**** xx-01 あれはとても暑い夏の日でした。私は汗だくになって自転車をこいでいました。友人と遊びに行くのでしたっけ。病院の予約があったのでしたっけ。いっこうに思い出せないのですが、学校に急いでいたのではないことだけは確かです――私はこの年も皆勤賞を逃さなかったのですから。
行き先と用事を忘れた代わりとでもいいましょうか。古い自転車のどこかからキイキイと耳障りな音が鳴っていたことを覚えています。大きなお屋敷の庭木の陰を歩いている人を追い越し、勢いよく行き過ぎるとき、ちょうど、蝉たちが大騒ぎを始めたことも。大ぶりの枝がつくる木陰にすっぽり収まった私の耳は蝉の声で埋めつくされました。私は相変わらずペダルを必死に踏み込みながら、突然吹き出してしまいました。自転車のやつが、昆虫どもの勢いに押されて黙ったような心地になったからです。まったくばかばかしい妄想です。この蝉時雨を抜けてしまえば絶対にまた自転車の悲鳴は私を苛つかせるに決まっているのに。きっと、思考に回すぶんの酸素が足の筋肉に取られていたんです。けれどその一瞬のばか話が命取りでした。忘れがちですが、自転車という乗り物は実に繊細なバランスで成り立っているものですね。私はペダルにかける体重を少し、ええ、ほんの少し間違えてしまったのです。
気付けば私の身体は熱されたアスファルトの上を滑っていました。
さぞ大きな音がしたかと思いますが、私の記憶にあるのは蝉たちの大合唱だけです。まるで滝壺の中に放り込まれているみたいな音でした。なにが起きたかさっぱりわからず、私は道路に寝転がったまま、虚しく回る自転車のタイヤを見つめていました。家から急いで飛び出したときにとりあえずつまさきに引っかけたサンダルも悪かったのか……ああ、このときの私のあらゆる失敗についての話はもうやめましょう。私にだって恥ずかしいという感情はあるんです……
凜とした声が蝉時雨を割って私にかけられました。
驚いて私は声のほうへと顔を向けました。おそらくはさきほど私が追い越した人がこちらへ駆けてくるのが見えて、私は赤面しました。赤面していたと思います。自分の顔など鏡もなしに見られませんから、きっとそうだろう、と思うだけですが。私は慌てて立ち上がろうとしましたが、残念な結果に終わりました。痛みが邪魔をしたのです。とにかく暑い日だったので、私は薄っぺらいTシャツとハーフパンツしか身につけていなかったのです。おわかりでしょう。私の身体は一瞬にしてみすぼらしいものになっていました。片方の膝を大きくすりむき、二の腕には打ち身、髪も服も乱れて酷いありさまだったでしょう。声をかけてくれた人が駆けつけてくれるまで、私は道路に座り込んだままで過ごすしかできませんでした。
「大丈夫ですか」
と、その人は焦った口調で言いました。大丈夫です、と反射的に答えてしまったような気がするのですが、はっきりとは思い出せません。私の前にしゃがみこんで目の高さを合わせ、心配そうに眉を下げたその人の表情ばかりが印象に残っているのです。通りがかっただけの赤の他人に向けるにはあまりに親身だと――ああ、私の転倒がそれほど派手だった可能性についてはあまり言及しないでいただけますか。
「私はそこの家の者です」
その人は、蝉のなく木の植わっている向かい側のお屋敷を――お屋敷、と言いたくなるほど立派な造りの建物を――指さして言いました。
「頭は打っていませんか」
はい、と私は蚊の鳴くような声で答えました。いつの間にか蝉は鳴き止んでいましたから、返事はきちんと届いたでしょう。その人はほっとしたように微笑んで、こう続けました。
「お急ぎだったようですが、少し時間はありますか? その膝、軽くでも手当てをしたほうがいいと思います。すぐに救急箱を持ってきますから」
待っていてください。
すごい勢いでした。私はなんだかぽかんとしてしまっていましたから、かくかくとうなずくくらいしかできなかったのではないでしょうか。その人は道路のど真ん中に転がっている私のみすぼらしい自転車をてきぱきと路肩に寄せてから、お屋敷の中に飛び込んでいきました。私も、道路に座り込んだままではいられません。少しだけ立ち上がるのに苦労はしましたが、お屋敷の門のところまでなんとか移動しました。ただ、なにもないところで転ぶという体験が私のささやかなプライドを傷つけていたとみえて、結局立ってはいられなかったのですが。
その人がもどってくるのを待つ間、私はお屋敷の壁を見上げていました。はめ込まれている表札はお屋敷と同じくとても古びていました。赤茶けた色の木肌に書かれた名字を見つめて私は首をかしげました。
そうこうしているうちにその人がもどってきました。もしかしてお医者さんか、看護師さんですか、と私はつい訊ねました。手当をする手つきがとても素早くて手慣れていたのです。私にもわかるくらいですから相当だったでしょう。けれどその人は控えめに笑って、いいえ、と言いました。
「昔、すぐに生傷をつけて帰ってくる者がいましたので」
そうなんだ。
答えを聞いて、私はなにを返していいかわからなくなりました。昔いた、ということは、もういないということです。軽々しく訊ねられる話題ではないということくらい、まだまだ青二才だった私にもわかりました。私はその人の指先が器用に動いて手当を完遂させるのを見ながら考えました。別になにか話さないといけないというわけではなかったはずなのですが、……正直に言いますと、ええ、もう一分だけでいいので、その人の心地よい声を聞いていたかったのです。
あのう、と私は言いました。表札の字が読めなくて。失礼ですが、なんと読むのですか。
「ああ」その人は笑いました。確かにちょっと読みにくいですよね。「百貴、です。――掛け替えないといけないんですけどね。ついそのままにしてしまっていて」
えっ、と声が出ました。思い返せば、私はこの日、本当に失敗ばかりをしていたのですが、これが最たるものだったでしょう。知らなかったとはいえ、回避したはずの話題に真正面から踏み込んでいたのですから。
「あ、ごめんなさい。つい懐かしくなってしまって」
けれども、その人は微笑みました。やわらかくて、とても綺麗な笑顔でした。
「私、飛鳥井と言います。この家の……管理代行人、というところでしょうか。権利者ではないんですが、住まわせていただいているんです」
彼女の肩にさらりと流れた黒髪の艶やかさを、私はきっと忘れないでしょう。
やさしい声でお屋敷を送り出されたあと、私は自転車をきいきい言わせながら、呆然と町内を歩き回りました。頭の中からはなにもかもの予定がすっぽ抜けていました。からっぽになった脳にはぐるぐると彼女の声ばかりが巡っていました。はにかんだ表情。素敵な香り。そっと触れていった手のやわらかさ。儚げな声音で囁かれる、深みのある物語のかけら。
ええ、ええ。仕方がないでしょう。多感な学生の身を震わせるには充分すぎると、そう思いませんか?