天使のたまご宮治は昨夜、『人を拾う』という、人生になかなかない経験をした。しかも背中に大きな翼のある人間だ。
最近彼は調理師学校に通う傍ら、修行のつもりで入った居酒屋のバイトで突如ホールに出されることになり、いっそ辞めようかと迷っていた。
バイトを始めて2年。決して仕事が出来ないわけではないと自負している。居酒屋にありがちな雑多なメニューは全てマスターしたし、どこかの高級料亭から流れてきたと噂の寡黙で頑固な板長に叩き込まれた包丁捌きは、宴会のお造りを任されるほどになっていた。
ただ、雇われ店長から接客の方が向いているなどと煽てられ、頼み込まれて断りきれなかったのだ。
最近、マナーの悪いサラリーマン客が増えてきて、女子学生は残らず辞めて行き、ホールスタッフが足りていないのは明らかだったし、ホールに学生バイトしかいないような居酒屋で、ひときわ体格の良い自分に楯突く客がいなかったのもある。
(何で俺やねん。で、忙しなったら厨房入れ、言うんやろ、どうせ。都合よくコキ使いよる)
酔っ払いのサラリーマンの相手がメインに成り果ててしまったバイトを終えたあとは、賄いとは別に余ったご飯で自分用に握ったおにぎりを家の近くの公園のベンチで腹に入れ、腹の虫を治めてから帰宅するというのが日課になっていた。家族に不機嫌な姿は見せたくなかった。
そういうわけで、昨夜もムシャクシャした気持ちを特大のおにぎりをムシャムシャすることでなんとか鎮めていた。
(まあでも、将来自分の店を持つ、てなった時、接客も経験しておいて損はないんやろな)
自分の気持ちに折り合いをつけてベンチから腰を上げたところで、砂場に人にしては少し大きい気がする白い影を見つけた。
刺激しないように慎重に近寄ると、何やら小さな白いものが弾丸のように飛び出していった。それは一定の距離をとって、植木の陰からこちらを伺っている。猫だった。
気を取り直して、砂場の方を確認すると、月明かりと街灯の光の中、自分と同じくらいの年頃の若い男性がうつ伏せに倒れていた。結婚式か?と突っ込みたくなるような全身白一色のスーツに身を包み、背中には大きな翼がある。
「あの、大丈夫ですか?」
二次会で飲み過ぎたんやろか?恐る恐る呼吸を確認すると、規則正しく穏やかに繰り返されていて、酒臭くもなく、むしろ彼の周りには何か不思議な清涼感のある香りが漂っていた。表情は柔らかく、治は本能的に保健の授業で習った応急処置的なものは必要ないと判断し、慎重にその人物を抱き起こした。
「大丈夫ですか?どっか具合、悪いんですか?」
問いかけに、青年はうっすらと目を開けただけで、治の胸板に頬擦りするような仕草を見せた後、再びすやすやと寝息を立てた。
改めて近くで見る彼は、顔も身体も全体的に整っていた。整っているとしか言いようがない。形の良い丸い頭、短く切りそろえられた髪は深い銀色。顔は思ったよりも若く、まだあどけなさが残っていて、顔だけであれば少年と言っても良いほどだ。
(綺麗やな)
純粋にそう思った。
安心し切った様子で自分の胸に寄せられた頬に、あるはずのない母性のようなものが芽生える感覚すら覚えた。
すやすやと眠る彼を起こさないように丁寧に砂を払い抱き上げると、治は家路を急いだ。
あとほんの数分で家に着く距離だった事、とくに具合が悪いわけではなさそうな事、なにしろ背中にどうくっついているか分からない大きな翼があるので、普通に救急車を呼んで乗せて良いものか躊躇したのもある。
自宅に戻り自分の部屋に入ると、すでに家を出た双子の兄弟、侑と幼少の頃から使っていた二段ベッドがある。
普段治が使っている下段に青年を寝かせ、一人静かに四苦八苦したあと、布団を掛けた。
スーツのままでは少し窮屈かと思ったものの、翼が背中から直接生えているのかと思うほどにガッチリと固定されていて、外し方も脱がし方もさっぱり分からなかったのだ。下だけ脱がすのも気が引けた。
彼のことは潔く諦め、治は寝支度を調えて今は使われていない上段に来客用の布団を敷いて寝た。
朝。
右肩に心地よい重さと温もり。
(あぁ、昨夜のあの子か)
そんな事を薄ぼんやり考えながら目を覚ますと、最初に目に入ったのは、壁に綺麗に整えられハンガーにかけられた白いスーツ。そして次にうつ伏せに自分の胸に顔を埋めて眠る青年、その背中でゆらゆらと揺れる大きな白い翼。
(自分で着替えはったんやろか。翼は外さんのや。そもそも俺、上の段で寝ぇへんかったか?なんで下の段で寝とんのやろ。まあええわ、とりあえずメシや)
メシ食うたらなんとかなるわ。どっかの軍隊のひとも結局はどんな状況でももりもりメシ食える人間が一番強い言うとったしな。
治は相変わらずすやすやと眠る青年を残してベッドから抜け出すと、朝食の準備をするため、一階の台所へと階段を降りた。
治が立派なおにぎりと味噌汁、冷えた麦茶をトレイに並べて部屋に戻ると、青年は床にちょこんと正座して待っていた。
どこから見つけて来たのか、治のTシャツを着込んで、裾からは何も身につけていない太腿が覗いていた。顔に表情はなく、代わりと言っては何だが背中の翼が意志を持っているかのように揺れている。
(俺のお気に入りのTシャツ、背中どうなっとんねん。穴開けてないやろな)
男性のものとは言え、なんとなく初対面で太腿を凝視するのはよくない気がして、若干目を逸らしながら朝食を乗せたトレイを手渡した。
「具合はどうですか?昨夜、公園で寝てはって、俺ん家が近くやったから。とりあえず、おにぎり食うてください。自分で言うのもアレやけど、美味いですよ」
話しかけながら、やはり勝手に自分の家に連れてくるなんて良くなかったのではという不安が首をもたげた。
とはいえ、目の前の青年は悪い人間には到底みえない。(まあ、なんとかなるやろ)
とりあえず特製おにぎりを勧めた。
青年は躊躇しながらおにぎりと治の顔を交互に見た後、トレイを傍に置いてまるで猫のようなしなやかさで向かい合って胡座をかく治の懐に入り込み、その動きに合わせて翼が二人を包み込むようにふわりと広がった。その中で彼は、真っ直ぐに治を見つめていたガラス玉のような澄んだ目をゆっくりと伏せ、唇を重ねた。触れるだけの軽いキスを、小さく角度を変え、何度も。
不思議と治に不快感はなかった。彼の周りには相変わらず爽やかな甘い香りが漂っている。
治はむしろもっと彼のことを堪能したくなり、抱き寄せようと彼の腰に腕を回そうとした刹那、スッと青年の気配がなくなった。
驚いて目を開けると、床に小さな真っ白い毛玉が転がっていた。拳くらいの大きさだろうか。いや、自分の拳に比べたらもっと小さい。
「ふぅ、やっと元の姿に戻れたわ」
「へ?」
真っ白い毛玉だと思ったものには、短い手足と尻尾、そして小さな尖った耳がふたつあった。先ほどまでいたはずの青年にどこか似た顔が、当たり前のように治に話しかけてくる。
「俺はな、北信介。恋のキューピットさんやねん。俺が射抜いたったらな、誰でもあっという間に恋におちんねんで。お前も意中のひと誰かおったら言うてみ」
少しの沈黙。
「……あかん。お前は俺のもんや。誰にも渡さへん。俺の矢のチカラ、なめたらあかんで」
「いやいやいや、何言うてはるんですか」
人の姿の時ならまだしもそんなちみっこい毛玉が。
「俺な、昨日はあっこの公園でしょんぼりブランコ揺らしとったサラリーマンと、残業上がりでヘトヘトのOLさんを射らなあかんかったんやけど……一目惚れちゅうやつやな。野良猫に邪魔されて自分に矢ぁ刺してしもて。そんな時に目に入ったのがベンチでおにぎり食うてるお前や」
話しながら毛玉はもぞもぞと治の膝によじ登ろうとしていた。その姿がどこか健気で可愛らしく、治は思わず右手で助け舟を寄越すと、毛玉はふかふかな短い両手で治の指にしがみついた。
「結局俺は、えと……」
「北さんや。北信介」
「北さんの失敗に巻き込まれたもらい事故ちゅうことですか(キューピットて意外と和風な名前なんやな)」
「事故ちゅうのはちょっと言葉が強いな。こんなキュートな俺に好かれたら嬉しいやろ?」
「……事故っすね」
「まぁええわ。お前、名前は?」
「治。宮治です」
「治か、ええ名前やな。これ、冷めんうちに食うてや。俺はメシ食わんでも、射抜いた二人が恋に堕ちればそこからパワーもらえんねん。昨日は失敗したからひっくり返っとったんやけどな」
「待ってくださいよ、じゃあなんでいま急に回復したんですか。」
「治も信ちゃんのことちょこっと好きになったちゅうことやな」
「会ったばっかりでろくに話もしてないのに好きも何もないやないですか。俺の名前も知らんかったくせに」
「現に俺は元の姿に戻っとるからなぁ。俺の弓と矢は公園に落として来てしもたし、それ以外には考えられんけど」
治も全く心当たりがないと言えば嘘になる。月明かりに照らされたあの青年はどこか神々しく、何か惹かれるものがあったのは確かだ。恋愛対象は異性であると自認している自分には下心など持ちようもない、中性的とはほど遠いキリリとした顔立ちに、がっしりとした体格。それにも関わらず、だ。とは言え、中身がこんなちみこい毛玉だとなると話は別である。
「弓と矢がないと、ハラ減るみたいにどんどん弱っていくっちゅうことですか?」
「せやなぁ。そんでまたそのうち人の姿になってしまうやろな」
「そんな、普通逆やないんですか。ハラ減ったら弱って化けとることが出来んようになるみたいな」
「郷に入っては郷に従え、や。ここではあっちの姿の方が普通やろ?」
「全然普通やなかったですけどね。でっかい翼くっつけて」
「そこは練習して上手いこと隠せるようにならんとあかんのやけど、俺はまだまだやな。未熟なもんが長くこっちの世界に居られんようになっとるんやろ。自然、怖いなぁ」
「で、また意思疎通が難しなる……」
「すまんが俺はあの姿ではまだ何も出来ひん。練習すれば話したりもできるんやろうけど、俺はまだ若いからな」
「若いって、北さんいくつなんですか」
「俺は人間で言うたら21歳やな。天使で言うたらまだまだ赤ちゃんや」
(ひとつ上……全然若ないやん)
「とりあえず、弓と矢見つけんことには身動きとれへんねん俺。治、手伝ってくれるか?」
「まぁ、しゃあないですね。今日休みやし、乗りかかった船やし、ええですよ」
「次また人の姿になってしもたら、治が頑張って俺のこと好きになってくれたらこの姿に戻れると思う」
「なるべくそうはならんように、あんまり体力………言うてる矢先!!」
即座に自分の状況を把握し、治は天を仰いだ。
手のひらに乗っていたはずの毛玉は姿を消し、無表情な青年が治の膝に座り、真っ直ぐに治のことを見つめていた。
しかも、先程と違い治の高校時代のワイシャツを着ている。まさかと思いそれとなく裾を捲って確認すると、下には治のお気に入りのボクサーパンツが覗いた。サイズが違いすぎて際どいところまで見えている。
「ダメです」
先ほどの行為で味を占めたのか、積極的にスキンシップを図りにくる彼をやんわり押し退けながら、治は特製おにぎりを口に運んだ。
こんなことなら、人の姿でおる時どのくらい意識があるのかを毛玉に確認しておくべきやった。
さっきのアレ、俺のファーストキスやったのに。いや、まあ、ツムとふざけてしたことは何度でもあるか。芸人の真似したりしてな。こいつも男やし毛玉やしノーカンやろ。
「これ食うたら、昨日の公園行ってみましょ」
散々押し退けられて不貞腐れたのか、治の胸に顔を埋めて大人しくしていた信介が、ほんの少し嬉しそうな、感情のこもった目で見上げ、翼がふわりと二人を包み込むように広がった。その素直な反応にドキリとし、早々に視線を外して照れ隠しとばかりに残りのおにぎりを無理やり口に押し込んだ。
「ほんでも北さん翼隠せんことには外出歩けませんね。夜にしますか?」
「いや、大丈夫や。また人に戻らんうちに早よ行くで」
治の前には、また白い毛玉に戻った北信介の姿があった。