ぽろ、と叩いた鍵盤に、細く緻密な音が鳴る。いつも弾いている白と黒の階段よりもいくらか重いそれは、自宅にはおおよそ置くことの出来ないグランドピアノだからだろう。学校の体育館舞台横に置かれた黒い楽器は、愛用のキーボードよりも随分高そうだった。
この学校には吹奏楽部がない。聞く話によれば遥か昔に入部生が途絶えて廃部になったのだという話だった。代わりに、というわけではないが、高校時代の内に楽器へ触れたいと願ったこの学校の学生たちは街の交響楽団に入ることが多いらしい。幼少期からアコースティックギターやキーボードを始めとした楽器類に馴染みがあった甲斐田も、最初はその予定であった。──一年生の春、偶然知り合った不破という青年に出会うまでは。
「なあ、お前楽器弾けそう。バンドやらへん?」
そんなあまりにも雑で簡単すぎる誘い文句に、甲斐田は何故か乗ってしまった。勿論両親は大分驚いていたし、幼馴染の男子二人にも目を丸くされたけれど、それでもあの時差し伸べられた手を取ったことを甲斐田は今も後悔はしていなかった。
そうして入部した軽音楽部もそれはそれは部員の少ない部活ではあったが、どうにかこうにか存続だけはしていた。一つ先輩の加賀美と剣持と、自分を誘った不破の四人でバンドを組んで、精力的に学校内外の活動に勤しむ日々。初めてメインボーカルを勤めることになった小さな箱のライブで、甲斐田が緊張のあまり歌詞をすっ飛ばしたこと。不破が昔やんちゃしていた時代の輩が楽器を壊そうとしたこと。四人の努力のお陰もあってか、新入生たちが沢山入部して存続の危機は去ったこと。そして、先輩である二人の卒業式のこと。「卒業したらまたバンドを組みましょう」と言ってくれた二人の言葉通り、既に大学進学が決まった不破と甲斐田は年明け頃から何度か、四人で会うことが増えた。
甲斐田と不破の進む大学は、この春から別になる。変わらずこれからもバンドをやり続けることは決まっているけれど、三年間を過ごした学び舎を卒業してしまえば、会える時間はがくんと落ちるだろう。何かと四人で、先輩二人が卒業してからは二人で行動していることが多かった高校生活。何度も喧嘩して、その度に話し合って、理由もなく楽器を弾き合って、笑っていた。青春っていうのはこういうものを言うんだなと、何度も何度も振り返った。
それも、もう終わる。終わってしまう。甲斐田と不破の卒業式は、明日に迫っていた。
「晴ー」
「ああ、湊」
既に陽が暮れ始めている、放課後の校舎内。三年生はもう数週間前ほどから登校はしなくても良いと言われていたが、既に受験が終わっていた甲斐田と不破は何をするでもなく登校しては、何となく楽器を弾いて曲を作ったり、過去に四人でやった曲をセッションしたりして過ごしていた。案外暇やなといつぞやに零した不破の横顔へ甲斐田はそうだねと呟き返していたが、甲斐田の心境としてはどこかまだ卒業したくないような気持ちさえ抱えていた。
明日になれば、勝手に自分たちは卒業していく。進み行く時間の中で、歩かざる得なくなる。甲斐田はどうにかして、あの日伸ばされた手の結末を、この学び舎で結んでおきたいと思っていた。だから、というにはあまりにも、拙すぎるのかもしれないけれど。
朝方のうちに送ったメッセージに、不破は何も言わずに「了解」とだけ返してきた。そういうところが付き合いやすい人だなとずっと感じていたことを思い出して、甲斐田はふと胸が詰まる心地を覚えた。きっとこれからは、こうして約束でもしない限りは会えなくなるんだろうなと。
学校に行けば、いつでも会える。そう思っていた日々はもう、遥か過去になっていこうとしていた。会いたいと願って会うことと、いつでも会えるということは、決してイコールではない。馬鹿やって笑って、喧嘩して怒って、辛いことに泣いて、それでも沢山、楽しいことがあった。それを、思い出としてしまっておくために。
体育館の舞台に上がってきた不破を見て、甲斐田はグランドピアノの椅子へ浅く腰掛けた。未だ甲斐田の真意が分からなさそうにきょとんとしている彼を一瞥して、どこか別のベクトルに傾いた緊張が心臓をばくばくと高鳴らせる。
何してんねんと笑われるかもしれない。寒っ、なんて揶揄われるかもしれない。けれど、それでも構わなかった。三年の月日の中を共に過ごしてきた友人に、今までとこれからのありがとうを、自分なりに伝えられればそれで良かった。
「湊、」
「ん?」
「聞いてて」
ゆっくりと押し込まれた鍵盤は、意図を持って音を紡ぎ出す。それを聞いてか、不破は甲斐田をはっと瞠ってから眉尻をゆるやかに落として笑った。その表情だけで、甲斐田の胸の奥が和らぐ。ああ、よかった。憶えていてくれたんだと安堵の息が漏れていった。
その曲は以前、甲斐田と不破が卒業していった剣持に呼ばれて、彼の進学先の大学へ遊びに行った時に聞いたものだった。講義が少し長引いていた剣持を待ちながら大学見学を称してぶらついていた時に、彼らの耳へ滑り込んできたその曲。バンド漬けだった彼らではおおよそ聞くことなどないだろう、ピアノを主体としたバラードソング。歌詞は恋愛を思わせるものではあったが、甲斐田は何となくその言葉たちに絆を連想させた。恋というよりは、おそらく。
口にすることなく曲を聴いていた甲斐田へ、隣に居た不破はふと「仲間とか、友達とか、大事なやつに向けてって感じやな」と呟いたのだ。はっと思わず隣を見た甲斐田へ彼はきょとんとした瞳を向けてきたものの、同じような感想を抱いていた甲斐田は嬉しくなって不破へとそうそうそう! と捲し立てた。まあその後、あれだこれだと言い連ねる甲斐田へ不破は「うるせえ」と一蹴して物理的にも蹴り飛ばしてきたわけだが。
けれど、それでも。甲斐田はあの日、何も言わずとも繋がった感受の琴線をずっと嬉しく思っていた。想いというものは割と一方的であり、言葉にしなければそれは伝わらず、自分が相手をどう思っていようともそれが共通ではないことなど、甲斐田もよく知っている。だからこそ、同じ感覚を抱いた瞬間の出来事がずっと頭から離れずにいたのだ。
流石に運命だとか、そんな言葉を持ち出そうなどとは思っていない。ただ純粋に、同じ感受を共有した友達という、それだけの気持ち。けれどその「それだけ」がどれほど自分の人生の中で大事なのか分からないほど、甲斐田は馬鹿ではない。そしてそれが、いつまでもそこにあるとは限らないのだという寂寞感。思い出とはそうして作り上げられて、いつまでも色褪せないものになると分かっていても。
この想いが、願いが、いつか年を取った自分にとって一番の宝物になりますように。後悔のない、綺麗な記憶になりますように。それが出来るならば、目の前の大事な友達にとってもそうなりますように。そんな願いを込めて。
奏でられたピアノの音に、甲斐田は歌を織り込む。ここで出会った瞬間のことも、過ごした日々のことも、歩いていく道が別々になっていくことも。すべて忘れたりしないと、そう紡ぐ。不破湊という一人の青年と過ごした四季を、今何よりも大事にしていると歌い続ける。
いつかの自分たちが「青い春だったね」と笑い合う日が来ますようにと、祈った。
「……湊、卒業おめでとう」
弾き切った旋律の最後のひとつが、二人しかいない体育館の中で響き渡って解けた後。一人だけの観客は、出来る限りの大きな拍手をして笑みを浮かべていた。甲斐田自身も同じように微笑みを向けて、ただ一言を伝える。それだけで、今は良かった。
「お前もな、晴」
不破から伸ばされた手が、甲斐田の頭をくしゃくしゃに撫でた。わっと少し声をあげた甲斐田に、同じように祝いの言葉が降りかかる。同じ学年なのだから当たり前ではあるけれど、どこかその応酬が気恥ずかしくて擽ったかった。
散々に不破がミルクベージュの髪を撫で掻き回した後、ふと甲斐田の肩をぽんと叩いた紫の瞳は、輝きを細めながら言葉を落とした。
「なあ、晴」
「何?」
「もっかい、弾いてくれん?」
「……いいよ」
たった一人のために紡がれたライブは、アンコールを以てしてもう一度。客席からステージに上がった青年は奏でられるメロディへ乗せて、口を開いた。少しばかり胡乱だ歌詞だけれど、歌は確りそこにある。ただ一度きりの歌でここまで思い出したのかと甲斐田が顔をあげれば、隣の不破は楽しそうにまた笑って。
伸びていくふたつの歌声に、柔らかくさざめいた風は音を乗せる。二人の門出は、もうすぐそこだ。