柔らかくて、痛い ラディムが護衛になってから、退屈することが少なくなった。剣術の稽古のときも、王政について学ぶときも、その長身を部屋の隅にぴったりとくっつけ、葉巻を燻らす。メイドのように世話はしてくれないが、ただそこにいて輪を乱さず、食事の際も毒味をする。
一度、銀の食器が役に立たなかったことがあった。致死量に満たないほんの僅かだが、遅行性の毒が入っていたのだ。犯人は今年入ってきたメイドだった。曰く、他の国の領主から俺を消すように言われたのだとか。その話を聞いたあと、父は地下にそのメイドを呼びつけていた。彼女は小さかったが、これからの将来がなくなったのはかわいそうだと思う。
「オレは毒に慣れてるからな」そう返すラディムが、自然な手つきで俺の頭を撫でた。もう数え切れないほど触られたため、無礼だとかそういう感情はない。家族らは黙ってされるがままになっている俺が珍しいのか、はたまた護衛が王子に触れることが考えられないのか。俺が思うに、どちらともだ。家族よりもラディムと過ごす日の方が多いせいか失念しがちだったが、傍目には非常識に映ったのかもしれない。
そのような、何気ない日々にラディムという灯りがついたことにより、俺の生活は少しずつ変わっていった。今日も日の出と共に起こされ、母が好きな薔薇園を散策する。こんなところに連れてきて何をしたいのかと問えば、ラディムはふっと笑ってその場に屈んだ。
「ほら、ミカも」
「だから、そのあだ名やめろよ……」
渋々俺も屈んで、ラディムを見上げる。碧い瞳が青空の元できらめいている。海を閉じ込めたような、その中に無数の星が散りばめられているような、不思議な感覚だ。反対の目は、否、反対の目も、きっときれいに違いない。思わず、手が伸びる。
「おっと、眼帯は外してくれるなよ。こっちの目は人に見られたくないもんでな」
「なんで。いいだろ別に」
「駄目だ。呪われるぞ」
それまで穏やかだったラディムの口調が、途端に低くなる。怖気づきそうになるのを何とか堪え、ラディムを見つめる。
呪われるなど、有り得ない。ラディムの瞳が奇麗でない訳がない。顔を近づけると、瞳の碧の中に俺のシルエットが映っているのが分かる。海の中を漂っている、クラゲになれた気分だ。
そのままラディムの目の中に映る自分を見つめていると、赤毛がはらりと垂れてくる。ラディムも顔を近づけてくれているのだと気づいたとき、身体が勝手に動いた。
眦に、唇を寄せる。右頬の傷痕を指でなぞると、ラディムがぴくりと反応する。顔を離すと、ラディムの口から葉巻がぽろりと落ちた。
「……ラディム?」
「あー、いや、なんでもねぇ。びっくりしただけだ。まさか目にキスされるとは思わなかった」
「え、あ……?」
あれ、と思った。自分の行動の違和感が、今になって俺の思考を雁字搦めにしていく。頭の中にはラディムの目が奇麗なことしか浮かんでなかったのに、それがぐちゃぐちゃと歪んでいく。残ったのは、きたない感情のみだ。
この目の美しさを、誰にも分かってほしくない。
***
その日の夜、ラディムが珍しく酒を飲んでいた。果物の蒸留酒だ。傍には、眼帯が置かれている。
少しの好奇心だった。眼帯をこの目で見てみたかった。普段隠れている左目を、一度でいいから見てみたかった。ただ、それだけだった。
ラディムに与えられた部屋には、俺しかいない。当の本人は眠りこけており、目を開ける様子はない。
俺はラディムの眼帯を手に取り、そっと自分の目に当ててみる。視界が暗くなる。こんなものをつけて俊敏に動けるラディムの身体能力は、相当高いのだろう。
ラディムがまだ眠っているのをいいことに、俺は眼帯をまじまじと観察する。黒い。革のような素材でできている。よく見るとそれはぼろぼろになっており、ところどころが剥げている。これは、新調した方が良さそうだ。
明日になったら贔屓にしている職人に作らせよう。そう思って眼帯を元の場所に戻そうとベッドから立ち上がったそのとき、ぐるりと視界が反転した。
「いっ……!」
そのまま、ラディムのベッドに押し倒される。ゆらりとこちらを睨めつける瞳は、左右で色が異なっていた。
「……返しな、坊ちゃん。人のものを盗るのはよくねぇぞ」
「あ、ちが、これは」
「返せって言ってるだろうが!」
じわり、汗が滲む。酒に酔っているように見せかけて、理性は保っていたらしい。ラディムが激昂する姿を見るのは初めてのことで、身体が竦む。
手に、力が入らない。とさりと眼帯がベッドに落ちる。それを乱暴に奪い返し、再び俺を睨みつける。
燃え上がるような、朱だった。ラディムの左目は、鮮やかな赤色をしていた。宝石というより、業火を目の前にしているみたいだ。美しくもあり、恐ろしい。
俺の視線に気づいたのか、ラディムは眼帯で左目を覆ってしまう。その瞳に怒りと僅かな悲しみの感情を湛え、静かに俺を見下ろしている。
「ミカル。一つだけ教えてやる。この世には知らない方がいいものもあるんだよ」
「な、なんで。奇麗な赤だっただろ」
「おまえの感覚と世間の感覚を一緒にしちゃあ駄目だな。この目のせいでどんな目に遭ってきたかなんて、温室で育ったお坊ちゃんに分かるか?」
口調はいつものラディムだが、青い目は俺を射殺さんとばかりに見つめている。謝罪をしたくても、言葉が出てこない。ごくりと息を呑むと、ラディムがようやく目尻を下げる。分かればいい、と俺から離れていくその手を取ると、払われてしまう。
「あんましオレに触んなよ。呪われるぞ」
「呪われねーよ。それともなに、ラディムはそんなもの信じてるわけ? 馬鹿じゃん」
「……なんとでも言え。この話は終わりだ。おまえもさっさと寝ろ」
酒が回っているせいか、ラディムの口調もどこか拙い。そういえば、彼は他の国の出身だと父が言っていた。故郷で何かあったのかもしれない。
「俺は、ラディムの目が好きだ。呪いとかそんなもん関係ない、奇麗だと思ったから、見たくなった」
「だから、それはミカルが……」
「常識からズレてるから、信じないってのか? 器が小さいんだな。三ヶ月前に初めて会った日の方がおまえらしかった」
わざとラディムの気分を逆撫でするような言葉を吐けば、その眉がぴくりと上がった。そうして枕元に置いてあった酒を飲み干すと、ラディムは俺の腕を掴んでまたベッドに押し倒した。
本当は、目の前の男に怖気づいていた。禁忌に触れるような真似をした俺が悪いことくらい、理解している。まさかここまで怒るとは、思わなかったのだ。
「護衛対象を乱暴に扱っていいのかよ」
「ちょっと黙ってくれねぇかな。小鳥に耳元で鳴かれてる気分だ」
「悪いけど、俺は口が減らねぇんだ。喋ってほしくなかったら口でも塞いで——……」
他人に喧嘩を売るのは得意だ。いつものように挑発してみせると、普段は乗ってこないラディムが俺の口を塞ごうと手を伸ばしてくる。
かと思いきや、そのままラディムの顔が近づいてきた。
「ぇ……ん、む……っ」
口づけられているのだと気づくまで、時間を要した。唇はすぐに離れたが、俺の脳内はまだ処理が追いつかない。
外から夜風が吹き込んでくる。涼しいはずなのに、全身が熱い。自分がよほど情けない顔をしていたのだろう、ラディムはおかしそうに笑って、「ざまぁみろ」と囁く。
空っぽの酒瓶を抱き締めながら、ラディムはあくびをしてベッドに乗り込んでくる。必然的に追い出される形になった俺は、すでに寝息を立てている赤毛を黙って見ていることしかできない。
「……ふざけんな、甘いの嫌いだってのに」
唇を舐めると、仄かに蒸留酒の味がした。顔が熱いことには気づかないふりをして、俺はラディムの部屋を後にした。