朝の早い時間、午前五時くらいになると、この町にはときどき濃い霧が出る。
霧は数歩先も見えないほど真っ白で、辺りもまともに分からないほどだ。霧が出た日は湿気の匂いでいっぱいになるから、目を覚ました時にすぐわかる。ベッドの中でぼんやりと窓の外を見て、それからああ、といつも思うことがある。
この町では朝に霧が出ると、誰も外を出歩きたがらなかった。霧の中に入ったきり帰ってこない人がいるのだとか、そういう話があるらしい。けれど、剣持はあまりその噂を気にしたことはなかった。
その朝も目を覚ますと、いつもより少し空気がひんやりとしていた。湿気の匂いと共に、窓の外がひどく白んでいるのが見える。身体を起こすと、雲の中にでもいるかのように真っ白になった外が見えた。
こんな日は、どうしてかいつも散歩に出かけたくなる。どんなに眠いと感じていても、霧の中に入らずにはいられなかった。そうしたい理由もわからなかったが、気づけば剣持は外に行くための服に着替えて、まだ寝ているだろう家族たちを起こさないように自宅を出てしまうのだ。
そうして今日も、薄手のジャケットを羽織って家を抜け出す。自宅の扉の外は、先さえ見えないほどに白く塗りつぶされていた。人の気配のないその霧の中を、剣持はゆったりと歩き出す。行き先もない、最早どこに向かっているかさえわからない、その霧の中を。
霧に覆い隠されて屈折した日の明かりが、宵闇を明るくし始めていく中。剣持の姿はその随に消えていった。
◇
午前八時頃になると、霧はさっと晴れた。
霧の中では、いつも様々なことが起きる。街の様相だって様変わりした。人語を喋る猫に、地面の中を泳ぐ魚を見たこともある。今日は風もないのにビニール袋が舞い上がり、自分と同じサイズのブリキの人形が、ぎいぎいと音を立てながら踊っているのを見た。地形さえ変わって、この町にはないはずの海や火山を見ることもあった。
不思議で、奇妙で、おかしい霧だ。そうわかっているのに、なんとなく剣持は霧の中を散歩するのが楽しかった。ただ、それが面白いものが見られるからなのか、それとも別に理由があるのかどうかはわからない。ただ、楽しんでいる自分が普通でない自覚もあった。きっと家族に話せば、以前のように訝しまれるのだろうとも。
立ち込めていた白が薄く消えて、段々と視界が鮮明になる。気付けば、剣持は自宅の前に戻ってきていた。家族全員で住んでいるこの家は、つい数年前に越してきたばかりだった。悪い家ではないし住み心地も悪くはないはずだが、剣持は何故かあまり好きにはなれなかった。何か明確に嫌なことがあるわけではない、ただ何となくというだけの理由だった。
剣持は、この家に来る前のことをうまく思い出せない。以前からずっと思い出そうとしていたが、もやがかかるようにおぼろげだった。それこそ、霧がかかるような心地だった。だからだろうか、ここ最近は霧の中からの散歩が終わると、こうして家を見上げながら呆然とするように立ち竦んでしまうのだ。いつもそうしてしまう、何も思い出せないというのに。
どうして思い出せないのだろう。どうして忘れてしまっているのだろう。この家をいつか出る時、自分はこの家のこともわからなくなってしまうのだろうか。そんなことを取り留めもなく考えることが増えた。あまり好きではないという割に、それを忘れることの方がひどく嫌だった。忘れることは、思い出せなくなることは、失うことなのだと思っているから。
日々を積み重ね、時間が過ぎる限り、人間の記憶容量には限界が来るのは当たり前だというのに。剣持はそれが少しずつ自分が失われていくような気分がして嫌いだった。できるならすべてを覚えていたい。忘れたくない。失くしたくない。そう思うのに、思い出はすぐに抜け落ちていく。手のひらの中でこぼれ落ちていく水のようだと、いつも思っていた。
「…………どうしようもないのに」
剣持はようやく玄関の扉を開けて、家に入った。靴を脱ぎ、真っ直ぐ自室へと向かう。物音の少ない家の中は静まりかえっていて、きっとまだ自分以外起きていないのだと思わせた。
自室の扉を閉めてから、脱いだジャケットをハンガーにかけて、剣持はベッドにもぐり込んだ。いつもなら顔を洗って一人用の朝ご飯を作りながら一日の予定を確認するけれど、今日はそんな気にならなかった。寝て、このぐるりと渦巻いている考えを払ってしまいたかった。たとえそんなことは気休め程度にしかならないとしても。
どんなに嫌でも、悲しくても、時間が待つことなどない。剣持はそれを痛いほど理解していた。まどろみ始めた意識の中で、どうしてそんなことを自分が嫌というほど理解しているのか──一瞬考えようとして、やめた。朝は既に、否が応でもやってきてしまっているのだということに、気づいたからだ。
◇
身じろいだ視線の先が明るい。ああ、朝だと思った時に鼻腔を擽ったのは湿気の香り。今日も霧が出ているということに気付いた。
身体を起こしてから目を向けた窓の外は白んでいた。朝になった時の明るさとは違う、向こう側の見えない白。今日も散歩に行こう、そう思った剣持はシーツの合間から抜け出して、ジャケットを着る。寝ている家族を起こさないように部屋を出て、静かな家を抜け出していく。履き慣れた靴のかかとを鳴らして、霧の合間に紛れるように当てもなく歩いた。
頬を撫ぜる霧の冷たさは、朝の冷えに少し似ている。気温の下がった空気を、太陽の光が少しずつ温めていくさまは、時間が経つにつれて晴れていく霧のようだった。いつか一日じゅう街が霧に包まれてしまったらどうなるのだろうと考えたこともあったけれど、きっとそうなったら自分はいつまでも、どこまでも散歩をしては家族を困らせてしまうのだろう。もしかしたら、霧に紛れて消えてしまうのかもしれない。消えたいと思っているわけではないのにな、と、まだ眠りから醒めきらない頭がぼうと考えのふちを際立たせた時、ふと視界の端で何かが揺れ動いたのが見えた。
ああ、人だ。そう気づいた時、その相手も剣持の姿をとらえたのだろう。驚いた表情で此方を見つめていた。
「……おはようございます」
「え? あ、ああ……おはようございます」
挨拶を返されて、今度は剣持の方が驚いてしまった。この霧の中で人に出会うことがないわけではないが、意思疎通が取れたためしは今まで一度もなかったからだ。まともな会話が出来る相手がいるとは思わなかったせいで思わず足を止めてしまった剣持に、相手は逆に笑い出した。自分から話しかけておきながら、返事をもらって驚くそのさまがおかしかったのだろう。
「そんな風に笑われると思わなかったんですけど」
「いえ、すみません……こらえきれなくて。申し訳ない」
「いいですけど別に……」
肩を震わせるその横顔を見ていると、なんだかひどく懐かしい心地に襲われた。知り合いだっただろうかと首を緩やかに傾げるも、剣持の記憶は特段似た誰かを思い出すことが出来ない。これだけの美丈夫、一度知り合えば忘れるはずなどないが。そのカフェオレカラーの髪色は挙動と同じように揺れて、柔らかそうに見えた。
剣持がまじまじと彼を見ていたからだろうか。その茶色い双眸は剣持を見てふと口を噤むと、ゆるやかに首を傾げてみせた。
「どうしました?」
「……どこかで、会ったことあります?」
一度誤魔化そうかと過ぎったはずだというのに、剣持は思っている以上にするりとその問いかけを口に出していた。投げかけられたその質問に、虚を突かれた表情の彼はぱちりぱちりとまばたきを何度か繰り返した後に、首を横に振った。
「いえ……ないはずです。ないはず、なのですが……」
そうも否定はしつつも、彼は少し俯きつつ頬を掻いてみせる。
「思い出せないんですよ、何も」
そう困ったように微笑んだ彼に、剣持はああとどこかで思った。──なんだ、この人もか、と。
だからなのだろうか。やはり、初めて会った気はしなかった。
◇
やはり今日も、午前八時頃になると霧は晴れていった。知らぬ間に、剣持と話していた彼の姿も消えていた。
ぼんやりと自宅前の玄関に立ち竦みながら、今日出会ったあの青年のことを思い出す。鮮やかなカフェオレベージュの髪に、淡い茶の瞳。記憶のどこを探っても見つからない、懐かしい気配の彼。記憶が曖昧な剣持と同じく、彼も自分がどこからやってきて、どうしてここにいるのかは覚えがないと話していた。
自分が何処に住んでいるのか、何故霧の中を歩いていたのか。気が付いた時は既に霧の中にいて、それが自力で思い出せる最初の記憶であると話していた。それ以外、名前さえも思い出せないのだという。
その時はああそうなのかと妙に納得していたが、彼が居なくなって自宅に着いた後、思い起こしたその会話が不自然だということに気付いた。もしかしてそもそも彼は、生きた人間でさえないのではないかと過ぎったのだ。
霧の中では様々なものに出会う。人間だって然りだ。記憶がないというのであれば、彼自身も霧から生まれたものであるならば、記憶がないというのも、八時頃になって掻き消えるようにいなくなったのも納得できる。
けれど、あんなに人らしい人を見たのも剣持は初めてだった。大体霧の中で出会う人というのは、なんとも空っぽで意志などあってないようなものばかりだったからだ。人型をとっていて中身は違うもの、と言った方が的確であるのかもしれない。
だから、あれだけ人っぽいものに出会ってしまうと、いよいよ霧が何なのか分からなくなってしまう。それを暴いたところで、剣持にはどうしようもないのだが。
「……まあ、いいか」
あの人は、霧の中の住人だ。今はそれ以上考えるのを、一旦止めることにした。
◇
「あ」
「え?」
「おはようございます~」
それから幾日が経った日の朝、また霧が出た。
いつもと変わらず、またベッドを這い出てジャケットを着て、霧の朝に赴く。今日は少し冷えるな、と少しだけ手先を擦りつつ歩いていた中で、ふと人影が見えた。ぶつからないように避けかけたそれが、以前出会ったカフェオレカラーの彼を彷彿とさせたが故にじっと見つめていると、少しずつ霧の中で形作られたその姿がよく見えるようになった瞬間、突然剣持へと話しかけてきたのだ。
結論から言えば、霧の中から出てきた人影は以前の彼では無かった。プラチナブロンドカラーの髪色は確かに以前の彼と同じく柔らかそうだったが、その双眸は太陽の高い昼の空を思わせるスカイブルー。優しそうな雰囲気は双方変わらないが、此方の方が幾分か人が好さそうというか、ちょっと高い壺とか買わされそうというか。そういう印象を受ける青年だった。
なんだ、前のあの人じゃないのかと一瞬思った剣持へ、その青年はにこやかに挨拶をしてきた。それがまるでさも当たり前かのようにされたせいで、思わず剣持は虚を突かれて無言になる。相手もすぐに返事がなかったせいもあってか、自分が変なことでも言ったのだろうかという表情で固まっている。なんだこの間は。我に返った剣持が一番最初に思ったのはそれだった。
「……おはようございます」
「あ、ああよかった! なんか僕変なこと言ったかと思った」
「いや、大丈夫……僕の方が悪かったんで、今のは」
「突然話しかけたから怖がらせたかなってちょっと思ってました。良かった~」
「別に怖がってはないけど……」
おおよそ話を聞いていないだろう剣持のぼやきを完全スルーして、スカイブルーの彼は胸元を撫でおろすように擦っている。というか前回の件から手前、こんなに人らしい人が霧の中から出てくること自体の違和感が強い。逆に人っぽい何かに出会った時の方が、挙動をどうしていいか分からなくなってしまっていた。
「そっちは散歩ですか?」
「え? ああうん、そんなところです」
「何もこんな霧の中、外出なくていいのに」
「別にそれは……いや、っていうかブーメランでしょうが」
「……確かに」
「馬鹿?」
「誰が馬鹿ですかぁ!?」
まるでさも、元から知り合いかのように出てくる軽口に、思わず剣持は笑みを零してしまう。あまりにもしっくりとくる会話だったせいで、ついいつものように話してしまった節は否めなかった。どうしてこんなに話しやすいんだろうと肩を震わせつつも記憶を手繰るが、やはり彼のような様相の者は思い出せなかった。こんなに通る声なら、覚えていないはずはないというのに。
少しばかりの会話をした後、ふと剣持が投げかけた「もしかして知り合いですか?」の質問には、やはりスカイブルーの彼も首を横に振った。以前のカフェオレカラーの彼といい、懐かしい人間がこうも短期間で会うことなどあるんだろうか。
ううんと思考のために唸った剣持を見てか、青年もゆるく首を傾げてからぽつりと呟いた。
「でも僕、記憶がないので……」
「え、君も?」
この君、というのは、どちらかと言えば自分ではなく、カフェオレカラーの彼を思い出した言葉だった。が、青年は剣持の返答に「じゃあそっちも?」と問い返してきた。
「ええ、まあ」
「ああなんだ、そうなんですね。そっちはどのくらい覚えてないんですか?」
「……数年前からごっそり、って感じですかね」
「じゃあ僕よりは覚えてるんですね。僕の方は……まあ名前さえって感じです」
そこも彼と同じなのか、と剣持は口の中で言葉を転がす。霧の中から現れるものは、記憶がなくなってしまうのが定石なのだろうか。それとも、それまでがないから、覚えていないという認識になってしまうのかもしれない。
ということは目の前の彼も以前の青年と同じく、霧の中の住人であるのだろう。そう過ぎった途端、ふと辺りの霧が晴れ始めていることに気付いた。もう、午前八時が近付いているようだった。
思わずはっとスカイブルーの彼の方を見ると、彼もなにかを察したのだろう。剣持へにこりと笑みを見せた。
「また会いましょ、もちさん」
それだけを残して、彼は霧の合間に掻き消えるようにいなくなってしまった。きらりと瞬く太陽の光は、道の真ん中で取り残された剣持に八時を告げるように降り注いでいる。
「……またなんて、あるかも分かんないってのに」
霧の中の住人と、もう一度会える確証なんてない。以前のカフェオレカラーの彼だってまだ会えてないのだ。さっきの彼だって本当にもう会えないかもしれない。それなのに、まるでさも当たり前のように次を約束してくれたのが、どこかむず痒く、嬉しく、そしてちょっとだけ苦しかった。
少しだけ胸元を摩って、家に帰ろうと振り返る。スカイブルーの彼の言ってくれた言葉を反芻するように何度か思い返しては歩いていた剣持だったが、ふと何かに気付き、数歩歩いた先でぴたりと足を止めた。振り返ったその先には、当たり前のように彼の姿はない。
『また会いましょ、もちさん』
「──名前、教えてないよな……?」
確かに名乗らなかったはずなのに。どうして彼は、自分の名を知っていたんだろうか。
霧の中だから、という言葉だけで片付けてしまっていいのか。そんな不安が落とされた墨のように、剣持の心の中に染みを作って広がる。何かもっと──大事なことを忘れている気がするという、一抹の不安を過ぎらせながら。
◇
記憶というものは、どこに由来するのだろうか。
過去にあったことを忘れてしまうということは人間である限り多々あるが、記憶喪失になった人でも、思い出ではなく物の名前やどういうものであるかを理解することが出来ている人がいる。コーラは甘い炭酸飲料であるということさえ忘れている人というのは、あまりにいないものである。
記憶がなくなるということは、物を忘れることではない。知識だけは残っていて、経験が失われるということなのだろう。
では、思い出が消えてしまったら、もうそれは二度と戻らないのだろうか。人は、消えていくものを必死に抱きかかえながら、生きていくことしか出来ないのだろうか。
「……あ、おった」
「え? なん、誰」
「いや、俺も知らん」
「ええ? 何……?」
「でもなんか、探さんとなあって思っとったんよ。だから、見っけた」
スカイブルーの彼と会った日の翌日の朝も、濃い霧が出ていた。剣持は昨晩の夜から眠れずにずっと窓の外を眺め、明けていく夜空と白に塗り潰されていく空気をずっと眺めていたが、五時頃になったのを確認してからいつものように外へと出た。いつもは散歩をするという不明瞭な理由だったが、今回ばかりは目的があった。
歩き始めて数十分ほど経った頃だろうか。ふと霧の中から現れた普通そうなベンチに腰掛けてぼんやりと霧を眺めていると、自分が進んでいた方面から誰かが歩いてきて、ごく当たり前のようにベンチへと座ってきた。それから、さも知り合いそうに声をかけてきたのだ。思わず剣持は仰け反って不信感を露わにしたが、けらけらと笑うその表情はどこか懐かしさを感じさせ、だからこそ勘付いた。──ああ、彼も前回や前々回会ったあの二人と何か関係があるんじゃないか、と。
以前の二人とは少し違う、もっと癖っ毛の強そうなシルバーの髪に、その双眸と同じ紫のメッシュが散らばっている。鮮やかだし似合うな、と眺めていると、青年は人懐こそうに座っていた距離を詰めては剣持へと話しかけてきた。
「暇?」
「まあ、んなとこに座ってるくらいなので。それなりに」
「じゃあちょっと来てくれん? 案内したい場所があるんよ」
「えっ何、急」
「まあまあまあ」
「初対面で突然どっかに連れていく人とかろくな人間じゃないでしょ!」
「まあまあまあまあ」
「それで丸め込めると思うな!」
あまりにもおざなりな丸め込み方である。だが、それに丸め込まれそうになっている剣持も剣持である。別に手を引かれているわけでもないが、口車だけでどこかへ連れて行きたいらしいシルバーの青年の言葉に若干興味がないわけでもない剣持は、まあ本津にまずそうなら逃げればいいか、などと頭のどこかで考えつつも彼の誘いへ乗ることにした。実際、この脳裏に過ぎる違和感の正体も知りたかったからだ。
シルバーの青年は数歩先も見えないような霧の中を、まるでさも見えているかのように歩き出した。迷いのない足取りで、剣持にふんわりとした軽い会話を投げながら進んでいく。ゆるやかな坂道に、新緑の香り。森の中を歩いているのだと気付くまで、然程時間はかからなかった。
言うほど歩かないと先んじて話されていた通り、十分程度の散歩にも満たない案内の後に辿り着いたのは、森の真ん中を切り開いて建てられた、焦げ茶色を基調にまとめられたコテージだった。少し使い古されていそうなその雰囲気に、はっと剣持は息を飲む。この場所に、以前来たことがあったような気がしたからだ。
青年の手招きと共に開かれたコテージの扉の先は、温かそうな色合いの家具で纏められていた。灯りの反射で見えない、壁に掛けられた絵。グレーの時計に、幾つかの棚。そして部屋の中央に置いてあるテーブルと、その周りに置いてある椅子に座る誰か。その影が此方に視線を向けた時、剣持は思わず小さな声を上げた。
「あれ、」
「あ! また会えた!」
「ああ、良かった。会いたいと思っていたんですよ」
もう会えないと思っていたはずの二人が、そこにはいた。カフェオレカラーの青年と、スカイブルーの青年が立ち上がって、嬉しそうに剣持へと歩み寄ってくる。彼を案内してきたシルバーの青年もまた、どこか楽しげに肩を揺らしながら二人の傍へと寄っては剣持を見つめていた。
やっぱり繋がりがあったんだ、確かに頭の中ではそう思っていた。けれど、剣持はそれより先に何故か、目の奥が熱くなっていた。堪えなければ、今にも涙を零してしまいそうなほどに、感情があふれかえっていた。
ああ、もう一度会いたかった。ただそれだけを願っていた。そんな風に思うのに、どうしてかその意味合いは本来の意味ではないと、冷静な自分がどこかでそう思っている。心と頭が、別々になっているような感覚さえ覚えていた。
案内されるがままに三人がテーブルへと剣持を座らせると、誰かが剣持へとコーラを出してくる。見れば三人の前にもそれぞれ飲み物が置いてあって、ここで談笑でもしていたのだろうと推察出来た。けれど、まるでさも当たり前のように出された自分の目の前のコーラをまじまじと見つめてしまう。彼らの中の誰にも、コーラが好きだと言った記憶がないのに、これを出された意図は何なのだろうということが引っ掛かる。
楽しげに会話が進んで、昔からの馴染みだったかのような心地に苛まれていく。呼ばれる名前へ普通に反応する度に、頭の中の自分が考え込む。教えたはずのない名前を、どうして知られていて、呼ばれていて、それでも自分はそれに言及することもなく答えているのだろうと。
違和感がふちを濃くしていく。少しずつ、少しずつ、何かがおかしいと気付き始めている。けれど、その違和感に対する答えが自分の中で出ない。出すのを怖がっている自分も、どこかにいるような気がした。
ふと会話の端に、剣持が見上げた先。正確に言えばスカイブルーの彼の背の向こう側の壁に、何かがかかってるのが見えた。少しばかり身体をずらして見たそれが、アコースティックギターだと認知するまでには若干時間がかかったものの、口に出してそれに言及すると、振り返ったスカイブルーの彼がああ、と声を上げる。
「あれ、僕のなんです。興味あるなら弾いてみますか?」
「え? 僕が? いやいやいや、弾けないって」
「僕教えますよ! 大丈夫ですって」
「もちさんギター練習しとったんやろ? 出来る出来る」
「確かに練習はしてたけどさあ……!」
投げかけられた言葉に思わず反論した瞬間、先程まで抱えていた違和感がまた熱を帯びる。ギターを練習していたなんて話、誰にも言ったことなんてない。家族くらいしか知らないはずなのに、何で、と。
違和感のせいで固まっていたその少しの間に、スカイブルーの彼はるんるんでギターを壁から外すと、簡単なチューニングをしながら剣持へと手渡してきた。いや、だから、なんていう言い訳は最早通用しない。まあまあとやはり口弁でもない丸め込み方で、剣持はぎこちない手つきでギターを握る羽目になってしまった。
もうコードなんて覚えてないぞと宣う剣持に、スカイブルーの彼が丁寧に押さえる弦を教えてくれる。何だかんだ言いつつ剣持も、一度練習していたからか指がなんとなく思い出そうと動き始めていた。簡単なコード進行と、ゆっくりなストローク。思い通りの音が鳴ると、やっぱり楽しくなる。そういえばギターを弾くってこんな感じだったなと、剣持は頭のどこかでそう感じていた。
ぽろぽろと音を鳴らしているうちに、不思議と押さえていたコードが曲を奏で出す。思い出せないのに、聞き覚えのある曲。ゆっくりとしたリズムを取りながら進めていくと、思い出せやしない歌詞が隣から鮮明に流れていた。──歌い出したのは、カフェオレカラーの青年だ。伸びやかで張りのある、ハイトーンボイスが懐かしい歌を形つくる。ああそうだ、懐かしい。もう久しく聞いていなかったんだ。そう心が思って、けれど、それをいつ聞いたかは思い出せず仕舞いだった。
揺れるように口遊んだ歌は、気付けばその場にいた全員がメロディを奏でていた。本当であればもっと早い曲であるはずで、だけどゆっくりしか弾けない剣持にはこの速度が精一杯で。それでも三人は、楽しそうに思い思い歌っている。目を閉じて、口を開き、声を音にして。それが剣持はひどく、ひどく懐かしかった。込み上げる感情が、思考を止めない頭を搔き乱そうとしている。違和感と既視感と、切望と懐旧に満たされた視界が、涙を零そうとすることだけを必死に堪えた。
最後の一音を鳴らし終わった後、ふうっと詰めていた息を吐き出すと三人分の拍手に包まれた。シルバーの彼は剣持の肩を叩いて、語彙力が若干薄めではあるがありあまるほどの賞賛で褒め湛えてくる。スカイブルーの彼はギターを剣持から受け取りながら、どこが良かったと具体的に感想を述べてくるし、カフェオレカラーの彼はそれを聞きながら嬉しそうに頷いていた。
ギターを握ったことも、歌ったことも、あまりにも久しかった。それでも、忘れていないことが思ったより多かった。剣持はそれだけで、少し安心していた。彼らのことも、自分のことも、忘れてしまった違和感が多すぎて──だからこそ、消え去った数年前以前の自分自身を少しでも手繰り寄せることが出来て、ただ嬉しかったのだ。
◇
午前八時が、間近に迫ろうとしていた。森の中のコテージから自宅まで三人に送ってもらった剣持は、自宅前で三人を振り返る。晴れ始めている霧の中、どうにか肉眼で確認できる場所に居た三人は、剣持へと手を振っていた。
朝日が、霧の粒に反射して線を作っている。眩しさに目を細めた剣持へ、三人のうちの誰かが「またね」と言った。そのまたさえ、来るなんて確証なんてないのに。当たり前のように彼らは再会を口にするのだ。その疑問さえ投げかける時間がないまま、剣持は霞みから晴れていく街並みと彼らを眺めていた。
「……朝なんて、来なければいいのに」
ただぽつりと呟き落とされた一言。霧は晴れて、街は目醒めていた。その中でただひとり、取り残された少年。その言葉の意を問う者などは居らず、剣持にとってただの戯言でしかなくなってしまった呟きは、拾われることもなく空気に溶けていった。
◇
剣持刀也には、数年前からの記憶がない。不鮮明で、おぼろげで、頼りがない。今まではどうしてそうなってしまったのか、失くしてしまった記憶の中には何があったのか、特段疑問には感じなかった。今をただ生きているならば、それで構わないと思ってさえいた。
けれど、剣持は懐かしい青年たちに会った。会ってしまった。故に、過去の自分に何があったのかを知りたくなってしまった。消えてしまった数年前からの思い出の中に、彼らの姿がきっとあると信じ、そう願って、自分の記憶を遡ろうとした。思い出せないのなら、思い出す引き金になるものがどこかにあるのではないかと思い、部屋中の荷物をひとつひとつ確かめるように探していった。あれでもないこれでもないと物をひっくり返すさまは一日中を費やして、それでも何も見つからず、棚や机の中にもそれらしきものはなく、夜が明け、そうして剣持がとあるひとつの段ボールを見つけた時、既に時刻は翌日の朝五時前を迎えていた。外は、濃い霧だった。
その段ボールは、剣持の記憶外にあるものだった。クローゼットの奥深くに収められていた小さいそれは、そもそも何を入れていたかさえ覚えてはいなかった。もしかして、とその段ボールを引っ張り出し、蓋を開ける。中から出てきたのは、幾つかの本とノート、それから──一枚のCDだった。
見知らぬ服を着ている、剣持の姿。それから、見覚えのある三人。ジャケットに映っていたのは自分を含めた四人の姿で、英字はろふまおと、そう書かれていた。
それを見た瞬間、剣持はただ、声もなく目を見開いていた。濁流のように目の前を流れていく景色、景色、景色。それらがすべて、自分が忘れ去っていた記憶だということを、ようやく認識できたのだ。
長い長い間の後、剣持はただひとつ、「そうか、」と震える声を漏らした。
「──そうか。ぼくは──僕は、『剣持刀也』だったのか」
Vtuberだった。バーチャルの世界にいた。あの三人とグループを組んでいた。何度も馬鹿やって、何度も歌って、何度も一緒にいて、何度も、何度も、何度も、何度も。
カフェオレカラーの彼が、加賀美が歌っているのなんて、散々聞いてきていた。スカイブルーの彼が、甲斐田が、ギターを弾いているのなんて、散々見てきた。シルバーの彼が、不破が、変なことを話しているのなんて、散々笑ってきた。それをどうして自分は、全部まるごと忘れて、生きていたんだろう。
はっと顔を上げて、窓の外を見る。深く、濃い霧。壁に掛けられている時計の時刻は、午前五時ちょうど。剣持は、部屋を転げ出るように飛び出した。いつも羽織っているジャケットを置き去りにして、家族が起きてしまうだろうなんてことなど気にも留めず、かろうじて靴だけはどうにか引っ掛けるように履いて、自宅の玄関を開けて走り出す。行き先にあてがあるわけではなかったが、それでも。
──それでも、彼らに会わなくてはならないと、そう思った。だってこの世界がどういうものであるのか、自分が何者であるのか。ようやく、すべてを思い出したのだから。
◇
駆け出した先で人影を認識できたのは、走り出して暫く経った頃だった。霧の少し先に浮かび上がった影は三つ。直感的に彼らだと思った瞬間に、それはもう彼らの形を浮かび上がらせていた。
どこか寂しそうに笑う彼らに、剣持は上がっていた息を落ち着けるために大きく息を吐く。それさえ、彼らは何も言わずに見守っていた。
「……時間が、経ち過ぎてしまいましたね」
たった一言だけ零したのは、加賀美だった。
「長かったもんなあ」
「僕らが思い出せないのも仕方ないですよね」
「違う」
甲斐田が呟いたそれに首を振った剣持は、少しだけ視線を伏せる。胸が痛んでいるのを抑えつつ、どうにか冷静を保とうとしながら。
「三人が記憶がなかったのは、僕がみんなを、忘れていたからだ」
はじめから、ここに人は四人もいない。ここにいるのは、剣持ただ一人だけだ。
剣持がずっと見ていたのは。三人だと認識していたのは。──霧が見せた、記憶の反映。影の具現化。幻でしか、なかったのだ。
「……そうですね」
長い沈黙の後に、それを認めたのも加賀美だった。そういえば、最後の最後にろふまおを解散させようと言い出したのも彼であったと剣持は思い出した。もうひどく古い、昔のことであるとも。
忘却したことさえ忘れるほどの、長い時間が経った。あれが何十年前だったかなんて、もう剣持自身も記憶が薄い。この四人の中で、剣持だけが不老不死であった。だから、彼だけが残された。
思えば──この世界さえ、仮初であるのだ。
「……思い出したから、もちさんはもうこの世界には居られんのかもね」
此処が、自分で作り上げた夢であることも、また思い出してしまった。戻らない、楽しかった過去のこと。残された孤独の自分。目覚めてもただ独りである現実に、帰らざる得ないことも、全部。思い出してしまった。
伏せた視線の先で、視界が揺らめく。あんなに楽しかったことさえ忘れて、そうして思い出して。また忘れてしまったら、自分が『剣持刀也』であったことさえ不確かになる。今回は思い出せたかもしれない。けれど、次忘れた時同じように思い出せるとは限らない。もう一度『剣持刀也』に戻れるとは、限らない。
仮初の世界で、すべてを忘れて眠ることが幸福なのか。それとも現実の世界で、かろうじて憶えていることだけを繋ぎ合わせて孤独を食むことが幸福なのか。それは自分で決めるしかないけれど、そのどちらもが幸福とは言い難い。けれどただ確かに言えることは。
「……もう、忘れたことを思い出すことは嫌だ。忘れて、思い出して、思い出したその先で、まだ忘れている何かがあるだろうと思うのが、一番、……」
怖い。それだけの一言が、出てこなかった。
忘却の随に、取りこぼしたものがあったなら。楽しかった感情も、嬉しかった感情も、いつか忘却と想起の合間で失われていったら。それはもう、二度と取り戻すことは出来ないだろう。今は三人で居たことがあんなに楽しかったのだと憶えていたとしても、繰り返しているうちにそれさえ失くなってしまったら。それはもう、憶えている必要性なんて。
吐き出しかけた言葉をぐっと飲み込みながらも、ただ、世界が揺れ動いている。剣持の意志に反して、もう既に崩壊が起ころうとしているのかもしれない。濃く、深く、白む霧の中。ただ小さく呼吸の音だけが響いている。
「──でも、もし忘れても、ずっと思い出せなくても。それは、もちさんであることは変わらないですよ」
その静寂の中にこぼれた声は、甲斐田のものだった。
「……そうですね。例えすべてが記憶から消えたとしても──今の剣持さんは、過去からの道の上に立つ剣持さんだ」
「ん、身体が覚えているってやつやん。それは間違いなく『剣持刀也』や」
「憶えてなくても、もちさんはギターが弾けた。僕たちとの歌が歌えた。だから、問題ないんですよ」
恐怖に立ち竦む背中を、いつかの仲間の手が押す。途方もない時間の中で、ただ息をする以外のことを忘れていた剣持を、前に進めさせるだけの力で。
ぱちりとまばたきながら視線を上げた剣持の先で、いつかの三人が肩を寄せ合って笑っていた。懐かしい、何度も見た笑顔に、思わずああと声が漏れた。──なんだ、この顔だって、きっと忘れたって、見たことあるってまた思うんじゃないか。
「だから、剣持さん」
「絶対会いに行くから」
「待っててくださいね」
真っ白に塗り潰されていく世界の中。三人の声だけが呼応して、剣持の意識はどこかふわふわと浮くように遠ざかる。ああ、夢から醒めるんだと気付くのに時間はかからず、ただ抗うこともなくその目醒めへと身を任せる。
忘れても、この身体に残るのならば。それは確かに自分であり、自分以外の何者でもない。もう一度そう自分に刻み込んで、そっと目を閉じる。遠ざかりつつある意識の中で、三人が最後に言った言葉を反芻してふと、ああと剣持は思い出した。
あの言葉、三人がこの世を去ると決まった時に言ったことじゃないか。そんなことまで憶えているなら、当分は大丈夫だな。そんなことを、ただ思った。
◇
ゆるやかに醒めた視界の先が明るい。ああ朝かと身体を起こした時、ひどく身体が軋んだ。何日寝ていたのか全く記憶にないが、腹の減り具合からおそらく三日ほどはほぼ寝こけていたような気がして、剣持はとりあえず一度伸びをして、窓の外を見た。──午前五時の今朝は、濃い霧がかかっていた。
数十年前、ここに一人で越してきた剣持はもうほぼ人という人に会っていなかった。ろふまおが解散になり、事務所が人不足でなくなり、行き場に悩んだ剣持にここへ越すことを提案してきたのは馴染みの友人である伏見であった。不死性が人の中で生活をしていればいつか疑念を抱かれる可能性があるとの話から、伏見が知人から譲り受けたものを借りる形で住んでいた。人気のない山中にあることから、山の麓の街まで降りるのも面倒になってからは、ほぼ会う人と言えば時々遊びにくる伏見くらいになっている。
シーツの間から滑り出て、関節を伸ばしながらゆうるりとコテージの壁を見る。同期の誰かが書いた絵に、壁にかかった青いアコースティックギター。甲斐田が愛用していたそれは、彼の晩年に持っていて欲しいと貰ったものだった。いつか取りに来るから、それまで預かっていてと、そう言われたのを剣持は憶えていた。
そう、確かに憶えているのだ。あの夢の中での出来事も、三人とのやり取りも。もう遥か昔に交わした約束だって、きちんと記憶にある。──絶対にもう一度会いに来るからと、死した後も憶えているからと、そう言われたのだ。だから、待っていて欲しいだなんて、そんなドラマでもあり得ない話を大真面目に。
膨大な時間の中で、忘却の中に約束は沈み、思い出は風化していた。それさえ怖がっていたことさえ思い出せずにいた。けれど、夢の中で彼らと会ったからだろうか、それとも久々に歌ったからだろうか。久々にそれを思い出すことが出来た。ああ、案外数十年程度じゃ人間忘れ去ることなんて出来ないもんなんだな、なんてことを思いながら、剣持は久々にクローゼットを開け、中からいつも着ている制服のジャケットを取り出した。
あんな夢を見た朝だ、出掛けるのも悪くはないかもしれない。少し散歩して、帰ってきたら朝ご飯を食べ、ギターを弾こう。もし弦が使い物にならなくなっていたら、麓の街の楽器屋さんに行ってもいいかもしれない。そんな風に考えて、袖へと腕を通す。
かちゃりと回した扉の向こう側は、真っ白の世界だった。空に昇った太陽はきらきらと朝日をこぼしていて、今日の始まりを知らせている。それはどこか、あの三人にも似ている気がした。
「……忘れてやるもんか」
溢れた言葉は、ただ霧に溶けるばかりだ。けれど、それでも良かった。いつか今日のことさえ忘れたとて、この想いだけはずっと身体に刻まれている。それを、思い出すことが出来たのだから。
かちゃりと音を立てて扉を閉めた剣持が、ふと顔を上げる。こんなに早い時間帯というのに、コテージに続く緩やかな坂道の奥から誰かの声が聞こえた気がしたのだ。どうせこんな辺鄙な場所に来るのは伏見くらいだが、大体彼は昼過ぎ辺りにしか遊びに来ない。とはいえ伏見が気分屋の塊であることは剣持も重々承知していた。何か気が向いてこんな朝っぱらから来た可能性だってある、というところまで思考が巡った瞬間、剣持はとあることに気付いた。──霧の静けさの中に響いた足音が、複数だと気付いたからだ。
朝露と新緑の香り、そして白んだ霧と、鮮やかなほどの光彩と共に朝を連れてくる陽。濃い霧の中、少しばかり霞んでいる人影がその中で形をつくり、際立っていく。いくつかの色彩、聞き慣れた声。ああと漏らした声は感嘆にも似ていた。
「剣持さん」
「もちさーん!」
「もちさん、ただいま」
やがて白んだその霧の中から、思い出に強く刻み込まれていたカフェオレカラーとスカイブルー、シルバーが姿を現した。その瞬間、熱を帯びていた目の奥は、遂にぽろりと雫を零す。懐かしい声が鼓膜を震わせて、ただ揺蕩った両腕は強くその色たちを抱き締める。
朝は、ようやく──今日を始めようとしていた。