旅人と四神 一、朱雀 旅人は、最早旅人という名の新しい種族のようなものだ。所謂物書きや商人と同じようなものであり、職と言うにはあまりにも取り憑かれ過ぎている。故に、旅人はそういういきものであるのだと、自らを旅人と称している者は思っていた。
常に、新天地に降り立つ瞬間は心が躍る。以前よりずっと行ってみたいと願っていたその国は、噂に聞くと四つの神がそれぞれの土地を治めながら、上手く均衡を保っているのだという。大陸の中で一番大きな領土を誇り、また民も大変多いとされている。この世界では基本的に生まれ故郷以外の国に行きたければ自らのように旅人となる人の方が多いが、時折移民としてその国へと移住する者もいるらしい。勿論、そのような人々の受け入れも万全なのだという話はずっと昔から聞き及んでいた。
「……あれか!」
波間を掻き分けるように進む船の甲板で、旅人は眼前に広がった大地に目を輝かせる。貿易港として開かれているその街並みは、国の南を治める神の名を冠するかの如く、朱色の鮮やかな建物が並んでいた。その美しさをつぶさに書き記そうと、旅人は目一杯に景色を楽しんでから、懐に突っ込んでいた紙と他国で買い求めた万年筆という名の珍しい筆記具を取り出した。すらすらと書き連ねた紙束は、旅人の手で握るにはあまりにも厚い。それは、旅人自身の軌跡でもあった。
旅人は旅人であるが、それ以前に故郷での本職は物書きである。更に言えば、様々な国を旅してはそれらの地域を書き記した旅行記を出版していた。因みにそこそこに売れていて、故郷の国では一応顔を知られている。何ならそれを、自国の神に献上した経験もある。
旅人にとって、旅というものは己の人生のようなものだ。また信仰心の表れでもあり、生き甲斐でもある。なにせ旅人の故郷の神は、旅を司る神だ。幸運と富を象徴し、商人にも愛されている。故に旅人の故郷では、大体の民が商人や旅人として他国を転々としつつも、故郷であり家は故郷の国に置いている者が多いのだ。
今から降り立つこの国もまた、旅人にとっては幼い頃からよく耳にしていた馴染み深い国だった。自らがもし旅人になった暁にはいつか訪れようと思っていた国で、今日、それがようやく叶う。旅人の胸は逸り、早く降り立ちたいとそわついていた。
懐で、鈴がぶら下がったお守りがちりりと音を立てる。故郷で神の化身と呼ばれている、赤茶色の猫のお守りを握りしめた旅人は今か今かと船の進行を見守っていた。四つの神に祝福されし土地に降り立てること、それだけを楽しみにしながら。
◇
国の南方に位置するのは、貿易と商売を冠する朱雀領だ。この国の中で唯一海に面しているため他国との交易を担っており、それ故か人の往来もそこそこに多い。港のあちこちを歩く者のほとんどが商人かその付き人であり、荷物を抱えて歩く者や人力車、馬車が大多数だ。旅人もその服の裾を海風にはためかせながらも船を降りたが、実際辺りにあったのはほぼすべてが商船であったし、実際旅人が乗ってきた船も故郷から出ていた商船だった。
港には交易受付のための関所と船旅で疲れた人々に向けた休憩所が設けられているせいか、どこもかしこも人で溢れ返っている。旅人自身も荷物の検査を行い、入国料を納めるつもりで懐から財布を取り出そうとした、というところでふと突然、関所の役人が首を傾げながら呼び止めてきた。
「ん? お前さん、海向こうの国の者かい。旅と幸運の神を信仰している……」
「え? ああ、はい。そうですけど」
「おおそうかそうか。なら入国料は要らんよ、通りな」
「ええっ」
「うちの朱雀様の言触れでなあ。なんでも、お前さんとこの国の神様とうちの朱雀様は友神だって話じゃあないか」
「ああ……確かにそんな話を聞いたことが……」
「だから良いんだとよ。他の氏神様も良いと仰ってるらしいし、お前さんとこの国はどれもこれも物が良い。他のとこが悪いってわけじゃあねえが、いっとうお前さんとこのは良いからなあ。ま、その分値も張ってるが。はっはっは!」
かしゃんと関所の門が開きながらも、役人は豪快に笑って旅人を見送ってくれる。まさか入国料をただにしてくれると思わなかったからか、未だに財布を握ったままでどこか驚きつつも、旅人は門を抜けて国へと足を踏み入れた。
背中越しに門の閉まる音と共に、ざあっと少し熱を帯びた風が旅人の頬を撫ぜる。渇いた砂を思わせるその暑さは朱雀領特有の気候だ。この地は比較的他領と比べて暑く、四季はあるものの夏になれば照りつけるような日差しに肌を焼かれるらしい。とはいえ今は夏を避けてきていたため、日差しも然程突き刺してはこなかった。代わりに目へと飛び込んでくるのは、甲板からも見えた朱と橙を基調とした鮮やかな街並みだった。
貿易が盛んな地域は、すなわち商業も盛んである。他国からやってきた品々がいち早く立ち並び、国に住む商人たちは声を上げてそれらを売り上げていく。流行の最先端であると共に異国情緒も滲ませる商業の街は、勿論食も一番である。最近では当たり前になってきた香辛料と呼ばれる粉粒も、流行りの起点は朱雀領だったそうだ。
この領の南西部に位置する大きな商いの街である桔梗の市までは、ここから馬車で一時間半ほどかかるという話だ。件の場所は山間部麓に温泉街があることから、随一の観光地として多くの人で賑わっているらしい。既に船旅で疲れていることもあってか桔梗の市に向かうのは明日にしようかと、旅人が港前に立ち並ぶ店々から宿を探すために歩き出した瞬間だった。
「お、っと」
目の前から山ほどの荷物を持った人を避けようと身を捩らせた旅人は、つい死角になっていたそのすぐ後ろの人影には気づかず、どん、と少しだけ相手にぶつかってしまった。強くではないにしろ、咄嗟に謝ろうと口を開いた旅人は、自らの目の前にいた誰かが途轍もなく美しい服を纏っていることに気付く。
あ、まずい、金持ちにぶつかってしまったか。そう過ぎって見上げたその顔は、これまた鮮やかな色付きの眼鏡をかけた美丈夫だった。
「っす、すみません」
口をついて出たその謝罪は勿論心からのものであったが、旅人は不味いなとどこか頭の隅で感じていた。良い服を着て、珍しいものを持った者というのは大体が富豪か儲けている商人か貴族かの三択である。そういう者たちはこれまた大体の確率で、此方が一端の金なし旅人だと知るや否や何かといちゃもんをつけてくるのが大抵なのだ。やれ服が汚れただの、やれ小物が壊れただのと言い出して此方を言いなりにしようとしてきた経験など一度や二度では済まない。旅人はこれでもそこそこに年数を重ねた旅人であったため、そういう状況下に陥ってもどうにかして切り抜ける方法を知ってはいるのだが、それはそれとして絡まれないならそれが一番いいに決まっていた。
然し、目の前で自らをじいと見下ろしている男は無言のままだ。これは穏便には済まないかもしれないと内心思っていると、男はゆるく口を開きながら何かを指差した。
「それ、明那んとこの……」
「……はい?」
「あー……猫、猫の。なんやったっけ、幸運? 運と富、みたいな……」
「ああ、私の故郷の神様ですか。ええ、旅の神ですが……」
「やっぱそうか」
どうやら眼前の男は、旅人の持っていたお守りに気付いたようだ。ちょうどぶつかった衝撃で少し懐から出ていたところを見ていたらしい。引っ張り出して掌の上に出して見せれば、男はどこか嬉しそうににぱっと笑みを見せた。
「旅人さん?」
「はい。この国に来るのも初めてで」
「そーかそーか。ええなあ、旅人の国出身で旅人て。それも気に入られてるやん」
「気に入られて……?」
「幸運に気に入られてる。ええやん、旅人って感じ」
「いや実際旅人ですけど……」
「そうだったわ。ははは!」
先程の関所の役人といいこの男といい、どうやら朱雀領の者は快活そうに笑う人ばかりらしい。先程までの雰囲気は既にどこかへと飛んでいき、男は妙に親しそうな表情で旅人の肩を遠慮なくばしばしと叩いた。勿論痛みなどはないが、何ともこの男、不快感を感じさせない風貌や言動をするせいで馴染み易いと感じてしまう。
不思議な人だな、と旅人が男をまた見上げつつ、ふと思い出したかのように旅人は今晩の宿を探していると男へ話すと、意図を汲み取ったらしい男は少し先にある背の高い一つの建物を指差した。
「店主がいい人なんよ。部屋はちょーっと狭いかもしれんけど、綺麗やし安い」
「助かります。行ってみますね」
「おー、楽しんでなあ!」
「はい。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をすると、これまた男は朗らかに笑ってからまた旅人の肩を叩いた。どこか心地良い熱を感じつつも、旅人は去っていく男へと手を振り歩き出した。良いことが既に二度も起こっていて運がいいな、と過ぎらせた旅人の脳裏に、先程の男との会話が思い起こされていく。どうやら旅人は幸運に気に入られているらしいが、一体どういう意味だったのだろうか。
宿の前まで然程かからなかった旅人が振り返るように来た道を見遣れば、既に先程の赤い羽織りをなびかせた男の背中は消えてしまった後だった。やはり不思議な人だな、と旅人は思いながら、その出会いを忘れてしまう前に書き留めておくため、足早に宿の扉の暖簾をくぐったのだった。