絵画異聞帯ロシア、その中央に聳える宮殿にはかつての栄華の名残が山のように、されどひっそりと人知れず遺されていた。彫刻、絵画、工芸、音楽、書物と多岐にわたる遺物たちは王侯貴族たちがありとあらゆる文化を用いて、己が栄光と名誉を末世の子孫にまで語り継ごうとした証の数々。
美しい、と思う。けれど、カドックは本質までそれらを理解できるかと言われれば否定する。自分は貴族ではない、ただの平民だ。本質を知らないのであれば、ここにある全てもただの美しい"だけ"のことだ。美しいまま、永遠に降り続ける雪の中に埋没していく。忘れられていく。まるで凍土における自分たちのようだ、と自嘲する。意味をつけるのはいつだって、所有者の理解だ。
そして、と改めて埃を被った油絵たちを見上げる。廊下にずらりと飾られた額縁の中は、どれも人間の顔ばかりだ。
ーヤガの顔を残しているものは、何一つこの宮殿の中にはない。
「遅かったわね」
まるで目の前の絵画から抜け出したような姿をしたアナスタシアが、ごく自然に霊体化を解いて隣にふわりと現れた。遅れて彼女のドレスにつけられた宝飾品の音が鳴る。
「部屋で待っているんじゃなかったのか」
「退屈で仕方がないもの」
淡々と返事をするキャスターはこちらをチラリと見た後、廊下に飾られた絵画たちへ視線を映した。
「つまらない顔ばかりね」
「……そうだな」
特に話すこともなく、続ける話題もない。何か言うべきだろうだがと悩んだが、生憎カドックに手持ちのカードがない。召喚してからこの方、カドックからは雑談めいた場を避けていたのに、と内心頭を抱えていた。何を話せばいいのかさっぱりわからないからだ。そもそも、話すために彼女を呼んだわけでもない。
そうして選んだ沈黙の中で、轟々と背後の窓から軋むように鳴る外の音が嫌でも耳につく。今日はいつもに増して風が強い。嵐のようだ。
「あなたがさっき考えていたこと、当ててあげましょうか」
そんな中、決して大きくはない彼女の声が聞こえたのは、どういう訳なのかよくわからなかった。魔力でも篭っていたのかと視線をやれば、アナスタシアはこちらをただ静かに見ていた。
「どうしてヤガが飾られていないか。ー違うかしら」
言葉を失ったままでいると、続けてキャスターは口を開く。
「ヤガたちにとって自分たちは残すべきではなく、恥ずべきものだったのかしら」
ー私はヤガみたいなものだもの、と言った言葉が脳裏に過ぎる。
召喚の影響でアナスタシアの欠落を時折目の当たりにする度、魔術師としての自分の身勝手さを突きつけられるようだった。彼女はその事に関して何も言わない。何も言わないのをいい事に勝手に痛む体は何なのか。幻覚で痛みに酔っているのか、自己保身なのか、自分に他人を慮るような感性が残っていたのか。カドックには最早わからなかった。
それでも、生来の姿から歪んだとしても。自分には今、目の前にいるアナスタシアが必要だったのだ。
「僕は君がヤガだろうが、人間だろうが、幽霊だろうが、恥ずべきものだろうが、どんな顔をしていようがーどうでもいい。必要として呼び、君はそれに応えた。互いに為すべきことがあるから、ここにいて協力し合っている。違うか?」
誰が非難しようが、例え彼女自身が否定しても、自分だけは今の彼女の在様を肯定する。
義務ではない。これは必然だ。
「……そうね。あなたの言う通りだわ」
ふ、と和らいだようにキャスターは表情を緩ませる。それはカドックが見る、初めての笑顔のようなものだった。
「それでも、一枚もヤガたちの皇帝の絵がないと言うのは威厳に欠けるわね」
やはり彼女もこうした「誰かに見せる」感覚を当たり前に持っているのは、骨の髄から皇族なのだなとしみじみと実感する。
「……なら、絵を描かせる職人を育成するところからだな」
「あら、手始めにほら、あなたが持っているスマホとやらを貸しなさい。簡単に絵が撮れるでしょう」
「あんなものでいいのか?」
威厳と言ってた割にインスタントだな、と思わず呆れた声が出る。
「あなたの好きな効率化ってやつでしょう?私、じっとしているのは嫌いなの」
言ってることはめちゃくちゃだ。絵を寄越せ、ただし迅速に。それも皇族らしいというのか。
でも、まぁ、今すぐであれば取り急ぎーテストで行うくらいはいいだろう。急かされて端末をポケットから取り出す。ほら、と渡せば非難がましい目で見られた。
「自分で撮れっていうのかしら?」
「……わかりましたよ、皇女サマ」
渋々カメラを構えれば、画面越しに見る彼女は何か考えたように俯いている。そしていいことが思いついた、というようにこちらのカメラ越しに向かって口を開いた。
「ねぇ、折角なのだからちゃんとした所で撮りたいわ。こんな適当な所ではなくそうね、例えばー」
「わかった、わかったよ!君のお眼鏡に適うところで撮るから、連れて行ってくれ」
率直に言えば今ここは彼女が撮りたい場所ではないということだ。カドックは両手を上げて早々に降参する。
「じゃあ、とっておきの場所があるから連れて行ってあげる。ついてきなさい、マスター。とびきりの私を撮らせてあげるわ」
やっと上機嫌になったキャスターは青いマントを翻し、足取りも軽く歩き始めた。ふと、カドックが当たり前に彼女と必要以外のことで話せていた事にこの時初めて気づいた。
そして自分の前を歩くキャスターの後ろ姿は、どこにでもいる女の子にしか、この時ばかりは見えなかったのだった。