルだった。
農作業中、よく首に巻いているタオルを、ベルトに挟んでいただけだ。
突然抱き締められ尻を撫でられた信介は明らかに動揺して言葉を絞り出した。頬があかい。
「治、今日変やで?大丈夫か?疲れ溜まっとんのやないか?」
「すんません、最近、あんまりよく眠れてへんのかも」
信介に手のひらで胸をやんわりと押し返され、治は改めて二人の状況に気付き、あわてて飛び退いた。
「今日はちゃんとメシ食って、早よ寝ろ」
言い残して、信介は真っ直ぐに店を出て行く。
後ろ姿にちらりと覗く耳は真っ赤になっていた。
「昼間は惜しかったなぁ」
午後の営業も終え、いつも通りの夕飯時、食事の準備を終えて部屋に入るとお気に入りのちゃぶ台の前にはやはり尻尾付きの北信介の姿があった。
「何がですか」
「さぁ?何やろなぁ」
正座をしたまま、悪戯っぽく微笑んだ。
「今日も美味そうやな。冷めんうちに食え」
(誰のせいで落ち着いてメシ食えんようになっとる思てんねん)
食事を前に、両手を合わせ、箸と茶碗を手に取る。
ちらちらと盗み見る信介の顔は、いつもに増してニコニコしているようにも思える。
(昨日までならそろそろ消えてはる頃合いやのに)
山盛りのどんぶり飯を平らげ、デザートに近所のおばちゃんからもらった蜜柑を剥く段階になっても、耳付きの信介は治の食事風景を眺めていた。
「なぁ、そっち行ってもええ?」
「そっちて、どっちのことです?」
「こっちのことや。ふふ。あったかいなぁ」
気付けば懐に入り込んでいて、胡座の上に腰を下ろし治の胸に頬をすり寄せて嬉しそうに呟いた。ふわりと漂う、昼間と同じ柔軟剤の香り。とても偽物とは思えない。まさか、自分が作り出した幻覚なのか?
治は皮をむいて半分に割った蜜柑を口に運ぶことも忘れて、驚きで身を固くした。
耳付きの信介は構うことなく治の指に唇を寄せ、軽く触れてから直接口で器用に蜜柑を一粒はぎとって、ゆっくりと味わったあと、微笑んだ。
みかんよりも柔らかく、ほのかに温かい唇の感触に、治はさらに動けなくなっている。
「その顔、俺のこと疑っとるな?しゃあないなぁ。ちょっとだけ貸したるわ」
耳付きの信介がそう呟くと、瞬きの刹那頭から白い耳が消え去った。途端に身体の力が抜け、治に身体の全てを預けてすうすうと寝息を立てている。
しばらく固まって微動だにしなかった治はふと我に返り、残りのみかんをちゃぶ台に置き、彼が倒れないよう、恐る恐る腰に腕をまわした。尻尾もない。
「あんまり尻撫でんといて?」
「お前、何者やねん」
別人のように妖艶に微笑む信介には、再び白い耳、尻尾。思わず語気が荒くなった。
「大丈夫や、安心せえ。悪いモンやない」
「俺のみかん勝手に食うたくせに何言うとんねん!!」
「はは、それはすまんな。お前は花より団子やったわ。でもちょっとだけドキドキしたやろ?」
そう言いながらも、耳付きの信介は再び治の胸板に柔らかな頬を擦り寄せた。
「俺は、この人間が思いもつかんような事は出来ん。脳ミソごと身体をちょっと借りとるだけやからな。この意味、わかるか?」
「なにを言うて……」
「昼間、お前があんな事するから、それでこの人間にもそういう選択肢が出来たっちゅうことや。いや、まあ、ええわ。すぐにわかると思う」
治の耳元に唇を寄せ、別人のような声を出す。ただ、別人の『ような』であり、紛うことなき信介の声である。
「この人間のことは幼少の頃から知っとるけどな。素直で、信心深くて、可愛い子でなぁ。ただ、最近雑念が多くなってきとってな」
鼻先が触れるほどの距離。たっぷりと余白をとって誘惑するように耳元に唇を寄せ、囁いた。
「ちょっとばかり手伝おてやるから、あとは自分達で上手いことやりや」
耳にかかる息に煽られ、信介に触れても良いものか躊躇しているうちに、すぅ、と離れていった。
「明日の夕方、この人間の家に行くとええことあると思う」
その言葉を残し、耳付きの信介は忽然と姿を消した。