幻雪「シャディク、あんた雪って見たことある?」
薄ら寒い大人たちの挨拶の猛攻を上手く抜け出し、外の廊下を歩いていた時のことだった。久しぶりにパーティで出会ったミオリネは少しだけ背が伸びていて、背中に流れた髪の毛が歩くたびに揺れている。前を歩く彼女が視線を向けた先は、無駄に大きい窓の外は無機質な鉄の要塞、時折常夜灯が点滅するのが見えるだけだ。夢見る天然資源は何ひとつ映っていない。
「映像だけなら」
「そう」
彼女がわずかに肩を落とした。意地を張る癖のある幼馴染にしては、珍しいほど分かりやすい仕草だ。
「……何かあったの、ミオリネ」
「うるさい」
「俺は君の質問に答えたよ」
質問にちゃんと答えなさいよ、と先日の喧嘩で目の前の彼女から貰った言葉をそのまま返す。ミオリネも思い出したのか、ぴたと足を止める。意地が悪いのはお互い様だ。ただ、今日は随分と踏み込みすぎてしまったらしい。
「……わない、って」
「ミオリネ?」
背中越しで小さな声で何か言ったようだが、分からなくて思わず聞き返す。怒ったような、恥ずかしいようなーそんな感情を足して割らない顔をして、お姫様はようやくこちらを向いた。
「約束!今からいうこと、誰にも言わないって誓える!?」
「いいよ、約束する」
「……この約束は誰に誓える?」
「君に」
「ーあんたのパパが教えろって言っても?」
「君の約束を優先する」
ミオリネの瞳を真っ直ぐに見つめて応えた。すると、目の中から少しずつ怒りのようなものが和らいで行くのが見えた。彼女はよく怒るけれど、どちらかというと的確に相手を凍らせるように怒る。ここまで感情的に噛み付くことは珍しい。よっぽど言いたくないー逆を言えばミオリネにとって、本当に大切なことなんだろう。
「……なら教えてあげる……。あのね、」
彼女は自分の髪の先をそっと掴む。そして先ほどとは違う、心の底から嬉しそうな顔を浮かべる。
「お母さんがね、ー私の髪は雪みたいに綺麗ねって褒めてくれたの」
柔らかくなっているミオリネの表情とは真反対に、自分の顔が静かに硬直していくのがわかった。無理やりにいつもの顔の表情になるよう、力を入れる。その傍らでそっと記憶が囁きだす。
頬に冷たい何かがあたっては溶けていく。
ーシャディク。
そう。あの日も、雪が降っていた。
ーシャディク、ねぇ、起きて。死んでない?
自分に話しかける幼い口から、白い息が漏れる。
「雪はとても寒くて冷たいけれど、本当に白く輝くんだって」
ミオリネの声は砂糖菓子のように甘ったるい。
ーよかった。生きてた。××?××は……、冷たくなっちゃった。
ノロノロと視線を向ける。視線の先、同じようにボロに包まれた子どもの姿がある。その力なく伸びた手のひらの中は、すでに雪が降り積もっていた。
「雪も色々あるんだって。でもね」
安心して溶けそうなほどにあたたかい。
××は、その日雪の中に埋められた。本当は雪なんかじゃなく、土の下に埋めてやりたかった。雪が溶ければ、××の身体は、獣の餌になることがわかっていた。けれど、凍りついた地面は子どもの爪だけでは何にもならない。
「1番素敵なのは、朝のお日様を浴びた、一面の雪景色なんだって。いつか、あなたと一緒に見たいわねって言ってくれたの」
こうしてみると、次々と蘇る雪の思い出は碌でもないものばかりだ。あぁ反吐が出る。雪が綺麗?綺麗の下に何が埋もれてしまっているのか、見てみぬふりをしているお貴族様らしい発想だ。雪につぶれて、冷たく凍える市民以下のことなんて存在しないとすら思えている方の、なんと素敵で傲慢なお言葉か!
目の前の彼女が語る溶けそうなほどに甘ったるい温度の言葉と、自分の中の凍えた記憶の声が混ざり合っう。
頭が割れるように痛い。凍った土の温度が指の先に蘇る。気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪くて仕方がない。けれど、
「約束、してくれたの。お母さんが私に」
君の声がする。
俺は何も言わず、表情を変えず、心の底に飲み込んで黙って聞いていた。例え思い出したくもない記憶の蓋を、よりによって彼女にこじ開けられても。
「だから決めたの、お母さんと一緒に地球に行くって。それから、一緒に朝の雪を見るの」
幸せな、君の声がする。それで十分じゃないのか。
例えそれがら自分に向けられていなくてもよかった。彼女が幸せなら構わない。
ミオリネの幸せな声をいつまでも聞いていたい。
「……以上、終わり。ちゃんと約束守ってよね」
俺の演技は上手くいったらしい。彼女は何一つ気づかず、幸せな記憶の箱を閉じて、いつもの少し不機嫌そうな顔を浮かべていた。俺もそれに合わせて、いつものように返事をする。
「わかっているよ。でもミオリネ、ここにも雪を降らせることはできるだろう、君なら」
「お母さんが見たのは地球の雪なの。人工雪で私を褒めてくれたわけじゃないの」
「なかなか細かいなぁ。……行ってみたい?」
「当たり前じゃない!」
彼女は、俺の言葉にいたく怒ったようで頬を赤らめていた。話を聞いてたの、と言いたげな顔つきだ。 かわいいミオリネ。可哀想なミオリネ。君が地球に行くことはきっとないだろう。ミオリネが地球に行くことは、肉食獣の中に目隠しされたうさぎを放り込むようなものだ。何の覚悟も、なんの奪われることも考えていないお姫様がいく冒険ではない。
それに、
「そんなにいいものではないかもしれないよ」
「……やっぱりアンタ、見たことあるでしょ」
「さぁてね」
俺は彼女を地球へ、朝一面の銀世界へと一緒に連れていくことが出来ない。そのことがわかっていたから、ミオリネが本当に欲しかった言葉を与えることは嘘でも言えなかった。彼女には嘘をつきたくなかった。
だからはぐらかすように答えれば、揶揄われたと勘違いしてくれたミオリネは、ふんと鼻を鳴らす。そして、挑むようにこちらを見る。
「まぁ見てなさい、シャディク。私はきっと朝の雪を見に行く。その時はー、」
ゴウン、と近くのシャトルが開閉する音が響く。ミオリネの言葉の続きはそのまま轟音に飲み込まれてしまった。
あの日、君が俺に宣戦布告した言葉は何だったのか。聞き返すことが出来なかった臆病な俺は、いつまでもその空白を埋めることが出来ないままでいる。まるで、溶けない幻の雪のように。