白蛇と碧甲羅 北方に位置する玄武領は、一年を通して他領と比べても気温が低い傾向にある。農作物は寒さの影響か育ちにくい傾向にあるが、海の幸は美味とされていた。また彼の地は比較的、大型の動物が多いとされており。
「あああ、玄武様ぁ……」
「おい、立て! 逃げるんだよ!」
特に寒さが和らぐ時期になると、暖かさからか獰猛な動物たちが食物を求めて厳しい山脈から降りてきてしまう。ここに住まう民草たちはそれぞれが色んな対策を講じてそれを食い止めようとはするものの、やはり死傷者が出てしまうことも多々ある。人間と動物の共存と一進一退の攻防。統治地域の神の方針から、干渉の差異はあるとされるが──玄武領は比較的、過干渉である傾向にある。あくまで、青龍領と比べればという話ではあるが。
ざり、と地面を這う一匹の蛇の眼前を、二人の人間が逃げ惑う。山道を転げるように走る彼らの後ろを、黒い毛を纏った一匹の熊が追い掛けるように走っていた。その小さな丸い瞳に映るのは人間たち──ではなく、彼らが背負っている籠の中の魚。二人は漁のために山間部にある川で釣りをしていたところで、熊に出会ってしまったのである。
大きな躯体から伸ばされる腕は、恐らくば加減など知るはずがない。人間を掴めば最後、その意志がなくとも傷つけてしまうことは必至だった。焦る二人の内、比較的若い方の男の足が恐怖で縺れた瞬間、ごろりと地面へと転がってしまう。
「おいっ!」
「あ、あああ、死ぬ──」
じくりと痛む足首に、飛んだ籠、飛び散る魚。やがて熊が人間に追い付かんとした時、唐突に砂埃を上げて熊が立ち止まる。
「はぁ、へ……?」
恐怖から身体を震わせていた男の眼前に、誰かが割り込んできたのだ。勿論、一緒に逃げていた者ではない。見知らぬ白の髪を持つ、美しい者が彼の目の前で熊を見つめていたのだ。
「……な、」
「落ち着きな、ほら止まって。お前が食べたいのはこれだろ」
穏やかで低めの声色が辺りを滑ると共に、ぴたりと止まった熊が言われたことを理解したかのように鼻を鳴らす。そしてぺたりとその場に座り込むと、散らばった魚を手に取ってばりばりと食べ始めたのだった。
思わず一連の動作を呆然と眺めていた二人は、くるりと振り返って此方を見たその美しい者に息を飲んだ。真白の髪である時点でおおよそ同じ人ではないのだろうとは彼らも察していたが、その片目は宝石にも似た淡い藤色。そしてもう片方は鮮やかな赤色だった。瞳の色が双方で違う者は、間違いなく。
「──玄武様だ」
「えっ」
「玄武様、お助け頂きありがとうございます!」
「あ、あー……いやあの僕は」
「本当にありがとうございます……! この命、一生涯忘れません!」
「ええ……いやあ……まあいいか……ほら帰りな、もう転ばないでよ」
若干の微妙な表情さえ伺わせたその者だったが、最終的には去っていく二人の民草を見送ることで何かを諦めたらしい。ぶんぶんと手を振り続けるその背中を見送ってから、はあと大きく溜息を吐いた。
消えていった二人の影を確認して、また先程と同じように振り返ったその先。未だ上機嫌で魚を食べる熊の隣には、先程までいなかったはずの影があった。
「……もう、僕にだけ丸投げするのやめてよ。景くん」
「え? 悪ぃ悪ぃ、藤士郎が晴に間違えられてんの見てておもろくて」
「あのさあ……」
けたけたと楽しそうに肩を揺らす、長髪の青年。洋装に身を纏い、濃い青紫の髪を揺らしたその手は熊をぽすぽすと撫でては大声で笑っていた。相変わらず此奴は、などと白髪の方が肩を竦めて近付こうとした瞬間、二人の合間できいいと何かが呼応する。
──主に喚ばれている。視線を合わせた二人は、どちらからともなく頷いた。
「今回はどうしたのかな」
「さあてね。……おーい、食ったらちゃんと巣に帰るんだぞ。いいな?」
もう一度熊の背を軽く叩いた青紫の方は緩やかに目を閉じる。その動きを見てか、白髪の方もすっと目を閉じてから、吸い込んだ息をふうっと勢いよく吐いた。
刹那。先程まであった二つの影は、二陣の旋風を残して消えてしまっていた。跡形もなくなったその場に残っていたのはひゅううと吹き込んだ寒さの残る風と、変わらず魚を食べ続けていた熊のみであった。
◇
「冬雪鶴玄冥、身許別ち治めるば此の身の元、名と神核を玄武と成す。陰陽、水と月を以て力と為りて、我が喚声に応えろ。──白日の雪蛇、弦月藤士郎。青天の碧甲羅、長尾景」
玄武領、神宮殿の庭先に佇んでいた翡翠色の服に身を纏わせた玄武は、その身に淡い緑の光を纏わせながらひとつの呼び声を謳っていた。おそらく自領のどこかにはいるであろう自らの眷属を呼び寄せたそれは、一陣の大きな雪粒を纏う風を以てして応えられる。
ぶわりと雪粒を降らせながら現れた二人は、どちらも片膝をついていた。すっと広げられた瞳に玄武の姿が映ると、まるで息を合わせたかのようにどちらからともなく声を零す。
「晴様」
「只今戻りました」
「……うん、お帰り。景、藤士郎」
──玄武の元には、二人の側近の眷属が居る。白蛇がひとつ、弦月藤士郎。そして、碧甲羅がひとつ、長尾景。どちらも玄武には無くてはならない仲間であり、友神である。
「……でぇ? 急に呼び出してどうしたんだよ、晴」
「何か問題事?」
「問題っていうか……ここ最近、北方四番区の山んところで人を襲う大型の熊が出てるって話を聞いたんだけど。あまりにもやんちゃさんだったら一度見に行ってみようかなって……二人とも、なんか知らない?」
そして、この二人の友神。
「あ」
「あー……」
「え、何その顔」
「……知ってるっていうか」
「さっき、会っちゃったかも?」
「はあ?」
主の玄武に似て、お人好しのお節介神でもあるのだった。