「ぐ、ぅッ、ぁ!!」
人でなくなる感覚というのは、こういうものなのかと始めて理解した。
腕が、足が、背中が、頭が、ばきりばきりと聞いたこともない軋みと割れの音がする。骨が膨張して、肉が裂け、身体が作り変えられるような感覚がする。視界が白い、白い、ただ白に塗り潰されて、そうして。
痛みと恐怖に脅かされた躯体が床に落ちて、ひりつきから皮膚が傷ついたことを知る。けれどそれ以上に、内側から自分でない何かが出てきそうだと感じた。ああ、私は死ぬのか。たったひとつ、ぽつりとそれが頭を占めていく。
誰かの鳴き声が、否──泣き声がした。白と黒しか判別できない視界をどうにか動かして、その声の主を探す。そうして、抱き合うように震えているふたつの影を見て、ほっと息が漏れた。
良かった、無事だったんですね。そう思ったのは、既に死した友人の二人の子を守れたのだという、安堵感から来るものだった。
◇
数年前、白化獣に噛まれた。相手は目の前で白化現象により変化してしまった、古い友人であった。
その時、友人が私に預かってほしいと連れてきたのは、これまた彼も親戚から預かったという二人の女の子だった。彼女らの親も白化現象で白化獣になってしまい、終了させられてしまったのだという。引き取り手が居らず、彼が男手一つで数年暮らし育てていたというが、とある事情により共に居られなくなったという。故に一番信頼できる私に頼みに来たのだと。
事情、と、その言葉を口の中で転がした私に、友人は苦笑気味に腕を見せてきた。──その腕は雪に侵されたように白くなっており、言葉を失った私へ、彼は小さく謝罪の意を零した。白化現象が発症していることは、明白だった。
正気であるうちに彼女たちの居場所を用意してやりたいという彼の言葉を聞き、私は二人に挨拶と自己紹介をした。自分が保護者として共に暮らす旨を伝えると、白髪の少女はツインテールの少女の手を握りながら、小さく頷いたのを覚えている。ああ、自分たちの状況を理解していて、それでいて判断の出来る強い子たちだとよく分かった。友人の育て方がしっかりしている証拠でもあった。
彼女たちの受け入れを決意した私に、友人はその場で白化現象が確認された者が収容される施設への連絡を済ませてしまい、迎えはここに来てもらうと穏やかに笑ってみせた。施設に行けば最後、白化獣になれば終了することは確定。そうならない者もごく少数いるという話だが、希望は持たない方が賢明だというのが一般的な見解だ。もう表の世界に出てくることは難しいだろうからと、迎えが来る最後の時間を、友人と話して過ごすことにした。
けれど、それはただ唐突に訪れた。ぱき、と嫌な音がふと聞こえ始め、音の出所を探るために視線を彷徨わせた私へ、友人は勢いよく立ち上がって部屋の端へと走り出す。
「来るな!! まずい、白化現象、が、」
彼が言えたのはそこまでだった。急激に音を立て始めた悪魔の病は、人間性を奪うかのようにその四肢を白く蝕み、作り変えるように包み始めた。慌てて彼女ら二人を別室の扉へと下がらせると、隅で蹲り唸っていた友人が、唐突にゆらりと立ち上がる。
長い、と咄嗟に感じた。背が伸びているというよりは、無理矢理足と腕を掴んで引き延ばしたかのような。そんな気味の悪さが服を着ているようにしか見えなかった。白化獣になってしまった、そう気づいた時には既に遅く、長ったらしい腕は思っている以上の速さで此方へと手を伸ばしてきた。
棚のものを薙ぎ倒しながら近付く手を間一髪で避け、隣の部屋へと転がり込んで扉を閉める。友人の変貌と脅かされる命、そして守らねばならない二人の少女が一気に肩へと圧し掛かり、急激に自分の呼吸が浅くなる。気を落としている場合でも、悲観している場合でもない。彼は私に彼女らを任せたのだ、ならば、命に代えてでも守らねば。扉の外で暴れているのは最早見知った友人ではないのだと、思うしかなかった。
とはいえ、通説では白化獣に一般的な武器は効かないという話だ。一時的に足を止めるなりすることが出来れば一旦は安全になるが、と視線を彷徨わせていると、どん、と強い衝撃がした。──扉が、蹴破られかけている。背筋に走る恐怖と共に、それを悟った。
三人とも襲われるわけにはいかない。咄嗟に振り返った私は、棚の裏に隠れている少女たちへと叫んだ。
「──私が食い止めます。何があっても、安全が確保されるまでここから出ないでください!」
「で、も」
「加賀美くん、」
「……友人の忘れ形見である貴女たちを守る方が、私には大事なことですから」
うまく自分が笑えている自信はなかった。けれど、そう心から思っていることも確かだった。
引き留める少女たちの声を聞きながら、詰めた呼吸と共に扉を開ける。案の定荒らされてしまった部屋の中では、気味が悪いほどにのったりとした動きでそれが立ち竦んでいた。窮屈そうに首を傾げて、物音のした此方を見つめている。
刹那、ぐんっと距離を詰めるように走り寄ってきたそれに、私は扉から離れるように駆け出した。急カーブを描いて此方を追う白化獣には、既に友人の面影などない。それが、唯一の救いだと頭のどこかで過ぎる。
まるでゴムのように伸びた頭が、浮き上がるように白んだ口をがぱりと開けた。避け切ることの出来なかった私の腕が、その口に噛み付かれる。止まる動き、固定される身体。今だと、咄嗟に腕を押しのけて全体重をかけた。
白化獣が身体を捻ったその背後には、大窓がある。高層マンションの一室であるこの部屋の外は勿論空。叩きつけられれば、おそらく少しばかりの動きは止められるはず。二枚窓は大柄の白化獣と私の体重と力によっていとも容易く割られ、私は慌てて腕を引き抜いてその白い体躯を全力で蹴り飛ばした。
寒々しい風が吹き込んでいく窓の外を、スローモーションで落ちていく白化獣。すまないと呟いたのは、彼だったか、私だったか。それは分からなかった。
「は、ぁっ、はあ、はッ……痛っつ……」
大きなものが落ちる、どんという音が聞こえた瞬間、少しだけ息を吐いた私はその場に座り込んだ。一旦の危機は回避しただろうという安堵感で力が抜けて、噛まれた腕をようやく確認することが出来る。ちらりと見た腕が見事に血が溢れていて──そして、既に白くなり始めていた。
白化現象は、自然発生であれば進行が遅いが、白化獣に噛まれると一気に全身へ回ると聞く。噛まれてしまった私は、おそらくあっという間に白化獣になってしまうのだろう。そう思った時、咄嗟に過ぎったのは人ではなくなる恐怖ではなく、折角家族になれただろう彼女たちをまた孤独にさせてしまうのかという哀しさの方だった。
きい、と小さな音を立てて、立て付けの悪くなった扉を開く。ちらりと部屋を覗くと、彼女たちは抱き合いながら棚の裏で縮こまっていた。
「しゃちょぉ、」
「……か、加賀美くん、腕……」
「……すみません。また貴女たちを、置き去りにしてしまう」
ぱきぱきと、嫌な音が聞こえる。先程友人が白化獣になる前に聞いた、あの音が。今度は、自分の中から。
「逃げてください。外に、今すぐ。私はおそらく、もう駄目ですから」
「や、やだよお、やだ!」
「みんないなくなるの、嫌だよ……! お父さんたちも、加賀美くんも、みんな、みんな……」
「……れなさん、冬雪さん……」
「かぞく、いなくなるの、やだよお……っ!」
大きな瞳から涙を零す小さな子たちを、もう撫でてやることさえ叶わない。いつこの身体が化物に置き換わって、彼女たちを傷つけるか分からないからだ。
すみませんと零した私に、彼女たちは苦しそうに目を閉じる。
「お願いです、逃げて。もう、私は、多分──」
長くはないです。そう落とした声は、空に掻き消えた。
人であるということはこんなにも儚く難しいのだと、初めてその時知ったのだ。
◇
失楽園、日本支部。西館三階に備え付けられている温室と隣接しているカフェは、女性贖罪人や職員たちの憩いの場となっている。いつもはあまり立ち寄らないそのカフェにて、私は山ほどのケーキに埋もれて立ち竦んでいた。
「……あの。れなさん、冬雪さん?」
「はぁーい」
「どしたの、加賀美くん」
「いえ、どうしたもこうしたも……何ですか、このケーキの山は……」
「ふふん! しゃちょぉをいたわろ~の会!」
「……流石にこの歳でこの量は辛いと思うんですが……」
「まあまあまあ、食べられる分だけ食べてってこと!」
「ええ……」
何故か誇らしげなれなさんと、その隣で楽しそうに笑う冬雪さんに挟まれて、半ば強制的に椅子へと座らされる。テーブルには見渡す限りケーキ、ケーキ、ケーキ。カフェで販売されているだろうもの以上の種類に、おそらく外で買い持ち込んできたものもあるんだろうなと予想することは容易かった。
なんだこの量、と若干視線が泳いだ私に、向かい側の椅子にそれぞれ座った二人がにこりと微笑む。
「加賀美くん。今年も一年ありがと」
「しゃちょ、いっつもありがとぉねぇ~」
「……二人とも」
「あの日守ってもらえなかったら、私たちは此処にいなかったわけだし」
「次はれなと冬雪で、しゃちょのこと守るよぉ」
──あの日、結局私は白化獣にはならなかった。贖罪人になるという稀有なケースの方を引き当ててしまった上に、私がそうなる前から彼女たち二人は、本人たちの認知外で贖罪人となってしまっていたらしかった。
駆けつけた施設職員の中に居た贖罪人が、私たちを見るや否や驚き固まっていたのは今でもしっかり覚えている。あれよあれよという間にここに連れてこられ、治療と検査を受けた私たちは思っている以上にあっさりと生きることを赦されてしまった。
彼女たちを戦いに巻き込む形になってしまったことを、今でも後悔として残している節がないとは言い難いが──ただそれでも、ここで贖罪人として戦うと決めたのは確かに彼女たちでもある。
『加賀美くんを守る力があるなら、戦います』
『背中だけじゃなくって、並べるならその方が私もいいなぁ』
小さな少女たちだと思っていたのは、どうやら私と彼の友人だけだったようだ。
「ほらぁ、しゃちょ~! 早く食べないと崩れるよぉ」
「え、これ本当に私が全部食べるんですか……?」
「加賀美くんのだもん、当たり前じゃーん」
「……無理そうなら手伝ってくださいね?」
例え、本当の人間ではないと言われようとも、この掌が、この足が、この身体が、彼女たちや大切な仲間を守るために振るえるのならば。私は人間でなくていい。化物で構わない。
あの日、運命を別った友人が託したものを、この命が終わるまで背負うつもりだ。
守りたい。隣にいたい。──生きたい。
私が尽きるまで、地獄になんて行ってやるものか。